2016年09月04日

史跡看板散歩-15 高崎英学校跡

南銀座通りの一角にある史跡看板、「高崎英学校跡」です。




「高崎英学校」については、よく分からないことも多く、その場所についても確かな記録がありません。
新編高崎市史編纂委員・清水吉二氏も、その著書「動乱の高崎藩」で、このように述べています。
この英学校も分からない事だらけで、その全体像はほとんど捉えられていないからである。
第一、檜物町にあったというが、檜物町のどこにあったのかさえも今もってわからない。」

このあと、清水氏は次のように場所を推定していきます。
まず建物だが、設立当初は石上寺を校舎に当てたが、やがて、檜物町に仮校舎を建てて移転した。
仮校舎といっても、輝剛(大河内輝聲の弟・てるかた)、山崎(輝剛の側役、精一)等十数人が寝泊まりしていたのだから小屋掛け程度のものではあるまい。それだけの建物から考えると、かなりの面積を持つ土地が必要となる。
今、英学校開設の八年前、幕末、文久二年(1862)の「上野国群馬郡高崎檜物町鍛冶町興禅寺向雲寺等絵図面」を見ると、檜物町でただ一ヵ所、それにふさわしい場所がある。
檜物町四つ角の東北隅、九間三尺幅(約十七メートル)、奥行き十間五尺幅(約十九メートル)の土地(現在、角谷金物店)だけは持ち主の名前が記入されていない。
そこ以外は全て三間から四間幅の狭い土地か、持ち主の名が記入されている土地である。」
住谷金物店のあった場所は現在佐々木法律事務所になっている。

ということで、この場所しかないだろうと言っており、史跡看板もその場所に建っている訳です。


この「高崎英学校」の価値は看板に書かれている通りなのですが、迷道院にはもっと興味深いことがあります。
高崎藩の飛び領・銚子で起きたある事件と、この「高崎英学校」の不思議とも思える因縁物語です。

そのことについては、3年前、「銚子・高崎・英学校」シリーズに書きましたので、ご一読いただけたら嬉しいです。
   ◇銚子・高崎・英学校(1)
   ◇銚子・高崎・英学校(2)
   ◇銚子・高崎・英学校(3)
   ◇銚子・高崎・英学校(4)

リンクをすべて見て頂いた方は、相当お疲れになったことと思います。
今回は、ここまでと致しましょう。


【高崎英学校跡史跡看板】