2018年04月22日

史跡看板散歩-89 見通し灯籠

前回、「高瀬屋」に泊まった小林一茶のエピソードを記事にしましたが、その話に出てくる灯籠が、新町宿の東外れに建っています。


史跡看板は、そのすぐ脇に建っています。


看板の後半に書いてありますが、この灯籠は「専福寺」の住職が発願人となって再建されたものです。
それで、一茶に寄附をせがんだ男が「専福寺」の提灯を持っていたという訳です。

また、看板には「常夜燈が再建されたのは文化十二年」と書かれていますが、その後この灯籠は他の地へ売却されてしまったため、今建っている灯籠は昭和五十三年(1978)に再び復元されたものです。
その辺のことが、足元の石碑に刻まれています。


後半の部分です。
然し時流の転変は激しく、明治二十四年に髙崎市大八木村へ移されてしまった。
その後新町の有志達は、之を惜しみ幾度か復帰の交渉を重ねたがその熱意は報われなかった。
多野藤岡ライオンズクラブは創立五十周年の記念行事として見通灯篭の再建を企て、灯篭を原形に復し、再び交通安全のシンボルとし、かつは古き新町宿を偲ぶべく原地に近い国道十七号線の要所に建立して長年の要望を実現された。」

なぜ灯籠が大八木村へ移されたのかは記されておらず、表現も微妙にぼかしてる感じです。

相手方の大八木村にはもう少し詳しい話が残されていて、昭和三十二年(1957)発行の「中川村誌」の中に、こんな記述があります。
大八木の部落の中心点から、村の鎮守諏訪神社の参道入口に、屹立二十尺近い石造の高燈籠がある。
これが、先年多野郡新町から腕節の強い連中が一団、トラックで乗付て来て強談判をしたという、一茶・詩仏両大家と因縁のある、元上武国境中山道新町川原の北岸に建っていた見通し燈籠(燈台)で、浮世絵の大家渓斎永泉の木曽路道中絵にまで描かれた交通史上の貴重な文化財だったのである。(略)

一体そのような新町宿の文化財がどうして本村に来てるのかというと、それは明治廿四年の話、大八木で石燈籠が欲しいことがあり、人の噂に新町に廃物があるときいて、正常のルートを経ずに、一種のボスの手から包金で買って来た掘出し物、金毘羅大権現や文化何年は削り取って、六尺近い切石積の台上に据えると実に堂々たる威容。

今では火袋の中に電燈を引込んで、文字通りの常燈明台として村人の暗夜行路を照らしてる訳。
最近郷土意識熱が高まるにつれて、新町の文化人がこの燈籠に強い執着をもつに至ったのも尤もなことであろう。」

これが、大八木に移されたかつての新町宿「見通し燈籠」、現在は諏訪神社参道入口の「高燈籠」です。


たしかに大八木「高燈籠」には、文字を削り取った痕跡があります。


それにしても、こんな貴重な「見通し灯籠」が、なぜ新町で廃物になっていたのでしょう。

そのことについては、昭和四十六年(1971)発行の「新町明治百年史」に、こう書かれています。
明治2年、岩鼻県は神社に廃仏命令を伝える。
群馬県令では、道路わきの信仰物撤去と、民間信仰の禁止も命じた。
このため神社に祭られた仏教系の仏像なども、全部撤去され焼去された。(略)
中山道の道路に建てられてあった新町宿の見通し燈籠も、当時の人達は県令により取くづし、畑の端にでも積み重ねておいたものと思われる。

明治となって欧米崇拝の全盛期を控え、文明開化で洋風を積極的に取り入れようとして英文学が盛んな時代、和歌・俳諧などはあまり顧みられない。
俳人一茶も一般にまだ知られていない。
見通し燈籠には一茶の名は見えぬ。
一茶の七番日記を見なければ、新町宿の見通し燈籠と一茶の関係はわからない。

俳人一茶を知らない、その七番日記も見なかったらしい当時の人達が、見通し燈籠を現今さわがれている程の貴重な文化財と知る由もない。
全く知らなかったので、明治24年金20円で石原の石工とかに売却したものと思う。」

新町の人も大八木の人も、一茶ゆかりの石灯籠とは知らずに畑に放置し、売り飛ばし、文字を削り取ったのだろうという訳です。
知らなければ、そんなもんでしょうね。

それでも、物を使い回す文化が残っていた時代だから、まだよかったのだと思います。
今だったら、跡形もなく粉砕されてお終いだったでしょう。

「高崎市名所旧跡看板」によって高崎の歴史を知る人が増え、貴重な史跡がこれ以上失われることがないよう、願ってやみません。


【見通し灯籠】


【大八木高燈籠】



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2018年04月15日

史跡看板散歩-88 高瀬屋跡

「小林本陣跡」から200mほど行くと、小林一茶が泊まったという旅籠「高瀬屋」があった場所です。



史跡看板の隣には、立派な石の説明板が建っています。


双方によって原文と解読文が読み比べられるので、なかなか面白いです。
裏面には、「建碑の記」というのが刻まれています。


それを見ると、「最近まで旅籠屋の姿を遺していた」とあります。
探してみると、平成元年(1989)発行の「新町町誌」に、かろうじてその姿が載っていました。


一茶「七番日記」というのは文化七年(1810)~十五年(文政元年/1818)に書かれた日記で、その中に、父の墓参のために江戸から故郷の信州柏原へ行く途中の、「高瀬屋」でのエピソードが記されています。

一茶江戸を発ったのは文化七年五月十日、一茶、四十八歳の時です。
新暦では六月なので、梅雨時の天気を見ながら延ばし延ばしの出立だったようですが、結果は「災いの日を選りたるよう也」と嘆いています。
出立したその日に上尾でさっそく雨にあい、合羽を買ってさらに歩いて鴻巣宿で一泊します。

江戸日本橋から鴻巣宿まで12里8町6間(約48.0km)ということですから、かなり頑張って歩いたんですね。
翌十一日も雨で、その中を鴻巣宿から新町宿まで11里22町34間(約45.7km)の距離を歩いています。
本当は、倉賀野宿くらいまで行きたかったんですかね。

それほど頑張って歩いてきたのに、雨で川留めにあい、「道急ぐ心も折れて」と言っています。
そのうえ、「雨の疲れにすやすや寝て」いたら、「夜五更(よるごこう)のころ」にいきなり起こされて寄附をせがまれたというんですから、さぞかし、むっとしたことでしょう。

史跡看板では「夜五更」「午前四時」と言っています。
そんな真夜中にと思っちゃいますが、少し解説が必要だと思いますので、ちょっと理屈っぽい話になりますがお付き合いください。

江戸時代の人は、暗くなれば「夜」、明るくなれば「朝」という暮らしでそれほど不便はなかったのでしょうが、宿場ではそうもいきません。
木戸の開け閉めや、夜番の見回りがあるので、その時刻をはっきりしておく必要があります。

そこで、夜を「暮れ六つ」の鐘で、朝を「明け六つ」の鐘で知らせていました。
そして、その「夜間」を5等分して「更」とし、「更」ごとに夜番が交替して拍子木を打ちながら夜回りしていた訳です。
「交替」という字を替」とも書き、「夜がふける」「夜がける」と書くのも、この「更」からきているのでしょう。

ということで、「更」というのは、何時から何時までというをもっている訳です。
しかも季節によって「夜」の長さは変わりますから、5等分した長さも時刻も季節によって変わりますので、「夜五更」を一概に「午前四時」とは言えないのです。


では、一茶「高瀬屋」に泊まった時の「夜五更」は何時から何時なのでしょう。
一茶が泊まった旧暦の5月11日は、新暦では6月初旬から中旬、この頃の日の入りは午後7時、日の出は午前4時半ぐらいです。(国立天文台「前橋の日の出入り」より)

ただ、「暮れ六つ」の鐘は日の入りから30分後くらい、「明け六つ」の鐘は日の出の30分前くらいに撞くといわれています。

ですので一茶「高瀬屋」に泊まった時は、「暮れ六つ」が午後7時半、「明け六つ」が午前4時ということになります。
この間を5等分すると、5番目の更、「五更」は、「午前2時18分~4時」となります。

さて、一茶は、その間の何時ころ起こされたんでしょうか?

ここからは迷道院の推測ですが、一茶「明け六つ」の鐘を聞いてないんじゃないかと思うんです。
聞いていれば、「五更のころ」なんて言わずに、「明け六つ前」とか「明け六つの頃」とか言ってるでしょうから。

じゃ、「明け六つ」前に押し掛けてきたんでしょうか。
それはいくら何でも、それはいくら何でも、ご容赦下さいです。

おそらくですが、「明け六つ」の鐘が鳴るのを待って、ただし宿を早立ちされる前に、やって来たんだと思うんです。

きっと一茶は、「明け六つ」の鐘が鳴ったのも気付かぬほど疲れて眠っていたんだと思うんですが、みなさんどう思います?

ところで、一茶を起こしに来た連中は、なぜ「専福寺」の提灯を持っていたのでしょう。

そのお話は、次回ということに。


【高瀬屋跡】



  


2018年04月08日

史跡看板散歩-番外編 小判供養塔

「小林本陣跡」のすぐ南に、「宝勝寺」というお寺があります。


このお寺の境内に、「小判供養塔」というのがあるというので行ってみました。

それは、「八幡神社」との境、南の角にあり、まさに小判の形をしています。


右側面には「昭和四年八月十五日發掘/小判三九六枚/一分百三十三枚」とあり、左側面には「金壹百圓也/當町助成會寄附」、そして施主四人の名前が刻まれています。

これは新町のある家の庭から、小判396枚と一分銀133枚が発掘されたというのが、事の始まりでした。
この事件(?)は、翌日の東京朝日新聞に二段抜きの見出しで伝えられています。


地元の上毛新聞は、一日遅れの17日夕刊に、ほとんど同じ内容で掲載しています。
ま、さすが地元新聞で、東京朝日の「藤枝署」という誤りを、きちんと「藤岡署」と直してはいますが。


小判が出てきたというお菓子屋さんはもうありませんが、どうやらこの辺にあったようです。


新聞に載ったことで、大騒動になります。
昭和四十八年(1973)に発行された「新町明治百年史」で見てみましょう。
当時国内は不景気の真最中、各新聞紙は3~4段ぬきで報じ、各新聞とも地方版だけでなく、全国版にも登載した。
そのためか今まで行先不明の旧地主や、旧借家人まで、数日を過ぎぬうちに集った。
町の人達は小判の発見にもびっくりしたが、よくもこんなに早くこの人達が集まったものだと驚いた。
結局警察署が中に入り、小判を配分して納まった。
この人達は小判供養塔を作って宝勝寺に供養建立した。」

当時は、地下三尺以上深い所から発掘されたものは、地主と発見者の権利ということになっていたそうです。
(小さな町の物語 新町)
一万円を手にした人たちが、百円の供養塔を建立したということですね。

騒ぎはこれで収まったのですが、そもそもこの金はどういう金だったのかということです。
「こんな大金を、当時の町人たちが持てるはずがない。」
(新町町史)
「この家は、徳川時代、岡引某が住んでいた。真面目に貯えた金なら、己の家の床下にでも埋めそうなものを、庭のしかも隣家との境目に埋められていたとは変だ。」
(新町明治百年史)

様々な噂の中で、もっともらしく語り伝えられているのが、新町宿で盗まれた加賀藩の御用金ではないかという話です。

「新町明治百年史」に載っています。
享和元年(1801)九月二十一日、金沢百万石前田侯の勘定方、土師清太夫一行が御用金を江戸に護送中、新町宿久保本陣に宿泊した。
一行の主なる役人もあと三日で江戸に着く。
やれやれ一休みと清太夫に連れられ、笛木宿のある茶屋で一杯やっていたところ、一家臣が顔色を変えて注進、御用金の内盗難で失ったものありと聞いて、清太夫は切腹した事件があった。
盗難の金高は何程か不明、いや盗難も金高もすべて一切がなかったように固く口止めされた。
急ぎ国元からこの不足分を取りよせ江戸に送り、表面は事なきを得た様だ。
切腹した勘定方は、笛木宿浄泉寺に土葬、(略)
当時の浄泉寺古文書には「遺品に御かご一丁、大小刀一振づつ、石高五百石、浄泉寺表門傍らの家にて急死す。大小を売り埋葬、小刀は笛木宿の某氏が買いたいと持参して返金なし」と記録されてあるのみ。」

たしかに、「浄泉寺」の本堂左脇には、土師清太夫の墓石があります。




戒名は「高智院殿勇雄義仰居士」、左側面には「加州金澤/土師清太夫㕝(こと)、右側面には「享和元年酉年九月廿一日」と刻まれています。

さて、「小判供養塔」のミステリー、あなたはどう解きますか?


【小判供養塔】


【土師清太夫の墓】



  


2018年04月01日

史跡看板散歩-87 新町宿小林本陣跡

前回の「弁天橋」から東へ125mほど行った所に、今回の「小林本陣跡」があります。
この辺から見る風景は、なんとなく往時の中山道を偲ばせるような、いい雰囲気を漂わせています。


史跡看板は、昭和五十年(1975)に建てられた標柱の隣に建っています。



看板に「小林本陣」の間取図が掲載されていますが、「新町町史」には裏門まで描かれた図が載っていました。


「小林本陣」は建坪135坪余で門構えと玄関を備え、もうひとつの「久保本陣」は建坪42坪で玄関だけ、「三俣脇本陣」も玄関だけでしたが建坪は126坪あったそうです。
(中山道分間延絵図 第四巻解説)

「中山道分間延絵図」を見ると、「脇本陣代」というのもあったようで、二軒描かれています。
「本陣」「脇本陣」だけでは賄いきれない時に、臨時的に大きな旅籠屋をあてたのではないかということです。


平成七年(1995)発行の「上州路 No.251」には、「天保十四年(1843)書上帳」による、いわゆる「中山道上州七宿」の各宿の規模が一覧で掲載されています。
これを見ると、新町宿の旅籠数は、倉賀野宿よりも多かったんですね。
宿本陣脇本陣旅籠人口
新  町21431,437
倉賀野12322,032
高  崎00153,235
板  鼻11541,422
安  中1217348
松井田22141,009
坂  本2240732

新町宿の旅籠の多さは、街道の東西を神流川温井川、そして烏川が横断し、ちょっとした大雨で川が渡れなくなることが多かったこととも関係しているのでしょうか。

温井川烏川の合流点近くの林の中に、明治四十三年(1910)の大洪水を伝える記念碑が建っています。



原文は漢字ばかりで読みにくいので、「新町町史」に載っている要約文に頼りましょう。
此の地は烏川の本流に臨み天神川岸と呼ばれ、新町随一の要害の地であったが、弘安年間に(1278~1287)住民の夢枕に、虚空蔵菩薩が現れ、洪水の難から守るため汚れのない地域を此処に求めて祠り治水の工事を施せと宣託あり、住民は謹んで虚空蔵菩薩を勧請した。
この時は実に今から640年前であると刻している。
明治四十三年(1910)七月下旬より大雨が連日にわたりやまず、八月十日怒涛は土をまきおこし、大地は海の黄色の龍の如く、大波は渕に強く当たってくだけたが、虚空蔵の地は崩壊をまぬかれ、町民は安泰であったのは正に、これは虚空蔵菩薩の加護によるもの、仏徳の深きこと測り知ることが出来ぬと、世話人が謀って再興を企て、有志の寄附を仰いで境内の荒廃を修理し、大正八年三月十三日に尊像を建立した。」

川に挟まれた新町宿を水の禍から護る「虚空蔵菩薩」は、いまも散歩の途中にお参りしている人の姿を見かけます。



歴史は、つながっているのですね。


【小林本陣跡】


【虚空蔵堂】