2020年02月16日

史跡看板散歩-176 金剛寺の顔切り薬師

三国街道(高崎-渋川線)福島の信号を西に入って170mほど行くと、「百度石」と刻まれた大きな石碑があります。


そこを北へ入った正面が、「金剛寺」です。


史跡看板は、山門右前の分かりやすい所に建っています。



このお寺も10年前に訪ねていて、「顔切薬師」のことも書いたんですが、ちょこっと看板と違うところもあるんですね。
   ◇旧三国街道 さ迷い道中記(4)

山門を潜った左側に、「金剛寺」の縁起が刻まれた石碑が建っています。


山門右隣の長屋門の屋根に御幣が建っていて、お寺なのに何でかなぁと思っていたのですが、縁起に「近世の中頃、鎮守である浅間神社と共に現在地に移転した」とありますから、神仏混淆時代の名残なんでしょう。


「金剛寺」の歴史と言えば、観音山「清水寺」住職だった田村仙岳は、嘉永三年(1850)ここ「金剛寺」から移ってきました。
また、明治十四年(1881)には、「中野秣場騒動」の時に農民側の闘争本部が置かれたのも、ここ「金剛寺」でした。

境内に、小さな池があります。
「顔切薬師」の伝説に出てくる「弘法ヶ池」ではないでしょうが、築山の岩のあちこちに弘法大師が立っておられます。


池の中には、なぜか石に彫られたナマズ

ナマズが暴れると地震が起きると言われ、漢字では「鯰」で魚に念ずると書きますから、石に固定して暴れないようにと念じたものなんでしょうか。

池のほとりに建つ石造の五重塔は、各階にお地蔵様らしき方がひとりづつ住んでらっしゃいます。


本堂は、平成二十三年(2011)に新築相成り、きれいになりました。


その本堂の裏に「薬師堂」があります。
薬師如来は仏様ですが、参道には鳥居が建っています。

新しい鳥居ですが、神仏混淆時代から鳥居はあったのでしょうか。
もしかすると、その鳥居のおかげで「顔切薬師」は、廃仏毀釈の難を免れたのかも知れません。

「薬師堂」の中には石像がいくつも納められていますが、「顔切薬師」は後列右端にいらっしゃいます。


堂の後ろには、中に入れてもらえない薬師様もたくさんいらっしゃいます。


境内の外にも・・・。


たくさんの薬師様に出会えた一日でした。
コロナウィルス、何するものぞ。


【金剛寺】


  


Posted by 迷道院高崎at 07:22
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