2018年01月28日

史跡看板散歩-番外編 城山射撃場跡

このシリーズ第75話「乗附練兵場跡地」に出てきた「城山射撃場」が、「甲子大黒尊」のすぐ近くのはずなので探してみました。

「城山射撃場」の位置をもう一度確認しておきましょう。


その辺りを現在のYahoo!地図で見てみると、特徴ある地形がそのまま残っています。


「甲子大黒尊」への坂入口の道向こうに、細い坂道があります。


坂の上に、学校の門柱のようなものが建っています。


門柱を過ぎて振り返って見ると、「甲子大黒尊」への道につながっているのがよく分かります。
門柱には「當所 氏子中」とあるので、きっと、昔はここを通って「大黒神社」へ行ったのでしょう。


その小道を行くと、Yahoo!地図の「A」地点に出ます。


「A」地点から上り坂を100mほど進んだ「B」地点で、こんなものを見つけました。

「陸軍用地」の表示杭。
おー、よくぞ残ってくれてたものです。

さらに90mほど上って後ろを振り向くと、遥か下に高崎の町が遠望できます。


兵士たちは、重い銃を担いで、えっちらおっちら、ここを上ってきたんでしょうね。
さぞかし大変だったろうと思いきや、意外にそうでもなかったらしくて、「高崎の散歩道 第十一集」には、こんなことが書かれています。
高崎の兵営からこの射場に通うには、聖石橋を渡り、落合の村落をぬけ、下乗附を通るのが道筋で、営内の弾薬庫から実包(実弾のこと)を受領した射場勤務員の一隊は、演習部隊より一足さきに、弾薬箱をにない、必要な器材を持って、比較的のんびりした気分で射場に向かったものである。
兵営生活から解放された兵士達には、この行進は一つの楽しみであった。
乗附には饅頭を売る店もでき、休憩時には民家を訪れる兵もあって、村人と親しくなり、そこへ聟入りした下士官も幾人かはあった。」

そうか、楽しみだったんだ・・・。

「C」地点から、かつて「射撃場」だったであろう方向を眺めてみます。
そうに見れば、そうに見えなくもないような・・・。


ちょうど畑仕事をされている方がいたので、「射撃場」のことをお聞きしたら、ご存知でした。

「この辺から向こう(西南)の方へ撃ったらしいね。
 子どもの頃、よく弾を拾いに行ったよ。」

何か痕跡は残ってないかお聞きすると、
「このずーっと先に杉の木がいっぱい植わってるがね。
 そこにこんもりした土手みたいのがあるよ。
 そこへ向かって撃ったんみたいだいね。」
というお答え。

その杉林を目指して、「D」地点まで行きました。

左へ行くと「国立のぞみの園」、右へ行くと「観音山キャンプパーク・ジョイナス」、その間の細い道を下って杉林の方へ行くと・・・。

たしかに、木立の背後に壁のように立つ崖地がありました。


この崖にめり込んだ弾は、もうみんな取り尽くされたのでしょうか。
それとも、ほじくればまだ出てくるのでしょうか。

もう少し経つと、たぶん「城山射撃場」を知る人もいなくなってしまうでしょう。
貴重な戦争史跡として、せめて看板だけでも建てておきたいものですが・・・。


【陸軍用地の標柱】


【城山射撃場の痕跡】



  


Posted by 迷道院高崎at 07:38
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2018年01月21日

史跡看板散歩-78 甲子大黒尊

今回も場所が分かりにくい、乗附町「甲子大黒尊」(きのえね・だいこくそん)。

説明が難しいのですが、荒久沢川北沿いの道を西へ向かい、(株)建設企画を過ぎた所で橋を渡ります。


橋から80mほど行くと右に上がる坂道があり、オリエンテーリングのポストが目に入るでしょう。
史跡看板は、その坂の上に建っています。





看板のすぐ先に手洗石や石祠があります。


石祠の隣には面白い恵比寿・大黒の像が置かれています。


一瞬、「この石祠がそう?」と思っちゃいますが、看板の写真とは違うし・・・。
でも看板には、「甲子大黒尊は大黒山の頂の大黒神社に祀られていましたが、現在はその跡を残すのみです。」と書かれているし、ちょっと不安になってきます。

ま、いちおう、山頂を目指してみましょう。


この先、道がいくつかに分かれてますが、奥を左です。


道は急な登り坂で、雨で抉れてて、しかも落ち葉が厚く積もっているので滑りやすいです。
足ごしらえをしっかりして、ストックを持って行くことをお勧めします。


しばらく急坂を登って息が上がる頃、坂の上に石碑と石燈籠が見えてきます。


けっこう立派な石碑です。


何と言っても、刻まれた文字がユニークです。
この碑が奉納された元治元年(1864)の干支が「甲子」、その年の十一月二十七日の干支も「甲子」ということで「甲子大黒尊」という訳ですが、「子」の字の代わりに「ねずみ」の絵を用いているというのが洒落っ気たっぷりで面白い。


石燈籠は、昭和十二年(1937)丁丑(ひのと・うし)の奉納で、一年早く奉納すれば年で具合良かったんですがねぇ。
奉納者の中に、「田村今朝吉」の名も見えます。


「甲子大黒尊」碑のさらに上に、バラバラになってはいますが「山野神」(山の神?)の石祠がありました。


さて、杖になりそうな枝を拾って、慎重に下山するといたしましょうか。


【史跡看板】


【甲子大黒尊】



  


Posted by 迷道院高崎at 07:43
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2018年01月14日

史跡看板散歩-77 乗附町の秋葉神社

乗附町「秋葉神社」
ここに辿りつく人、どのくらいいるのかなぁ・・・。

護国神社の脇から観音山へ行く道なんですが、この左下の小道に入ったことがありますか?


入って40mほど行くと、小さな沢があります。
橋の向こうに史跡看板が建っているんですが、分かりますか?

この角度からじゃ、分からないでしょうねぇ。

さらに10mほど行くと、ようやく史跡看板の存在に気が付くのですが・・・、


「この石祠は・・・」と書いてあるものの、辺りを見回してみても何もありません。
ほとんどの人は、「昔はあったのかなぁ。」くらいで、ここで引き返してしまうでしょう。

よっぽど好奇心旺盛な人は、「アンダーパスの向こうはどうなってるんだろう?」と、奥へ行ってみるかも知れません。
50mほど進むと砂防ダムが出てきて、その向こうの生い茂った木々を見たら、まぁこの辺で引き返すでしょう。


さらに奥へ行ってみようなんて思う人は、相当な物好きか変わりもんに違いありません。
私はその両方だったので、奥へ入って行きました。
120mほど行くと、左手にいかにも手造り風の階段が現われ、その脇に小さな看板を見つけました。

この錆かかった看板によって、もしかしてこの階段の上に「秋葉神社」があるのかも、と思わせてくれます。

ところが、これがまーだまだ。
さらに急になる山道を70mほど登って、ようやくそれらしい石祠が見えてきます。


割とよくできた石祠で、手前にある郵便受け(?)の屋根には、きちんとした篆刻文字で「秋葉神社」と刻まれています。


そういえば、ここへ来るまでの道はきれいに篠や草が刈られ、整備されていました。
きっと、地域の人が大切にお守りしてくれているのでしょう。
とすればなおさら、あの史跡看板はもったいなく思いました。

「高崎市名所旧跡看板」の設置目的は、「市内観光の魅力を高めるとともに、住民に地域の歴史文化を見つめ直してもらおうと企画された。」はずです。(2016.3.23上毛新聞)

ならば、まずは人の目に触れなければ話になりません。
そして、土地勘のない人でも容易にアクセスできなければ意味がありません。

そこで提案です。
まず、左下の小道へ下りる所に「旧跡秋葉神社入口」という看板を建て、「この先〇〇m」と表記しましょう。
そして大変かもしれませんが、史跡看板は石祠の脇に移設しましょう。
それで初めて「この石祠は・・・」という説明文が理解できようというものです。

史跡看板に、魂を入れましょう。


【秋葉神社の史跡看板】


【秋葉神社の石祠】



  


Posted by 迷道院高崎at 07:29
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2018年01月07日

史跡看板散歩-76 伊津奈大権現

「片岡町」「伊津奈(いづな)大権現」の史跡看板。
用水路越しに読むという、視力検査のような建て方です。



史跡看板から山の方へ向かって130mほど行くと、「伊津奈大権現」に上がる石段があります。


石段の上にシンプルな社があり、境内には落ち葉一枚落ちていません。
きっと、地域の人がまめに掃除をされているのでしょう。


実はブログ駆け出しの頃、一度ここに来ています。
   ◇天狗も住んでた!高崎

その記事の冒頭、すぐ近くにある「厄除地蔵尊」に触れてますが・・・、


お堂の額には「弐佛堂」(にぶつどう)と書かれているのだが、掲示されている看板には「三仏堂の沿革」と書かれた、妙なお堂である。」
と書いたのですが、「弎」(さん)を「弐」(に)と間違ってますね。


いや、お恥ずかしい。

改めて、「三仏堂の沿革」説明板と、祀られている「三仏」のお姿を掲載しておきます。



【伊津奈大権現の史跡看板】


【伊津奈大権現】


【厄除地蔵尊】




  


Posted by 迷道院高崎at 09:18
Comments(0)◆高崎探訪高崎名所旧跡看板