2018年04月08日

史跡看板散歩-番外編 小判供養塔

「小林本陣跡」のすぐ南に、「宝勝寺」というお寺があります。


このお寺の境内に、「小判供養塔」というのがあるというので行ってみました。

それは、「八幡神社」との境、南の角にあり、まさに小判の形をしています。


右側面には「昭和四年八月十五日發掘/小判三九六枚/一分百三十三枚」とあり、左側面には「金壹百圓也/當町助成會寄附」、そして施主四人の名前が刻まれています。

これは新町のある家の庭から、小判396枚と一分銀133枚が発掘されたというのが、事の始まりでした。
この事件(?)は、翌日の東京朝日新聞に二段抜きの見出しで伝えられています。


地元の上毛新聞は、一日遅れの17日夕刊に、ほとんど同じ内容で掲載しています。
ま、さすが地元新聞で、東京朝日の「藤枝署」という誤りを、きちんと「藤岡署」と直してはいますが。


小判が出てきたというお菓子屋さんはもうありませんが、どうやらこの辺にあったようです。


新聞に載ったことで、大騒動になります。
昭和四十八年(1973)に発行された「新町明治百年史」で見てみましょう。
当時国内は不景気の真最中、各新聞紙は3~4段ぬきで報じ、各新聞とも地方版だけでなく、全国版にも登載した。
そのためか今まで行先不明の旧地主や、旧借家人まで、数日を過ぎぬうちに集った。
町の人達は小判の発見にもびっくりしたが、よくもこんなに早くこの人達が集まったものだと驚いた。
結局警察署が中に入り、小判を配分して納まった。
この人達は小判供養塔を作って宝勝寺に供養建立した。」

当時は、地下三尺以上深い所から発掘されたものは、地主と発見者の権利ということになっていたそうです。
(小さな町の物語 新町)
一万円を手にした人たちが、百円の供養塔を建立したということですね。

騒ぎはこれで収まったのですが、そもそもこの金はどういう金だったのかということです。
「こんな大金を、当時の町人たちが持てるはずがない。」
(新町町史)
「この家は、徳川時代、岡引某が住んでいた。真面目に貯えた金なら、己の家の床下にでも埋めそうなものを、庭のしかも隣家との境目に埋められていたとは変だ。」
(新町明治百年史)

様々な噂の中で、もっともらしく語り伝えられているのが、新町宿で盗まれた加賀藩の御用金ではないかという話です。

「新町明治百年史」に載っています。
享和元年(1801)九月二十一日、金沢百万石前田侯の勘定方、土師清太夫一行が御用金を江戸に護送中、新町宿久保本陣に宿泊した。
一行の主なる役人もあと三日で江戸に着く。
やれやれ一休みと清太夫に連れられ、笛木宿のある茶屋で一杯やっていたところ、一家臣が顔色を変えて注進、御用金の内盗難で失ったものありと聞いて、清太夫は切腹した事件があった。
盗難の金高は何程か不明、いや盗難も金高もすべて一切がなかったように固く口止めされた。
急ぎ国元からこの不足分を取りよせ江戸に送り、表面は事なきを得た様だ。
切腹した勘定方は、笛木宿浄泉寺に土葬、(略)
当時の浄泉寺古文書には「遺品に御かご一丁、大小刀一振づつ、石高五百石、浄泉寺表門傍らの家にて急死す。大小を売り埋葬、小刀は笛木宿の某氏が買いたいと持参して返金なし」と記録されてあるのみ。」

たしかに、「浄泉寺」の本堂左脇には、土師清太夫の墓石があります。




戒名は「高智院殿勇雄義仰居士」、左側面には「加州金澤/土師清太夫㕝(こと)、右側面には「享和元年酉年九月廿一日」と刻まれています。

さて、「小判供養塔」のミステリー、あなたはどう解きますか?


【宝勝寺】


【浄泉寺】