2017年12月31日

史跡看板散歩-75 乗附練兵場跡地

和田橋近くの烏川右岸土堤下に建っています。


遊歩道側から見えるように建てたらしいのですが・・・。



この場所で「乗附練兵場跡地」と言われても、ピンときませんよね。
昭和九年(1934)頃の地図で見てみましょう。


「練兵場」から西方向、ちょっと離れた山の中に、「射撃場」というのがあります。
もともとは、「練兵場」に接して南西に向かって突き出たような所がそうでした。
看板にある「トーチカ」というのは、これのことかも知れません。

その「射撃場」が後に乗附の山中に移されるのですが、その経緯が「高崎の散歩道 第十一集」に書かれています。

練兵場の中央より西寄りに、長さ六・七〇m高さ三m程の堆土(たいど:うず高く積み上げた土)が百mづつ距てて三筋並んでいた。
北のものから八百射垜(しゃだ)、七百射垜、六百射垜と呼んでいた。
射垜とは「射撃をするための盛り土」という意味であって、これらは射撃の設備であった。
射垜の列の線を西南に六百mたどると、現護國神社の山麓に監的壕(かんてきごう:射撃や砲撃の着弾点や命中率を確認するための施設)があった。
勿論、(当時は)神社も高崎高校もなく、山脚を流れている用水路の所が監的壕だった。(略)
ところがこの射撃場で実弾射撃の訓練中、不幸にも一発の跳弾が乗附の民家にとび死者が出た。(略)
そこで射場は、急いで、そこから西千五百mの、あらく沢の奥に移された。
これを、新射場又は城山(じょうやま)射場と呼んだ。」

「振武橋」(しんぶばし)については、過去記事「駅から遠足 観音山(10)」をご覧ください。

看板には、「ここで訓練された大勢の兵士は戦地に送り出されました。」としか書かれていませんが、パラオ戦線(ペリリュー島)に送り出された高崎歩兵第15連隊は、2個大隊2000人が玉砕しています。
   ◇「パラオで玉砕した高崎15連隊」(高崎新聞)

戦死した一人一人にはそれぞれの家族があり、それぞれの家族にはそれぞれの幸せな日常の営みがあった訳で、それを奪ったのが戦争でした。

戦後は田畑となった「乗附練兵場」ですが、戦後19年経った昭和三十九年(1964)の地図でも、まだその輪郭が認められます。


いやいや、戦後72年の現在でさえ、地図をなぞればその姿が亡霊のように浮かび上がってきます。


72年前、日本国民は、もう二度と戦争をしないと決意しました。

「日本国憲法前文」(抜粋)
われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。

「日本国憲法第9条 第一項」
日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

戦後73年目の年が明けようとしています。
よくよく、考えなくてはなりますまい。


【乗附練兵場跡地の史跡看板】



  


Posted by 迷道院高崎at 07:45
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2017年12月28日

都々逸で振り返る2017年

こんな投稿してたんだ。

◇1月
 「高齢者の定義を65歳以上から75歳以上に」
〽その手があったか 老年基準
       上げれば一気に 若返り


 「賭けマージャンで市長辞任」
〽吹けば飛ぶよな 麻雀パイに
        賭けた市長の 首が飛ぶ


◇2月
 「お笑い芸人 淫行疑惑」
〽えいこう淫行 疑惑で謹慎
       ラーメンつけ麵 僕ごめん


 「トランプ詣で」
〽むかし唐土(もろこし) いまメリケンへ
       安堵欲しさの 貢ぎ物


◇3月
 「ヤマト運輸 運賃値上げ」
〽いつの間にやら 子ネコが増えて
       運ぶクロネコ ねを上げる


 「森友学園に国有地八億円値引き」
〽皇祖皇宗 瑞穂の國は
       二礼二拍手 八億円


◇4月
 「森友学園と豊洲市場」
〽西の籠池 東の小池
       池の周りは 深い藪


 「安倍首相がんばれ!」
〽役人たちは 忖度じょうず
       幼稚園児は 褒めじょうず


◇5月
 「復興大臣辞任」
〽出て行きなさい!と 激高大臣
       自分が出される はめになり


 「北の脅威」
〽北の脅威に どこかの誰か
       しめしめしめと ほくそえむ


◇6月
 「森友に次いで、加計も」
〽もりでもかけでも そばつゆ次第
       うまい汁だぜ あべのそば


 「使い分け」
〽女房は
   使い分けてる 公人私人
       亭主は総理と 総裁と


◇7月
 「真由子さま」
〽秀でた経歴 上手な化粧
       ハゲて出てきた 裏の顔


 「都議選、自民党惨敗」
〽こんな人達 こんなに沢山
       いたとは知らず 負けました


◇8月
 「防衛大臣辞任」
〽迷彩の
   皮をむかれた イナダの兎
       蒲(がま)の穂綿で 身を包む


 「政治家の不倫騒動相次ぐ」
〽政という字を 間違えちゃって
       リッシンベンに ナマと書く


◇9月
 「Jアラート」
〽七十二年後 空襲警報
       逃げかた七十 二年前


 「記憶にない、記録もない」
〽知らぬ存ぜぬ しら切り通す
       政治も情事も 隠し得


◇10月
 「希望の党」
〽メフィストが
   希望の塔から 垂らした糸に
       ファウスト達が すがりつく


 「選別・排除」
〽すがる男を ふるいにかけて
       選ぶユリかご 墓場まで


◇11月
 「情報隠しとデータ改竄」
〽神戸製鋼 日産・スバル
       率先垂範 あの総理


 「あおり運転」
〽初心者マークに 高齢マーク
       近々マル暴 追加され


◇12月
 「大相撲暴行疑惑」
〽体調悪いと 本場所休場
       診断書には 「ぼーこー炎」


 「横綱引退」 
〽もうこの(蒙古の)喧嘩は 手打ちがすんだ
       はずがお手打ち された綱



来年は、どんな年になるのかなぁ。


  
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Posted by 迷道院高崎at 07:48
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2017年12月24日

史跡看板散歩-74 実政街道

まさかこんな所に「実政街道」の史跡看板を建てるとは。
遠目には、「立入禁止」「犬のフンお断り」の看板くらいにしか見えません。



金属塀沿いのこの道が、「実政街道」だったということらしいです。


看板に掲載されている絵図の「染谷川」「実政街道」に色付けをし、看板の建っている位置にマーキングしてみました。


明治四十年(1907)の2万分の1地形図と比較して見ると、「実政街道」の道筋がある程度推定できます。


塀沿いの道を150mほど行くと、「染谷川」の土手道に出ます。


史跡看板は、こちら側に建てた方が良かったんじゃないでしょうか。

この後、「実政街道」「松之木橋」を渡って高崎へ向かったようです。


新しい道がいくつもできて、明治期の道は俄かに辿れませんが、いつか、辿ってみたいと思っています。

「実政街道」に関する過去記事は、こちらから。


【実政街道史跡看板】




  


2017年12月17日

史跡看板散歩-73 中大類町萬葉歌碑

中大類町の井野川サイクリングロード沿いにある、「萬葉歌碑」です。



この歌碑は、平成七年(1995)に大類歴史研究会によって建てられたものです。


「万葉集 巻第十四巻」には、230首の歌が収録されています。
230首の内「相聞歌」は112首、その中で上野国のことを詠んだとはっきり分かるものは22首、「相聞歌」以外の歌も4首あるので、合わせると26首になります。
これは、相模国の歌15首を大きく引き離して、ダントツ一位の多さです。(群馬県立女子大学教授・北川和秀氏)

現在の「井野川」は、河川改修により緩やかな川筋になっていますが、


昔は、看板に書かれているように大きく蛇行していました。


現在はないのですが、明治四十年(1907)の地図を見ると、いま「萬葉歌碑」のある所のすぐ上に橋が架かっています。
実は、この橋を通る道が、かつて「米街道」と呼ばれていたらしいのです。

過去記事「米街道」をご覧頂けたら嬉しいです。


【中大類町萬葉歌碑】



  


Posted by 迷道院高崎at 07:21
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2017年12月10日

史跡看板散歩-72 小栗又一源忠道の墓

知らなければ誰も入っていかなそうな、下斉田町「小栗又一源忠道の墓」


田口家墓地の奥の一角に、それはあります。



小栗上野介の養嗣子・小栗又一の墓は、当初この場所ではありませんでした。
ここに移されるについては、なかなかな経緯・事情がありまして・・・。
過去記事をご覧下さい。
     ◇例幣使街道 寄道散歩(13)
     ◇例幣使街道 寄道散歩(14)

田口家墓地を出て西へ行った突き当たりが、小栗又一の首級を権田村まで引き取りに行ったという、名主・田口十七蔵邸です。


3年前、ここで思いがけない発見と出会いがありました。
     ◇例幣使街道 寄道散歩(15)
     ◇例幣使街道 寄道散歩(16)

今回の記事は過去記事へのリンクばかりで、お疲れになったのではないでしょうか。
お疲れついでに、もう一つお付き合いください。

小栗上野介というと徳川埋蔵金の話が有名ですが、下斉田のお隣玉村町与六分には、小栗上野介の機密費という話があるのです。
     ◇例幣使街道 寄道散歩(19)

お付き合い、ありがとうございました。


【小栗又一源忠道の墓】



  


Posted by 迷道院高崎at 07:36
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2017年12月03日

史跡看板散歩-71 岩鼻町赤城神社

岩鼻町「赤城神社」です。



看板で、「全国でも類例がない」という「棟持柱が建物の外側に独立している」本殿です。


上野国神社明細帳の「赤城神社」由緒によると、初めは「豊城入彦命」(とよきいりひこのみこと)だけを祀っていた神社だったようです。
勧請年月不詳、当国勢多郡赤城神社祭神、大己貴命(おおなむちのみこと)、豊城入彦命ナルヲ、其一神ヲ遷セシヨシ、老口ニ伝来ス、」

もう一柱の祭神「宇迦之御魂命」(うかのみたまのみこと)については、こう書かれています。
又、合殿祭神ハ字坂上北ニアリテ稲荷神社ト称シ、寛政六年(1794)旧幕府代官吉川栄左衛門岩鼻陣屋設立ノ時、宇迦之御魂命ヲ祭リ国内農桑ノ幸福ヲ祈リ、」

「字坂上北」が、まさに「岩鼻陣屋」のあった場所です。


「赤城神社」には鳥居が二つあって、境内入口の鳥居には「正一位 赤城大明神」という扁額、


もう一つの鳥居には、「正一位 保食稲荷大明神」という扁額が掛かっています。


こちらの鳥居は、「岩鼻陣屋」にあった「稲荷神社」のものだそうで、柱にこんな文字が刻まれています。


「山本大善源雅直」は、陸奥国川俣代官、甲斐国石和代官を経て、文政六年(1823)に四代目岩鼻代官となります。
その支配地は上野・下野・武蔵で、支配高134,991石は関東の代官としては最も大きい石高です。
また家禄603石9斗は、当時の江戸幕府代官42人の内で三番目という、かなりの地位にいた人物のようです。

岩鼻代官就任中の文政十年(1827)に関東取締代官を兼任、天保三年(1832)には江戸廻代官も兼任し、天保十三年(1842)に岩鼻代官を退くと、江戸城二ノ丸留守居を勤めています。

各地の代官を勤めながら、もっぱら領民の教導に力を注いだようで、その時に使ったとされる「教諭三章」の、各章見出しを見てみましょう。
一、 父母に孝行を尽くし、己れより目上の者を敬ひ、一家親類をはじめ村里相互ひに中よくむつましくすべき事。
一、 人々我家職をはげみ、少しにても奢りがましき事かたく慎むべき事。
一、 上よりの法度を堅く守り、常々子弟のものを教訓し、悪事をなさしむべからざる事。
(参照:松崎欣一氏著「幕府代官山本大膳に
関わる五種の法令・教諭書類をめぐって」)

この夫々の章に、何故そうすべきなのか、そうするにはどういう心掛けでどういう行動をとればよいのかが、嚙んで含めるように平易な言葉で書かれています。
裏を返せば、当時の領民とくに農民の気風がそうではなかったということなのでしょう。

ところで「保食稲荷大明神」「保食」「うけもち」と読み、「うけ」は食べ物のことだそうです。
「日本書紀」には、食物・穀物を司る「保食神」(うけもちのかみ)という女神が出てきます。

また、「うか」という言葉も食べ物のことで、「宇迦之御魂命」(うかのみたまのみこと)も食物・穀物の神様です。
さらに、「宇迦之御魂命」「倉稲魂命」とも書かれ、これが稲作の神「稲荷神」と同一視されたようです。

けっきょく、「赤城神社」の祭神「宇迦之御魂命」も、「保食稲荷大明神」も同じ神様ということになります。

本殿の後ろに、三代目岩鼻代官・吉川貞幹撰による「稲荷霊験碑」というのが建っており、陣屋の「稲荷神社」建立の経緯が記されています。

吉川貞幹が赴任した翌年の文化九年(1812)の銘があるので、これも鳥居と一緒に「岩鼻陣屋」から移されたのでしょう。

現在、その「稲荷神社」の社殿はなく、鳥居を残すのみとなっています。

「上野国神社明細帳」の続きを読んでみましょう。
明治二年(1869)ニ至リテ岩鼻県知事小室信太夫一層崇敬ノ意ヲ表シ、新ニ社殿ヲ造営シ結構旧ニ増加セリ、
同四年(1871)廃県ノ時、町内ニ遷祀シ相殿三座ハ明治十年(1877)五月十九日合祭シタルモノナリ、
明治二十八年(1895)一月二十八日廃社シテ、更ニ村社赤城神社ニ祭合セリ」

ということで、明治二十八年(1895)に廃社になったのですね。

看板の最後に書かれている「巣黒神社」(すぐろじんじゃ)については、「史跡看板散歩-35 村主神社」に出てきますので、そちらをご覧ください。


【岩鼻町赤城神社】



  


Posted by 迷道院高崎at 07:48
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