2013年04月28日

春の夜嵐 昭和のおふさ(2)

昭和六年(1931)金古絹市場でどのような惨事があったのか、
「群馬の紀ちゃん」さんから頂いた、絹市場殉難者五十回忌追悼「地蔵のねがい」という小冊子の中からお伝えします。

まず、絹市場がどんな建物だったのか、小林好明さんの一文から。
東西に長い建物で、東正面は大二階で、階下には映写室がつくられました。西には舞台を設け、舞台裏に二階がありました。
 南北とも下屋に二階がつけられました。南階下は土間でした。(略)
(舞台正面の緞帳を吊る漆喰壁は)向かい合った二頭の龍が、絹市場の文字の入ったくびれた繭を捧げている図柄でした。だれもがほれぼれと見上げるすばらしいものでした。

協議の結果、天井は広告で上げようということになりました。格子状に区切った天井を、上中下の三段階に分けて広告料をいただきました。一桝がトタン板半分の大きさで、広告者の希望の図柄を入れることにしました。組合員総出で各方面を回って募集し、全部をふさぐことができました。
医者の牧震太郎先生は、『広告はいらないが、天井の中央へ日の丸を。』というご要望でした。また、お産婆の松下タケさんのは桃太郎の生まれる絵でした。

落成祝は昭和五年(1930)五月五日に、広告者その他関係者を招待して盛大に行われました。」

まさか、その一年後に全焼し、一瞬にして13名もの尊い命を奪ってしまうなどとは、誰ひとり思ってもみなかったでしょう。
翌日以降さらに2名が死亡し、15名となる。

上毛新聞の記事です。
十六日午後十時四十分、群馬郡金古町上の絹市場で催された関東日日新聞社前橋支局主催、県下各郡市教育界有志後援の教育映画に於いて、高崎東校の孝女富澤ミエ子を映画化した、「昭和のおふさ」を上映中、突然二階映写室から発火し、火災は忽ち天井に燃え移って、黒煙は渦巻き、感激の涙に咽んでいた観衆は総立ちとなって泣き叫び、俄然会場は阿鼻叫喚の修羅場と化した。

この夜の観衆は、階上約百五十人、階下約六百人であったが、逃げ場を失った人々は一時に東方出入口に殺到し、階上にあった観衆は折り重なって階下に飛び降り、東側の雨戸を蹴破って場外に逃れたが、火災は忽ちこの出入口をも封鎖したので、黒煙を潜って西方の非常口に辿り着いた人々は辛うじて障子一枚を蹴破り、濛々たる黒煙と共に吐き出されたが、既に此の頃は、南北両側にある二階は墜落し、場内は全く火の海と化して逃げ遅れた人々は、ここに一団となって焼死した。」

実際に惨事に遭った小林好子さんの手記です。
思いおこせばもう五十年になりましょうか、それは私の小学校二年の春五月十六日の晩の出来事でございました。あまりにも遠い昔の事とは申しながら、私の仲良しだった飯島サダ江さんを失った悲しさは何年たっても忘れる事は出来ないのでございます。(略)

当時「昭和のお房」とも言われた高崎東小学校の生徒富沢ミエさんの親孝行が映画化され、金常館(絹市場の劇場としての名称)で幾日か上映される事になりました。各町村から順番で先生が生徒を引率しては見に行きました。サダ江さんも私も一度見たのですから行かなければ良かったのに、子供心にまた見たかったのです。(略)

事件のおきる直前の場面は、学校の遠足に遅れそうなので駅へ向かって走って居るところでした。突然東中央にある映写機の所から火が出たと思うと天井へ火が走りました。(天井画の)エナメルが火に燃えやすく火を呼んだ状態となったのです。
満員の人達は皆西口へ逃げました。私は二階で見ていた訳ですが、東の階段は火の海で行く事が出来ずに居りますうちに手すりが倒れ、人の頭に下りてそのまま西口へ出る事が出来たのです。
サダ江さんはお兄さんと見て居て西南の隅に逃げたのです。そこは入り口も出口もない角だったのです。其の所へ人々は折り重なって倒れ、そのまま焼け死んでしまったのです。」

この惨事により亡くなった15名の内、8名が6歳から13歳、15歳から18歳が5名、大人は22歳と59歳のそれぞれ1名と、いかに子供たちの犠牲が多かったかが分かります。

飯島家の墓地に、可愛い少女の石像が一体建っています。

わずか九歳で命を落とした、飯島サダエさんの石像です。

今年も、5月16日に「地蔵まつり」が執り行われます。
常仙寺のお地蔵様に手を合わせる機会がありましたら、少し足を延ばしてこちらにもお参りして頂けたらと思います。

さて次回は、金柳亭幾之助氏がこの惨事を歌にして奉納・出版した、「春の夜嵐」のご紹介です。


【常仙寺 殉難地蔵】

【飯島サダエ石像】


  


Posted by 迷道院高崎at 09:20
Comments(4)…春の夜嵐

2013年04月24日

添田唖蝉坊 & 小沢昭一

何となく、こんなのをUPしたくなりまして・・・。

【金々節】



金じゃないよと ついこの間
気付いたつもりが まわりの人の
浮かれ姿に はや気も変わり
吾も乗りたや 黄金舟
あゝ人の世や 人の世や

迷道院高崎 敬白



  


Posted by 迷道院高崎at 22:37
Comments(2)◆世事雑感

2013年04月21日

春の夜嵐 昭和のおふさ(1)

もう、そんなになるんかなぁ・・・と思うのですが、3年程前、高崎内の旧三国街道をウロついてたことがあります。

で、旧群馬町金古にある常仙寺に寄った時、その参道に一体のお地蔵様が建っていました。

聞けば、昔ここにあった絹市場の建物で映画上映中火事になり、それで亡くなった15名の方を慰霊するためのお地蔵様だということでした。

その時のブログ記事。↓
  ◇「旧三国街道 さ迷い道中記(17)」

その時上映されていた映画の題名が「昭和のおふさ」で、その惨事を「春の夜嵐」という演題で、金柳亭幾之助という人が浪花節で語っていたということはわかったのですが、その中身についてまで辿り着くことはできませんでした。

ところが、ブログの力というのはすごいもので、今年の2月、この記事を読んだ「群馬の紀ちゃん」という方から、びっくりするようなメールを頂戴しました。
金古町の絹市場の惨事。当日を語る人も少なくなりました。5月16日の「地蔵祭り」に向けて、「歴史を語る」などの「集い」があれば・・・・。金柳亭の台本、富沢ミエの写真、関連の歴史研究をしている人も高齢となりました。」

おっ!?
ということは、資料もありお話を伺うこともできるのかと、すぐメールを差し上げたところ、こんなご返事を頂きました。
関係の資料がお渡し出来ます。2月16日の午前10時頃から、庚申祭りの打ち合わせ会があり、「夜嵐の関係者」もお出でになりますので。」

早速、当日お伺いすると、たくさんの資料を用意して迎えて下さいました。

同席されたKさんという方は、当時7歳で実際にその場にいて、九死に一生の思いをしたと語って下さいました。
逃げる人の下駄で踏まれた痕がしばらく体に残っていて、人が来る度に、お母さんがその痕を見せながら火事のことを話していたそうです。

というような訳で貴重な資料を頂きましたので、これから皆さんにご紹介していこうと思います。
しばし、お付き合いのほど、お願い申し上げます。

次回は、どんな惨事があったのかを詳しくお伝えします。



  


Posted by 迷道院高崎at 08:17
Comments(0)…春の夜嵐

2013年04月14日

八重の桜と小栗の椿(10)

寄る辺なき江戸に留まることもできず、小栗夫人一行は静岡を目指して再び旅を続けます。
静岡には、小栗家に養子となった又一忠道の実父・駒井甲斐守朝温(ともあつ)が、徳川慶喜に従って移り住んでいたからです。

「上毛及上毛人」の中で、早川珪村氏はこう記述しています。
三左衛門隨從し静岡に至り駒井家と交渉し、忠順の遺子幼少殊に女子なるを以て、又一忠道の實弟某をして假に小栗家を相續せしめ、將に斷絶に瀕せる家名を繼續するを得たり」

本当なら、養子として迎えた忠道小栗家を継ぐはずでしたが、西軍により高崎の牢屋敷で斬首されてしまいました。
三左衛門が交渉したというのは、遺児・クニ(国子)が結婚するまでの間、忠道の実弟・忠祥(たださち)に小栗家を仮に相続してもらい、ともかく家名断絶だけは避けたいということでした。
三左衛門の懇願により、相続は認められることとなり、辛うじて小栗家は断絶を免れたのです。

そうこうする内、小栗夫人らの苦難な生活の様子が、三井の大番頭・三野村利左衛門の耳に届きます。

利左衛門は、駿河台の小栗家に仲間(ちゅうげん)として奉公したことがあり、それがきっかけで三井の大番頭にまで上り詰めた人物です。
※詳しくはこちらをどうぞ。
  三野村利左衛門

利左衛門は、東京深川三野村家別荘を、小栗夫人一家の住まいとして提供することを申し出ます。
もちろん、生活費一切の面倒も見ようというのでしょう。
中島三左衛門は大いに喜び、夫人らを深川まで護衛し、三野村利左衛門の手に送り届けました。

夫人らが住む家を確認して安心した三左衛門は、夫人らに別れを告げ、娘・さい小栗歩兵と共に、一年ぶりに故郷権田村へ帰ることができました。
権田村に戻った時の彼らの姿は、乞食同然であったといいます。
命令に依ったのでもなく、報酬を期待したのでもなく、数々の危険に身を晒しながら、夫人一行を護って困難な旅を続けた彼らの責任感の強さには、心底感服し、また深い感動を覚えます。

三野村利左衛門は明治十年(1877)57歳で亡くなりますが、その後も小栗夫人らは三野村家で面倒を見たようです。
しかし、その8年後の明治十八年(1885)、小栗夫人・みちは48歳の若さでこの世を去ります。
遺児・クニは、数えで18歳になっていました。

ひとり残されたクニを引き取ったのが、小栗上野介の従妹・アヤ子が嫁いでいた大隈重信でした。
そして、大隈重信夫妻が手はずを整え、前島密が媒酌人を引き受けて、20歳になったクニ矢野貞雄氏を婿に迎え、貞雄氏が小栗家第十四代の当主となります。
明治三十一年(1898)には、めでたく長男・又一が誕生し、小栗家の血筋が現在まで繋がっていくことになります。

因みに小栗家第十七代となるのは、上野介の玄孫にあたる漫画家・小栗かずまた(本名・又一郎)氏です。

上毛新聞社発行の雑誌「上州風」2001秋号に、かずまた氏が倉渕村を訪れた記事が載っています。

その中に、こんな話が書かれていました。
かずまたさんが、小栗上野介を知ったのは中学生のとき。
埋蔵金についてテレビで騒がれていたころ、父親から『うちの先祖の話だぞ』と教えられたという。
そして、初めて来村した時に、終焉の地・倉渕村に碑があることを知った。」

かずまた氏は、こう語っています。
小栗上野介は、完璧なエリート。あらゆる才能に恵まれ過ぎたため嫉妬も多かったのだと思う。
村の人たちは小栗公のすごさを理解し遺族を守ってくれた。だからこそ、今の僕がいるんですね。遠い昔の出来事で実感はありませんが、感謝したいです。」

大河ドラマ「八重の桜」も、そろそろ戊辰戦争に入っていくようです。
どうぞ、小栗上野介の罪なき斬首と、夫人一行の苦難の逃避行のことも重ね合わせながら、ご覧くださいますようお願い致します。

これにて、「八重の桜と小栗の椿」一巻の終わりと致します。
長い間お付き合い頂き、ありがとうございました。




  


Posted by 迷道院高崎at 09:02
Comments(13)小栗上野介

2013年04月07日

八重の桜と小栗の椿(9)

さて、前回は会津若松城が西軍の手に落ちて、乳飲み子を抱えた小栗夫人はいったいどうなるのか、というところまででした。

六月十日に出産を終えた小栗夫人は、しばらく南原野戦病院で養生していたであろうと推測されますが、若松城陥落後どこでどうしていたかは定かでないようです。
しかし、どうやら会津の地で年を越し、翌明治二年(1869)春に江戸へ向かったことは間違いなさそうです。

早川珪村(はやかわ・けいそん)という人が、郷土雑誌「上毛及上毛人」(上毛新聞社)に、大正十一年(1922)二月から11回にわたって連載記事「小栗上野介忠順」を執筆していますが、中島三左衛門と娘・さいから直接聞いた話を、次のように記述しています。
會津藩降伏騒亂鎮定後も尚滯留し、翌明治二年早春江戸に歸らんと會津を發したるも、道路險惡なる上、寒氣も亦峻烈、而して一般の人氣殺氣を帶び、婦女子同行の爲め人夫等に不當酒代等を強請せられたる事數回なり、」

本名:愿次郎、嘉永六年(1853)群馬郡台新田村名主・小池又兵衛の三男として誕生、後に群馬郡与六分村の早川家へ婿入りする。明治十九年(1886)高崎驛宮元町に移り、漢学を学ぶ。後に自分の目と耳で調べた上州の歴史を、早川珪村のペンネームで発表するようになる。
昭和四年(1929)没、享年77歳。

小栗夫人・みちと嬰児・クニ、高崎で処刑された養子・又一の許嫁・(よき)、そして母堂・くに、それを護って同行した中島三左衛門とその娘・さい塚越源忠中沢兼五郎、総勢八名。
江戸へ向かう道中もまた艱苦に満ちたものであったことが、珪村の文から読み取れます。

ようやっとたどり着いた懐かしい江戸東京と改名され、主君であった徳川慶喜駿府城へ隠居、東京城と改名された江戸城の主は天皇となり、敵であった西軍の首脳が支配していました。

小栗夫人は、生家である神田明神下の建部家へ立ち寄りますが、新政府の目を恐れて受け入れてもらうことができません。
自邸であった駿河台の屋敷には、土佐藩士・土方楠左衛門久元が住んでいるという、悲しい有様でした。

余談ですが、小栗邸には日本で最初の洋館がありました。
安政二年(1855)に起きた大地震江戸大火を経験した上野介は、安政七年(1860)遣米使節目付役としてアメリカへ渡った時、それらの災害から守るには日本の木造建築よりも西洋の石造りの建築が良いと考えたのです。

帰国してから、おそらくモデルハウスとしたかったのでしょう、石材と煉瓦を使った強固な洋館を自邸内に造ったのです。
ただ、攘夷論者からの反発を考慮してか、「洋館」とは呼ばず、「石倉」と呼んでいたそうですが。

土方久元は、その「石倉」がひどく気に入ったと見え、江戸城開城の際、小栗邸を接収して前哨本部として使用、そのまま個人の所有にしてしまいます。
ところが、夜な夜な上野介の亡霊が現れて久元を悩ますので、「官軍」と書いた護符をあちこちに貼り付け、供養を行いながら住んだというのですが、さて、どうだったんでしょう。
久元は、後に小石川に転居するのですが、「石倉」をそのまま移築したといいますから、上野介の亡霊もさぞかし唇噛んで悔しがったことでしょう。閑話休題。

さてさて、関東・東北をぐるっと回って江戸へ戻った小栗夫人ですが、いまだ安住の地に辿り着けません。
あともう少し、この話にお付き合いくださいませ。(続く)



  


Posted by 迷道院高崎at 10:55
Comments(4)小栗上野介

2013年04月03日

新説!だから高崎パスタだんべぇ

最近は少し浸透してきたんでしょうかね、「高崎パスタ」
関係者の方々のたゆまぬ努力は、実ってきているように感じてますが。

ただ、正直、なんで高崎パスタ?って気持ちはあるんです。
「パスタ横丁」なんてのがある訳でなし。
パスタ店の数が全国一という訳でもなし。
市民が一日に一回はパスタを食べてるという訳でもなく。

やっぱり、名物には何らかの由緒・所以というものが欲しい訳でして。

と思っていたところ、3月15日の上毛新聞・三山春秋に、こんな話が載っていました。

へー、誰が言ったんだろう?と調べてみたら、木暮孝夫市議の平成22年(2010)12月定例会での発言でした。
高崎パスタに関する部分だけ、抜粋してみました。
木暮市議 本市ではこの「B級ご当地グルメで地域おこしを」という考え方についてどのように評価されているのかお伺いいたします。
商工観光部長本市における「食」の取り組みの現状についてお話をさせていただきますが、本市は全国でも有数のパスタ消費量を誇りまして、身近な食べ物となっていることから「パスタのまち」として親しまれています。昨年今年と2度にわたって開催された「キングオブパスタ」が大きな注目を浴びたことは記憶に新しいところです・・・。
木暮市議本市はパスタの街として親しまれているということでございましたけれども、地図でみると合併した本市の形というのが、なんとなくパスタの本場であるイタリアの国の形と、地図で見るとどことなく似ているというようなことも、売り出すにはいい話題になるのではないか、そんなことも言われてございます。


という訳で、両者の地図を並べてみましょう。

あー、まっ、まぁ、いいんじゃないですか?
似てますよ。

ということで、これからは全市挙げて、これで押し通すことに致しましょう!
イタリアとも友好都市協定を結ばなくっちゃね。
パスタ交流、音楽交流なんかも盛んにやって。

うーん、これはいいかも。



  


Posted by 迷道院高崎at 18:57
Comments(10)◆高崎雑感