2018年12月30日

史跡看板散歩-122 チンチン電車の軌道跡

大橋町長野堰沿いに、史跡看板が建っています。
かつて、チンチン電車が川を渡っていた場所です。



かつて軌道だった場所に造られた細長い児童公園には、「電車通り公園」という名前が付けられています。


振り向けば、三国街道から斜めに入ってくる軌道跡の道とつながります。
三国街道拡幅に伴い一部代替地分に充てられて、半分ほどの幅になっていますが。


チンチン電車の通る道を、「電車みち」と呼んでいました。
9年も前に記事にしていましたので、ご覧ください。
  ◇「電車みち」

チンチン電車が走っていた昭和9年(1934)の地図と、現在の地図を並べて見ると、今も軌道の痕跡が見事に残っているのが分かります。


三国街道から長野堰鉄橋へ曲がる所で生まれ育った西山保さんが、「チンチン電車の思い出」という一文を書いています。
その中から、いくつかご紹介しましょう。
一番記憶に残っているのは、朝、家を出て幼稚園へ行かずに飯塚に有った電車の車庫へ行って遊んでいた事である。そこには予備の枕木や電柱が重ねておいてありで、遊ぶにはもってこいの場所だった。
更に必ず整備のための電車や独特の形をした貨物電車があり、好奇心の塊の子供にはうってつけの場所だった。
しかしそれも3日目には幼稚園から来ていないと連絡されて、叔母が探しに来てばれてお終いとなった。

車庫へ向かう途中の右側に電車池が有ったが、正直あまりよく覚えていない。田んぼ二枚くらいの広さで大人の人が釣りをしていたのは見てます。掘ったままの岸に草がぼうぼうと生えていて、何か子供には不気味な気配で近寄らなかった。
長じてこれが電車山をつくる土を掘った穴だと知った次第である。」

ある時、壁に掛かっている電話機で飯塚車庫へ電話する母『住吉町の西山だけど次の電車止めてくれる』
すると次の電車が表通りに出る手前カーブで速度ゆるめるどころか止まって、駅方面へ行く母が乗込んでいました。
今なら大変と言うより、当時も相当人様に迷惑を掛けた勝手な振る舞いが通った時代だった。」

区画整理によって、昔の道が跡形もなくなってしまうことが多々ありますが、史跡看板が建てられたことで、この「電車みち」だけは残ってくれるのではないかと、心より願っております。


【チンチン電車軌道跡史跡看板】