お堀端の「東京電力」前に建っているのが、「高崎小学校跡」の史跡看板です。
傍らに生えている松の木は、「高崎小学校」時代に植樹されたもので樹齢およそ百年と伝わっています。
この場所にあったという「石上寺」(せきじょうじ)は、貞観十六年(874)在原業平によって箕輪の地に草創され、井伊直政と共に高崎へ移ったという由緒ある寺です。
維新直前の慶応三年(1867)、「石上寺」は高崎藩校「文武館」(遊芸館)の仮校舎「和漢学校」として使用されています。
そして明治元年(1868)に「文武館」の新校舎が完成して仮校舎を引き払うと、明治三年(1870)「高崎藩英学校」に使用されますが、やがて「英学校」も檜物町に移り、「石上寺」跡は無住の地となります。
高崎藩の祈願寺であったということで檀家もなく、維新後は禄も失って経営できなくなったということでしょう。
明治二十二年(1889)旧群馬郡三ツ寺村にあった末寺の「宗慶寺」と合併し、寺名は「石上寺」の方を残して、いま三ツ寺町にあります。
明治五年(1872)になって、明治政府は国民皆学を目指し、全国に小学校の設置を進める太政官布告を出します。(学制発布)
その年に県下で発足できたのは、前橋の「厩橋学校」(現桃井小学校)だけでした。
高崎は遅れて翌明治六年(1873)、市川左近という人の私塾「積小館」を利用して、県下で7番目となる小学校を開設します。
これが看板に書かれている「鞘町小学校」です。
ただ看板には、「鞘町小学校が明治十年に焼失したのを機に、翌年、石上寺跡に高崎小学校の校舎を建てた」とありますが、これには少し疑義があります。
「鞘町小学校」の焼失については、「新編高崎市史 通史編4」にこう書かれています。
ということで、焼失したのは明治十年(1877)十二月十五日のことです。
それより前の明治十年(1877)一月には既に「高崎小学校」の新築校舎が落成していますので、看板の記述は何かの勘違いではないでしょうか。
だいいち、県はすでに明治八年(1875)の時点で、小学校用地として「石上寺」の跡地に目を付け、熊谷権令・楫取素彦は、内務卿・大久保利通宛に「上野国高崎町石上寺境内小学校敷地ニ御下渡伺書」というのを提出しているのですから。(群馬県史 資料編17)
市川左近は、「鞘町小学校」焼失後すぐに私立の小学校「積小学校」を開設し、漢学を教えています。
明治二十三年(1890)に市川左近は没しますが、学校は門人によって継続され、明治二十四年(1891)に名称を「積小学館」と改めています。
さて、明治十年(1877)「石上寺」跡地に新設された「高崎小学校」の、貴重な写真が残っています。
門柱の看板を見ると、「髙崎學校」となっています。
また写真右奥には、「時の鐘」の鐘楼が見えます。
後に、北隣の「玉田寺」境内に移設されるのですが、この時はまだ「石上寺」境内にあったのですね。
一般に「高崎小学校」の校舎は、史跡看板の写真にあるような「コの字型校舎」として知られていますが、そうなるのはまだずっと後のことです。
明治十年(1877)の敷地と校舎の平面図があります。
校舎は、中庭のある「ロの字型」です。
学校の名称も、正式には「高崎第一小学校」とか「第一番高崎小学校」と称していたようです。
「高崎第一小学校」は次第に受け入れ生徒数が増大し、それに対応するため、さらに北側の「石上寺」跡地も払い受けて敷地を拡大します。
そして明治二十二年(1889)に「ロの字型校舎」を取り壊し、新たに東西に長い二棟の「並列型校舎」が新築されます。
この時、学校の呼称も「高崎尋常小学校」となりました。
そして明治二十八年(1895)さらなる生徒数増加に校舎が不足し、新たに校舎の増築がなされます。
ここで、後々まで語り継がれる「コの字型校舎」になった訳です。
その後も、学校区や学校名は変遷を続け、明治三十五年(1902)には「高崎中央尋常小学校」となります。
明治四十一年(1908)には「高崎高等小学校」と併合して「高崎中央尋常高等小学校」となり、大正十二年(1923)には常盤町の新校舎に移転します。
昭和十四年(1939)には「高崎市中央尋常小学校」と改称、さらに昭和十六年(1941)に「高崎市中央国民学校」、そして昭和二十二年(1947)ようやく「高崎市立中央小学校」となって、現在に至っている訳です。
だいぶ話が長くなってしまいましたが、「高崎小学校」を語るときにどうしても欠かせないのが、前述の市川左近という人物です。
次回は、そのお話をさせて頂きます。
傍らに生えている松の木は、「高崎小学校」時代に植樹されたもので樹齢およそ百年と伝わっています。
この場所にあったという「石上寺」(せきじょうじ)は、貞観十六年(874)在原業平によって箕輪の地に草創され、井伊直政と共に高崎へ移ったという由緒ある寺です。
維新直前の慶応三年(1867)、「石上寺」は高崎藩校「文武館」(遊芸館)の仮校舎「和漢学校」として使用されています。
そして明治元年(1868)に「文武館」の新校舎が完成して仮校舎を引き払うと、明治三年(1870)「高崎藩英学校」に使用されますが、やがて「英学校」も檜物町に移り、「石上寺」跡は無住の地となります。
高崎藩の祈願寺であったということで檀家もなく、維新後は禄も失って経営できなくなったということでしょう。
明治二十二年(1889)旧群馬郡三ツ寺村にあった末寺の「宗慶寺」と合併し、寺名は「石上寺」の方を残して、いま三ツ寺町にあります。
明治五年(1872)になって、明治政府は国民皆学を目指し、全国に小学校の設置を進める太政官布告を出します。(学制発布)
その年に県下で発足できたのは、前橋の「厩橋学校」(現桃井小学校)だけでした。
高崎は遅れて翌明治六年(1873)、市川左近という人の私塾「積小館」を利用して、県下で7番目となる小学校を開設します。
これが看板に書かれている「鞘町小学校」です。
ただ看板には、「鞘町小学校が明治十年に焼失したのを機に、翌年、石上寺跡に高崎小学校の校舎を建てた」とありますが、これには少し疑義があります。
「鞘町小学校」の焼失については、「新編高崎市史 通史編4」にこう書かれています。
「 | ここ(鞘町小学校)は同時に烏川学校も置かれ、伝習学校(教員養成学校)ともなった・・・(略) |
この烏川学校は明治十年十二月十五日に出火、市川左近の居宅とともに焼失している。」 |
ということで、焼失したのは明治十年(1877)十二月十五日のことです。
それより前の明治十年(1877)一月には既に「高崎小学校」の新築校舎が落成していますので、看板の記述は何かの勘違いではないでしょうか。
だいいち、県はすでに明治八年(1875)の時点で、小学校用地として「石上寺」の跡地に目を付け、熊谷権令・楫取素彦は、内務卿・大久保利通宛に「上野国高崎町石上寺境内小学校敷地ニ御下渡伺書」というのを提出しているのですから。(群馬県史 資料編17)
市川左近は、「鞘町小学校」焼失後すぐに私立の小学校「積小学校」を開設し、漢学を教えています。
明治二十三年(1890)に市川左近は没しますが、学校は門人によって継続され、明治二十四年(1891)に名称を「積小学館」と改めています。
さて、明治十年(1877)「石上寺」跡地に新設された「高崎小学校」の、貴重な写真が残っています。
門柱の看板を見ると、「髙崎學校」となっています。
また写真右奥には、「時の鐘」の鐘楼が見えます。
後に、北隣の「玉田寺」境内に移設されるのですが、この時はまだ「石上寺」境内にあったのですね。
一般に「高崎小学校」の校舎は、史跡看板の写真にあるような「コの字型校舎」として知られていますが、そうなるのはまだずっと後のことです。
明治十年(1877)の敷地と校舎の平面図があります。
校舎は、中庭のある「ロの字型」です。
学校の名称も、正式には「高崎第一小学校」とか「第一番高崎小学校」と称していたようです。
「高崎第一小学校」は次第に受け入れ生徒数が増大し、それに対応するため、さらに北側の「石上寺」跡地も払い受けて敷地を拡大します。
そして明治二十二年(1889)に「ロの字型校舎」を取り壊し、新たに東西に長い二棟の「並列型校舎」が新築されます。
この時、学校の呼称も「高崎尋常小学校」となりました。
そして明治二十八年(1895)さらなる生徒数増加に校舎が不足し、新たに校舎の増築がなされます。
ここで、後々まで語り継がれる「コの字型校舎」になった訳です。
その後も、学校区や学校名は変遷を続け、明治三十五年(1902)には「高崎中央尋常小学校」となります。
明治四十一年(1908)には「高崎高等小学校」と併合して「高崎中央尋常高等小学校」となり、大正十二年(1923)には常盤町の新校舎に移転します。
昭和十四年(1939)には「高崎市中央尋常小学校」と改称、さらに昭和十六年(1941)に「高崎市中央国民学校」、そして昭和二十二年(1947)ようやく「高崎市立中央小学校」となって、現在に至っている訳です。
だいぶ話が長くなってしまいましたが、「高崎小学校」を語るときにどうしても欠かせないのが、前述の市川左近という人物です。
次回は、そのお話をさせて頂きます。
【高崎小学校跡史跡看板】
【三ツ寺町の石上寺】