2015年11月29日

山形へ行ってきました(霞城公園 続編)

このたび、グンブロさんから、「上州弁手ぬぐい」について「Special Lisence」を頂戴いたしました!
ありがとうございました!

さて、山形市「霞城公園」の続編です。

広ーいお堀には、ごみひとつ、いや落ち葉だってすごい量のはずですが、きれいになっています。





遠くの方にボートと人の姿が見えます。
聞けば、この時期、週に一回このように水面の落ち葉を集めているんだそうです。

中央通路を歩いて行くと、本丸御殿跡の発掘調査中でした。






堀の土塁上は遊歩道になっています。
人に踏まれても木の根を痛めないようにでしょうか、あるいは土塁が痛まないようにでしょうか、透水性のラバーマットが敷かれていて、とても歩きやすいです。

土塁上に築かれていたという塀の礎石跡だそうです。






説明板は写真やイラスト入りで、実に分かりやすく書かれています。

発掘して出てきた櫓跡を復元しています。
いずれは、櫓本体も復元する予定なのでしょうか。




わが高崎で新設中の史跡説明看板も、このくらい詳しかったら訪れる人は楽しいでしょうね。

こちらの櫓跡では、男性が二人、エアーゴルフの真っ最中でした。





木漏れ日の中、ヴァイオリンの音も聞こえてきたりして、みなさん思い思いに楽しんでいるようです。

復元された「二ノ丸東大手門」の内側では、ちょうど菊の品評会が開催されていました。
それにしても、この丸石を使った石段、よく復元したものです。
気を付けて下りないと、転げ落ちそうになりましたが・・・。

最上義光公の銅像です。
えらい暴れ馬に乗ってるようですが、直江兼続との合戦に、先頭切って向かうところの雄姿だそうです。
そうですよ、戦をすると決めた人が、真っ先に戦場へ行くべきです。

園内に、こんな素敵なところがあります。

「山形市郷土館
     旧済生館 三層楼」




明治十一年(1878)の建物を、昭和四十四年(1969)に解体移築したんですって。
すごい!

中は無料で見学出来て、いろんな医療器具が展示してありましたが、この時代に生まれてなくてよかったと思うような器具ばかりでした。









三階への螺旋階段は危険なのか立入禁止になっていて、残念ながら上がることができませんでした。

庭に、こんな物騒な岩があります。
一番背の高いのがそうらしいです。
「首をのせたとされる石鉢」とありますが、確かにてっぺんが丸くえぐられていて手水鉢のようになっています。
何かで欠けてしまったらしく、針金を巻いて補修してありました。

斬殺されたという谷地城主・白鳥十郎長久という人は、山形城主・最上義光にとって最大のライバルだったようです。

義光長久懐柔策として、嫡子である義康と長久の娘を結婚させて長久を山形城に招こうとしますが、身の危険を感じた長久は応じませんでした。
そこで次に義光は、重病で余命幾許も無いので今後のことを相談したいと長久を誘い出します。
おそらく半信半疑ではあったのでしょうが、山形城に出向いた長久義光の枕元に案内され、義光から一巻の書を差し出され、それを受取ろうとしたところを斬り付けられて殺されてしまいます。
とまぁ、こんな話です。

世に恐ろしきは、権力への固執と嫉妬です。
しかし、因果応報、その義光の死後、最上家はお家騒動で改易となり、これが山形城の衰退へとつながっていきます。

さて、今夜は蔵王温泉で一泊です。
平和な世の中でよかった。

では、また次回。



  


Posted by 迷道院高崎at 07:26
Comments(8)◆出・たかさき

2015年11月22日

山形へ行ってきました(霞城公園編)

山寺駅から山形駅まで、仙山線で20分くらいです。

まずは、西口にある山形城址「霞城(かじょう)公園」へ向かうべく、東西自由通路を歩いていて「おーっ!」と思ったのが、天井のステンドグラス。

名産品「さくらんぼ」や、今日登ってきたばかりの「山寺」の風景など、山形自慢のものが格好良くあしらわれています。

すんばらしいですね。

すんばらしいといえば、自由通路の先にある官民複合ビル、「霞城セントラル」の24階展望ロビーからの眺めです。
晴天に恵まれたこの日は、雪を戴いた月山が望めました。


こちらは、これから行く予定の「霞城公園」です。


1階フロアに降りると、こんなのがありました。

鍋の中にテーブルとベンチがあって、人間が「いも煮」の具になれるようになってます。

「いも煮」ながら、ニクい演出です。

ニクいといえば、この「霞城セントラル」、官民でうまい使い方してます。
大いに学ぶべきところありです。

「霞城公園」へ向かって行くと、面白い張り紙を見つけました。

「3000円お買い上毎に どんどん焼き1本プレゼント」っていうんですが、ここ「ファッションプラザほそや」って衣料品屋さんでしょ?

首を傾げながら歩いていると、裏口のような位置に「どんどん焼き」のお店「おやつ屋さん」ってのがありました。

山形名物だそうで、お好み焼きとクレープの合いの子みたいなやつなんですけどね。

群馬「どんどん焼き」っていうと、お正月の松飾りを焼く行事ですから、お国変われば品変わるですね。

「霞城公園」の入口前広場に、「旧香澄町字南追手前」という立派な標柱が建っています。

「追手前」「おおてまえ」じゃなくて、「おってまえ」と読むんですね。

読み方で言えば、「霞城」(かじょう)は「山形城」の別名ですが、山形は地形上霧が発生しやすい土地柄だそうで、「慶長出羽合戦」の時、直江兼続が富神山の麓から山形城の方を見たが、霞で十日間も見ることができなかったので、「霞ヶ城」(かすみがじょう)と呼んだのが由来だとか。

で、明治六年(1873)にこの辺りを士族に払い下げた時、「霞城村」(かじょうむら)と名付けようとしたが、時の県参事が城の名前はまずいと思ったようで、「香澄」という字をあてて「香澄町」(かすみちょう)としたらしいです。

二の丸南大手門です。

山形城の初代藩主・最上義光(もがみ・よしあき)の石高は57万石でしたが、その後城主が変わるごとに石高を減らし、江戸中期以降は10万石となって城の維持も困難になったそうです。

幕末には5万石まで減り、本丸は更地にして御殿は二の丸に置かれ、三の丸の半分は田畑となっていたといいます。
明治に入って山形市が城を買取り、陸軍の駐屯地を誘致し、城内の櫓や御殿は破却して本丸、三の丸の堀は埋め立てられます。

この辺は、わが高崎城と同じような歩みです。

異なるのはそこからで、昭和二十四年(1949)には早くも本丸及び二ノ丸跡を「霞城公園」として一般に開放します。

また昭和六十一年(1986)に、本丸及び二ノ丸跡(霞城公園)と三ノ丸跡の一部が国の史跡に指定されると、翌年には市制100周年の記念行事として、二ノ丸東大手門を約6年かけて忠実に復元しています。

さて、二ノ丸南大手門から城内に入ります。

「霞城公園」内には、約1500本の桜の木があるそうです。
春はさぞ美しいことでしょうが、秋は秋で葉が色づいて、訪れる人を出迎えてくれます。

公園内のご紹介は、次回。


  


Posted by 迷道院高崎at 07:14
Comments(4)◆出・たかさき

2015年11月20日

聖石が見えてます!

「甘酒千人供養」へ行く途中、とても嬉しいことがありました。

「聖石」がはっきりと姿を現しているのです。

おそらくこれは、どなたかが「聖石」に絡みついた草を刈払ってくれたからに違いありません。

それは、その周囲の灌木に草がびっしり絡みついている様子と比べて見ればよく分かります。

何しろ、夏の間はこんなんなっちゃうんですから↓


いつ頃の写真か分からないのですが、昔はこんな雄姿を見せていたんですね。↓

これは昭和11年頃だそうです。↓


いつからか土砂に埋もれ、草に覆われて見えなくなった「聖石」について、前々から嘆いておりました。↓
            「鎌倉街道探訪記(21)」

どなたかは存じませんが、「聖石」を見えるようにしてくださった方に、御礼申し上げます。
ありがとうございました。


  
タグ :高崎聖石


Posted by 迷道院高崎at 17:30
Comments(4)◆高崎雑感◆高崎探訪

2015年11月19日

ご存知ですか?甘酒千人供養

白衣大観音の周辺も、きれいに色づいてまいりました。

十一月十七日は、白衣大観音を建立した井上保三郎翁の命日でした。







今年は、没後77年目です。

観音さまの足下では、午前九時から恒例の「甘酒千人供養」が始まりました。






酒粕も砂糖も一切使わず、米麴だけの本物の甘酒で、子どもも車の運転者も安心です。

慈眼院の「甘酒千人供養」は、昭和五十一年(1976)白衣大観音建立四十周年の行事として始められました。
発案者は、当時たぶん高崎市観光課係長であった内山信次氏です。
内山信次氏は、「徐徐漂(ぶらり)たかさき」など、高崎の歴史や観音信仰などに関する著書をたくさん残された方です。

その内山氏が、高崎駅構内観光案内所所長を務めていた昭和六十一年(1986)、「上州路No.150」誌上で次のように語っています。
昭和五十一年の秋に白衣大観音建立開眼四十周年の大法要が、高野山真言宗管長高峰秀海猊下をお迎えして執行されました。
三十周年の記念行事が定着したのが『観音山の火まつり』柴灯護摩です。
今回も何か作りたいと頭を絞ったのが『甘酒千人供養』です。
千人とは千灯祭り、千日精進、千本搗きなどと同じように、沢山という意味で、正確に千人ということではありません。(略)

甘酒供養というのは、あまり他に聞きません。実は私の善光寺境内での、幼い日飲んだ甘酒の思い出が、この行事のヒントになりました。
そのため最初の年は、善光寺尼公の筆になる蓋を着けた長野駅の駅弁の器、多治見の工房でしたが、其処に白衣大観音と糸底に印をつけた黒い碗を千個特注して使用しました。」

←これが、最初の頃の「甘酒千人供養」の様子です。

確かに黒いお椀を持っています。
看板には「飲んだ器を記念に差し上げます」と書いてありますね。

今もどこかの家に残っているのでしょうか。
大切になさってくださいね。

昭和五十一年から連綿と続けられてきた「甘酒千人供養」ですが、今はあまり知られていないようです。
井上保三郎翁の功績に報いるためにも、その命日の行事「甘酒千人供養」をもっと市民に知ってもらう必要があるのではないでしょうか。

この日は、たまたま高崎高校のマラソン大会が開催されていました。

学校をスタートして、コースはよく分からないんですが、野鳥の森方面から観音山参道商店街を駆け抜けていきました。

最近は、各地でマラソンや自転車のスポーツイベントが開かれ、当日はもちろん、練習のために繰り返し現地を訪れる人が多いようです。
観音山は、オリエンテーリングのパーマネントコースにもなっていますし、そういうスポーツイベントも観音山観光振興策の一つになるんじゃないでしょうか。
「甘酒千人供養」も、そういうイベントとの組み合わせで、より多くの市民に来て頂けるようにしたいものです。

そんなことを思った、今年の「甘酒千人供養」でした。


  


Posted by 迷道院高崎at 05:52
Comments(6)観音山

2015年11月15日

山形へ行ってきました(山寺編)

観音山シリーズはちょいとお休みを頂きまして。

山形県山寺駅へ来ています。

ホームには、元禄二年(1689)に山寺を訪れた俳聖・芭蕉の有名な句、「閑かさや 岩にしみ入 蝉の声」の看板が。

その下からは、これから行く立石寺(りっしゃくじ)が、山のえらく高い所にあるのが見えます。

だいじょうぶかな・・・。

ホームの降り口では、「はながたベニちゃん」「きてけろくん」が、「山寺さ来てけで ありがとさま!」って言ってます。

「きてけろくん」の顔が、山形県の形をしてるというのが面白い。

昭和八年(1933)開業の山寺駅は、「東北の駅百選」に選ばれているだけあって、お洒落でいい感じの駅舎です。

「天童温泉 観光駅馬車停留場」という幟旗が立っています。

これがその「観光駅馬車」です。

なんたって、無料で乗れるってのがすごい。




通常は土・日・祝日だけの運行ですが、紅葉の時期は平日も運行してます。

駅前のお土産屋さんを覗いたら、「焼きまんじゅう」というのを売っていて驚きました。

上州名物「焼きまんじゅう」とはまったく違うものですが、焼いたお饅頭という意味ではこちらの方が正しいのかも知れません。

川向うに、でかい石がどーんと居座ってます。

「対面石」(たいめんせき)って名前らしいですが、なんでも山寺の開祖・慈覚大師圓仁が山寺を開くにあたり、この地方を支配していた狩人・磐司磐三郎(ばんじ・ばんざぶろう)と、この大石の上で対面したというのが由来だそうです。



鉄砲打ちの盤三郎に、「ここに寺を建てるから、おまえ狩猟をやめろ。」というんですから、圓仁もいい度胸してます。

二人で話をしている内に、盤三郎日光の猿麻呂(猿王)の子、圓仁壬生の生まれと、お互い下野国の同郷人だということが分かり、話がうまく進んだようです。

盤三郎圓仁の像が安置されている「対面堂」です。
対面してないんですけど・・・。





盤三郎さん、めっちゃ怖そうな人じゃないですか。

いいなぁ、このお願い。

きっと叶いますよ。

ちなみに私は、隣の「幸福の鐘」を二回たたいて、自分の幸せだけを願ってきました。
(たぶん、叶わないな・・・。)

さて、ここから1070段あるという石段を上って、立石寺奥の院まで行ってきます。






なんとも綺麗に色づいた、楓の大樹が出迎えてくれました。

説明板を見ても何のことやらよく分かりませんが、お地蔵様の頭を撫でると長生きできるらしいので、いちおう撫でておきました。

「亀の甲石」なんてのもあって、小銭に名前を書いて願いたい場所に供えると叶うらしいのですが・・・、


個人情報が漏洩すると困るので、無記名にしておきました。

定番の「せみ塚」を見たり・・・、


紅葉の素晴らしさに見とれたりしている内に、いつしか800段を上りきり・・・


百丈岩の上に建つ納経堂が見えてきます。
崖下にある自然窟には、慈覚大師圓仁の遺骸が金棺に入れられ埋葬されているんだそうです。

ここからさらに上った「五大堂」からの眺めは、まさに絶景、絶景!


ひとしきり眺望を楽しんでから下山してくると、本坊脇の池に出ます。
池辺の楓の葉と、池に落ちた葉の紅が実に鮮やかで感動的でした。




と思ったら、落ち葉に見えたのは緋鯉の稚魚の群れでした。

びっくりぽん!です。

1070段という石段に覚悟を決めて臨んだのですが、途中の景色に見とれ、写真を撮り、説明板を読んだりしながらだったので、ほとんど疲れを覚えることもなく行って来られました。


わが高崎清水寺の石段はここのほぼ半分で520段ですが、結構きつく感じます。
きっと、途中で立ち止まって見るものがなく、一気に登ることになってしまうからでしょう。
ここに、清水寺コース誘客策のヒントがありそうですね。

さて、今日はこれから山形市内へ向かいます。


  
タグ :山寺立石寺


Posted by 迷道院高崎at 07:01
Comments(6)◆出・たかさき

2015年11月08日

駅から遠足 観音山(55)

手島仁氏著「鋳金工芸家・森村酉三とその時代」によると、井上保三郎が池袋の森村酉三の自宅を訪ね、白衣大観音の原型制作を依頼したのは昭和七年(1932)だったそうです。

手島氏は、平成十一年(1999)に酉三の妻・寿々夫人から、保三郎が制作依頼に来た時の話を聞いています。
手島氏の著書から抜き書きしてみましょう。
寿々によれば井上は『私はセメント会社を経営していてコンクリートが豊富にある。これを何かに活かしたい。
ついては、私は観音様を信仰しており、あなたの手で立派な観音様をつくってもらいたい。』
と語りかけた。
井上の熱意に打たれた酉三は無料で制作することを約束した。」

寿々さんによれば、酉三寿々さんを伴って奈良の古寺を巡礼し、観音様の構想を練ったということです。

寿々さん、べっぴんさんですねぇ。
寿々さんは明治三十六年(1903)生まれ、当時伊勢崎で一、二を競う料亭「藤本」の一人娘だったそうです。
その家へまだ東京美術学校生の酉三が顔を出し、寿々さんに一目ぼれ。

逢瀬を重ね、ついに大正十三年(1924)結婚を約すまでに至りました。
ところが名門・森村家は二人の結婚に反対で、酉三は勘当されたまま東京で新婚生活を送ることになります。
昭和二年(1927)酉三が帝展に初入選したことでようやく勘当が解け、翌年池袋に新居とアトリエを構えたということです。

江戸川乱歩酉三家の隣へ越してきたのは、その6年後です。
酉三の家はもうありませんが、乱歩の家は保存されています。


話を戻しましょう。
高崎市HPの「白衣大観音と観光高崎」によると、酉三白衣大観音のお顔について「天平の如意輪観音から素材をとっているが、明治、大正、昭和の美人の顔がそれぞれ織り込んである」と語っていたとありますが、手島仁氏は大胆にも寿々さんに「夫人をモデルにしたのではないですか。」と尋ねています。

それに対し寿々さんは、「心の中にはイメージとしてもっていたのでは。」と、はにかみながら応えて微笑んだということですから、もしかするとあの観音さまの美しいお顔の中には、寿々さんが入っているのかも知れませんね。

酉三が身長一尺三寸(約39cm)のセメント製原型像を完成させたのは、昭和九年(1934)五月二十八日でした。

この原型像を池袋の酉三のアトリエから日本橋の井上工業東京支店まで自転車で運んだのが、井上工業に入社して間もない元首相・田中角栄であったというのは、わりと有名なエピソードとして伝わっています。

ずっと井上工業とともに歩んだ横田忠一郎氏が書いた、「高崎白衣観音のしおり」という小冊子の中でも、こう書かれています。
たまたま高崎本社から東京支店に出張していた横田が事務所で仕事の打合せをしていた時のことであった。
暗くなって工事現場から帰ると、早々に夕飯を嚙みかみ、数冊の本を小脇に抱えて『只今から夜学にいってまいります。』という一青年に出あった。
いまどきの若い者にしては感心なものだと、独りうなづいていたが、この青年が将来の日本を背負う総理大臣になるとは、夢にも思ってもみなかった。

後年(田中から)『君(横田)に言われて、仏さまをこわしては大変と大事に布団に包み、自転車の後につけて慎重に運んだよ。』と聞かされたが、記憶力の相違か、横田は覚えていない。」

ということで、このエピソードの出どころは田中角栄本人だったようなんですが、手島仁氏は「果たしてこれは本当のことであろうか。」と疑問を呈しています。

日本経済新聞に角栄本人が寄稿した「私の履歴書 田中角栄」によると、新潟から上京したのが昭和九年(1934)三月二十七日、十六歳の時です。
理化学研究所所長・大河内正敏を頼って書生になるつもりだったが門前払いを受け、仮宿にするつもりだった井上工業東京支店に頼み込んで住込みの小僧となります。

原型像が完成したのはその二か月後ですから、はたしてそんな入社間もない小僧に、原型像運搬などという大事な仕事を任せるだろうかというのが、手島氏の疑問です。

ただ、山岡淳一郎氏著「田中角栄を歩く」を見ると、井上工業時代の角栄少年がすでにただ物でないことを示す逸話が書かれています。
『お茶をもってこい』。月島の水産試験場新築工事現場の昼休み、鳶職からそう命じられた角栄は、血相を変えて言い返した。
『おれはおまえたちの小僧じゃないぞ。おまえたちの元請会社から監督にきているのだ。おまえたちのほうがお茶を汲んで出したらどうだ』
『なにを! このやろう』。鳶職の一団が立ち上がった。
角栄はスコップをぶんぶん振り回しながら身構える。
その場は収まった。
身長164センチ、体重60キロ。体格は人並みでも、向こう意気は強かった。

角栄は、井上工業で建築業のイロハを覚えた。
夜10時前に授業が終わると「現場別出面(職人の出勤表)」の確認に芝の左官屋の親方、上野の大工の棟梁の家へと自転車を飛ばす。
不況下で工事原価はギリギリに見積もられている。職人の手配で寸分の無駄もあってはいけない。
早朝から、資材の荷揚げ、タイル目地のモルタル仕上げと現場にへばりついた。

夏の盛り、三河島の小学校の新築現場で監督から屋根のスレートの並べ方が下手だと怒鳴られ、逆上した角栄は足元のスレートをビシャ、ビシャ踏み割って現場から逃走した。
ついでに井上工業も辞めた。」

ということで、角栄少年は半年くらいで井上工業を辞めてしまうのですが、その間の行動はなかなかのものです。
上記の逸話が本当の話しであれば、大事な仕事を任せられるだけの信頼を得ていたのではないでしょうか。

その真実は、観音さまがご存知のはずです。
でも観音さまは、「あなたがそう思うなら、それでいいのですよ。」と、ただ微笑んでいらっしゃるだけ。

はい、仰せの通りにいたしましょう。


  


Posted by 迷道院高崎at 07:02
Comments(4)観音山◆高崎探訪観音山遠足

2015年11月01日

駅から遠足 観音山(54)

白衣大観音原型作者・森村酉三氏の胸像が、伊勢崎市宮郷公民館に建っています。

ここは、酉三氏を含め伊勢崎の名士・五人の胸像がずらっと並んでいるという、珍しい公民館です。






酉三氏の胸像は、昭和五十三年(1978)に日本画家の磯部草丘、養蚕学の荻原清治の胸像とともに建てられました。

酉三氏の生家は、ここから東へ直線距離で1kmほど行ったところにあります。
ご縁というのは実に不思議なもので、この7月に仕事先で偶然出会ったのが、森村家十代目・源五兵衛から分かれた最も古い分家、新蔵家の九代目という孝利さんでした。
伊勢崎の森村さんと聞いて、もしやと思ってお尋ねしたところ、これが図星でした。

酉三氏が生まれた家をご案内頂けるということで、日を改めて伺いました。

いやいや、立派なお屋敷です。




それもそのはず、森村本家は地方(じかた)代官を務めた旧家で、その建物は伊勢崎市の重要文化財に指定されています。

明治九年(1876)の改築で、慶応以前からの母屋の骨組みを残し、そこに伊勢崎藩主・酒井氏の陣屋遺構(享和元年/1801/築の書院と式台)を移築・増設したということで、手前の玄関がその式台だそうです。

式台を上がったところに、駒井甲斐守朝温の写真が飾ってありました。


不覚にも失念していたんですが、孝利さんに「朝温の子は、小栗上野介の養子になってるんですよ。」と言われて、思い出しました。
過去記事「八重の桜と小栗の椿」に書いたことがありました。
この時参考にした本では、朝温徳川慶喜に従って静岡へ移り住んだと書かれていましたが、この説明板を見ると、連取村はかつての知行地として維新後も朝温へ米などを送っていたんですね。
小栗上野介もそうでしたが、駒井朝温もまた領民に慕われていたお殿様だったんでしょう。

10年ほど前まで住んでいたという母屋は、所々その息吹が感じられます。

奥の床の間には、白衣大観音の写真と小さな観音像が飾ってありました。

明治二十八年(1895)の「森村系譜」によれば、森村家の遠祖は鎌倉時代の建久四年(1193)、既に上野国那波の地頭であった五十嵐遠江守広茂という人だそうです。

徳川の御代になった文禄二年(1593)駒井甲斐守が所領の綱取(連取)郷を訪れた時、出迎役を仰せつかって郷内を案内したのが、五十嵐教貞だったそうです。
その時、甲斐守から「お前はどこから来たのだ。」と問われた教貞が、「森の向こうの村です。」と答えたことで、以降、「森村」と呼ばれるようになり姓を改めたという話を、孝利さんがしてくれました。

その五十嵐あらため森村教貞を初代とする、本家第十六代当主・連太の三男として生を受けたのが、森村酉三氏でした。
明治三十年(1897)酉年生まれの三男ということで、酉三と名付けられたということです。

ところで、ずっと気になっていたサックス奏者の森村恭一郎さんは、酉三さんの従妹・さんの子で、酉三さんから見れば従甥(いとこ甥)にあたるということが、この度やっと判明しました。

さてさて、記事が長くなりました。
次回は、酉三さんと白衣大観音についてのお話です。


【宮郷公民館】

【旧森村邸】



  


Posted by 迷道院高崎at 07:03
Comments(2)観音山◆高崎探訪観音山遠足