2019年11月24日

史跡看板散歩-164 東国分の行人塚と宝篋印塔

最近、ブログタイトルの下に大きな広告が表示されるようになり、ちょっと、うっとおしいです。
テンプレートを変更すればと言われて変えてみたんですが、ダメみたいです。しょうがないのかなぁ。

さて、今回は。
東国分(ひがしこくぶ)
「上野国分寺跡」のすぐ北西の、とある墓地。


だいぶ文字の薄くなった看板には、「常安寺の宝篋印塔と行人塚」と書かれています。


正面に、立派なお宮が建っています。
木札が掛かっているのですが、何と書かれているのか判読できません。

辛うじて、一番下の文字が「様」と読めます。
いったい、何様なんでしょう?

調べてみると、「群馬町誌 資料編4」の民俗信仰の項に、これかな?と思うものがありました。
ヘソヌキ観音
東国分の南の墓地にあるお堂には観音様の石像を収めた石宮があり、この観音様の腹部に指の入る程の穴があけられている。
地元ではヘソヌキ観音と呼び、この穴に指を入れると腹が痛くなるといわれているが、安産守護の観音様であり、絵馬や五色の旗をあげ願いをかけるとお産が軽くすむといわれている。」

たしかに、お堂の中の石宮に扉があり、その中に穴のようなものが見えます。


また、同誌にはこんな話も載っていて、これもこの墓地のどこかにあるようです。
エボトリ薬師
東国分の墓地にエボトリ薬師といわれる石仏がある。
この石についている土をエボ(イボ)につけるととれるといわれる。」

たぶん、「薬師如来」と刻まれている、この石仏のことではないでしょうか。


さて、看板にあった「行人塚」ですが、墓地の一番奥にあります。

史跡看板手前の無縫塔(玉子塔)がそれらしいです。



たしかに、台石の裏っかわに穴が開いています。


墓地の東隣の敷地に、鳥居と寺っぽい建物があります。


建物はしばらく使われていないようで、だいぶ傷んでいますが、玄関口には「國分山」という額が掛かっています。
これが「常安寺」だったのでしょう。


「常安寺」について、「国府村誌」にはこう書かれています。
庄屋助太夫盛次は酒造業を営み生活が楽だった。
元禄十六年秋工を起し独力一寺を建立、同十七年申二月落慶、常安寺と名付け、祖先菩提一族繁盛祈念の為であった。
文化四丁卯(ひのと・う)四月十三日の午後、近所の家の子守の弄火より全焼、文化七庚午(かのえ・うま)十一月十三日再建上棟、住屋武兵衛重禹個人の力で再建した。これが現在の常安寺である。」
そして、開山は大阿闍梨自賢覚仙とあります。

「群馬町誌 通史編下」では「国分山良心院常安寺」となっていて、その後のことも書かれています。
祐晃(十世住職)在職中、戦後の農地解放により、所有地九反三畝歩の田畑を失い、住職没後は無住寺となり、檀徒は離れて総社町の光厳寺へ移った。
明治六年(1873)にはこの寺に国分学校が設けられ、国府小学校の発祥地でもある。
さらに、境内には明治末期建設の「東国分倶楽部」と呼ばれる集会所があり、当時としてはハイカラな名前がつけられているが、非戦平和論者の牧師住谷天来が名付けたものという。」

住谷天来(すみや・てんらい)は少年時代、一人前の寿命を危ぶまれるほどの虚弱体質で、両親は無事を祈って御嶽講に入れたそうです。
それと関係あるのかどうか知りませんが、隣の「大神宮」境内には、大きな「御嶽大神社」の石碑が建っています。


そして、天来は76歳の天寿を全うしました。

その天来が名付けたという「東国分倶楽部」は、新しい建物になって今も境内地にあります。


境内地の南東隅に、どでかい「宝篋印塔」が建っています。


史跡看板は、その陰に隠れるように建っていました。



なるほど、立派なもんです。


至るところに出てくる住谷(住屋)姓。
大したもんですなぁ。


【行人塚】

【宝篋印塔】