2018年05月20日

史跡看板散歩-93 新町7区の諏訪神社

上武大学の東にある「諏訪神社」です。


ここには、史跡看板が2つ建てられています。



どちらの看板にも、「毘沙吐村」(びさどむら/びしゃどむら)という地名が出てきます。

変わった地名ですが、韮塚一三郎氏著「埼玉県地名誌 名義の研究」によると、
ビシャトのビシャは歩射(ブシャ)の転訛で、村の社の春祭りに歩射を行なったためにおこった。
なおビシャトのトは処の意である。
なお、歩射田はビシャのための行事の共有田をいう」
ということです。

その「歩射」が分からなかったのですが、こういうものらしいです。
御歩射(オビシャ)
騎射(ウマユミ)に対して、歩射(徒弓/カチユミ)で的を射る行事。
関東地方東部の神社で主に年頭に行われていた悪魔をはらい豊作を祈る農村行事。
弓で奉射的(ブシャマト)と呼ばれる大的を射て、当たった矢数でその年の天候や作物の出来具合を占った。 」
(ことばさあち)

「毘沙吐村」ですが、2つの看板に書かれていることを合わせると、「安政七年(1860)まで神流川の東、埼玉県上里町にあったが、弘化三年(1846)の大洪水で壊滅状態となり、神流川の西、新町下河原に村を移した。」ということです。

元禄十五年(1702)の絵図では、たしかに神流川の東に描かれています。


絵図で見る通り、烏川神流川の合流点に突き出しているような村で、まさに「歩射」によってその年の天候を占い、悪魔を祓わずにはいられない「処」だった訳です。

「毘沙吐村」が如何に川に翻弄されたか、「新町町誌」から、拾ってみましょう。
毘沙吐村は、古くは45町歩の耕地を所有していたが、年々の洪水による川欠け(土地流失)の連続によって、承応四年(1655)の検地帳によると、24町8反8畝24歩と約半分に減少していた。
その後の洪水によって17町歩の耕地を失い、さらに文政七年(1824)には畑2町6畝を洪水によって失い、この段階で耕地は5町2反2畝24歩と、(略)八分の一に減少している。
このような村柄に追い詰められた毘沙吐村は天保十三年(1842)には、次に掲げる隣接村々へ出作することになった。(略)
当時の村の耕地面積5町2反歩、出作面積22町3反歩余という極めて不均衡の所有形態であった・・・」

そこへ追い打ちをかけたのが、弘化三年(1846)の大洪水です。
この年の6月中旬から7月上旬にかけて大雨が降り続き、実に66%の土地が流失し、神流川に面した家25軒、烏川通りの家2軒が濁流に呑まれました。
その年の10月、村民は神流川対岸の笛木新町字下河原への全村移住を決意します。

笛木新町側との交渉や、代官への願書提出を経て、岩鼻陣屋から正式に移住許可が出たのは、嘉永元年(1848)のことでした。
そしてまず龍光寺諏訪神社を遷座し、新しい土地での平安な暮らしを祈ったのです。

しかし、全村民が移住するというのはそう簡単ではありません。
移住を逡巡する村民もいる中、安政三年(1856)またもや神流川の濁流が村を襲い、残っていた家の内4軒が流されます。
全村民の移住が完了したのは安政四年(1857)、実に9年の歳月が必要でした。

時は明治に変わり、行政区や税制が改められると、「毘沙吐村」にまた問題が持ち上がります。
上野国新町字下河原に移住しながら、武蔵国賀美郡毘沙吐村となっているのは名実に反し不都合であると、新町側からの合併話が出てきます。

毘沙吐村側では今まで通りにしたいと武蔵国の方に嘆願をしますが、新町側は明治九年(1876)から毎年のように県や郡に願書を出し続け、ついに明治十二年(1879)合併が決定します。

合併後は「川岸町」と改称され、「毘沙吐村」という地名は失ってしまうことになりました。
明治十八年(1885)の「二万分一迅速図」には、「旧毘沙吐村」と表記されています。


この歴史が、「諏訪神社」境内の「沿革之碑」(昭和十年/1935建立)に刻まれています。


新町へ移住した「毘沙吐村」はこうして消滅しましたが、実は「毘沙吐」という大字は、まだ埼玉県側に残っているんです。


現在だれも住んではいませんが、平成二十二年(2010)時点では2世帯あったらしいです。

平成22年(調査日 2010年10月1日)の国勢調査(総務省統計局)による

ということで、史跡看板の主題は「海老虹梁」「笠付庚申塔」なんですが、なぜか「毘沙吐村」の方がすごく気になった迷道院でした。


【新町七区の諏訪神社】



前の記事へ<< >>次の記事へ
  


2018年05月13日

史跡看板散歩-92 柳茶屋の芭蕉句碑

新町宿の東の端にある「八坂神社」です。


その「八坂神社」の鳥居の横に、「芭蕉句碑」と史跡看板が建っています。



近くには、史跡看板は要らなかったんじゃないの?と思うくらいの、立派な説明看板が建っています。




双方の看板を見ると、芭蕉がこの場所にあったという「柳茶屋」に来て句を詠んだようにも思えちゃいますが、そうではないみたいです。

江戸時代の俳人・柏木素龍という人がまとめた句集「炭俵」に、芭蕉庵によく通っていた俳人たちと詠み交わした内の一句として載っています。
傘に 押わけみたる 柳かな

こんな意味だそうです。
春雨のしとしとと降る中を、傘をさして外出していると、道端に大きな柳の木があり、もう若芽がだいぶんふくらんで、道の方にまで枝が垂れている。
ほかの樹木の枝なら、傘が破れるので避けて通るところだが、柔らかそうな、しなやかな柳の枝なので、わざと開いたままの傘で、垂れている柳の枝を押し分けてみた。
傘の紙にふれる柳の小枝、はらはらと落ちる雨雫、まさに雨中の春の柳であることだ。
季語は〈柳〉で春。〈押わけみたる〉の〈みたる〉は、〈してみた〉の意で、〈押し分けて〉柳をつくづくと見たというのではあるまい。」
(「新編日本古典文学全集 松尾芭蕉集」小学館)

看板によると、「柳茶屋の芭蕉句碑」は寛政五年(1793)~天保五年(1834)に、「柳茶屋」のそばに建てられたとあります。

「中山道分間延絵図」では、「八坂神社」「天王」と表記されてます。
「延絵図」は、寛政十一年(1799)に実地検分されて、文化三年(1806)に完成されたというんですが、「柳茶屋」らしきものは見当たりません。


「芭蕉句碑」も、けっこう転々としたらしいです。
「新町明治百年史」に、こんなことが書かれています。
(芭蕉句碑の)建主の湛水は医者で小淵健夫氏の先祖、白水は笛木玄次郎氏先祖で共に郷土の俳人である。(略)
明治の末に藤岡市の浅見作兵衛翁が、行楽園の築庭をする時、神流川近い田野に倒れていた碑石を発見し、其の地主から譲りうけ、行楽園の林中に建てたのがこの句碑だ。
浅見翁歿後昭和26年、藤岡市、原歯科医院主・原徳人氏が譲りうけて、氏の庭園に移し、句会を催して愛蔵していた。
当町史編纂委員はこれを聞き、町の文化財として永久に新町で保存したい希望のところ、原氏はこの気持ちをよく理解されすすんで寄贈された。
(昭和29年/1954)地元有志の奉仕作業で八坂神社の境内中山道に面して建てられた。」

昭和四十二年(1967)八坂神社境内に児童遊園地が設けられたということで、面白いものが滑り台に這い上がってます。


感心したのは、社の前にポリ箱が置いてあって、その中に「八坂神社」の謂れを書いた説明文が入っていたことです。


なかなかやるもんです、新町


【柳茶屋の芭蕉句碑】



  


2018年05月06日

史跡看板散歩-91 新町宿高札場跡

「ハラダのラスク」発祥の中山道店の斜向かいに、同店の駐車場がありますが、そこに「高札場跡」の史跡看板が建っています。



看板に「高札場」の写真が載っていますが、これは新町宿のものではなさそうです。
たぶん、信州・追分宿のものだと思うのですが、注釈を付けておかないとまずいのではないでしょうか。

史跡看板が建てられる前にも、「高札場跡」を示す標柱は建っていたのですが、民家の敷地内でした。


その標柱もあたらしくなっていますが、前あった標柱には高札場の大きさが、
 高さ一丈二尺(約4m)
 長さ三間(約5.5m)
 巾一間(約2m)
と記載されています。
追分宿の高札場は、
 高さ九尺(約2.7m)
 長さ九尺(約2.7m)
 巾一間(約1.8m)
だそうですから、
新町宿のはけっこう大きかったんですね。

「中山道分間延絵図」に、新町宿「高札場」が描かれています。


「高札場」の左側(倉賀野側)が「落合新町」、右側(本庄側)が「笛木新町」です。

もともと、この両町は「落合村」「笛木村」という独立した村でしたが、慶安四年(1651)に両村が伝馬役を命ぜられて宿場として成立し、「新町」とか「新宿」とか呼ばれたようで、正式に「新町宿」となったのは元文年間(1736~41)だそうです。(日本歴史地名体系)

中山道の整備が終わったのは慶長九年(1604)頃と言われますから、「新町宿」はまさに「新しい宿場」ということになります。

その「新町」が、古き宿場の面影を残していて、街道歩きを楽しむ人の姿が絶えない町になっているのは、嬉しいことです。


【高札場跡】