2018年02月18日

史跡看板散歩-81 石昌寺

「小祝神社」のすぐ隣にあるのが、「石昌寺」
史跡看板は、参道の入口に建っています。



開基された寛永年間(1624~1643)には「石昌庵」と称していたということですから、きっと小さな庵だったのでしょう。
荒廃した「小祝神社」の再建を願い出たのが正徳二年(1712)だそうですが、その時には「庵」でなく「寺」になっています。
ただ、裕福なお寺だったという訳ではなさそうです。

「石昌寺」からの「小祝神社」再建願を受けた高崎藩城代は、江戸表へお伺いを立てます。
それに対して、江戸の家老は、その願いを承知した旨の回答をしてくるのですが、その中にこんなことが書かれています。
(黒字は、迷道院のテキトー訳です。)
本社建直シ度候得共、貧寺ニ而自力ニ難相叶候之間、御林之材木通例之代物を以被下度旨願書被指出候・・・」本社(小祝神社)を建直したいと思っていますが、貧しい寺で自力では叶い難いので、御林の材木などを下されたいという旨の願書を差出され・・・
(間部家文書「従江戸到来御用状」)

「石昌寺」自体も、何度か火災に遭って大変だったみたいです。
第二十一世住職・沙門祐廓という人が書いた過去帳に、このように書かれています。
天保二年(1831)六月三日全焼シテ、再ビ明治四十年(1907)四月十五日午前零時二拾分屋根ヨリ発火シテ、本尊外数点取り出シタルノミ、他ハ悉皆焼失セリ・・・」
(新編高崎市史 資料編14)
「上野国寺院明細帳」では、天保十二年(1841)六月中焼失となっている。

同じく「上野国寺院明細帳」によると、明治四十二年(1909)三月十五日に再建落成の届出がされています。

現在の本堂は、平成九年(1997)に再建されたものです。


同じ時、薬師堂も再建されています。


この薬師様は、目にご利益があるということで、「目」「め」と書かれた紙が堂内に貼られています。


またまたブログ駆け出しの頃の記事ですが、この薬師様について思いつきで勝手なことを言ってます。
よろしかったら、ご笑覧下さいませ。 →  ◇めめめ?


【石昌寺】



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Posted by 迷道院高崎at 07:38
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2018年02月11日

史跡看板散歩-80 小祝神社

知らない人には、ちょっと読めない「小祝神社」(おぼりじんじゃ)。
高崎の人は、親しみを込めて「おぼりさま」と呼びます。

史跡看板は、鳥居を潜った先に建っています。



なぜ「小祝」と書いて「おぼり」と読むのか。
「小祝神社」の公式HPによると、
「延長五年(九二七年)成立の「延喜式」神名帳では上野国片岡郡に「小祝神社」と記載され、式内社に列している。尚、同帳では当時の読みとして「オハフリ」と振られている。「ハフリ」は、神に人間の言葉を告げることをいい、転じて神祇官の役職名になった。」
と記載されています。

明治四十五年(大正元年1912)発行「明治神社誌料 府県郷社 上」にも、「小祝」「オハフリノ」と仮名が振ってあります。


昭和十六年(1941)発行「神道大辞典」では、「ハフリ」についてこう書かれています。
往古、神社に奉仕して、祭祀に從事した神職の一。(略)
其の語義に關しては、或は「ハラフ」の義なりとも、或は「ハ」は「羽」で、衣の袖を振り神前に舞を奏したるより起こるとも、また匍匐在(はふり)とて神前にはひ侍ふ意であるとも稱する。(略)
また『日本書紀』神功皇后の巻に、紀伊國小竹社の祝、天野社の祝などと記してゐるより見れば、當時已(すで)に神を祀るものを指して、祝と稱してゐたのであらう。」

じゃ、その前についている「小」「オ」は何なんでしょう。
同辞典によると、信濃の諏訪神社の神職には「大祝」「權祝」「擬祝」「副祝」という位があったということなので、「小祝」というのも位の一つなのかも知れません。

「ハフリ」は音では「ホウリ」なので、「オホウリ」「オホリ」「オボリ」となったのでしょう。

祭神は、「少彦名命」(すくなひこなのみこと)。
(看板には「少彦名命(すくなひこのみこと)」とありますが、誤りでしょう。)

この神様、実に特異な神様でして。
「古事記」によると、「大国主命」が出雲の御大(みほ)の岬にいると、波に乗って近づいて来たといいます。


とにかく体の小さい神様で、お父さんの「神産巣日神」(かみむすびのかみ)の指の間から漏れ落ちてしまったというんですから。
その体の小ささから、一寸法師のモデルではないかとか、アイヌの神様・コロボックルではないかとか言われています。
もしかして、その小さな神様を祀っているので「小祝神社」

ブログ駆け出しの頃、とんでもない妄想記事を書いています。
  ◇コロボックルは高崎にいた

正徳年間(1711~1715)に高崎城主・間部詮房(まなべ・あきふさ)によって造営されたという社殿、なかなか見事なものです。




新しい史跡看板には書いてないのですが、古い史跡看板には境内に「芭蕉句碑」があると書いてあります。


どこにあるのか探し廻りましたが、燈台下暗し、看板の真下に隠れてました。


面白いところでは、「小祝神社甚句」という看板もあります。


相撲甚句で「小祝神社」のことを唄いあげています。
因みに「相撲甚句」「都々逸」と同じ、七七七五でできています。
合いの手まで書き込まれているので分かりにくいですが、七七七五で味わってみて下さい。

面白い神社です。


【小祝神社】



  


Posted by 迷道院高崎at 07:40
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2018年02月04日

史跡看板散歩-79 聖石

「聖石町」「石原児童公園」に建っている、「聖石」の史跡看板。


ここからは「聖石」はおろか、「烏川」さえ見ることができません。
なぜここにしたのかなぁ。



「聖石町」にあるのに「石原児童公園」というのも妙な感じですが・・・。

「聖石町」は昭和五十年(1975)、「片岡町」「八千代町」とともにできた比較的新しい町で、もともとは「石原町」という大きな町でした。



町名は、もちろん「烏川」の中州にある「聖石」に由来しますが、昔から字名として「聖石」と呼ばれた地域がありました。


どうしてもこの場所に史跡看板を建てたかったのならば、「聖石町の由来」にした方が良かったように思います。

とはいえ看板にもあるように、「聖石」「烏川三石」のひとつですから、ぜひとも欲しい史跡看板ではあります。
どこに設置すべきかと言えば、それはもちろん「聖石」が見える場所であるべきです。

(下が北です)
さて、みなさんならどこへ建てたいでしょう。

私なら絶対ここ、「聖石橋」東詰めの下流側欄干です。
ここなら「聖石」も見えますし、歩行者が信号待ちの間に読んでくれるであろう、絶好のポイントだと思うのです。


ただ、ちょっと残念なこともありまして・・・。
それについては、6年前の記事でご覧下さい。
   ◇鎌倉街道探訪記(21)

この際ですからどうでしょう、欄干の御影石に、「聖石橋」という文字と「その命名由来」を追刻して頂く訳にはいきませんでしょうかねぇ。


【聖石の史跡看板】

【聖石】


  


Posted by 迷道院高崎at 08:02
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