2020年03月01日

史跡看板散歩-番外編 白川陣屋跡

前回、「白川神社」「白川砦跡」へ行ったので、「白川陣屋跡」も見たくなって行ってみました。

「白川陣屋跡」は、「白川神社」の東南440mほどの所にあります。



「榛名町誌 通史編下巻」に、陣屋の平面図が載っていました。


陣屋跡から東へ40mほど行くと丁字路になり、その曲がり角に道しるべがありました。
上面には「向左經本郷至室田」、前面には「向右經和田山至箕輪 左經西新波至髙崎」となっています。

そこから20mほど南に、こんなものが建っていました。

「當地御代官 安藤弥四郎火葬塔」と刻まれています。

あれ?
「白川陣屋跡」の説明板には、「代官は下田家当主により代々世襲された」と書いてあったはずです。
この「安藤」という代官はどういう人物なのか。
しかも、「供養塔」ならともかく「火葬塔」ですから。
何か、曰く因縁がありそうです。

たまたますぐ近くに、その名も「安藤商店」というお店があったので、飛び込んでみました。


ご主人がこんな話をしてくれました。
謂れと言われてもよく分かんねんだけど、白川の土手の下に半分埋まったような感じんなってたんだよ。
それを掘りだして、ウチも安藤だからいいだろうって、そこに建てたんだいね。
もともと、今んとこにあったんだよ。
それがいつ、何で土手ん所へ持ってたのか分かんねんだけどね。
そんなことくれえしか分かんねぇな。」

ますます気になります。

斎藤勲氏著「みさと散策」には、こんなことが書かれています。
この塔はもと白川土手にあった。
拡巾工事で土手下に落とされ、ちょうど白川団地の北から二番目の道のまん東の土手下に頭だけ出して埋まっていたのを、掘り出して昭和五十五年五月十八日にここに建てられた。(略)
強いて言えば、安藤氏は領主酒井氏が勝山から派遣した直臣であり、死亡の際遠地なので当時は珍しかった火葬に付したのではないだろうか。
勝山藩の記録には安政から明治まで盾石徹が白川代官を務めたとあり、似たケースかと想像される。」

「白川陣屋」には、代官が二人いたということなんでしょうか。
分かりません・・・。


【白川陣屋跡】

【安藤弥四郎火葬塔】


  


Posted by 迷道院高崎at 07:22
Comments(0)高崎市名所旧跡案内板