2019年10月06日

史跡看板散歩-158 土俵の庚申塔

三国街道を横切る「牛池川」に沿って東へ下った所に、「庚申塔」とその史跡看板がある・・・はずでした。


痕跡はあるのですが・・・。


道祖神のカップルだけが、不安気な面持ちで手を握り合い、肩寄せ合って佇んでいます。


すぐ近くで史跡の発掘調査をしていたので、聞いてみました。
「そこに、庚申塔がありませんでしたか?」
「あー、ここ、道路ができるんで、先週移動してたよ。」


聞くと、近くの「土俵住民センター」の所にあるというので、行ってみたらありました。

が、あったのは4基だけで、しかも肝心の「庚申塔」がありません。
痕跡の方は7つあったので、3つ足りません。
その3つの中に「庚申塔」があったはずです。

もう一度、発掘現場へ戻って聞いてみました。
「他にもなかったですかね。」
「うーん、よく分かんないけど、ここの土地の所有者があそこん家だから、知ってるんじゃないかな。」

と言うので、行ってみました。

「庚申塔が建ってた土地が、こちらの所有地だということでしたので・・・。」
「昔、道路ができる時に、あちこちにあったのを、ウチの土地を提供してそこへ並べたんだけど、また新しい道路ができるんで移したんだよ。」
「庚申塔があったと思うんですけど。」
「あー、捨てたんじゃないかな。区長さんなら知ってると思うけど。」

えっ!捨てちゃったの?

で、教えて頂いた区長さんの家を訪ねましたが、あいにくお留守です。
帰ってきた頃を見計らってお電話することにして、いったん引き上げてきました。

もしやと思い、家でストリートビューを見てみると、おー、写ってるじゃありませんか!
中央に写ってるのが「庚申塔」でしょう。

ははぁ、一つだけ残ってた「双体道祖神」は一番手前にあったんですね。
そうか、それで橋の名前が「どうそじんはし」(道祖神橋)なんだ。

きっと、この「双体道祖神」は昔からこの場所に建っていたんでしょうね。
だから、住民センターの方に移さなかったんだ。

その日の夕方、区長さんにお電話してお聞きしたところ、
「移設した4基は毎年この地区でお祭りをしてるんで移設して残した。庚申塔二基と石灯籠一基は、引き取り手がなかったので、やむなく廃棄したんです。」
ということでした。
「史跡看板も建っていたと思うんですが。」と言うと、
「それも一緒に廃棄しました。」とのことです。

「じゃ、どんなことが看板に書いてあったかは、分からないですよね。」と言うと、
「いや、申請した時の原稿が残ってますよ。」と言います。
ありがたいことに、写真と一緒にメールで送って下さるとも仰ってくれました。

ということで、これが送って頂いた「庚申塔」の写真です。


史跡看板の文言はこうです。
正徳と文化の庚申塔
当地には、庚申塔や多数の石宮が祭られています。
この石造物は土俵区内各所から集めたもので、この中で特に貴重なものは二基の庚申塔です。
一基は、正面に「庚申供養塔」と刻し、台座に三匹の猿(見ざる聞かざる言わざる)を浮彫りにした立派なもので、右側の面には正徳三年(1713)巳之天開五月吉日、當村施主五拾七人と建立の年代を刻しています。
他の一基は、自然石を台座と竿石として組立てたもので、竿石の正面に「庚申塔」と刻し、判読できないが筆者名を刻しています。
右側の側面に文化八年(1811)辛未天孟春吉日と刻しています。
二基の庚申塔は、金古宿の歴史を語る貴重な文化財です。

その貴重な文化財が廃棄されてしまったとは、何とも残念なことです。

区長さんのお話によると、庚申塔二基と石灯籠は、元々近くの常仙寺の参道にあったものだそうです。
その参道を市道にする時、道を広げたので置けなくなって移設したと。
今回、常仙寺にも打診し、土俵地区の人たち全員を集めて相談もしたが、引き取り手はなかった。
ついに、その集会で廃棄することに決めたとのことでした。
地区の人たちの無念さが、ひしひしと伝わってくるようなお話でした。

それにしても、残念な結果です。
高崎市として何か成す術はなかったのでしょうか。

うーん・・・。


【土俵の庚申塔があった場所】