2020年03月29日

史跡看板散歩-181 西うらの池と鴫上の道祖神

ここ何回かおなじみの「白川辻集会所」から、西へ道なりに430mほど行くと、「ほたるの里自然公園」という看板が目に入ります。


ベンチがあって、手押しポンプの口からきれいな水が出っ放しになっています。


ほほー、「鴫の里 手水処」だそうです。

パット見「カモの里」と間違えましたが、「シギ」だそうです。

近くに、もう一つ手作り案内板が建っていました。



この先100mの所に、「西うらの池と鴫上道祖神」があると書いてあるので、行ってみました。

道路工事をしていて分かりにくかったのですが、かろうじて史跡看板と石造物がいくつか並んでいるのに気付きました。

正面の「小堀川」の谷間を跨ぐ高架橋は、いま工事真最中の「西毛広域幹線道路」だそうです。


工事前の、のどかな風景が、ストリートビューに残っていました。

石造物は、もっと曲がり角に近い所にあったんですね。

工事の時に移動したのでしょう、史跡看板と一緒にお行儀よく並べられています。



真ん中の「道祖神」は、だいぶ風化が進んでいます。


左端の「道しるべ」に刻まれている文字は、看板とだいぶ違ってますね。
「大字 向 右經下芝至前橋 左經本郷至室田」です。


相向いに、柵に括り付けた手作り案内板がありました。



フェンスの内側の小さな水たまりが、「西うらの池」でした。

「湯前の弁天池」のようにポコポコと湧き出してはいませんが、きっと、じわーっと滲み出ているのでしょう。

「西うらの池」の水は、道路の下を抜けて「小堀川」に注いでいました。


「小堀川」の清浄な水に、クレソンも嬉しそうです。


地球上の水の約97.5%は海水で、淡水は2.5%にすぎない。しかも淡水のほとんどは南極や北極の氷で、利用しやすい河川や湖沼などの水は0.01%にすぎない。
(日本ダム協会 「21世紀は水の世紀」

地球上の水を200リットルのお風呂一杯分とすると、人間が利用できる淡水は、大さじ2杯分程度しかないんだそうですよ。
だいじにしなくちゃね。


【鴫の里 手水処】

【西うらの池】


  


Posted by 迷道院高崎at 07:33
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2020年03月22日

史跡看板散歩-180 塚の越の宝塔

「白川辻集会所」のフェンスに建っている、もう一つの案内板。


集会所の西側道路の角に、またも道しるべがあります。

「向 右經本郷至室田 左經楽間至前橋」となっています。

そこから南へ140mほど行った所を右に曲がると、赤い屋根のお堂がある斎藤家の墓地です。


史跡看板は、その入り口に建っています。


お堂の左手前にあるずんぐりむっくりしたのが、「塚の越の宝塔」です。


看板に「甫秋津師が建立した」と書かれていますが、たぶん「律師(りっし)」だろうなと思って、念のため基礎(地輪)に刻まれた文字を確認してみると、やはり「律師」のようです。
戒律の師の意で,徳望の高い持律の僧に対する尊称。


その時、おや?っと思ったんですが、律師の名前、ほんとに「甫秋」ですか?
そう見えないんですが・・・。

はっきりしませんが、「靜哉」のように見えます。
どうなんでしょう・・・。

こんな、謎の「如意輪観音」もありました。

普通は右手を右頬に当ててるように思うのですが、これは左手を左頬に当てています。
何か意味があるのでしょうか。

看板には、「『榛南文化』では箕郷七古塔の・・・」とあって、これも気になったのですが、「榛南文化」に辿り着けず、「箕郷七古塔」も分からずじまいです。

辻々に道しるべの建つ「白川辻」ですが、謎を解く道しるべも欲しくなった迷道院でした。


【塚の越の宝塔】


  


Posted by 迷道院高崎at 06:30
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2020年03月19日

隠居の控帳 緊急事態

「新型インフルエンザ等対策特別措置法」の改訂で、「緊急事態宣言」が取り沙汰されている。

「緊急事態宣言」について、山本太郎が分かりやすく解説している。

そもそも、新型コロナウィルスに対応するために旧特措法を改訂する必要はなかった。
それを何故したのか。
国民を「緊急事態」という言葉に慣れさせておき、「緊急事態条項を憲法に入れても問題ないんだよ、むしろ入れておかないと今回のコロナのように大変なことになるよ。」という空気をつくろうとしているからだろう。

もし、憲法に「緊急事態条項」が入れられたらどうなるか。

憲法に書かれた「国家緊急権」を利用して、民主国家独裁国家に変えることに成功したのが、ヒトラーである。

いま日本国民は、濁った流れの淵際に立っている。
気付かずに転がり落ちて流れに巻き込まれるか、気付いて踏みとどまることができるか。
歴史に学び、目を見開き、耳を澄ませて、踏ん張るしかないだろう。


  


Posted by 迷道院高崎at 18:03
Comments(5)◆隠居の控帳沈思黙考

2020年03月15日

史跡看板散歩-179 白川の満光寺跡

「白川辻集会所」の辻の角に、道しるべが2つあります。


手前のには、正面に「右經本郷至室田」、側面に「右經西新波至髙崎 左經楽間至前橋」とあります。


向こう側のは、字が薄れてて読めません。
しかも、てっぺんにワンちゃんの置き土産。

「犬の高ぐそ」とはよく言ったもんです。

集会所のフェンスに、史跡の手作り案内板が2つ括り付けてあります。


その内の一枚が、「満光寺跡」


ということで、先ほどの2つの道しるべの間の道を行ってみると、190mほど行った丁字路の角に史跡看板が建っていました。



「僅かに石仏や墓標を見ることができ」るというので、辺りを見渡してみると、畑の向こうに墓石がかたまっているのが見えました。


看板から南へ60mほど行くと左へ上がる道があり、その上に墓地が見えます。


上がっていくと、高台の上に古い石仏や墓石がズラーっと並んで、モアイ像のように遠くを見ていました。


その中に、看板にある「大聖護国寺の四十二世長春」の墓石がありましたので、ここに間違いありません。


並んだ石造物の中に、ちょっと気になる石祠が・・・。

丸に十字・・・、隠れキリシタン・・・?
まさかね。

満々たる春の光が、真っ白な梅の花弁に反射して、「満光寺跡」を照らしていました。


春ですなぁ。


【満光寺跡の史跡看板】


  


Posted by 迷道院高崎at 07:35
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2020年03月08日

史跡看板散歩-178 湯前の弁天池

前回の「白川陣屋跡」前の道を西へ500mほど行くと、喰い違いの四つ辻があります。
左に見えるのが「白川辻集会所」です。


集会所の道の反対側に、地域の人の手作りらしい看板が建っています。



看板にある「右前方、石垣の道」を25mほど入ると、道端に石仏と道しるべが建っていました。


道しるべには、「向 右經樂間至前橋 左經本郷至室田」と刻まれていますが、指し示す方向と、建っている場所に、ちょっと違和感を感じます。

そう思ってるところへ、ちょうど土地の人らしい人が通りかかったので聞いてみました。
これ、前からここに建ってましたか?」
ここに埋まってたんだよ。それを掘り起こして台をつくって据えたんだいね。」
あー、じゃ元々ここに建ってたんですかね。
道しるべって、ふつう角に建ってるのに、これは違うんで変だなぁって思ったんですけど。」
あ、そう言えばね、昔はここに道があったんだよ。
集会所の前の道路を広げたんで、ここにあった道をつぶして家を後ろに下げたんだいね。」
あー、じゃ昔はやっぱり角に建ってたんですね、きっと。」
なるほど、その道をつぶした時に、石仏と道しるべが埋められちゃったのかも知れませんね。

疑問が解けてさっぱりした気持ちで道なりに進むと、中に石祠の建ってる四角い池が見えてきました。


これが、「湯前の弁天池」ですか。


なるほど、透き通った水の中を色とりどりの鯉が、悠々と泳いでいます。


向こう側には、鯉の稚魚なのか、看板にある渓流魚なのか、小さな魚がたくさん見えます。


よく見ると、池の底から水が湧き出ているじゃありませんか。
動画でご覧ください。

あー、なんか、和むなぁ。


【湯前の弁天池】


  


Posted by 迷道院高崎at 07:26
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2020年03月01日

史跡看板散歩-番外編 白川陣屋跡

前回、「白川神社」「白川砦跡」へ行ったので、「白川陣屋跡」も見たくなって行ってみました。

「白川陣屋跡」は、「白川神社」の東南440mほどの所にあります。



「榛名町誌 通史編下巻」に、陣屋の平面図が載っていました。


陣屋跡から東へ40mほど行くと丁字路になり、その曲がり角に道しるべがありました。
上面には「向左經本郷至室田」、前面には「向右經和田山至箕輪 左經西新波至髙崎」となっています。

そこから20mほど南に、こんなものが建っていました。

「當地御代官 安藤弥四郎火葬塔」と刻まれています。

あれ?
「白川陣屋跡」の説明板には、「代官は下田家当主により代々世襲された」と書いてあったはずです。
この「安藤」という代官はどういう人物なのか。
しかも、「供養塔」ならともかく「火葬塔」ですから。
何か、曰く因縁がありそうです。

たまたますぐ近くに、その名も「安藤商店」というお店があったので、飛び込んでみました。


ご主人がこんな話をしてくれました。
謂れと言われてもよく分かんねんだけど、白川の土手の下に半分埋まったような感じんなってたんだよ。
それを掘りだして、ウチも安藤だからいいだろうって、そこに建てたんだいね。
もともと、今んとこにあったんだよ。
それがいつ、何で土手ん所へ持ってたのか分かんねんだけどね。
そんなことくれえしか分かんねぇな。」

ますます気になります。

斎藤勲氏著「みさと散策」には、こんなことが書かれています。
この塔はもと白川土手にあった。
拡巾工事で土手下に落とされ、ちょうど白川団地の北から二番目の道のまん東の土手下に頭だけ出して埋まっていたのを、掘り出して昭和五十五年五月十八日にここに建てられた。(略)
強いて言えば、安藤氏は領主酒井氏が勝山から派遣した直臣であり、死亡の際遠地なので当時は珍しかった火葬に付したのではないだろうか。
勝山藩の記録には安政から明治まで盾石徹が白川代官を務めたとあり、似たケースかと想像される。」

「白川陣屋」には、代官が二人いたということなんでしょうか。
分かりません・・・。


【白川陣屋跡】

【安藤弥四郎火葬塔】


  


Posted by 迷道院高崎at 07:22
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