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2019年11月03日

史跡看板散歩-161 甲州稲荷大明神と稚産霊神

金古の信号から高崎方面へ170m、岸とうふ店の前の小道を入ると、「甲州稲荷大明神」へ行けます。


背の高い宝篋印塔と墓石(?)の間を通ると広場があって、その向こうに赤い鳥居が並んでいるのが見えます。


ずらっと並んだ鳥居の先に、「甲州稲荷大明神」の赤い社殿があります。



史跡看板は、社殿の左手前に建っています。


誰が何故わざわざ甲州から稲荷神を勧請したのか、それは定かでないようです。

看板の後半に出てくる、「稚産霊神」(わくむすびのかみ)と刻まれた蚕霊供養塔は、社殿の右前に建っています。


日本書紀では、「稚産霊神」の父は火神・軻遇突智(カグツチ)、母は土神・埴山姫(ハニヤマヒメ)となっています。
古事記では、父は伊邪那岐命(イザナギ)、母は伊邪那美命(イザナミ)で、イザナミが火神・火之迦具土神(ヒノカグツチ)を産んだ時に陰部を焼かれ、苦しんだ時の尿から出現した神となっています。
いずれの話も、火、土、尿という、農業に欠かせない要素からなる神様で、食物の神・稲荷との共通性もあります。

「甲州稲荷大明神」の東隣に、「二十三夜堂」が建っています。


中を覗いてみると、かなり立派な彫り物が壁に掛けてあります。

昔のお堂の飾り彫刻か、山車か何かの飾りだったのか。

床には、「安産祈願」と書かれた行燈と、「如意輪観音」の石像が置いてあります。
ただ、二十三夜「勢至菩薩」のはずですが。
(二十三夜については、過去記事「さんや様」をご参照ください。)

と思ったら、「勢至菩薩」らしき木像も置いてありました。

土地によって、二十二夜が女性、二十三夜が男の月待講だと言いますから、このお堂はその両方に使われたのかも知れません。

「二十三夜堂」の右隣にもうひとつお堂があります。


中を覗くと、「薬師様」となっていました。

なぜか、みな、首がありません・・・。

それにしても、この広場、普通の公園とはちょっと違う雰囲気です。
入口の宝篋印塔や墓石のようなのもそうですし、こんな石造物も並んでいたりします。


Googl Earthを見てみると、プレハブの建物に「本光寺珠算教室」と名称が入っています。

どうやらここは、「本光寺」というお寺の跡みたいです。

「群馬町誌」に、こんな記載がありました。
金古字多家1252番地にある新義真言宗豊山派医王山本光寺は、奈良県長谷寺の直末であり、本尊は大日如来である。
『寺院明細帳』によれば、昭和十四年(1939)までは、三ツ寺村の石上寺末で無住寺であって、棟高村大乗寺の住職が兼務していたという。
『金古町誌』には、寛文年間(1661~72)の創立で、開山されたのは高崎城主の安藤対馬守時代という。
また一説には足門徳昌寺の隠居寺で字如来にあったものを現在地に移したともいわれている。当時、信徒170人と書かれている。(略)
山門前には、明和九年(1772)の宝篋印塔があるが、この中から経文が見つかったという。
藁葺きの大きな本堂は、昭和四十四年(1969)十月九日秋祭りの日に全焼、現在は区公民館が建てられ諸種の会議に使用されている。
境内の西側に二十三夜堂があり、勢至菩薩を祀っている。
この二十三夜堂は、戦前三国街道の東100mくらいの所にあったものを戦後この地に移した。」

残念ながら、「甲州稲荷大明神」についての記述はありませんでした。
でも、残すということは、後の人にいろいろなことを伝えてくれるものですね。


【甲州稲荷大明神と稚産霊神】


  


Posted by 迷道院高崎 at 07:21Comments(0)◆高崎探訪高崎名所旧跡看板