2019年01月06日

史跡看板散歩-123 新井堰の分水

三国街道(高崎-渋川線)の大橋町に、「大橋橋」という面白い名前の橋があります。


下を流れるのが「大川」と呼ばれた「長野堰用水」で、その「大川」に架かる橋だから「大橋」と呼んでいました。
ご丁寧にもうひとつ「橋」を付けちゃったんですね。

その橋の上流側に「城峯神社参拝所入口」「住吉町庚申塔入口」という石柱が建っています。


そこを入った左に史跡看板が建っています。



史跡看板の下を流れているのが「新井堰」からの分水で、高崎城下を縦横に走る水路の始まりです。

後ろには、「新井堰」の水門を越える水が、目の回りそうな速さでドードーと音を立てて流れています。


その柵際に、もうひとつ「新井堰」の説明看板が建っており、この辺の昔の写真が下に貼ってあります。
昔の川幅は、倍くらいあったようですね。


双方の看板で食い違うところが一個所あって、気になる方がいるかも知れません。
「新井堰」から高崎城のお堀への経路の中で、史跡看板は嘉多町、説明看板は堰代町を通るように書かれています。
東西に接している町なのでどちらでも良いのですが、万延元年(1860)覚法寺絵図を見ると、水路は嘉多町側を通っています。


さて、「新井堰」を開鑿したという新井喜左衛門という人ですが、ブログ駆け出しのころ記事にしていました。
  ◇「新井堰」の人脈と水脈

史跡看板の一番最後に「高崎初の水道が・・・」とありますが、簡易水道のことです。
昔の人は、「新井堰」の所に設けられた簡易水道施設を、「水漉(こ)し場」と呼んでいました。
明治四十一年(1908)につくられた「高崎唱歌」にも、
  ここは水道 水こし場
住吉町の 西の方
新たに名付けし 台町は
榛名参りの 街道よ
と歌われています。

ただ、簡易水道はあくまで簡易の水道で、なかなか大変な代物だったようです。
  ◇蛇口から魚?

今はほとんど暗渠になってしまいましたが、「新井堰」から「お堀」まで、水路を探りながらの散歩もまた面白いのではないでしょうか。


【新井堰の史跡看板】