2017年04月30日

史跡看板散歩-42 和田下之城

「和田下之城」(わだ・しものじょう)の史跡看板がある、下之城第一町内公民館の広場です。


史跡看板は、一番奥の「和田下之城址」碑と、風化著しい双体道祖神の後ろに建っています。
もっと道路に面したところに建てた方がよかったんじゃないかと思うのですが。



看板の挿絵に使われている昔の史跡看板は、相当錆が出てますが、今も道路に面して建っています。
これと交換するか、並べて建てればよかったのに。


「和田下之城址」碑背には、古城塁研究家・山崎一氏の撰文による下之城の略史が刻まれています。


「新編高崎市史 資料編3」により、もう少し詳しく見てみましょう。


昭和三十年代までは、遺構も良く残っていたが、近年破壊が著しく、旧状を復元するのも困難になりつつある。
高崎線の西にある粕沢川は、かつてこの城の西縁を流下しており、城はこれに依存し築かれていた。
川の東にあり、和田城より倉賀野城に近いところにあるが、和田氏の持城であった。
もともと和田・倉賀野両氏は、永禄三年の上杉輝虎(謙信)の関東越山までは山内上杉氏に属していて、敵対関係はなかった。
従ってこの城は、和田氏が武田氏に属していく過程で、倉賀野氏と敵対関係が生じたため、その必要上築いたと推定される。永禄五~六年(1562~1563)頃であろう。
境目の城としての任務があるので、外郭は大きくつくられていた。
武田方に属したとはいえ、対立の倉賀野城がその二~三年後に落城してしまい、後は倉賀野・和田両城のつなぎの城としての役割に変わっていった。
武田氏は倉賀野城を強化していったので、この城に武田流の築城の特徴は見い出せない。
この城には東に総郭が付属していて、この中にある徳昌寺と如意寺も堀に囲まれているが、この郭は、後北条氏の支配下に入ってから(天正十年以降)築かれたものであろう。」
(新編高崎市史 資料編3)

史跡看板は、「本郭」のちょうど西北角に位置したところに建っているようです。


たぶん堀であったろう痕跡も残っています。


支城の「和田下之城址」にはこのような石碑や史跡看板が建っていますが、本城の「和田城址」は跡形もなく崩され、なんの史跡看板も建っていません。


うーん・・・。


【和田下之城史跡看板】



  


2017年04月23日

史跡看板散歩-41 諏訪神社

史跡看板を巡っていると、時々、「なぜここに建てちゃったのかなぁ?」と首をひねりたくなることがありますが、「諏訪神社」の史跡看板はその最たるものです。


史跡看板の建っている「上中居岡西公園」は、「諏訪神社」とは直線距離で420mも離れた場所です。
これはないでしょう。


知らない人がこの史跡看板を見たら、「あぁ、この公園はむかし神社だったんだ。」と勘違いするに違いありません。


たぶん人の目に触れやすい場所にと考えたのでしょうが、それにしても離れすぎです。
どうしてもここにしたかったなら、せめて「諏訪神社」までの案内図を併設すべきでしょう。

と、憤慨しきりではありますが、「諏訪神社」そのものは私の好きな神社です。
まだブログ駆け出しの8年前、この神社のことを記事にしています。 → ◇「ひいらぎさま」

「ひいらぎさま」と呼ばれる上中居町「諏訪神社」は、いかにも「村社」らしい鄙びた雰囲気の、いい神社です。



「諏訪神社」の由緒について、「新編高崎市史 資料編14」にはこう書かれています。
不詳なれども古老の伝へによれば往昔信濃國諏訪神社を勧請し、諏訪明神と称し境内に諏訪湖に似たる形状の池ありてこれを招神池と云ひたりと云ふ、後年に至りて庭地となる。
安政二年(1855)正月十一日地頭へ願い許を受けて文久二年(1862)八月社殿を建替せり旧社殿の棟札に依れば享保十七年(1732)三月再建と記載しあることから推して創立年代の古きこと疑ひなからん。
上野國神明帳(西郡部)に従三位諏訪若御子明神と見えたるは当社なるべし。
天明年間別当所災禍の為め古記、古文書等焼失し古事不明なり。(神社明細帳)」

と言うんですが、この記述の出典とされる「上野国神社明細帳」の原本を見ると、「由緒 不詳」とあるだけです。


いったい、どこから出てきた話なんでしょう。
あちこち聴きまわっても出典らしきものは見つからず、最後の最後に「諏訪神社」へ行って宮司さんにお尋ねしてみました。
するとあっさり、「あ、これは神社に残っている古文書に書いてあるものです。」ということでした。
もしもし市史よ市史さんよ、という感じですが、ま、一件落着。

「諏訪神社」のあるこの地は「宇名室」(うなむろ)という変わった字名で、「神楽殿」「稲荷社」の間に建っている「庚申塔」「二十二夜塔」にも、「宇名室」の文字があります。



「宇名室」について、明治四十年代に書かれたと思われる「佐野村郷土誌」には、こう書かれています。
宇名ハ 宇夫須奈(うぶすな)ノ略語
室ハ萬葉集ニ 我宿尓御諸乎立而(わがやどに・みもろをたてて)また見諸戸山矣(みもろとやまを)ナドアル御諸(みもろ)ト同ジク 神社ヲ云フ称ナレバ 宇名室ハ即チ産土(うぶすな)神社ト云フコトニテ・・・」

「宇名室」とは「宇夫須奈御諸」(うぶすな・みもろ)、つまり「産土神社」(うぶすな・じんじゃ)のことだという訳です。

一方、「諏訪神社」の宮司・堤三郎氏は、その著書「高崎上中居とは あれこれ」の中で、こういう説を示しています。
  「宇」:極めて大きな・立派な・素敵な
  「名」:助詞の「の、な」
  「室」:人の住む所・家・館
ということで、「宇名室」「大きな立派な家・館」(がある所)という意味になるとしています。

宮司の説を裏付けるように、古城塁研究家・山崎一氏の研究では、「諏訪神社」「宇名室(うなむろ)環濠遺跡」の本郭と推定されると言っています。


本当のことは、境内の柊の古木だけが知っているのでしょう。

「佐野村郷土誌」に、当時の境内の様子が書かれています。
柊の老木數百株アリ 神木は柊ニシテ八尺(2.4m)廻リ
松杉櫻其ノ他ノ雑木繫茂シ日光ヲ遮リ 自ラ神社ノ風致ヲ備フ」

本殿裏の柊の古木の下には、「柊社」の小祠があります。


「柊は、若木の内は針の如く葉が尖っているが、老いては刺がおさまって円い葉となり、人の生育する様に似ている」といいます。

さにあるかあらぬか、同じ木に、刺のある葉を持つ枝も、刺のない葉を持つ枝も・・・。


年齢じゃないよね、やっぱり。


【上中居諏訪神社】



  


2017年04月16日

史跡看板散歩-40 高崎五万石騒動義人堂

東町(あずまちょう)の、「高崎五万石騒動義人堂」です。



「高崎五万石騒動」は、語れば長い物語なんですが、この文字数でよく核心を突いている説明文だと思います。
この騒動はよく百姓一揆と捉えられたりもしますが、武器を持って豪農・商家を襲うような類とは全く違い、公平な税制を求めた整然たる市民運動でありました。
初期の明治政府における混乱が生んだ悲劇だと言っても良いでしょう。

犠牲者の慰霊・顕彰のために建立された「義人堂」は、水原徳言氏のユニークな設計です。


碑文は、田島武夫氏と萩原進氏の撰です。




五万石騒動の大総代三人が斬首されたここは、「無縁堂」と呼ばれていました。
川野辺寛著「高崎志」(寛政元年)にこう書かれています。
無縁堂ハ羅漢町ノ東八町バカリニアリ、是モ赤坂ノ内也、四面反畝ニシテ、森ノ中ニアリ、高崎ノ荼毘所也、
開基未詳、慶長ノ頃ヨリ、新紺屋町金剛寺ノ持也ト云、初ハ羅漢町ノ東矢島ト云所ニアリ、故ニ矢島山ト号ス、
其地町家ニ接近ナルヲ以テ、安藤氏ノ長臣安藤丹下、請テ今ノ地ニ移スト云、未詳、旧地今ニ存セリ、
堂五間、四面、西向、萱葺也、本尊阿弥陀、又閻魔ノ木像アリ。
庫裡 五間ニ一一間、萱葺也。
鐘楼 二間四方。」

森の中にある荼毘(だび)所で、萱葺の堂宇と庫裡、鐘楼もあったようです。
初めは羅漢町にあったが、町家に近いのでここに移ったということですね。

「無縁堂」は、明治以降も引き続き高崎市の火葬場として利用されました。


しかし、かつては一面の田んぼだった「無縁堂」周辺も、次第に人家が密集してきます。
寺尾地区から永福寺境内山上への火葬場誘致の陳情があったこともあり、昭和九年(1934)同地に新しい火葬場が完成して、「無縁堂」はその役目を終えます。

「義人堂」の天井部に組まれている梁は、もしかすると「無縁堂」の遺材なのかも知れません。


「義人堂」の周りには、今も「無縁堂」の遺物と思われるものが転がっています。


その中には、火葬後の灰を埋めた場所に建てたらしい「灰塚石」も見られます。


そして、幕末動乱期の慶応元年(1865)に「無縁堂」の露と消えた、水戸浪士・猿田忠夫主従の墓もあります。


水戸天狗党の軍資金調達を目的に、上州各地の富豪を勧誘・強要して回り、板鼻から高崎に来る途中で捕縛され斬首された、主従六人の慰霊碑です。

ここ「無縁堂」跡地は、高崎の忘れてはならない史跡の一つです。


【高崎五万石騒動義人堂】



  


2017年04月09日

史跡看板散歩-39 京目不動尊

京目町「京目不動尊」です。



田島桂男氏著「高崎の地名」によると、「京目」という地名についてこう書かれています。
『京目』の地名は、古くは『教免』(きょうめん)であった。
むかしは、神仏への信仰が人々の生活に強く根づいていて、敬神崇仏のための経費を出す共同耕作地は、年貢の対象から外されていた。
『教免』とは、仏教信仰に関わる租税免除のこと・・・(略)
『教免郷』は、天正年間(1573~92)には、松井田城主大道寺直宗の領地であったが、慶長十二年(1607)以降旗本(戸田氏)領となり、元禄十一年(1698)高崎藩領となった。」

ということなので、ここにあったという「不動寺」は、松井田藩領の時に創建されたということになります。

お堂の中を覗いてみると、びっくりするほど立派なお不動様が祀られていました。


このお不動様について、「高崎の散歩道 第五集」に、こんなことが書かれています。
古老が話してくれたところによると、この不動明王像のうしろに、あけてはならない七ツの箱があるという。
この箱の一つを中沢家では背負って、正月に全国を巡行した。
箱をあけるとたたりがあると伝えられ、今だに中になにが入っているかわからない。」

でも、見た通り、すべての箱は開けられているようですが・・・。

境内入口に、「如意輪観音」を刻んだ塔が建っています。

台座には「女人講中」、塔側面には「文政十二丑年(1829) 十月吉祥日」とあります。

「女人講」とは、二十二夜(二夜様)に行われる女衆の「月待ち」講で、そのご本尊「如意輪観音」を刻んだ塔が多いようです。

男衆の講である「二十三夜」の塔も、境内にあります。


さらには、「日待ち」塔の代表ともいえる「庚申塔」も、立派なものが建っています。


「不動寺」が、村人たちの拠り所であったことがうかがえます。

さらに、ここが修験寺であったという証が、この「役行者」(えんのぎょうじゃ)の石像でしょう。


「役行者」は、修験道の祖といわれる「役君小角」(えんくんおづぬ)という人で、空を飛ぶことができ、鬼神を自在に操れるという力を持っていたらしいです。
それが、実在の人物だというんですから、驚きです。

ほしいなぁ、そういう能力・・・。


【京目不動尊】



  


2017年04月07日

祝!「上州どどいつ部」結成三周年

平成二十六年(2014)二月結成の「上州どどいつ部」、早や三周年となりまして、この度、「ちいきしんぶん」の一面に掲載して頂きました!

不肖、迷道院の駄作も載せてもらいました。
  「あの娘と見上げた 観音さまが 結んでくれた 赤い糸」

そうそう、先月、柳家紫文師匠の新刊「七・七・七・五で唄う 都々逸人生教室」が、海竜社から出ています!


いま、若い人たちの間で「落語」がブームなんだとか。
次のブームは「都々逸」かも知れませんよ。
今の内にこっそり始めてみませんか?

お問い合わせは「上州どどいつ部」まで。
メール dodoitsubu@gmail.com


  


Posted by 迷道院高崎at 15:16
Comments(6)◆高崎雑感柳家紫文

2017年04月01日

史跡看板散歩-38 日枝神社と華王寺

新保町にある「日枝神社」(ひえじんじゃ)と、その別当寺「華王寺」(けおうじ)へ行きました。

それらしい甍と鳥居が、石や土砂が山と積まれた向こうに見えますが、山門らしき石柱が建っていなければ通り過ぎちゃったかも知れません。


入っていくと、とっつきに「日枝神社」があります。



看板に、滋賀県坂本の「日吉山王大社」(ひえ・さんのう・たいしゃ)から勧請したと伝わるとあります。
「日枝神社」のあるこの場所の字名は、「山王」です。
もしかすると地元の人は、この神社を「山王様」とでも呼んでいたんじゃないでしょうか。

「山王様」というと、6年前に堤が岡小学校近くで見た「山王の猿」を思い出します。
その記事にも書いたのですが、「日吉山王大社」の祭神・大山咋神(おおやまくいのかみ)のお使いが「猿」だということです。

とすると、新保町の「日枝神社」もどこかに「猿」が祀られていそうなものです。
しかし、境内に並んでいる石碑は、昭和五十八年(1983)の染谷川改修の際にここに移設されたものばかりで、「猿」にまつわるものはなさそうです。


さらに探すと、本殿左奥の木の根元に、小さな「庚申塔」がポツンと建っているのをみて、あ、これかと思いました。


「庚申塔」には、「元禄十六未年十一月吉日 奉庚申供養 現世安全諸人快楽」と刻まれています。

「庚申信仰」は、人の体の中に住んでいる「三尸(さんし)の虫」が、60日に一度回ってくる「庚申」(かのえ・さる)の日に、眠っている人間の体から抜け出して、天帝にその人の犯した罪を報告に行くという、中国の道教の説話に依ります。

天帝は、その罪の軽重によりその人の寿命を決めると言われているので、ちょうど「さんや様」の夜と同じように、村の人々は一堂に集まって寝ずの一夜を過ごし、「三尸の虫」が抜け出せないようにする訳です。

そして、「申」「猿」と結びつき、「庚申塔」には猿の彫り物が施されているものも多いようです。
相当風化が進んでいますが、ここの「庚申塔」の下部にも「見ざる、言わざる、聞かざる」「三猿」が刻まれていたと思われる痕跡があります。


また、「二十三夜」のように月の出を待つのを「月待ち」「庚申」のような特別な日を待つのを「日待ち」と言います。
ここの「庚申塔」の上部に「お日様」「お月様」が刻まれているのも、そういう意味のようです。


隣にある別当寺「華王寺」へ行ってみました。
美しい形の屋根を持つ堂宇です。



「新編高崎市史 資料編3」によると、「華王寺を中心として環濠屋敷の推定が出来る」とあります。


また、こうも書かれています。
天正十一年(1583)頃、新保郷は後北条氏の直轄領となり、ここに在地土豪の小嶋・反町・井草・阿久沢・登坂氏等の名が、北条家朱印状写に見えている。
この屋敷もこれらの人達の屋敷であったと考えられるが、伝承はない。
華王寺の創始は、江戸初期の寛永年間で、屋敷が不要になった後に建立されたのであろう。」

ポツンと取り残されたような二つの史跡ですが、史跡看板が建ったことにより、後世に語り継がれるであろうことを嬉しく思います。

さて次回は、京目町の史跡看板です。


【日枝神社と華王寺】