2016年11月27日

史跡看板散歩-22 右京柄(右京拵)

前回の刀工・長谷部義重つながりで、鞘町に立っている「右京柄(右京拵)」の史跡看板です。



この看板、どこに立っているかというと、これが分かりにくい。

鞘町商店街「さやも~る」通りにある「鞘町稲荷」の脇道を入った所に、隠れるように立っています。

「さやも~る」通りには、「鞘町の生いたち」という立派な石碑が設置されているので、ここが最適地だったと思うのですが・・・。



さて、「右京柄(拵)」ですが、羅漢町上利貞馬氏所有の大・小・短刀が、群馬県指定重要文化財になっています。


「右京柄」の呼び名は、看板にあるように高崎藩主・松平右京大夫輝貞の考案によるというのが通説になっていますが、さてその訳は・・・。

「日本刀大百科事典」の中で、著者・福永酔剣氏は次のように述べています。
刀の柄に鮫皮もきせず、柄糸も巻かずに、胴輪をはめて締めた柄。
この形式はすでに源平時代からあったようである。(略)
これらが江戸期に復活して、右京柄と呼ばれた。

輝貞は発明の才に富み・・・、節約を強調した八代将軍吉宗の時の老中である。
将軍の意を受けて、いわゆる右京柄を考案したことは十分考えられる。
右京柄は高価な鮫皮を用いないので、安価に仕上がることは申すまでもない。」

また、「右京拵」を帯びて下仁田戦争に参戦した祖父を持つ水原徳言氏は、「右京拵私攷(しこう:私考)という小文の中で、少し違った見解を述べています。
高崎藩松平右京大夫の家中に行われた武備には様々な藩の掟があるが、その内の一つに、大小の拵えに「右京拵」または「右京造」と呼ばれる装刀の特色がある。
私の少年時代にはまだどの家にもそれが伝えられていて、珍しくもなければ変わった様にも思われず、むしろ糸巻の無い刀に何となく物足りなさを覚えた。(略)

この形式「右京拵」が何故他藩には見られぬ様を残したのか、それは何時制定されたものか、残念乍ら私にはその制定の時を証すべき文献的資料はないので、天休院様(輝貞)御代よりの掟という伝承をそのまゝ信ずる他はない。
けれどもそれは理由のないことではない。(略)

一つにはこの元禄から享保にかけての江戸時代の風潮の中に、太平の治下にあって各種の復古的研究の始められた時でもあった。
つまり島原乱に参加した者も老衰してしまい、久しく実戦の認めるべきものもなく、それを反省し保存しようとする考え方がいわば流行の兆しにあった。(略)

それ(右京拵)太刀拵えをに移したものであって、糸巻の柄は戦陣中にあって雨に当たって長く濡れたままに放置されると型がくづれ糊がきかなくなって用に耐えなくなる。    「太刀と刀の違い」

  それに対して素木を金物でしめて作った太刀拵えのような右京拵は影響がない。
つまりこれは野戦に耐える武器を平常の用にあてる、治にあって乱を思う姿を常に腰にせしめるという考え方に立つものである。(略)
常時の刀として帯びるものとしたところに、この制定の主要な意味があるので、単なる変化を好んだものではなく、またいたずらに贅を尽くし、また反対にその費えを惜しんだものでもない。
ゆとりのある士はそれにまかせ、勝手不如意ならば真鍮でなりと造り得る装刀の掟をその精神に於て、武辺の面目を貫かしめようとする、それがこの右京拵の意味である。」

という高崎藩独特の「右京拵」ですが、困る点もあったようです。

「日本刀大百科事典」では、
柄糸を巻いてないので、手が滑りやすい欠点。さらに固い物を切った場合、柄が早く痛んでしまう、という難点がある、というので武芸家からは排斥されていた。
結局、平和な時代の産物というので、幕末の動乱期になると、自然と姿を消していった。」

水原徳言氏も、
実は江戸の家中には、この右京拵の刀を差して外出すると、上州の田舎士と目立つので、嫌った者もあったと聞いている。
私が少年の頃に見かけた家々にこの右京拵えの大小が残っていたのは、藩の特徴であるから売却すると忽ち高崎の物と知れる。
またその多くは放ち目貫に家の定紋があるので、その家までも知れてしまう。
既に廃刀の制が行きわたってもなお、流石にその家のしるしを金に換えることをためらったから、目立たぬ刀は売っても、右京拵を残していたのだった。」

なるほど・・・。


【右京柄(拵)史跡看板】



  


2016年11月20日

史跡看板散歩-21 愛宕神社

ご無沙汰でございました。
今日は、南町「愛宕神社」です。




「愛宕神社」については、過去記事「駅から遠足 観音山(4)」でほとんど書いてしまったので、そちらをご覧頂きたいと思います。

ただ、今回改めて写真を撮りに行って、「あれ?」と思ったことがあります。
前回撮った写真と見比べてみて下さい。

はい、石柱の「村社」と刻まれていた部分がカットされています。
これって、カットする必要があったのでしょうか?
歴史を語る二文字だったと思うのですが・・・。

史跡看板に、「社宝の大太刀」のことが書いてあります。
実物を見たことはありませんが、昭和四十八年(1973)に高崎市の指定重要文化財になっていて、HPにも載っています。


刀工の長谷部義重という人がどのような人物であるのか、そう多くは分かっていないようです。
いくつかの本に書かれていることを、拾い集めてみました。

(【譜】:上州刀工図譜、【覧】:上州刀工総覧、【市】:高崎市史)
文政八年(1825)武州川越在に生まれた。【譜】
義重は十三才にして父を失い、細川正義の門に入り、鍛刀の技を学び、刻苦勉励、数年の後、家禄七石を以って高崎藩のお抱え鍛冶となる。【市】
刀工を志して江戸に上ったのは天保十年(1839)頃と推定される。
当時江戸に於て津山藩の抱工細川正義の門下となり、兄弟子である城慶子正明の指導を受けたようである。【覧】
川越藩から高崎藩に養子となった輝充に従って来高し、新田町に住した。父は農業に従事していたという。【譜】
天保十一年(1840)から弘化三年(1846)の間、第十七代高崎藩主を勤めた松平輝充(てるみち)

義重が刀工として初めて世に出した作品は、弘化二年(1845)二月、刀樋に添樋のある大鋒の脇差である。
次に当たる年紀として現存するものは、約五年後の嘉永三年(1850)二月、高崎藩指南役である大戸重次の載断銘のある二尺三寸八分の、高崎打の直刃の刀であり、義重には載断銘のあるものはこの一口のみである。
推察であるが、この一刀は高崎藩御抱えに際しての試し打ちではなかろうか。この頃より高崎藩抱工として鞘町に住し鍛刀に専念したと思われる。【覧】

嘉永四年(1851)、一人旅に出て伊予大洲に至り、翌年彼の地において作刀する。【市】
判然としないことは、開業早々であり重ねて新規御抱えの身であり、何かと多忙の訳であるが、なぜ四国のはてまで旅をしたか・・・。
旅から帰って後の作品は愛宕神社の奉納太刀であったが、同時に某神社の奉納刀が同じ年紀で造られており、重ねて神社の御神体と思える両刃の剣が発見され、いづれも嘉永六年紀であるところから、推量のいきを出ないことであるが、右の奉納刀製作にあたり精進潔斎のため、伊勢から四国に入ったか、直接讃岐に参り大洲の勝国の基で槌を打ったのではなかろうかと推理する。【覧】

安政六年(1859)八月二十三日、三十五歳の若さで義重亦没す。光明寺に葬り「名譽證久居士」という。
長男虎吉は十四歳にして義重のなきあと家督を継ぎ、住吉町に移り住み、建具職となる。【市】

長谷部義重の墓があるという「光明寺」については、もう6年前の「鎌倉街道探訪記(2)」で書いたことがあるのですが、義重の墓のことは全く知りませんでした。

義重の墓は昭和の初めまで何処にあるのか知られてなかったようで、昭和五年(1930)発行の「上毛及上毛人 第163号」に、「幕末の名刀工 義重の墓を發見」という記事が載っています。
幕末時代に高崎市が生んだ名刀匠長谷部義重の事蹟に就いては餘り知られて居なかったが、今度偶然の機會から其の墓が若松町光明寺境内にあることが發見された。」
どんな偶然だったのかは書かれていませんが、その偶然に感謝しなければいけません。

早速、義重の墓を探しに「光明寺」の墓地へ出向きました。
ぐるぐると墓地内を三遍程巡り、ようやく見つけました。
「内村(鑑三)家之墓」(五代でない方)の真後ろにありました。



今回も、史跡看板のおかげで少し勉強ができました。
感謝!


【愛宕神社史跡看板】


【長谷部義重の墓】



  


2016年11月08日

号外!藍染め体験講座のご案内!

高崎の誇る藍染染色家・みずむらやよいさんの手ほどきで、本格的な藍染めが体験できる講座が、吉井公民館で開催されます。



今回の講座では、今話題の「上野三碑」から、「多胡碑」とその碑文から「給羊」の二文字を染め抜き、可愛らしい巾着に仕上げるというものです。

受講者以外、絶対に手に入らないという、貴重なお宝になります。

希望する方は、とにかく早く申し込んでください!



【吉井公民館】

  


Posted by 迷道院高崎at 21:27
Comments(0)◆高崎雑感

2016年11月06日

史跡看板散歩-20 小万地蔵

ご無沙汰しておりました、ひと月ぶりの投稿です。

興禅寺から観音道路を西へ進み、龍広寺の手前で斜め左に入るとすぐ、左側に「小万地蔵尊」があります。





看板にある通りこの地蔵堂は、「小万」という女性がここで亡くなったのでその霊を弔うために建てられたと伝わっています。
この「小万」さんとはどんな女性なのか、看板にも二通りの説が書かれているように、よく分かっていません。

地蔵堂脇に建てられた石碑には、回国者夫婦の妻となっており、今現在では、こちらが定説となっているようです。


ただ、分からないことも多くて、そもそも「小万」は、「こまん」なのか「おまん」なのか。
女性だから「おまん」さんだろうという気もしますが、三重県の亀山市に伝わる昔話には「小万(こまん)」さんという女性が出てきます。

高崎の歴史本にも明確に仮名を振ってあるものはありません。
明治三十年(1897)発行の「髙嵜繁昌記」に付いている「和田古城之図」でも、「小まん坂」と逃げています。


もうひとつは、たまたま行き倒れた旅人のために、地蔵堂まで建てて供養するだろうかという疑問です。
「小万」さんが余程の別嬪さんだったのか、あるいは病んで長逗留する間に村人に慕われるようにでもなったのか。
よしんばそうだったとしても、せいぜい塚に墓石か、路傍の石地蔵がいいところで、堂宇まで建てるとは。
それに、女性を供養するなら観音様にでもしそうなものを、お地蔵様とは・・・。

で、ここからは、いつもながら迷道院の根拠なき推論です。
そのつもりでお読み頂きたい。

昭和二年(1927)発行の「高崎市史」に、「和田宿古繪圖」というのが添付されています。
「髙嵜繁昌記」「和田古城之図」とほとんど同じなのですが、これには「小万坂」という記載はなく、「此邊大おん久保ト云」(この辺 大おん窪と云う)とか、「此辺ニ大音寺ト云フ寺有 之今ハ名斗帳面ニ有」(この辺に大音寺と云う寺有り これ今は名ばかり帳面に有り)と書かれています。



大正十三年(1924)の「髙崎市全圖」では、「大音寺通」と表記されており、道は烏川の縁で止まっています。
「鎌倉小路三号」というのが「小万坂」です。


どうやらこの付近には、いつの頃か「大音寺」というお寺があったようです。
思うに、「小万地蔵堂」はそのお寺の地蔵堂ではなかったかと。

Wikipediaによると、
地蔵菩薩は、仏教の信仰対象である菩薩の一尊。
サンスクリット語ではクシティ・ガルバと言う。
「クシティ」は「大地」、「ガルバ」は「胎内」「子宮」の意味で、意訳して「地蔵」としている。(略)
日本における民間信仰では、道祖神としての性格を持つと共に、子供の守り神として信じられている。」
とあります。

折しも今月15日は「七五三」ですが、三歳・五歳・七歳は子どもの厄年なんだそうで、その厄を落とす儀式なんだとか。
また、七歳までは神様からお預かりした子で、いつ神様にお返しすることになるかも分からない、七歳を無事に越すことができて初めて人間の子となるのだ、とも聞いたことがあります。

それほどに、昔は、小さな子どもが育たずに亡くなってしまったということなのでしょう。
流産などによる水子も今より多かったことでしょうし、場合によっては間引きなどにあう不憫な嬰児もあったことでしょう。

そのような不幸な子どもの亡骸が、この坂道を下って「大音寺」に葬られたのではないでしょうか。
もしかすると、ひっそりと烏川に流された亡骸だってあるかも知れません。

してみると、「小万」「小」「こども」「小」「万」「数多くの」あるいは「すべての」という意味と考えられないでしょうか。
「小万地蔵」は、「数多くの小さな御霊」を供養し、「数多くの子どもたち」の無事生育を願うお地蔵様だったのではないか、と私は思うのですが、いかがでしょうか。

そう考えて、私は「こまんじぞう」「こまんざか」と呼ぶことにしたいと思います。


「隠居の思ひつ記」は、またしばらくお休みさせて頂きます。