2018年02月25日

史跡看板散歩-82 茶臼山城跡

寺尾-吉井線の「城山団地入口」交差点から団地への坂道を上り切ると、丁字路の左角に史跡看板が建っています。


この史跡看板は、なかなかよく考えられています。
看板は人の目に触れやすい場所に建てて、ただ「茶臼山城跡」はそこから北へ360mほど離れているので、看板にはちゃんとその位置関係を示す図を載せ、方向を示す看板もすぐ脇に建てて、訪れた人を迷わせない工夫がなされています。


これは、「茶臼山城跡」の史跡整備に活躍された、地元の歴史愛好グループ「考楽会」の皆さんの魂が入っている証拠でしょう。


ただ残念なのは、駐車場のことです。
「見学者用駐車場」というのがあるんですが、バリケードで封鎖されてるし、「有料、無断駐車禁止」とも書いてあって、どうすればよいのか分かりません。


けっきょく、1km離れた城山公民館に停めさせて頂き、歩いて戻ることになりました。
ま、足慣らしだと思えばいいんでしょうが・・・。
後日、高崎市役所管財課に確認したところ、見学者用駐車場は無断・無料で使えるとのことでした。
バリケードも自分で除けて、帰りに元通りにすればよいようです。

ところで、「茶臼山」という名前の由来は何なんでしょう。

Wikipediaによると、「形状が茶の湯のてん茶を抹茶に挽く茶臼に似ているとされる富士山のような末広がりの形の山のことである。」と言うんですが・・・。

「茶臼」の写真を見ると、どう見たって「末広がり」じゃなくて、「ずん胴」じゃないですか。

にわかには、信じ難い説です。

山崎一氏著「群馬県古城塁址の研究」には、こんな風に書かれています。
北海道の各地にチャシというアイヌの砦址がある。(略)
チャシはチャーウシで茶臼と相通ずる。
茶臼がかつてこの地方に居住した類アイヌ語系種族のチャシコツ(砦址)で、それを南北朝から戦国期にかけて改装し、再び利用されたものもあろうと想像する。」
ということで、アイヌ語からきているという説です。
さぁ、どうなんでしょう。

迷道院の素人考えでは、平地にぽこんと立ってて、頂部が平坦なところが「茶臼」をイメージさせたんじゃないかな、と思うんですがね。

「考楽会」の皆さんの手造りであろう丸太の階段を上ります。


上から眺める城山団地は、なかなかの壮観です。


反対方向の遥か向こうには、観音さまのお姿も拝めます。


一番上の階段を上りきったてっぺんが「南郭」


その階段を下りて右へ巻くと、「本郭」の方へ行けます。


少し行くと、「本郭」への階段と説明板が出てきます。



階段を上れば、東屋もあり、眺めも良い「本郭」跡です。



「本郭」を取り囲むように、いろいろな城郭遺構がよく整備されて残っていますが、その辺は城郭マニアの方々のブログをご覧ください。

看板の地図を見ると、ここから寺尾へ下る道があって、「木戸口」というのがあったようです。


その「木戸口」付近にも、「考楽会」さんは案内看板を設置しています。



いやー、嬉しいですねぇ。
益々のご活躍を!


【茶臼山城跡史跡看板】


【見学者用駐車場】


【寺尾側上り口】



  


Posted by 迷道院高崎at 10:51
Comments(2)◆高崎探訪高崎名所旧跡看板

2018年02月18日

史跡看板散歩-81 石昌寺

「小祝神社」のすぐ隣にあるのが、「石昌寺」
史跡看板は、参道の入口に建っています。



開基された寛永年間(1624~1643)には「石昌庵」と称していたということですから、きっと小さな庵だったのでしょう。
荒廃した「小祝神社」の再建を願い出たのが正徳二年(1712)だそうですが、その時には「庵」でなく「寺」になっています。
ただ、裕福なお寺だったという訳ではなさそうです。

「石昌寺」からの「小祝神社」再建願を受けた高崎藩城代は、江戸表へお伺いを立てます。
それに対して、江戸の家老は、その願いを承知した旨の回答をしてくるのですが、その中にこんなことが書かれています。
(黒字は、迷道院のテキトー訳です。)
本社建直シ度候得共、貧寺ニ而自力ニ難相叶候之間、御林之材木通例之代物を以被下度旨願書被指出候・・・」本社(小祝神社)を建直したいと思っていますが、貧しい寺で自力では叶い難いので、御林の材木などを下されたいという旨の願書を差出され・・・
(間部家文書「従江戸到来御用状」)

「石昌寺」自体も、何度か火災に遭って大変だったみたいです。
第二十一世住職・沙門祐廓という人が書いた過去帳に、このように書かれています。
天保二年(1831)六月三日全焼シテ、再ビ明治四十年(1907)四月十五日午前零時二拾分屋根ヨリ発火シテ、本尊外数点取り出シタルノミ、他ハ悉皆焼失セリ・・・」
(新編高崎市史 資料編14)
「上野国寺院明細帳」では、天保十二年(1841)六月中焼失となっている。

同じく「上野国寺院明細帳」によると、明治四十二年(1909)三月十五日に再建落成の届出がされています。

現在の本堂は、平成九年(1997)に再建されたものです。


同じ時、薬師堂も再建されています。


この薬師様は、目にご利益があるということで、「目」「め」と書かれた紙が堂内に貼られています。


またまたブログ駆け出しの頃の記事ですが、この薬師様について思いつきで勝手なことを言ってます。
よろしかったら、ご笑覧下さいませ。 →  ◇めめめ?


【石昌寺】



  


Posted by 迷道院高崎at 07:38
Comments(0)◆高崎探訪高崎名所旧跡看板

2018年02月11日

史跡看板散歩-80 小祝神社

知らない人には、ちょっと読めない「小祝神社」(おぼりじんじゃ)。
高崎の人は、親しみを込めて「おぼりさま」と呼びます。

史跡看板は、鳥居を潜った先に建っています。



なぜ「小祝」と書いて「おぼり」と読むのか。
「小祝神社」の公式HPによると、
「延長五年(九二七年)成立の「延喜式」神名帳では上野国片岡郡に「小祝神社」と記載され、式内社に列している。尚、同帳では当時の読みとして「オハフリ」と振られている。「ハフリ」は、神に人間の言葉を告げることをいい、転じて神祇官の役職名になった。」
と記載されています。

明治四十五年(大正元年1912)発行「明治神社誌料 府県郷社 上」にも、「小祝」「オハフリノ」と仮名が振ってあります。


昭和十六年(1941)発行「神道大辞典」では、「ハフリ」についてこう書かれています。
往古、神社に奉仕して、祭祀に從事した神職の一。(略)
其の語義に關しては、或は「ハラフ」の義なりとも、或は「ハ」は「羽」で、衣の袖を振り神前に舞を奏したるより起こるとも、また匍匐在(はふり)とて神前にはひ侍ふ意であるとも稱する。(略)
また『日本書紀』神功皇后の巻に、紀伊國小竹社の祝、天野社の祝などと記してゐるより見れば、當時已(すで)に神を祀るものを指して、祝と稱してゐたのであらう。」

じゃ、その前についている「小」「オ」は何なんでしょう。
同辞典によると、信濃の諏訪神社の神職には「大祝」「權祝」「擬祝」「副祝」という位があったということなので、「小祝」というのも位の一つなのかも知れません。

「ハフリ」は音では「ホウリ」なので、「オホウリ」「オホリ」「オボリ」となったのでしょう。

祭神は、「少彦名命」(すくなひこなのみこと)。
(看板には「少彦名命(すくなひこのみこと)」とありますが、誤りでしょう。)

この神様、実に特異な神様でして。
「古事記」によると、「大国主命」が出雲の御大(みほ)の岬にいると、波に乗って近づいて来たといいます。


とにかく体の小さい神様で、お父さんの「神産巣日神」(かみむすびのかみ)の指の間から漏れ落ちてしまったというんですから。
その体の小ささから、一寸法師のモデルではないかとか、アイヌの神様・コロボックルではないかとか言われています。
もしかして、その小さな神様を祀っているので「小祝神社」

ブログ駆け出しの頃、とんでもない妄想記事を書いています。
  ◇コロボックルは高崎にいた

正徳年間(1711~1715)に高崎城主・間部詮房(まなべ・あきふさ)によって造営されたという社殿、なかなか見事なものです。




新しい史跡看板には書いてないのですが、古い史跡看板には境内に「芭蕉句碑」があると書いてあります。


どこにあるのか探し廻りましたが、燈台下暗し、看板の真下に隠れてました。


面白いところでは、「小祝神社甚句」という看板もあります。


相撲甚句で「小祝神社」のことを唄いあげています。
因みに「相撲甚句」「都々逸」と同じ、七七七五でできています。
合いの手まで書き込まれているので分かりにくいですが、七七七五で味わってみて下さい。

面白い神社です。


【小祝神社】



  


Posted by 迷道院高崎at 07:40
Comments(2)◆高崎探訪高崎名所旧跡看板

2018年02月04日

史跡看板散歩-79 聖石

「聖石町」「石原児童公園」に建っている、「聖石」の史跡看板。


ここからは「聖石」はおろか、「烏川」さえ見ることができません。
なぜここにしたのかなぁ。



「聖石町」にあるのに「石原児童公園」というのも妙な感じですが・・・。

「聖石町」は昭和五十年(1975)、「片岡町」「八千代町」とともにできた比較的新しい町で、もともとは「石原町」という大きな町でした。



町名は、もちろん「烏川」の中州にある「聖石」に由来しますが、昔から字名として「聖石」と呼ばれた地域がありました。


どうしてもこの場所に史跡看板を建てたかったのならば、「聖石町の由来」にした方が良かったように思います。

とはいえ看板にもあるように、「聖石」「烏川三石」のひとつですから、ぜひとも欲しい史跡看板ではあります。
どこに設置すべきかと言えば、それはもちろん「聖石」が見える場所であるべきです。

(下が北です)
さて、みなさんならどこへ建てたいでしょう。

私なら絶対ここ、「聖石橋」東詰めの下流側欄干です。
ここなら「聖石」も見えますし、歩行者が信号待ちの間に読んでくれるであろう、絶好のポイントだと思うのです。


ただ、ちょっと残念なこともありまして・・・。
それについては、6年前の記事でご覧下さい。
   ◇鎌倉街道探訪記(21)

この際ですからどうでしょう、欄干の御影石に、「聖石橋」という文字と「その命名由来」を追刻して頂く訳にはいきませんでしょうかねぇ。


【聖石の史跡看板】

【聖石】


  


Posted by 迷道院高崎at 08:02
Comments(4)◆高崎探訪高崎名所旧跡看板