高崎生まれの高崎育ち 迷道院高崎が高崎の歴史を知って 高崎を思ふ

2019年11月17日

史跡看板散歩-163 引間の妙見様

前回の「冷水の小祝様」を由縁として建立されたという、引間「妙見様」を訪ねました。
「花園橋」という素敵な響きの橋を渡った所にあります。

かつての「花園邨(村)」にある、「七星山花園妙見寺」(現在は「三鈷山吉祥院妙見寺」)です。

境内に入ると右手に小山があり、頂上にきれいな色と形の祠が建っています。


後でご住職にお聞きしたら、これは「弁才天」の祠で、もとは池に囲まれた中島だったのだそうです。
なるほど、そういえばそんな雰囲気は残ってます。
なんでも、上越新幹線の工事で水脈が枯れてしまって、池はなくなってしまったんだとか。

石段脇に、説明板が建っています。


萩の「花園」だったんですね。

石段左側には、「金刀比羅大権現」


石段を上がると、参道の両側にえらくスマートな石灯籠が建ってて、上を見ると奉納された灯籠がズラーっと参道に吊り下げられています。


少し進むと、参道左側にえらく立派な石祠がありました。

石祠の中に祀られているのは「勢至菩薩」で、地元の人はなぜか「おまんまさま」と呼んでいるそうです。

この「おまんまさま」について、松田直弘氏著「妙見寺誌」に面白い話が載っています。
拝殿に向かって左手前のオマンマさま(室町時代初期と推定の石殿内に納まる勢至菩薩坐像)は、かつては石段下の大欅の根元(現在の琴平宮の南)にあった。
遠い昔のこと、染谷川左岸の霊水(冷水)の小祝の池に金色に光輝く亀が天降り、やがて染谷川を二十町(約二キロ)ばかり流れくだって這い上がった所が大欅の根元だった。
地元の人達は、大欅の根元に石のお宮を造り、この光輝く亀を納めて祀った。
それが、このオマンマさまと呼ばれる石宮で、妙見さまが一番はじめに祀られたお社だと今も信じてお参りする人もいる。
註、この大欅は、昭和三十九年に切り倒され、オマンマさまは現在地に移される。」

「国府村誌」では、もっと面白い話になっています。
昔この池(小祝の池)から七星の金色に輝く亀がはい出して妙見様の大ケヤキのところでとまった。
そこに石宮をたてお祀りしたが、元総社の一・六の市に通った人が馬にのってここを通ったら馬から落ちてしまった。
御姿を見えないところへ移そうというので井戸を掘ってそこにお祀りした。
その上に建てられたのが今の妙見様のお堂のあるところという。」
ここを通る人たちが落馬するのは、石宮の中から亀が放つ金色の光に目がくらんだからだそうです。(地元の古老談)

「妙見寺」のお堂の下には、今でも井戸があって亀が住んでいるんでしょうか。


「妙見寺誌」には、こうあります。
妙見寺行事は、大晦日の「お着替え」から始まる。
この行事は、本殿下の井戸の中に納まる御神体に藁で編んだコモ(衣)を着せ替える神事で「ころもがえ」ともいう。
行事は深夜に暗闇の中を手さぐりで行う。
この御神体は、遠い昔に小祝の池に天から降った亀とされる。
元住職は「隕石と思われる」と語っている。」

おや?
亀じゃなくて、石ですか?
そう、「わたしたちの群馬町 資料集」では、完全に石の話になってます。
この妙見には、星形をした青石の神体があります。
冷水におぼり様の池と言うのがあります。
ある村人がこの池から大きな石を引き上げ家に運んでいました。
ところがどうしたことか妙見の池まで来ると、押せども引けどもどうしても動かなくなりました。
村人は気味が悪くなって、とうとうその場に放置したまま逃げ帰ってしまいました。
そのことがあってからです。妙見の前の箕輪前橋道を馬に乗って通る旅人は、全部落馬してしまいます。
これをあの石のためであると、誰言うとなく信じるようになりました。
そこで村人は集って相談しました。そして石は人々の目に止まらないようにと六尺ほどの穴の中に入れられました。それからは落馬する旅人もなくなりました。
とさ。

さて、「妙見寺」とは言うものの、その堂宇は神仏混淆の姿をそのまま残しています。


ところで。
史跡看板がある筈なのですが、どこを探しても見当たりません。

周辺をウロウロ歩き回ってみたら、ありました。
なんと、「妙見寺」山門から南へ200m、「引間」の交差点の角に、「日本三社之一 妙見尊」という石柱と一緒に建っているじゃありませんか。



ここなんですかねぇ。
うーん。


【史跡看板】

【妙見寺山門】


前の記事へ<< >>次の記事へ
  


Posted by 迷道院高崎 at 07:13Comments(0)◆高崎探訪高崎名所旧跡看板

2019年11月10日

史跡看板散歩-162 冷水の小祝様

イオンモール高崎から北へ1kmほど行った所に、「冷水」(ひやみず)という信号があります。
その信号を西に入って240m、冷水のバス停を過ぎたすぐ先を南に曲がって100mほど行くと、「おぼりの森公園」があります。


その向かい側に道路下へ降りる所があって、遠くに史跡看板が建っているのが見えます。


きれいに刈られている下草を踏んで近くに寄ると、小さな石祠がポツンと置いてあります。

風化していてちょっと読みにくいのですが、石祠の左正面に「小祝神」、右前面に「妙見宮乳母神」と刻まれているようです。

史跡看板には、こう書かれています。


「金色の光を放つ亀」がいたという「小祝池」は、石祠前のこの池?



「花園星神記」によると、帝に献上した亀はその後「小祝池」に戻されたようです。
亀は忠明卿に帰し給ふ、忠明上刕(しゅう:州)へ下向して、元の小祝池へ帰し納めける。
是より此所を霊水(冷水)村と云ふ。」

天平元年(729)、「小祝池」に異変が起こります。
三月廿二日の夜、小祝の池鳴動いて光明を輝し、上天して北斗七星に入。忠明卿怪しみて其事を帝へ奏しけれバ、帝殿下を召して宣下ありけれバ、此儀を宣して斗うべしと。
依て殿下卜部司官家宜に命じて是を占せけれバ、家宜答えて云ふ様ハ、天津星の化して亀と成、又天上して本の七星に帰る所也。
是妙見尊像ハ亀ノ背ニ立せ給ふ、即妙見社堂ヲ建立すべき裏兆なりと。
依て殿下忠明卿の使者に其旨を命じければ、使者上毛に帰着し、忠明卿に其旨を報言す。
忠明卿聞し召、即妙見堂并(ならび)に七星山息災寺を建立有。」
そこから、「冷水の小祝様」「妙見様の乳母」だということで、石祠に「妙見宮乳母神」と刻まれているらしいです。

話に出てくる、「妙見」「花園」「冷水」という小字はこんな位置関係になります。


ところで、「小祝」をなぜ「おぼり」と読むのかは、こちらをご参照ください。 → ◇史跡看板散歩-80 小祝神社

「おぼりの森公園」隣に祀られている「大日堂」


鰐口は、紐に括り付けた石で叩くようです。


叩き過ぎたのか、落っことしたのか、鰐口の裏側は半分欠けちゃってます。


堂内の「大日如来」「お地蔵様」は、まだ新しいもののように見えます。


堂の外に建っているのが、元々の「大日如来」なんでしょうか。


「おぼりの森公園」も、なかなか素敵です。


公園の脇を流れる「染谷川」は、折からの台風の後で、激しく流れ下っていました。



平将門が来て戦になった時、死んだ人の血で真っ赤に染まったので、「染谷川」という名が付いたとか。(群馬町誌資料編4)
こわっ・・・。


【冷水の小祝様】


  


Posted by 迷道院高崎 at 07:25Comments(0)◆高崎探訪高崎名所旧跡看板

2019年11月03日

史跡看板散歩-161 甲州稲荷大明神と稚産霊神

金古の信号から高崎方面へ170m、岸とうふ店の前の小道を入ると、「甲州稲荷大明神」へ行けます。


背の高い宝篋印塔と墓石(?)の間を通ると広場があって、その向こうに赤い鳥居が並んでいるのが見えます。


ずらっと並んだ鳥居の先に、「甲州稲荷大明神」の赤い社殿があります。



史跡看板は、社殿の左手前に建っています。


誰が何故わざわざ甲州から稲荷神を勧請したのか、それは定かでないようです。

看板の後半に出てくる、「稚産霊神」(わくむすびのかみ)と刻まれた蚕霊供養塔は、社殿の右前に建っています。


日本書紀では、「稚産霊神」の父は火神・軻遇突智(カグツチ)、母は土神・埴山姫(ハニヤマヒメ)となっています。
古事記では、父は伊邪那岐命(イザナギ)、母は伊邪那美命(イザナミ)で、イザナミが火神・火之迦具土神(ヒノカグツチ)を産んだ時に陰部を焼かれ、苦しんだ時の尿から出現した神となっています。
いずれの話も、火、土、尿という、農業に欠かせない要素からなる神様で、食物の神・稲荷との共通性もあります。

「甲州稲荷大明神」の東隣に、「二十三夜堂」が建っています。


中を覗いてみると、かなり立派な彫り物が壁に掛けてあります。

昔のお堂の飾り彫刻か、山車か何かの飾りだったのか。

床には、「安産祈願」と書かれた行燈と、「如意輪観音」の石像が置いてあります。
ただ、二十三夜「勢至菩薩」のはずですが。
(二十三夜については、過去記事「さんや様」をご参照ください。)

と思ったら、「勢至菩薩」らしき木像も置いてありました。

土地によって、二十二夜が女性、二十三夜が男の月待講だと言いますから、このお堂はその両方に使われたのかも知れません。

「二十三夜堂」の右隣にもうひとつお堂があります。


中を覗くと、「薬師様」となっていました。

なぜか、みな、首がありません・・・。

それにしても、この広場、普通の公園とはちょっと違う雰囲気です。
入口の宝篋印塔や墓石のようなのもそうですし、こんな石造物も並んでいたりします。


Googl Earthを見てみると、プレハブの建物に「本光寺珠算教室」と名称が入っています。

どうやらここは、「本光寺」というお寺の跡みたいです。

「群馬町誌」に、こんな記載がありました。
金古字多家1252番地にある新義真言宗豊山派医王山本光寺は、奈良県長谷寺の直末であり、本尊は大日如来である。
『寺院明細帳』によれば、昭和十四年(1939)までは、三ツ寺村の石上寺末で無住寺であって、棟高村大乗寺の住職が兼務していたという。
『金古町誌』には、寛文年間(1661~72)の創立で、開山されたのは高崎城主の安藤対馬守時代という。
また一説には足門徳昌寺の隠居寺で字如来にあったものを現在地に移したともいわれている。当時、信徒170人と書かれている。(略)
山門前には、明和九年(1772)の宝篋印塔があるが、この中から経文が見つかったという。
藁葺きの大きな本堂は、昭和四十四年(1969)十月九日秋祭りの日に全焼、現在は区公民館が建てられ諸種の会議に使用されている。
境内の西側に二十三夜堂があり、勢至菩薩を祀っている。
この二十三夜堂は、戦前三国街道の東100mくらいの所にあったものを戦後この地に移した。」

残念ながら、「甲州稲荷大明神」についての記述はありませんでした。
でも、残すということは、後の人にいろいろなことを伝えてくれるものですね。


【甲州稲荷大明神と稚産霊神】


  


Posted by 迷道院高崎 at 07:21Comments(0)◆高崎探訪高崎名所旧跡看板