2019年12月01日

史跡看板散歩-165 後疋間の福守神社

複雑な形をした、後疋間町(うしろひきま・まち)と、その周囲をぐるっと囲む引間町(ひきま・まち)。
その境目に、「福守神社」があります。


田島桂男氏著「高崎まち知るべ」によると、「引間」の地名のいわれについて、こう書いてあります。
  船尾山縁起では、「千葉常将が船尾寺に預けた子が天狗にさらわれたのを、寺で殺されたと思い、大兵を率いて船尾山を焼き討ちした。
これに対し、寺側も僧兵を繰り出したので、常将は一時的に兵を引いた。
この場所を引間という。」

また、近藤義雄氏のこんな説も紹介しています。
  おそらく引間は引馬であり、古く馬市などが妙見社の祭礼日にあったのではなかろうかと思う。

同じ読みをする、「引間」「疋間」については、
  「後疋間」の名のいわれは、「引間」の北につながっている土地であることによっている。
「引間」と「後疋間」は、以前は一つの「ひきま」であったと考えられるが、南接する「引間」と区別するため、江戸時代から「疋間」と表記していた。
明治十一年(1878)群馬郡が二分して西群馬郡になったとき、「後」の字を加えて「後疋間村」になった。
のだそうです。

さて、「福守神社」です。


看板では、祭神を「木之花咲夜毘売」と表記していますが、あまり見かけない表記です。
よく見るのは「木花之佐久夜毘売」とか、「木花開耶姫」とかでしょうか。

「火中出産の神話」というのも、なかなか深いお話でして。

「福守神社」には鳥居が二つあり、一の鳥居は「國祖産體 福守大明神」、二の鳥居は「諏訪大明神」となっています。


「諏訪大明神」「建御名方」(たけみなかた)という武勇の神様ですが、妻「八坂刀賣」(やさかとめ)との間には、十三柱とも二十二柱とも言われるたくさんの御子神(みこがみ)が生まれていますので、子授けの神様でもあります。

その子授けの御神体というのが、「福守神社」の社殿に祀られているというのです。


「群馬町誌 通史編下」によると、
神体は鉄製の男性器で長さ20cmほどの大きさである。
この神体の制作年代は不詳だが、社伝では福守神社の創建と同じくしている。
また戦前には、社殿にところせましと数百本の木製男根が奉納されてあり、それも社殿には入りきれず軒下まで積み重ねる状態だったと聞く。」
とあります。

覗いてみましょう。

御神体は見えませんが、なるほど、少なくなったとはいえ、奉納されたものがずらっと並んでます。
いやはや・・・。

看板の最後に、「御神木のムクの古木」のことが書いてあります。
社殿の前の大きな切り株がそれだったのでしょう。


昭和四十三年(1968)発行の「国府村誌」に載っている写真を見ると、「ムクの木」は社殿の後ろに聳えています。

ということは、社殿を建て替えた時に、「ムクの木」の後ろに移したということですか。

えらいなぁと思うのは、切り倒した「ムクの木」の幹が、ちゃんと保存されていることです。


説明書きも添えられています。

これを見ると、切り倒したのは平成二十三年(2011)だったんですね。

歴史をきちんと伝えていく。
大切なことです。


【福守神社】


  


Posted by 迷道院高崎at 07:09
Comments(0)◆高崎探訪高崎名所旧跡看板