2018年09月30日

史跡看板散歩-111 小野小町の休み石

国道254号線の吉井町交差点から富岡方面へ340m、横断歩道先の左側です。


入口右に「安全地蔵尊」の標柱、左に史跡看板が建っています。


その一番奥に、「安全地蔵尊」「小野小町の休み石」が並んでいます。


史跡看板を見てみましょう。


小野小町にまつわる伝承は、それこそ全国津々浦々にあるようですが、生誕の地と言われる秋田県湯沢市雄勝町に伝わる話で見てみましょう。
京の都から小野良実(おののよしざね)という名の貴族が、郡司として出羽国福富の荘桐の木田(現在の雄勝町小野字桐木田)にやってくる。
大同四年(809)良実は地元有力者の娘である大町子(おおまちこ)との間に子をもうける。
その子の名は比古姫(ひこひめ)、後の小野小町である。
比古姫を生んだ大町子は間もなく亡くなってしまう。
比古姫自身は良実の教育により卓越した教養を身に着け、弘仁十三年(822)十三歳の時、郡司の任を終えた良実と共に都に上る。
天長二年(825)比古姫十六歳の時、宮中に仕える。
この間に比古姫は「小野小町」と呼ばれるようになる。
承和十二年(845)小町三十六歳の頃、故郷が恋しくなり、出羽国福富の荘に戻る。」
(逆木一(さかき・はじめ)氏「言の葉の穴」より)

ということになると、この「休み石」に小町が腰かけたのは、今から1,170年も前です。
よくまあ、今日まで連綿と語り継がれてきたもんです。

そういえば、「卒塔婆」に腰かけた小町の話というのもあるんですね。
ブログをやってると、時々あまりのタイミングの良さに驚くことがありますが、9月25日の上毛新聞に、その「卒塔婆」に腰かけた小町の話が載っていました。


「休み石」に腰かけたのは36歳の小町、「卒塔婆」に腰かけたのは100歳の小町ですけどね。

ところで、36歳の小町は、なぜ急に故郷が恋しくなったのでしょう。

絶世の美女であった小町ですから、言い寄ってくる男は数多いましたが、その誰にもなびくことはなかったそうです。
袖にされた男どもは面白くありません。
男だけじゃありません、そんな小町を妬ましく思っていた女性だって少なくなかったに違いありません。
そういう人たちが陰に陽に、あることないこと言いふらすのは昔も今も同じ。
きっと、都という所につくづく嫌気がさしちゃったんでしょうね。

それにしても、の都から秋田までの女旅、さぞ大変だったことでしょう。
看板にあるように、「富岡市小野地区で病に倒れ」てしまい、そこで「庵を造り、仏道修行をした」というのです。

から中山道を通り信州から姫街道を通ってきたとすると、「休み石」で休んだのは、病み上がりの小町ということになります。

富岡まで、足を延ばそうかな。

それじゃあ、次回。


【小町の休み石】



  


2018年09月23日

史跡看板散歩-110 舟石と住吉神社

頌徳三碑から南へ2.3km、見逃しそうな所に「舟石」と史跡看板が乗っかってます。


車を止めて石垣の上に登ってみると、けっこう大きな石で、たしかに舟の形をしてます。



ま、後ろの山から転げ落っこってきたに違いないと思うのですが、石の大きさといい、形といい、昔の人の想像力を刺激するには充分なものがあります。
羊太夫伝説が、古くから人々の心に根付いている土地ならではのことでしょう。

「舟石」から40mほど先にあるのが、「住吉神社」です。


史跡看板は、境内裏側のバス停のとこに建ってます。



看板には、「羊太夫の時代までには鎮座していた」とありますが、「吉井町誌」にはこんな風に書かれてます。
当神社は創建年代不詳なるも、伝えによれば奈良期のころ羊の大夫謀反の期、官軍しばしば利を失い、ために朝敵討滅を当社に祈誓せしに、効験により八束城落城し羊氏滅びたり、よって官軍の将これを建立すという。」

あれ?
羊太夫は、この神社に祈誓しなかったんでしょうか・・・。

また看板には、「神社の東を流れる大沢川を渡った所に、不動様の奥の院があった」と書かれています。

その大沢川に向かって下りる細い道があります。


看板が欠け落ちてしまってますが、「東谷渓谷」という名前がついているようです。


石が苔むして滑りやすい道を、柵につかまりながら下りていくと、予想外にすごい渓谷が現れます。


向こう岸に向かって突き出た橋の先に、お不動様が祀られていました。


崖のくぼみには、お地蔵さまも祀られています。


小さいながら、なかなかの渓谷美、恐れ入りました。



お礼を言おうと拝殿を見ると、賽銭箱が朽ちてしまったのか、紙箱にむき出しのお賽銭が入ってました。


この大らかさ、いいなぁ。


【舟石と住吉神社】



  


2018年09月16日

史跡看板散歩-109 頌徳三碑

吉井町多胡小学校のすぐ北、セイタカアワダチソウの向こうに「頌徳三碑」はあります。


草がなければ、こうらしいです。


ただ、石灯籠は今建ってません。
もしかすると、小学校の通学路なので、子どもが登ったりすると危険だから、かも知れませんね。

史跡看板ですが・・・。


そうですか、としか言いようがないのですが・・・。
三碑です↓


上毛新聞社発行の「群馬県人名事典」を見ると、向井周彌は、
県会議員時代、活発な言論と関羽髯の風貌で鬼将軍と言われた。
与志井銀行甘楽社監査役、帝国農会、地方森林会評議員など産業の改良増産に尽くした。」
と書いてあります。

江原文作については、
甘楽用水、三名川貯水池の建設、十国峠改修、多胡橋架設など公共事業に尽くした。
豪放果断の気質で愛郷の至情にあふれ、皆からの信望を集めていた。」

大澤良太郎については載ってなくて、長男・要八が載っています。
昭和二十一年まで教職を続け、のち多胡村助役、村長、教育長を歴任。
円満高潔な人格者で、子弟教育と教育諸条件の整備改善に情熱を捧げる。」

そんな要八を育てた父・良太郎については、「吉井町誌」に書かれていました。
性温良恭倹(きょうけん:人に対しては恭しく、自分自身は慎み深く)で、人に教えるに春風の如く、世に聞達(ぶんたつ:名が知れわたる)を求めず、愛郷心に富んだ・・・」

  鬼も居り 仏も居りて 泡立草   迷道院

石灯籠があった場所には、こんな石が無造作に置いてありました。


大きな兎が、猫のお尻をかじろうとしてて、それを犬がじっと見ているような・・・。
見えません?


【頌徳三碑】



  


2018年09月09日

史跡看板散歩-108 辛科神社禊殿

吉井町神保を流れる大沢川に、「城橋」という橋が架かっています。


「辛科神社」を守護した豪族・神保氏の「植松城」があったので、「城橋」なんでしょう。


その橋の袂に、どういう訳か頂部が雨だれにでも穿たれたような道しるべが建っています。


「左辛科神社」と刻まれています。
「辛科神社」はここから西へ直線距離で1kmほどです。

「城橋」を渡ると道は右にカーブしますが、その正面の石垣の上に建っているのが「辛科神社禊殿(みそぎでん)」です。


一見、民家か集会所のように見えますが、軒下を見るとこんな彫り物があります。


史跡看板には、「辛科神社」から「禊殿」まで「茅の輪」を送る神事のことが書かれています。


「茅の輪神事」が行われるのは7月31日だということで、残念なことに今年はもう終わってます。

どこかに写真でもないかと探してみたら、「吉井町誌」に載ってました。


よくある「茅の輪くぐり」というのは、鳥居とか境内に茅の輪を立てておいて、参拝者が輪の中を潜るというものですが、「辛科神社」のはちょっと違うようです。

「吉井町誌」には、このように書かれています。
みそぎまつり、別称を「茅の輪の神事」といい、太陽暦前は六月三十日であったが現在は七月三十一日夜執行されている。
直径六尺(約1.8m)の「茅の輪」を神主が奉持して「かけながす大山本の五十鈴川、八百万代の罪は残らじ」と神歌を唱えつつ沿道の男女を輪くぐりさせて、その年の疾病災厄をはらい去る神事で、神輿の渡御とともに辛科神社を出発いたし、二粁東方の大沢川に至り、茅の輪を流し去る夏の夜の神事として古くより行われている。」

来年はぜひ行ってみたいなぁと思いました。


【辛科神社禊殿】


【辛科神社】



  


2018年09月02日

史跡看板散歩-107 弥勒寺の応処斎

吉井町穴岡「弥勒寺」に、横尾応処斎の作品はあるのでしょうか。
「弥勒寺」のHPを見てみましたが、応処斎のことはまったく書かれていませんでしたので、電話をかけてお聞きしてみました。

すると、「銘はないのだが応処斎の作品だと言われている掛け軸があって、お盆の時期だけ本堂に掛けます。」ということでした。
そこで、その日を待って行ってみました。

「弥勒寺」は、「応処斎墓碑」から西へ直線距離で1.2kmの所にあります。


参道をずーっと進んだ一番奥に、がっしりした造りの山門が南向きに建っています。


山門を潜って振り向くと、お寺の説明板。


きれいな芝地には、お寺の名前にふさわしく「弥勒菩薩」のブロンズ像があります。


立派な鐘楼の先に、本堂があります。



奥様のご案内で本堂に上げて頂くと、左右にぜんぶで十幅の軸が掛かっていました。



どうやら、亡者が地獄の十王に審判を受けている様子を描いたもののようです。
一見、新しそうに見えますが、つい最近表装をし直したんだそうで、明治期に寄贈した檀家数人の名前が絵の裏に書かれていたということです。

応処斎の銘はありませんでしたが、きっとそうなのでしょう。
これでやっと気が済みました。

まったく知らなかった「横尾応処斎渕臨」、この後どこかでその作品に出合えるかもしれません。
その時を楽しみにしています。


【弥勒寺】