2018年04月01日

史跡看板散歩-87 新町宿小林本陣跡

前回の「弁天橋」から東へ125mほど行った所に、今回の「小林本陣跡」があります。
この辺から見る風景は、なんとなく往時の中山道を偲ばせるような、いい雰囲気を漂わせています。


史跡看板は、昭和五十年(1975)に建てられた標柱の隣に建っています。



看板に「小林本陣」の間取図が掲載されていますが、「新町町史」には裏門まで描かれた図が載っていました。


「小林本陣」は建坪135坪余で門構えと玄関を備え、もうひとつの「久保本陣」は建坪42坪で玄関だけ、「三俣脇本陣」も玄関だけでしたが建坪は126坪あったそうです。
(中山道分間延絵図 第四巻解説)

「中山道分間延絵図」を見ると、「脇本陣代」というのもあったようで、二軒描かれています。
「本陣」「脇本陣」だけでは賄いきれない時に、臨時的に大きな旅籠屋をあてたのではないかということです。


平成七年(1995)発行の「上州路 No.251」には、「天保十四年(1843)書上帳」による、いわゆる「中山道上州七宿」の各宿の規模が一覧で掲載されています。
これを見ると、新町宿の旅籠数は、倉賀野宿よりも多かったんですね。
宿本陣脇本陣旅籠人口
新  町21431,437
倉賀野12322,032
高  崎00153,235
板  鼻11541,422
安  中1217348
松井田22141,009
坂  本2240732

新町宿の旅籠の多さは、街道の東西を神流川温井川、そして烏川が横断し、ちょっとした大雨で川が渡れなくなることが多かったこととも関係しているのでしょうか。

温井川烏川の合流点近くの林の中に、明治四十三年(1910)の大洪水を伝える記念碑が建っています。



原文は漢字ばかりで読みにくいので、「新町町史」に載っている要約文に頼りましょう。
此の地は烏川の本流に臨み天神川岸と呼ばれ、新町随一の要害の地であったが、弘安年間に(1278~1287)住民の夢枕に、虚空蔵菩薩が現れ、洪水の難から守るため汚れのない地域を此処に求めて祠り治水の工事を施せと宣託あり、住民は謹んで虚空蔵菩薩を勧請した。
この時は実に今から640年前であると刻している。
明治四十三年(1910)七月下旬より大雨が連日にわたりやまず、八月十日怒涛は土をまきおこし、大地は海の黄色の龍の如く、大波は渕に強く当たってくだけたが、虚空蔵の地は崩壊をまぬかれ、町民は安泰であったのは正に、これは虚空蔵菩薩の加護によるもの、仏徳の深きこと測り知ることが出来ぬと、世話人が謀って再興を企て、有志の寄附を仰いで境内の荒廃を修理し、大正八年三月十三日に尊像を建立した。」

川に挟まれた新町宿を水の禍から護る「虚空蔵菩薩」は、いまも散歩の途中にお参りしている人の姿を見かけます。



歴史は、つながっているのですね。


【小林本陣跡】


【虚空蔵堂】