2019年09月29日

史跡看板散歩-157 神保雪居の碑

前回の「行人塚と大ケヤキ」から南へ150mほどの所に、大きな「神保雪居翁壽碑銘」が建っています。



9年前に来た時には、神保雪居って有名な人らしいけど、特に興味も湧かずスルーしていました。
今も、それほど興味は湧かないのですが、安中文瑛に漢学を教わったということで、多少親しみが持てました。
神保雪居の書と画↓


「神保雪居翁壽碑銘」というこの石碑も、何が書いてあるのやらさっぱりで。
どうしても知りたいという人は、濱口富士雄氏著「群馬の漢文碑」を読んで下さい。


それよりも迷道院が気になったのは、「神保雪居碑」の斜め前にある、この捻じれた塀の方です。


「金古宿の代官所跡」、同じ神保姓です。
旧群馬町の重要文化財のはずなんですが、この有様です。




9年前に来た時も、心配な状況ではありましたが、今から見ればまだ良い状態でした。
その時のブログ記事をご覧ください。
  ◇旧三国街道 さ迷い道中記(20)

これ、いったいどうするんでしょう?
高崎市には文化財保護課という部署があるんですが、この文化財は保護してくれないのかなぁ。

うーん・・・。


【神保雪居の碑】

【金古宿代官所跡】


  


Posted by 迷道院高崎at 07:32
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2019年09月22日

史跡看板散歩-156 金古町の行人塚と大ケヤキ

旧群馬町、金古町上宿の信号の角に、大きなケヤキの木が立っています。


その根方に史跡看板が建っています。



これが、「真岩常正居士」(しんがん・じょうせい・こじ)の宝篋印塔です。


9年前、旧三国街道を辿って記事を書いてて、ここがシリーズの最終地点だったんですが、あるはずの宝篋印塔が無くなってて、えらいびっくりしたことを憶えてます。
(9年前の写真↓)


その顛末は、過去記事でどうぞ。
 ◇旧三国街道 さ迷い道中記(最終回)

ということで、近くの石材店さんで修復中だった訳なんですが、その8か月後、石材店さんから記事にコメントを頂戴してびっくりしました。


そしてその5年後、今度は施主様からコメントを頂き、二度びっくりです。


コメント中にある「記念碑」が、これでしょうか。


このブログをやってて本当に良かったと思える、隠居の思い出の地でした。


【金古町の行人塚と大ケヤキ】


  


Posted by 迷道院高崎at 07:24
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2019年09月15日

史跡看板散歩-155 中新田の秋葉様と石神群

生原の信号から西へ300mほど、箕郷東小学校入口の信号を南へ入ります。


50mほど行くと、右側の一段高い所に石碑がいくつも建っているのが見えます。


史跡看板は、その先。



ま、いろんなのが建ってまして。


これが珍しいな、と思ったんですが。

何だかよく分かりません。
偏平足さんのブログによると、「水雨天」「吹風天」秋葉山十二天の中の神様で、仏教の「水天」「風天」と同じだそうです。

「水天」(すいてん)は、
仏教における天部の一人で、須弥山の西に住んでいるとされる。十二天の一である。
水の神であり、竜を支配するとされる。もともとはインド=イランの古いアスラ族のヴァルナである。 諸ヴェーダにおいて、ヴァルナは重要な位置に置かれ、天空神・司法神(=契約と正義の神)・水神などの属性をもたされた。
東方ではブラフマン(梵天)に始源神としての地位を奪われており、さらに後には死者を裁くヤマ神に司法神としての地位を奪われ、水神としての属性のみが残った。
仏教に取り入れられた頃は、仏教における十二天の一つ、西方を守護する「水天」となった。」(Wikipedia)

「風天」(ふうてん)は、
十二天の一。もとインドの福徳・子孫・長生をもたらす神。のち仏教の守護神となり、西北を守る。
胎蔵界曼荼羅では赤色の身体に白鬚で、冠と甲冑をつけた老人の姿をとる。」(大辞林)

ということなんですが、それと「蚕神」との関係、「船入」(入船?)とは何か・・・、どうもよく分かりません。
隠居の思いつきですが、「農家にとって、雨も水も吹く風も、無ければ困るし過ぎても困る。お蚕さんもお天気次第。宝船に乗った神様が入って来ますように。」ってことなのかなぁ。

現場からは以上なんですが、前回同様なんか物足りません。
周辺を少しほっつき歩いてみました。

石神群から南へ350mほど行った四つ辻の手前に、何だか面白い形をした石碑が建っています。


向こう側へ回ってみると、「痘瘡輕安 守護神」と彫られています。


「痘瘡」(とうそう)というのは「天然痘」のこと、「輕(軽)安」(きょうあん)は「軽やかに安らぐ」ことですから、疫病が村に入って来るのを防ぐ道祖神賽の神のようなものなのでしょう。

その碑背を見て、ちょっとびっくりしました。

「瑾亭道人書」とあります。
おそらく、あの「瑾亭先生」こと安中文瑛の書なんでしょう。
 ◇史跡看板散歩-137 瑾亭先生墓碣銘
 ◇史跡看板散歩-番外編 関叟庵
いやー、ここでお目に掛かれるとは。
安政五年(1858)の建立、名医・瑾亭先生らしい書ですね。

その四つ辻の足元に、道しるべがありました。

風化して読めない文字もあるのですが、「左生原経しぶ川榛名山道」かな?
その反対側は、「左保渡田経長野六郷高崎」になってます。

さて、箕郷町の史跡看板はこれで巡り終わったようです。
次回からは、旧群馬町の方へ行ってみたいと思います。


【中新田の秋葉様と石神群】

【痘瘡軽安守護神碑】


  


Posted by 迷道院高崎at 07:10
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2019年09月08日

史跡看板散歩-154 生原の厳島神社

生原(おいばら)の信号の南140mほどの所にあるのが、「生原の厳島神社」です。

史跡看板は、参道入り口に建っています。


鳥居の扁額は「弁財天」になっていて、突き当りがその祠のようです。


竹林を背にして、立派な造りの祠です。


看板によれば、この中に石臼の中から発見されたという弁天様が安置されているようですが、そのお姿は拝めません。

池は、この辺にあったんでしょうか。


現場からは以上なんですが、ちょっと物足らなかったので、弁天様について少しググってみました。

いつも池とか水のそばに居らっしゃいますが。
弁才天はヒンドゥー教の女神であるサラスヴァティーが、仏教に取り込まれた呼び名である。
原語の「サラスヴァティー」は、12世紀に編集されたと言われるインドで最も古い聖典『リグ・ヴェーダ』に現れる聖なる河とその化身の名である。」(Wikipedia)


「弁才天」とも「弁財天」とも書かれますが。
漢字表記は中国の義浄という僧侶がインドに仏教留学した際に、弁天様のご利益から弁才天と意訳します。
川の流れるような、弁舌の達者という意味の神様とされます。
一方、弁天様が日本にもたらされてから、財福の神として信仰がされるようになると、弁財天(旧字体では辨財天)と表記されるようになります。」(神仏ネット)
あ、初めは「弁の才」がある神様だったんですね。

いつも琵琶を持ってますけど。
水の女神であるが、次第に芸術・学問などの知を司る女神と見做されるようになった。
琵琶を抱え、バチを持って奏する音楽神の形をとっている。密教で用いる両界曼荼羅のうちの胎蔵曼荼羅中にその姿が見え、『大日経』では、妙音天美音天と呼ばれる。元のサラスヴァティーにより近い姿である。」(Wikipedia)

祀られているのが、たいがい「厳島神社」なのは何故?
日本の弁才天は、吉祥天その他の様々な神の一面を吸収し、インドや中国とは微妙に異なる特質をもち、本地垂迹では日本神話に登場する宗像三女神の一柱である市杵嶋姫命(いちきしまひめ)と同一視される事が多い。
「いつくしま(厳島)」という地名は、「イツク(斎く。意:心身のけがれを除き、身を清めて神に仕える)+ シマ(島)」から来ていると考えられており、厳島神社の祭神の筆頭に挙げられる女神・イチキシマヒメ(市杵島姫)の名に由来するか、少なくとも同根語である。」(Wikipedia)

なるほど。


【厳島神社・弁財天】


  


Posted by 迷道院高崎at 07:04
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2019年09月01日

史跡看板散歩-153 今宮八幡宮

生原(おいばら)の信号から、県道123号線(柏木沢・大八木線)を北へ900mほど行くと、左手に「今宮八幡宮」があります。


あるはずなんですが・・・、史跡看板が見当たりません。


社殿の前にもありません。


境内の裏へ回ってみたら、ありました。



「柏木沢」という地名について、「箕輪町誌」にはこう書いてあります。
本村ハ長野郷ニテ青木庄ナリ。
永正ノ比(頃?)本国白井城ヨリ松井田城ヘノ通路ナリシガ、柏木(檞ノ俗字)多ク生ゼシ地ナルヲ以テ村名起レリト称ス。」

京都「石清水八幡宮」から勧請したという1264年は鎌倉時代中期、文永元年です。
社殿の扁額を見ると平成二十九年に七百五十年祭をやってるようですが、1264年から750年目は平成二十六年のはずなんですが・・・。
ま、細かいことはいいでしょう。

「群馬縣群馬郡誌」によると、話しはさらに遡ります。
今宮の古蹟(相馬村)
日本武尊東征のとき、常陸國新治郡筑波を經て甲斐國山梨郡酒折宮に來り玉ひ、更に北に向ひ上野國群馬郡今宮の里に休所を定めらると、この際尊が 天皇より給はれる大國主命が國土經營のとき持ち廻りたる柊の予(矛?)を、この地に奉祭あらせられたりといふ傳説あり。
又白鳳元年(紀元=皇紀千三百三十二年=西暦661年)天武天皇の時、山城國船岡山の北紫野より奉遷すと、これ卽ち今宮と稱する始めなりとも云ふ。(略)
今の大字柏木澤八幡宮境内は日本武尊の遺跡なることは上野風土記に見ゆ。」

社殿の左に祀られているのは、「阿弥陀如来」となっていますが、「病気平癒の神」ということなので、もしかすると「薬師如来」かも知れません。


先の「群馬縣群馬郡誌」には、こんな記述があります。
現今俗に藥師如來と稱する石祠あり、これ白鳳年間奉遷したるを時代の變遷により古名を失ひ、藥師と改稱したるものならんか。」

社殿の後ろに、看板に書かれている石造物がずらっと並んでいます。


一番道路側に、「二十二夜様」がゆったり座っておられます。

えらいなぁと思うのは、どの石造物も刻まれている文字がみな赤く塗られていて、明瞭に読み取れることです。
そして、主だった石仏や石祠には、その名前とご利益が表示されていること。
いままで、いろいろな所を見てきましたが、ここまできちんとしているところはありませんでした。
この神社が、地域に根差していることがよく分かります。

神社の近くに道しるべがあり、ご先祖様の盆送りをした茄子の馬が置いてありました。

道しるべには、「向 右上郊・高崎 左榛名・伊香保」、側面には「右本村道」と刻んであります。

歴史が、生きてますね。


【今宮八幡宮】

【道しるべ】


  


Posted by 迷道院高崎at 07:09
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