2018年10月30日

号外!お茶の水村園で秤の展示会開催!

本町の茶舗「水村園」で、秤(はかり)の展示会が開催されます。
その名も、
  「蔵の中に眠っていたハカリが歴史を語りはじめる」


記事の写真は「上皿竿秤」という種類ですが、展示会ではその他様々な種類の秤が展示されます。
何しろ、以前は売るほどあったんですから。


準備は着々と進んでいます。



中では、美女二人がディスプレイの真っ最中。


実は、歴史民俗資料館の大工原美智子さんが、展示のお手伝いをしてくれています。
素敵な大工原ワールドが、水村園の中に展開されることでしょう。
見逃すと勿体ないですよ。
ぜひ、お出かけください。

期  間: 11月1日(木)~30日(金)10時~15時
 (日曜・祝日・第2土曜・第4土曜は休み)
入場料: 無料
イベント: お茶の計量体験
14日(水)、21日(水)、28日(水)
10時~11時30分
体験者には、水村園オリジナルほうじ茶ティーバッグ(5g入り6袋)プレゼント

そうそう、11月1日が「計量記念日」で、11月が「計量強調月間」ということで、高崎市役所一階ロビーにも、歴史民俗資料館から出張してきた度量衡機器が展示されています。
ぜひ、市役所まで足を延ばしてみてください。


そして、どうせそこまで来たんなら、大信寺にある高崎秤座当主・守随彦三郎のお墓も見に行ってみましょうよ。


どうぞ、お楽しみを!

【水村園】

【守随彦三郎のお墓】


  


Posted by 迷道院高崎at 07:32
Comments(2)◆高崎雑感◆高崎探訪

2018年10月28日

史跡看板散歩-113 大澤雅休頌碑

柴崎町南の信号を東に入り、


80mほど行くと、左手奥に大きな石碑が見えてきます。
「大澤雅休」(おおさわ・がきゅう)の頌碑です。


碑へは、もう一つ先の小道から入ります。



「雅休」は雅号だと思っていたのですが、実は本名で「まさやす」と読むのだそうです。

あまり裕福とは言えない農家だったといいますが、名前の「休」「一休禅師」の一字をとったということですから、風雅を好む家柄だったのかも知れません。

看板にも書かれている歌誌「野菊」昭和十六年三月号に自叙伝が載っていて、十六~十八歳の頃をこう回顧しています。
小学校を卒業して、高山社蚕業学校の別科性として春蚕期間だけ三ヶ年、多野郡小野村中村の塚越分教場に入り、養蚕の実習をした。
蚕具洗い、桑摘み、蚕室消毒等三ヶ月間寄宿生活、奉公人と家族と男女の混合生活は幾分世の中のことを知り始める自分にとって無駄事ではなかった。
姉の婿が小学校の教員をしてゐたので、その世話で私が代用教員になったのは、養蚕の学校を卒業した年の九月である。
同郡の金島村の村長の家の一角を借りて自炊してゐたのであるが、この間に姉を死なしてしまった。姉は肺炎であった。
月給は九円であったが、それでも三円くらい家に送ったものだ。」
(みやま文庫「泰一郎・きち・雅休」より)

雅休はもともと絵をかくのが好きだったようですが、歌や書に興味を抱いたのは倉賀野小学校勤務時代の友人たちの影響があったようです。

看板の文中「書の道・墨書での新境地(前衛書道)を拓き」とある雅休の書で、代表的なのはこれでしょうか。


「山嶽重疊」という字だそうです。
この作品について、雅休はこんなことを言っています。
『山嶽重疊』という言葉と取り組んで年余になる。
山を離れると一層山を恋う。ふるさとの山。その畳なわり(たたなわり:重なり合って連なること)、たゝずまい、その現象的なものに取り組んで其の中に浸れるものをという追及を長いことつづけたあげくに、それを超えた別の世界、山嶽重疊の語面と実相そのものを離れて、只管に作者のイメージとしてのそれを表はそうとした。」

雅休の歌碑が、頌碑の左にあります。


  ひたむきに
    ひとつのものを 押しすすめ
      いゆかばよろし ゆきつかずとも


昭和四十七年(1972)に「大澤雅休頌碑」を建立したのは、前々から雅休を敬慕し、生まれも隣村・下大類村であった建設業経営者・信沢克己氏です。
信沢克己氏は、山名丘陵に24基の万葉歌碑を建てて「石碑之路」(いしぶみのみち)を整備した人物です。
   ◇鎌倉街道探訪記(25)

信沢氏が「石碑之路」に建てた碑の内、6基が大澤雅休の揮毫によるものです。





散策にはよい季節になりました。
みなさんも「石碑之路」散策で、「雅休碑」探索はいかがでしょう。


【大澤雅休頌碑】


  


Posted by 迷道院高崎at 07:17
Comments(2)◆高崎探訪高崎名所旧跡看板

2018年10月21日

史跡看板散歩-112 旧中山道「左道通行」道標

吉井町を巡ってる間に、ひっそり追加された看板がいくつかありまして。

まずは、倉賀野町「左道通行」道標です。




看板の後半部分に、行方不明になっていたこの道標が発見されて再び設置された旨が記載されていますが、「隠居の思ひつ記」をご愛読いただいている方には、すでにご存知のことでしょう。

ご存じでなかった方は、過去記事をどうぞ。
  ◇幸運を呼ぶ道標 「左道通行」


【「左道通行」の道標】


  


2018年10月17日

捨蚕さん、よい旅を!

ブログ仲間の捨蚕(すてご)さんが、旅立ったそうです。

捨蚕さんが初めて私のブログにコメントしてくださったのは9年前、「追跡!藤森稲荷(其の弐)」の記事でした。


私はこんな返信をしてました。


後でご本人にお聞きした話ですが、捨蚕さんの歴史好きを知ってるご子息から「こんなブログを書いてる人がいるよ。」と言われて、私のブログを見るようになったんだそうです。

その捨蚕さんが、ご自身のブログ「ぶら捨蚕」を開設したのはその1ヶ月後、最初の記事が「捨蚕の小発見シリーズ 其の壱 並榎橋」です。

以来、双方のブログを通じてコメントの交換をしておりましたが、初めて捨蚕さんの顔を拝見したのは、箕輪旧下田邸だったと思います。
  ◇下田邸の四者会談
写真、後ろ姿ですが、右から二人目が捨蚕さんです。


文学・歴史・音楽・美術と多方面に見識の深い捨蚕さんのブログは、がさつな私にはとても楽しみでしたが、平成二十三年(2011)十一月二十九日の「山鯨と吊柿」という記事を最後に、ブログの更新が止まってしまいました。

その後も、思いがけない所で出くわすこともあって、最後に出会ったのは図書館だったかなぁ。
お元気そうでした。

告別式には行きませんでした。
またどこかで出会いそうな気がするから。

捨蚕さん、よい旅を!
ブログの更新、楽しみに待ってますよ。


  


Posted by 迷道院高崎at 07:51
Comments(8)◆私事雑感

2018年10月14日

史跡看板散歩-番外編 富岡の小野小町(2)

前回に続き、富岡「小町山得成寺」の話です。

「得成寺」には、晩年の小町の姿を彫った、運慶「無我無心像」というのもあります。
これも、徳川家から寄進されたものだそうです。

本物は4月8日の花まつりの時にしか見られないということですが、本堂のガラスケースの中にその写真が飾られていました。


晩年とはいえ、絶世の美女・小野小町とはとても思えない姿ですが、どうやら平安時代に書かれたという「玉造小町壮衰書」に出てくる姿のようです。


漢字がびっしりですが、こんな感じでしょうか。
私が道を行く途中、道の傍らに一人の女人がいた。
容貌は憔悴し、身体は痩せ、髪は霜にあたった蓬のように白い。
肌は凍った梨のように皺が寄り、骨は飛び出し筋が浮き出て、顔の色は黒く歯は黄ばんでいる。
裸形にして衣はなく、履物もなく素足のまま。
声は震えてものを言うこともできず、足は萎えて歩くこともできない。
食べ物は尽きて、朝夕の食も支え難く、糠や屑米も悉く終わり、いつ命が終わるかも知れない。
左のひじには破れた竹籠を懸け、右手には壊れた笠を提げて、首には一つの包みを掛け、背には一つの袋を背負っている。」
(参考:杤尾武校注「玉造小町子壮衰書」)

将軍・徳川家綱が、なぜ全盛期の「小町の襖絵」と晩年の「無我無心像」の二つを寄進したのか、意味深です。

あ、そういえば、横尾応処斎の作品を捜して吉井町穴岡「弥勒寺」へお邪魔した時、本堂の廊下にこんな絵が掛かっていました。


ガラスで反射して見にくいですが、見にくくてよかったかも知れません。
十二単の女性が、おどろおどろしい骸(むくろ)に変化していく様子が描かれています。
「九相図」というらしいんですが、もしかするとこの女性は小町かも知れません。

  花の色は
   移りにけりな いたづらに
    わが身世にふる ながめせしまに

小野小町



【得成寺】


【弥勒寺】



  


2018年10月07日

史跡看板散歩-番外編 富岡の小野小町(1)

吉井町にある「小野小町の休み石」のつながりで、小町が庵を造って仏道修行をしたという、富岡市小野地区(相野田)へ行ってみました。

すると早速、こんなのを見つけました。

なるほど、でしょ?

その道路沿いに、「小野小町開基」という、その名も「小町山得成寺(とくじょうじ)」の案内板が建っています。


「得成寺」は、街道から入って200mほど坂を上った所にあります。




「休み石」の史跡看板では「庵を造って仏道修行をした」とだけでしたが、得成寺の由緒看板によれば、ここから「鏑川の岸辺にある薬師如来」まで、千日通って祈願したということなんですね。

石段を上って山門を潜ると、「将軍の命令で建立された」というだけあって、立派な本堂と鐘楼がありました。



本堂と寺務所の間に、「小町の化粧の井戸」というのがあります。



この看板では、「晩年」となっていますが、前回の秋田県湯沢市雄勝町の伝承では36歳の時と伝わっていますから、晩年には早すぎます。
因みに同伝承では92歳まで生きたことになっていますし、能の「卒塔婆小町」は100歳でしたよね。

寺務所へ行き、襖絵を見せて頂けますかとお尋ねすると、突然の訪問にもかかわらず快く本堂に上げて頂き、ご住職自らとても丁寧な説明をして下さいました。

大きな板襖に描かれている小町は、美しさ最盛期の姿だとか。
宮中に仕えたのは十六歳からだそうですから、二十歳前後なのかな。


これは、徳川家四代将軍・家綱から贈られたものだそうです。

由緒看板には、「八代住職は亮賢と言い、五代将軍綱吉の母桂昌院の信任を得・・・」とあるだけですが、ご住職のお話によると、三代将軍家光には子ができても女児ばかり、側室の桂昌院は何としても男児が欲しいとして亮賢に護摩祈祷をしてもらったところ、みごと男児が生まれ、この子が後の綱吉という訳です。

そんな縁で、この寺は以降徳川家の手厚い庇護を受けるようになり、寺院も新しく建て直され、山号に因んだ小町の襖絵が贈られたのだそうです。

由緒看板の最後に、「付近には小町が千日の願をかけた『塩薬師』、抜髪を埋めて塚とした『小町塚』などがある」と書かれています。

ご住職にお聞きすると、「小町塚」「塩薬師」へ行く途中の畑の中にあったが、土地所有者の代が変わった時に、その様な塚だとは知らなかったようで、崩されてしまって今は跡形もないということです。
あぁ、残念なことをしました。
そうならないためにも、史跡の看板というものは必要だな、とつくづく思います。

「塩薬師」はちゃんと残っているというので、行ってみました。
「得成寺」から南へ1.7kmほど、鏑川に架かる「塩畑堂橋」の袂に「塩薬師如来」の案内看板が建っています。


右の道を下りると、山門のようなお堂のような休憩所のような建物が建っていますが、掲げられた扁額にはうっすらと「瑠璃光殿」の文字が読めます。


たぶん、昔はこの中に薬師様が安置されていたのではないでしょうか。
今は、その建物の後ろに「塩薬師」の塔があります。


たくさんの石の薬師像が祀られていて、その昔は「石薬師」と呼ばれていたのだそうです。
きっと、病が治るとお礼に薬師様の石像を供えたものが、これだけの数になったのでしょうね。


看板中ほどに「堂傍の霊水」とありますが、なんでも塩分を含んだ水が川床から湧いていたらしいです。
それで小町はお礼に塩を積み供え、「塩薬師」になったという訳ですね。

そういえば、吉井町には「塩川」という地名があって、その川床からも塩分を含む鉱泉が湧いていて、それを利用した「玉子湯」というお風呂がありましたっけ。
何だか、富岡小町伝説と関係がありそうな。

さて、もう一度「得成寺」へ戻ることといたしましょう。


【得成寺】


【塩薬師】



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