2018年03月25日

史跡看板散歩-86 弁天島の芭蕉句碑

旧柳瀬橋を渡って、中島(漆の内)の信号を左へ入るのが、旧中山道です。


そこから2.7kmほど行った所に、温井川(ぬくいがわ)に架かる「弁天橋」があります。

「弁天橋」の名の通り、右手上流側の橋下に「弁財天」が祀られています。


鳥居の手前に、「弁財天由来」の説明版が建っています。


現在は川岸のこの場所は、看板にあるように以前は川の中州だったようです。
寛政十一年(1799)に実地検分され文化三年(1806)に完成されたという「五街道分間延絵図(ぶんけん・のべえず)」のひとつ、「中山道分間延絵図第四巻 本庄・新町・倉賀野」を見ると、たしかに中州です。


「芭蕉句碑」と史跡看板は、鳥居を潜った左手に建っています。



句碑に刻まれた文字は、看板とはちょっと異なるようです。


一行目の「はせを」は、「ばしょー」つまり「芭蕉」です。
句の意味は、
「結ぶ(水をすくう)より早く、冷たさが歯に沁みるような泉だなぁ」
ってな感じでしょうか。

「泉」というのが夏の季語だそうですから、夏の焼けつくような熱さの中、延々と街道を歩いてきての句なのでしょう。
もちろん、この場所で詠んだ句ではないでしょうが、川の中州の「弁天島」の木陰に建てる碑としては、よくもぴったりの句を選んだものだと思います。

この句碑を建てた久保一静は、新町宿に二軒あった本陣のひとつ「久保本陣」の当主で、名主役も務めていました。
文化九年(1812)生まれで、幕末から明治にかけて地方の俳人として活躍し、明治二十七年(1894)八十四歳で没しています。(「小さな町の物語 新町」「中山道分間延絵図 第4巻解説」)

「弁財天公園」の街道の反対側に、こんなモニュメントが建っています。


その由来を書いた看板が、隣に建っています。


看板の字はやや風化して読みにくくなっていますが、モニュメントの裏側には同じ文がしっかり刻まれていますので、いつまでもその意義が伝えられていくでしょう。

歴史を大切に残していこうという、新町という町の文化度の高さが感じられます。


【弁天島の芭蕉句碑】



  


2018年03月18日

史跡看板散歩-85 木部駿河守範虎廟所

「安楽寺」に続き、木部町「心洞寺」です。
参道入口に、「木部城主之廟所」という石柱が建っています。


史跡看板は、山門を潜ったすぐ左に建っています。



そこを左に折れた奥が、木部城主・木部駿河守範虎の廟所と家臣の墓です。


看板には「五輪塔」とありますが、これって「五輪塔」なのかなぁ・・・。


家臣の墓の方にあるのが「五輪塔」じゃないかと。
しかも、範虎のより立派に見える「宝篋印塔」もあるし・・・。


木部氏については、内山信次氏著「徐徐漂(ぶらり)たかさき」にこうあります。
木部氏は石見の国(島根県)の木部郷の出で、源頼朝の弟範頼の孫、吉見義世の子孫とされています。
戦国も終りに近い頃、古河公方成氏の縁をたよりに、関東に移りました。
範時(或は範次)は、はじめ山名八幡宮の裏山の一つ北の山の、鎌倉時代のはじめ新田義重の子山名範義の築いた、山名城の址に入ったようですが、当時は山城から平城に移る時代でしたので、平地に城を築いて、木部に移り、山名は戦時の要害城として利用したようです。
そのことは、現在の安楽寺は「山ノ上」から、心洞寺は「山名の金清寺平」から、木部氏の懇望により、天正の初めこの地に移ったとの伝えが裏付けています。」

木部氏が「木部館」から「木部城」へ移り、跡地へ「心洞寺」を移したのが天正元年(1573)という訳です。


看板の最後に、「木部姫伝説」の話が出てきます。
これは、いつも拝読している「南八幡の案内人」さんのブログに、紙芝居付きで紹介されていますので、そちらをご覧ください。
   ◇木部姫伝説(紙芝居民話)(南八幡の案内人)

「心洞寺」の石垣と土塁には、雷神が祀られているそうです。


その石垣に、「雨乞い祈願」のことを刻んだ石碑が埋め込まれています。


「心洞寺」でひときわ目を引くのが、この山門です。


正徳五年(1715)の火災の時、焼失を免れたものだそうで。

この看板では、「心洞寺」は文正元年(1465)建立となっている。

山門の天井では、龍が睨みをきかしています。


屋根の上でも、鬼が睨んでいます。


ところで、鬼の頭の上の字が読めません。
旁が「亀」なら、「秋」の異体字らしいんですが・・・。
どなたか、ご教示くださいませ。


【心洞寺】



  


Posted by 迷道院高崎at 07:37
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2018年03月11日

史跡看板散歩-84 お染の墓

木部町「安楽寺」
道を挟んだ墓地に「お染の墓」があります。


墓地の向い側には、とても可愛くて、とてもユーモラスなお地蔵様が。


史跡看板は、とても分かりやすい場所に建っています。



「お染って誰?」と思っていた方、この看板でようやく「あぁ、あのお染か。」とお分かり頂いたでしょうか。
それとも、まだ「お染久松・・・?」って感じでしょうか。

浄瑠璃や歌舞伎、あと映画にもなったらしいんですが、私はいずれも見てません。
だけど、「お染久松」は何故か何となく知ってるんですよね。
もしかすると、子どもの頃に聞いた、この歌からでしょうか。


「お染の墓」へは、案内板が適所に建てられていて、迷わずに行くことができます。
「お染の墓」という表示板も貼ってあります。
逆にいうと、それらが無かったら、まず分かりません。


墓石を見ても、「お染」という文字は刻まれていません。
それに、豪商の娘の墓にしては、小さ過ぎるようにも思います。
本当に、これ、「お染の墓」なんでしょうか?

実際の心中事件が起きたのは、宝永四年(1707)とも、宝永五年(1708)とも、宝永七年(1710)とも、まぁ諸説あるようです。
木部の「お染の墓」がいつ建てられたものか、墓石での視認はできなかったのですが、内山信次氏著「徐徐漂(ぶらり)たかさき」によると、元禄十四年(1701)とあるようで、「お染久松」が心中した年よりも前のもの、ということになります。

と言ってしまうと身も蓋もない話になっちゃうのですが、まぁ、それはそれ。
青森には、「キリストのお墓」もあるそうで、伝承・伝説はそれでよい、というのが迷道院の考えです。

「お染の墓」、いつまでも語り継いでいって欲しいものです。

ところで、この墓地で思いがけない人のお墓に出会えました。


「新倉賀野八景」の作者・飯嶋仲秋氏のお墓です。
しかも、これを建てたのは、下斉田小栗又一の墓を取材中に出会った、田口一之氏です。
その田口氏の環濠屋敷の表札に、飯嶋仲秋氏の名前を発見して驚いたのが、4年前でした。

ご縁の糸は、つながっているものですねぇ。


【「お染の墓」史跡看板】



  


Posted by 迷道院高崎at 09:21
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2018年03月04日

史跡看板散歩-83 山ノ上地蔵尊

山名町の山の上にある、「山ノ上地蔵尊」





「山名八幡宮」の方から来ると下の写真のような向きになって、地蔵尊の三本辻を左に曲がるのが看板にある「古の鎌倉街道」で、上信電鉄西山名駅の方へ下ります。


三本辻を右へ曲がれば看板にある「山本宿」、世界記憶遺産になった「山ノ上碑」へ行く道です。

「山本宿」は、佐野源左衛門常世の説話・謡曲「鉢木」に出てくる「山本の里」のことだそうです。
どんな場面で出て来るかは、過去記事「鎌倉街道探訪記(16)」でご覧ください。

昔の地蔵堂は、簡単な覆い屋でした。


平成四年(1992)地元の人たちにより、立派な地蔵堂になりました。


これも地元の人の作品でしょう、空き缶を利用した風車のモビールが、カラカラと楽しげに回っていました。


ふと、お地蔵様の前掛けを見ると、何か文字が書かれていますが、何と書かれているのか判読できません。


しばらく眺めていて、分かりました。
何か理由があるのでしょう、裏返して掛けられているのでした。
画像処理で反転させてみると、お地蔵様への感謝の言葉が書かれていました。


今も、地元の人にとって、身近な存在なんだなぁと思いました。

看板の最後に書かれている、「百万遍供養塔」
享保年間(1716~1736)に建てられたもので、「光明真言百万遍供養塔」と刻まれています。


「百万遍」というのは、お堂の中で念仏を百万回唱える「百万遍念仏講」のことだと思っていましたが、この地域ではちょっと違う形で行っていたようです。

平成十四年(2002)発行の「みなみやはたの歩み 第3集」に、山名町の石原進さん(85歳)が記憶する「百万遍」の様子が記されています。
山ノ上、天水の百万遍は、今から数百年も昔から伝わったこの地の年中行事として、毎年、土用の三ツ目の日に行われてきました。
山ノ上、天水の人たちが毎戸一人ずつ集まって、山名中を『マイダー、マイダー(南無阿弥陀仏のこと)』と唱えながら、鐘を鳴らして廻りました。
長さ8mもある太い紐に、幼児のこぶしぐらいの数珠玉をいくつもいくつも通してある数珠縄は、とても重いものです。
これを一人の人の身体に巻き付けて歩き廻る訳です。

鐘の音が近づくと、自分の家の近くの道まで出て待っていました。
頭や手足など痛いところをその数珠縄でなぜてもらいます。
又、妊婦などは、おなかを数珠でなぜてもらい安産を祈りました。
(略)
つり鐘は長い棒に吊るした鐘を、二人の男の人が前と後でかついで鐘を鳴らしながら歩きました。
又、木製の大きな柄杓に長い柄の付いたものを持って、この中へお布施を入れてもらいました。
(略)
大正時代の初期に、山名全域に夏病が大流行して大変困った事があり、この頃幾年か中断されていたので、是非とも又百万遍を続けてもらいたいという声が多く出されて、すぐに復活されたことがありました。
(略)
しかし、このような行事は、平成四年まで続きましたが、今はその気持ちがあっても、皆さんが核家族化して毎日が忙しくなり、続けられなくなりました。
現在は、山ノ上、天水の範囲で、お札をつくり、毎戸に配って家内安全を祈るだけになりました。」

文中、「天水」という言葉が頻繫に出てきますが、「山ノ上」同様この付近の字の名前です。
なぜ「天水」なのかということは、過去記事「鎌倉街道探訪記(31)」をご覧ください。

さて、今回の記事も長くなりました。
世界記憶遺産「山ノ上碑」を見に来られた時は、ぜひ、「山ノ上地蔵尊」にもお参りください。


【山ノ上地蔵尊】



  


Posted by 迷道院高崎at 07:26
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