2016年10月02日

史跡看板散歩-19 興禅寺

「向雲寺」のすぐ東に「興禅寺」があり、ここにも史跡看板が建っています。




高崎市街地にあるお寺の多くは井伊直政箕輪から移したものですが、「興禅寺」は平安時代末期の治承元年(1177)開基という、高崎で一番古いお寺です。
天文から天正年間(1532~1591)のものといわれる「興禅寺絵図」によると、看板に書かれているように「現在の高崎公園から赤坂町に至る」広大な境内を持っていたようです。


「白龍山」という山号については、こんな伝説があります。
乾元二年(1302)正月二十四日、開山の一山国師が入院開堂の日、堂塔震動、あたりは雲霧にとざされた。
その雲の中に声があり、「興禅刹」(禅寺を興せ)という。
やがて雲が晴れると、かたわらの泉から白龍があらわれ、あれよと見るまに虚空に飛び去った。
これは護法の善神であるとして、国師は白龍山興禅寺と名付けた。」
(田島武夫氏著「高崎の名所と伝説」)
開山の時期については二説ある。

この白龍があらわれたという泉が、「興禅寺絵図」で境内左上に描かれている「白龍池」なんでしょう。

現在の境内にも「白龍の井戸」と呼ばれる井戸があり、その底には今も白龍が棲んでいるらしいです。

「興禅寺」は、高崎城が出来ると城内に取り込まれることになりますが、天保十一年(1840)に現在の場所に移されます。
天保十年説もある。


その辺の経緯や、山門の天井に描かれた雲竜の話は、過去記事「駅から遠足 観音山(5)」でご覧ください。

昭和五十三年(1978)の区画整理により、「興禅寺」の墓地は八幡霊園に移され、その跡地は児童公園になりました。


その時、山門の西側に「地蔵堂」が建てられましたが、ここに祀られているお地蔵さまは「興禅寺絵図」右下にある「桃園院」の秘仏・子育地蔵尊です。



この子育地蔵尊が祀られていたからということもあるのでしょうか、第三十世住職・田辺鉄定(てつじょう)師は明治三十九年(1906)興禅寺に「高崎育児院」を設立し、孤児の養育に献身します。
「高崎新聞」の、高崎高僧列伝「田辺鉄定と高崎育児院」に詳しいので、ぜひご一読ください。

孤児の中には、不幸にして育児院で亡くなってしまう子どももいました。
その子たちの霊を慰めるための「高崎育児院墓」は、興禅寺墓地と共に八幡霊園に移されています。


最後に、「開化高崎扣帖」に載っている、育児院と子どもたちの心温まるエピソードをご紹介しましょう。
子供たちは学令期になると、寺から南小学校に通学していた。(略)
或る年の運動会、子供たちははりきって寺を出て行った。
奥さんも、その日はじめて子供たちの運動会の様子を見ようと出かけて行った。
見物席について他の子供たちの服装を見て驚いた。
孤児たちだけが和服の平常服、他の子供たちはみんな白いシャツと白いズボン。
早速寺にとって帰って、運動着を買いととのへて学校にかけつけ、子供たちに新しいシャツ、ズボンにかえてやったという。
奥さんはこの時のことを後々までよく話していたという。
子供たちも、この時ほど嬉しかったことはなかったという。」

いい話だなぁ。

ところで、10月はいろいろと予定が立て込んでまいりまして、暫し、「隠居の思ひつ記」はお休みを頂戴いたします。


【興禅寺史跡看板】


【高崎育児院墓】