「横尾応処斎渕臨」って?
と思いつつ、その史跡看板があるという吉井町片山へ行ってみました。
国道254バイパスの西吉井駅入口交差点を北に780mほど、もうこの先は行き止まりという所まで行くと、前方にお堂らしきものが見えます。
ここが横尾家の墓地で、入口正面に墓碑、その脇に史跡看板が建っています。
まず、何て読むんだ・・・でしょ?
「よこお・おうしょさい・えんりん」でよさそうです。
墓碑には、「應處齋教道淵臨」と旧字で刻まれています。
狩野派の絵師で、書家でもあったんですね。
墓地入り口にずらりと並んだ右から二番目の庚申塔の文字が、井池堂こと応処斎の書だそうです。
奉納額があるという「穂積神社」は、「横尾墓地」から南へ直線距離で850m。
すぐ近くなので、行って見ました。
すっかり赤錆びた看板にも、「村の逸材応処斉渕臨に依る横尾要次郎舞う式三番の奉額がある」と書かれています。
社殿を一回りしてみると、南側にすっかり退色しきった絵馬額がひとつありましたが、これなんでしょうか・・・。
吉井町郷土資料館発行の「吉井の史跡・文化財めぐり」に、
と書いてあるところをみると、どうやらこれらしいです。
何とも残念なことです。
錆びた看板に「当社(穂積神社)はこの地にあった火蛇(かじゃ)神社に・・・」と書いてあります。
「吉井の史跡・文化財めぐり」によると、その神社があったので、この地は「火蛇森」と呼ばれていたようです。
「火蛇」は落雷が水霊の変化(へんげ)である蛇体になったもので、雷神の怒りを鎮めまた雨乞いを祈って祀ったのが「火蛇神社」だということです。
本殿の側壁に蛇体が描かれているそうです。
これですかね。
アクリルの波板に覆われててよく見えませんが、龍のことみたいです。
庚申塔と甲子塔があるという「弘福寺」へも行ってみました。
六地蔵の向こう側に、たしかに「井池堂」と刻まれている二つの塔が並んで建ってはいましたが・・・。
これだけでは何とも消化不良というか欲求不満というか、もやもやした気分なので、もう一か所看板に書かれていた「辛科神社」へも行ってみることにしました。
次回に続きます。
と思いつつ、その史跡看板があるという吉井町片山へ行ってみました。
国道254バイパスの西吉井駅入口交差点を北に780mほど、もうこの先は行き止まりという所まで行くと、前方にお堂らしきものが見えます。
ここが横尾家の墓地で、入口正面に墓碑、その脇に史跡看板が建っています。
まず、何て読むんだ・・・でしょ?
「よこお・おうしょさい・えんりん」でよさそうです。
墓碑には、「應處齋教道淵臨」と旧字で刻まれています。
狩野派の絵師で、書家でもあったんですね。
墓地入り口にずらりと並んだ右から二番目の庚申塔の文字が、井池堂こと応処斎の書だそうです。
奉納額があるという「穂積神社」は、「横尾墓地」から南へ直線距離で850m。
すぐ近くなので、行って見ました。
すっかり赤錆びた看板にも、「村の逸材応処斉渕臨に依る横尾要次郎舞う式三番の奉額がある」と書かれています。
社殿を一回りしてみると、南側にすっかり退色しきった絵馬額がひとつありましたが、これなんでしょうか・・・。
吉井町郷土資料館発行の「吉井の史跡・文化財めぐり」に、
「 | 拝殿南側に横尾応処斎が慶応三年(1867)に描いた神楽舞の額が掲げてある。」 |
何とも残念なことです。
錆びた看板に「当社(穂積神社)はこの地にあった火蛇(かじゃ)神社に・・・」と書いてあります。
「吉井の史跡・文化財めぐり」によると、その神社があったので、この地は「火蛇森」と呼ばれていたようです。
「火蛇」は落雷が水霊の変化(へんげ)である蛇体になったもので、雷神の怒りを鎮めまた雨乞いを祈って祀ったのが「火蛇神社」だということです。
本殿の側壁に蛇体が描かれているそうです。
これですかね。
アクリルの波板に覆われててよく見えませんが、龍のことみたいです。
庚申塔と甲子塔があるという「弘福寺」へも行ってみました。
六地蔵の向こう側に、たしかに「井池堂」と刻まれている二つの塔が並んで建ってはいましたが・・・。
これだけでは何とも消化不良というか欲求不満というか、もやもやした気分なので、もう一か所看板に書かれていた「辛科神社」へも行ってみることにしました。
次回に続きます。
【横尾応処斎渕臨の墓碑】
【穂積神社】
【弘福寺】