2013年02月28日

紫文師匠の銀ブラ日記

小学館発行の、おなじみ「サライ」

3月号の特集は「江戸東京案内」ということで、迷道院としては興味津々、目は燦々、買わなきゃ損々、咳コンコン、ゴホンときたら龍角散。

という訳で、ご本を買いに行ってきました。


「勝手に紫文応援団」を名乗る迷道院は、特に、この記事が読みたかった訳でして。↓

いつもながら、洒落た都々逸を随所にちりばめた、柳家紫文師匠ならではの軽妙なタッチです。

おまけに、師匠の入浴シーンまで!

「コンクリートジャングル」とか「東京砂漠」とか言われる東京ですが、どうしてどうして、今月号を見ればまだまだ江戸が残っていることが分かります。

「お江戸見たけりゃ高崎田町・・・」と謳われた、わがまち高崎
高崎生まれの紫文師匠に、粋な高崎案内文を書いてもらおうという、粋な出版人はいませんかねぇ。


  


Posted by 迷道院高崎at 06:47
Comments(8)柳家紫文

2013年02月25日

八重の桜と小栗の椿(4)

会津藩と、官軍を名乗る西軍との戦いは、越後上州の国境・三国峠から始まります。

弱冠30歳の会津藩小出島奉行・町野源之助(主水)は、慶応四年(1868)閏四月十一日、三百名を率いて三国峠の上州側「般若塚」に陣を構えます。

しかし一向に西軍のやってくる気配がないので、町野は半数を一旦小出島に帰還させ、自身は三国峠に最も近い越後浅外宿に本陣を置いて待機していました。

十五日の夕刻、その町野源之助に面会を求めてやって来た一行があります。
小栗夫人一行の護衛を勤める佐藤銀十郎以下10名の面々でした。

銀十郎は、上野介無念の最後の様子、会津への逃避行の最中であること、三国峠に攻めてくる西軍が殿の憎き仇であること、町野の隊に加わりその仇討をしたいということを、切々と訴えたのです。

町野は、快くその申し出を受け入れます。
そのやりとりを、小板橋良平氏はこのように綴っています。

小栗上野介様には、我が会津藩は誠に多くの御恩を蒙っている。
フランスの万国博覧会に我が藩の横山主税、蝦名郡治両名が留学生として派遣された時も、小栗様が幕府の出品責任者として、何くれとなくお世話に相成ったことは、我が藩一同感謝致しておるところ。また長州征伐の折、苦心捻出した莫大な軍資金も小栗様のお力。
小栗様が江戸より上州権田へお引き上げになる前日も、我が藩の神尾鉄之丞と秋月悌次郎がお別れに参上し、万一の場合は会津へおいで願いたいという話もあったと聞く。
それにつけても奥方は・・・」

はい。奥方様や御母堂様それに若殿の許嫁者日下鉞(くさか・よき)様は、我等の隊長中島三左衛門以下九名の者が護衛して、ひと先ず新潟へ向かっております。
御母堂様の御夫君小栗忠高様が新潟奉行として赴任され、そして任地で病没されました。
そのご遺体が新潟の法音寺に埋葬されておりますので、その墓参をされてから会津城に向かう予定であります。
今頃は十日町か堀之内村に着いている筈でございます。」
(小栗上野介一族の悲劇)

原保太郎、豊永貫一郎率いる西軍が、太鼓を叩きながら上州永井宿に入ったのは、閏四月二十二日頃だったようです。
その手勢は、小栗上野介主従惨殺に関わった高崎・吉井・安中藩をはじめ、沼田・前橋・伊勢崎・七日市・佐野の諸藩、合わせて千三百余名といわれています。

二十四日、ついに戦いの火蓋が切って落とされます。
銀十郎らの運命やいかに!(続く)


  


Posted by 迷道院高崎at 09:31
Comments(0)小栗上野介

2013年02月24日

生さだ さぶかった~!

深夜23:30のNHK前橋
さっぶい風の吹く中、まさか、こんなに沢山の人たちが集まってるとは思いませんでした。

「今夜も生でさだまさし」があるってことで。

例によってクジ運の悪い迷道院は、観覧応募にみごとに外れ、玄関前でまっさんが出てくるのを待ってるグループの一員に。

歓迎幟のつもりで持っていった「上州弁手ぬぐい暖簾」が、お待ちの方にけっこうウケて頂けました。

きっとTVにも映してもらえるだろうという淡い期待も抱きつつ。

しかし、並んだ場所が悪かったのか、はたまた商品の宣伝と思われたのか、TVカメラは背を向けたままでした。

反面、生のまっさんを正面間近で見られる幸運で、人間万事塞翁が馬。

「こんにゃ ぐんまで
    くにさだまさし!」

さび~~~っ!


  


Posted by 迷道院高崎at 08:40
Comments(8)◆私事雑感

2013年02月20日

牡蠣養殖再開おめでとうございます!

三陸から、とても立派な牡蠣が送られてきました。

牡蠣を頂いたことももちろん嬉しかったのですが、もっともっと嬉しかったのは同封されていたお便りです。↓


ネットショップ「旨い!牡蠣屋」を運営している(株)アイリンクのオーナー・齋藤浩昭さんが、東日本大震災で甚大な被害を受けた三陸の牡蠣養殖を復興させようと立ち上げたのが、「三陸牡蠣復興支援プロジェクト」でした。

2012年3月30日で締め切った復興牡蠣オーナーの申込者総数は23,933名、金額にして3億1518万円となったそうです。

このプロジェクトにより支援を受けた方々のメッセージも同封されていましたので、その一部をご紹介いたしましょう。


こういう、顔が見える形での支援って、し甲斐があるなぁと思いました。
ささやかな金額でしたが、少しはお役に立てたんだなと実感できて、嬉しかったです。

牡蠣養殖の再開、心よりお慶び申し上げます。
そして、喜びを分けて頂き、ありがとうございました。




  


Posted by 迷道院高崎at 09:13
Comments(4)◆世事雑感

2013年02月17日

八重の桜と小栗の椿(3)

小栗夫人一行が「野反池」のほとりを通過したのは旧暦の閏四月十二日、新暦では六月二日となります。

レンゲツツジは咲いていたのでしょうか。

権田村から夫人一行を護衛してきた10人に加え、道案内や駕籠方・荷役方・牛方として地元民9名が、これから先の秘境・秋山郷越えの難所に挑みます。

小板橋良平氏著「小栗上野介一族の悲劇」には、同行した地元民の子孫からの聞き書きとして、次のようなエピソードが記されています。

大倉峠の峰付近まで来たとき、山本芳五郎が酒手をゆする心算で、『ここから帰らせてもらう。』と帰るふりをしたら、夫人の家来が突然刀を抜いたので、
『おらあー、あんなおっかねえ思いをしたのは生まれて初めてだ!』と後に述懐したという。

また渋沢から山駕籠に乗って、佐武流山麓から障子峰近くを通行中、疲労と悄愴に加えて妊娠八ヶ月余りのため、ストレスは極限状態に達していたのであろう。
イライラした夫人が
『まだ秋山へは着かぬか。』突然駕籠の中から叫んだ。
『もうじきでがんす。』駕籠かきが答える。
また半刻もすると我慢に耐えきれぬように、
『まだ着かぬか。』
『はあ、じきでがんす。』
またしばらく行くと、
『まだ着かぬか。』
『はあ、じきでがんす。』
また暫く行くと、ますます夫人は苛立って、
『まだ着かぬか。』
『はあ、じきでがんす。』
すると怒った小栗夫人は、
『お前たちは妖怪変化か!』と言うなり、懐剣を抜いた。
山本芳五郎じいさんが、当時を振り返って話してくれたという。」

このように大変な山行の末、一行がやっと信州・和山温泉まで辿り着き、疲れを癒すことができたのは、閏四月十三日のことでした。
和山温泉で二泊した後、再び山道を潜行して越後に入り、反里口(そりぐち)で一泊します。

この頃、東山道副巡察使・原保太郎、豊永貫一郎が、高崎・安中・吉井藩の兵を率いて、三国峠を越え会津討伐に向かっているという情報が、小栗夫人一行にもたらされます。

そして夫人の護衛隊は、驚くべき行動に出るのです。(続く)



  


Posted by 迷道院高崎at 08:53
Comments(6)小栗上野介

2013年02月10日

八重の桜と小栗の椿(2)

小栗上野介と別れて会津を目指した夫人一行の、苦難の逃避行が始まります。

亀沢大井家に避難していた夫人達は、四日夜半、護衛隊とともに闇夜の山道を吾妻境に近い大反(おおそり)に移動します。

西軍の探索の手が伸びる中、萩生村の名主・一場善太郎が命懸けで握り飯を届け、夫人一行は六日まで藪の中に身を潜めていました。

ところが、たまたま付近の民家を探索に来ていた吉井藩士・小林省吾に、発見されてしまいます。
しかし、ここに心温まる秘話があったのです。

そのことが、大正十二年(1923)刊行の「碓氷郡志」に記されています。
小林省吾
教育功勞者を以て其の名聲夙に聞ゆ。吉井藩士にして弘化元年十二月三日大字矢田に生る。廢藩後專力を普通教育の普及に致し、明治三十四年藍綬褒章を下賜せられたが、やがて肺患を得、明治三十七年五月二十三日遠逝す。
教育家として小林省吾の名は夙に知られたれども、血あり涙ある武士としての逸話は未だ之を知るもの少なし。
慶應四年海内騒擾を極め殺気充満せるの時、藩主の命を奉じ小栗上野介を権田村に討ち勇往邁進遂に上野介主従四名を捕縛するに至りしが、曾(かつて)其妻女の妊娠中なるを見て之を斬るに忍びず、草刈籠の中に潜ましめ、竊(ひそか)に人を附し若干の路銀を與(あた)へ、之を會津藩家老横山主税の許に落延びせしめたといふは、實に小林省吾の尋常一様の武士にあらざりしことが思はれる。」

このことは、長い間明かされることがなかったようですが、ある偶然から世に知られることとなりました。
昭和五十二年(1977)発行の「群馬県多野郡誌」には、このような追記がされています。
小林省吾の慈悲により一命を助けられた事實は、上野介一味残黨の外知るものなく、當事者たる小林省吾は敢て恩を沽(う)らず、遂にかゝる事實もあらはれざりしが、明治二十七年に至り多胡村向井周彌翁の中國漫遊に際し、廣島より宮島に至る船中において、はしなくも上野介の近臣某に邂逅し事の顛末を聞くに及び、初めて此の事實を知りたりといふ。
其の近臣某は其の當時、京都府屬で勳七等池田彰信といふ人であった。(向井周彌翁直話)」
小栗夫人護衛隊のひとり池田伝三郎のこと。後に京都で警察官となった。

このことがあってから、多数での行動は目立つとして、須賀尾から先は二手に分かれて進むことにします。

草刈籠の中で息苦しい思いをしていた小栗夫人は、ここからやっと山駕籠に乗り換えることができ、長野原から生須、花敷を経て和光原を目指します。

一方、小栗母堂鉞子は、万騎峠→応桑→洞口→小雨→和光原というルートを取ります。

苦難の末に和光原で落ち合った一行ですが、ここから再び二手に分かれ、次に落ち合う先は越後堀ノ内村とします。
母堂一行は、善光寺参りに扮して草津温泉から渋峠を越えて越後を目指します。
夫人一行は、野反池(野反湖)から秘境・秋山郷を経て越後を目指します。

今、野反湖へ行く途中の道端に「小栗清水」という看板が立っていますが、夫人達はここで渇いた喉を潤したということです。

この後、越後へ向かう夫人一行に、運命ともいうべき出来事がやってきます。(続く)

「小栗上野介一族の悲劇」は著者・小板橋良平氏が、小栗夫人一行の辿った道を大変なご苦労をされて実地踏査されたものです。
本ブログ記事は、そのご苦労に感謝しつつ、氏の著作を参考にさせていただきました。)


  


Posted by 迷道院高崎at 09:15
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2013年02月06日

第3回 高崎五万石騒動義人祭

2月3日、高崎市東町にある「高崎五万石騒動義人堂」で行われた第3回義人祭に参加させて頂きました。

司会進行は、ブロ友のいちじんさんです。

りっぱな紋付羽織袴のいでたちは、五万石騒動を世に伝えた細野格城と髭の長さがほぼ同じになったからとのこと。
格城さんのお髭は、いちじんさんのブログからどうぞ。

翌日の2月4日は、大総代の柴崎村・高井喜三郎、下中居村・佐藤三喜蔵の二人が、この地で処刑された日です。

上毛新聞が、ちょうどその命日に義人祭の記事を掲載してくれました。

大総代辞世の句です。

 望みなき身は今日かぎり散りぬるも
    なゝたび生まれかなへてやみむ

佐藤三喜蔵 享年52歳

 吾人のためともなれと身をすてて
    いまいけにへとなりしうれしさ

高井喜三郎 享年42歳

三喜蔵喜三郎を救おうと岩鼻県庁へ願い出てそのまま捕われ、9月7日に処刑された、上小塙村の大総代・小島文治郎の辞世。
 人のため草葉のつゆと消ゆるとも
        名を後の世に残すうれしさ

小島文治郎 享年46歳

「義人堂」には、この騒動の暗雲と混濁をイメージさせるレリーフの、立派な石碑が建っています。

設計は、高崎の誇る工芸家・水原徳言(みはら・とくげん)氏です。

裏面の建設経過を見ると、なかなか大変なご苦労があったようです。

この日頂いた資料には、当時の商工会議所副会頭の吉野五郎氏が50万円を、碑石は永井石材店が寄贈したとあります。

たくさんの方々によって伝えられてきた郷土の歴史です。
「義人堂」の前に立ち、140年前の出来事を通して、世の行く末を考えてみるのもまた一興かと。


【高崎五万石騒動義人堂】


  


Posted by 迷道院高崎at 12:14
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2013年02月03日

八重の桜と小栗の椿(1)

今年の大河ドラマ「八重の桜」は、滑り出し好調のようですね。
会津はもちろん、おとなりの安中でも様々な取り組みで盛り上がっていますが、わが高崎はしーんとしております。
で今回は、高崎だって関係あるんだぞー!ってお話を一つ。

山本八重が、スペンサー銃を担いで会津鶴ヶ城に籠ったのは、慶応四年(1868)八月のことだそうです。
それを遡ること3ヶ月の閏四月四日(太陽暦:5月25日)、その会津に向けて密かに権田村(現高崎市倉渕町権田)を発つ一行がありました。
小栗上野介忠順(おぐりこうずけのすけ・ただまさ)の母・くに(63)、妊娠八ヶ月の妻・道子(30)、養子・又一の許嫁・鉞子(よきこ15)、それを護衛する家臣と、同行を志願した村民、総勢21名です。

その日、忠順はこのように言って最愛の家族を送り出したそうです。
わしのことについては心配致すな。
皆はすぐ此処を発って、越後を経て会津に行き、会津城の家老西郷頼母殿、同じく駿河台の吾が家をよく訪れた横山主税殿、さらには吾々が江戸を引き払う前日、訪ねてきた秋月悌次郎殿もおられる筈、事情を話してその方達を頼られよ。
きっと身の立つよう取り計らってくれるであろう。
お母様はもとより、於みち(道子)は身重な体、くれぐれも身をいとえよ。」
(小板橋良平氏著「小栗上野介一族の悲劇」)

東山道先鋒隊副巡察使・原保太郎豊永貫一郎率いる高崎、安中、吉井三藩の兵800人(一説には千人)が、東善寺の正面と裏山の二手からなだれ込んできたのは、その翌日でした。
相当の戦いとなることを予想していた新政府軍が目にしたのは、平服のまま本堂中央に落ち着き払って端座している小栗主従4人の姿でした。
話せばわかると、抵抗もせず捕縛された小栗主従は、何の取り調べもないまま、一夜明けた四月六日、烏川水沼河原で斬首されてしまいます。

東善寺にある小栗上野介忠順の供養墓脇には、樹齢百数十年の椿の木が植えられています。

「崑崙黒(こんろんこく)」という、八重咲の黒椿だそうです。

それを見るには5月まで待たなければなりませんが、待ちきれない方はこちらをどうぞ。

忠順を護るかのように並ぶ家臣の墓にも、会津と関係の深いものがあります。

説明板に「戦死」とあるのは、彼らが護衛の途中から会津勢に加わり、新政府軍と戦って命を落としたからです。

さて、その経緯は、そして夫人一行の運命や如何に。(続く)


【小栗上野介忠順終焉の地】

【東善寺 小栗の椿】


  


Posted by 迷道院高崎at 09:02
Comments(4)小栗上野介