2012年10月31日

控帳 「二宮金次郎のこと」

二宮金次郎のことについて、知らないことが多かった。

特に、成人してからの金次郎については、ほとんど知らなかった。

児玉幸多編「二宮尊徳」、長澤源夫編「二宮尊徳のすべて」から拾ってみた。

身長6尺(182cm)・体重25貫(94kg)・足袋は11文半(27cm)。 声は野太く、雷のようであった。

祖父・銀右衛門は、常に節倹を守り家業に力を尽くし頗る富有であったが、父・利右衛門は村人から善人と呼ばれるほどで、人に与えたり貸したりすることを厭わず、そのため数年で衰貧極る状態となった。
それでもその貧苦に甘んじ、人に与えたものの報いを求めようとはしなかった。

天明七年(1787)、父・利右衛門(35)、母・よし(21)の長男として、相模国足柄上郡栢山村(現・小田原市)に誕生。
付けられた名前は「金郎」であった。
32歳の時、小田原藩主・大久保忠真(ただざね)から「行為奇特、村為相成」として表彰され、1年間の租税を免除されるが、その証文に「金郎」と記載されたため、以降、公の場では「金郎」を用いるようになった。
「尊徳」は56歳の時に名乗った諱(いみな)で、「たかのり」と読む。

5歳の時に酒匂川が氾濫、利右衛門の田畑はすべて石河原となり、ますます家計困窮する。

病気の父に代わり、12歳から酒匂川堤防復旧の夫役に出る。
小さくて一人前の仕事ができないのを嘆き、力不足の代わりにと夜中まで草鞋を作り、翌朝人々に渡した。
また、草鞋を売った金で、酒好きの父のために一日一合の酒を買う。

14歳の時、父・利右衛門没す。
一家四人の生計を立てるため、朝は早くから山で薪を伐り、夜は遅くまで草鞋を作る毎日となる。
各地に建つ二宮金次郎像は、この14歳の時の姿である。
この像の元となった薪を背負い本を読みながら歩く姿は、明治二十五年(1892)出版の幸田露伴著「二宮尊徳翁」の口絵から。

16歳の時、母・よし没す。
弟二人は母の実家へ、金治郎は伯父・万兵衛に引き取られる。
油菜を土手で栽培し菜種八升を得て夜学の灯明に使ったという話や、農民の捨てた苗を荒地に植えて1俵の籾を得たという話は、この頃のもの。

18歳の時、万兵衛方を出て名主・岡部伊助方に奉公し、習字・読書の教えを受け、岡部父子が招いた学者の講義を室外から聞いて学ぶ。
空いた時間で農耕をし、米5俵を得る。

19歳で岡部方を辞し、親戚名主・二宮七左衛門方に寄食する。
酒匂川堤防の普請で貰った賃金は名主に預け、一貫文貯まると村内の貧困者に分け与えた。

20歳の時、廃屋となった自家を修理してここに移り、父が質に入れた下々田を買い戻す。
24歳の時までに買い戻し或いは買い入れた田畑は一町四反五畝二十歩となり、二宮家再興なる。
お礼参りとして、江戸見物、伊勢参り、京都・奈良・大阪などを巡拝する。

26歳の時、小田原藩家老・服部十郎兵衛の中間となる。
これが、後に各地の財政再建に取り組む発端となる。

服部家は、禄高千三百石であったが、借金が千両余あり返済することができなくなっていた。
金治郎が見事に家を再興した話を聞き、服部家の家政復興を依頼してきた。
金治郎は農民の身で武士の家の再興などできないと固辞したが、再三再四の依頼についに引き受けることとなった。

金治郎服部家の収支を分析し、借金を5年間で返済することを決めて十郎兵衛と下男下女に、その道筋を説いた。
その仕法(方法)は、毎年の収入から毎年の返済額を引き、残った額で生活をするように節倹に努めるというものであった。
この「分度」(生活に必要な基準を決める)・「勤倹」(倹約をして余剰を生み出す)・「推譲」(余剰分を自・他に譲る)という考え方が、「報徳仕法」の基本となる。

5年後、借金はすべて返済し尽くし、三百両の金が残った。
金治郎は、このうち百両は主家非常時の費用にと十郎兵衛に、次の百両は服部家非常時の費用にと奥方に、残り百両は節倹に努めた下男下女の褒美に分け与え、自分は一切の報酬も手にしなかった。

36歳の時、小田原藩主・大久保忠真の命を受け、下野国桜町領(現・栃木県二宮町及び真岡市)の復興を10年の計画で着手する。
しかし、様々な人の妨害・讒言に阻まれ、7年経っても進捗は芳しくなかった。
思い余った金治郎は江戸からの帰途消息を隠し、成田山で二十一日間の断食修業を行う。満願の日、桜町代官が迎えに来て帰任するが、これ以降、村人の心も変わり仕法は順調に推移する。
その後、桜町での成果を聞き及んで、各地から仕法を懇願してくるようになる。

安政三年(1856)、金治郎は仕法中の日光今市で70歳の生涯を閉じるが、この間、携わった仕法は全国610ヵ所余り。

金治郎は謙遜な人物で、自らの功績をあまり語ろうとしなかったが、門人の富田高慶(とみた・たかよし)が安政三年(1856)に「報徳記」を、福住正兄(ふくずみ・まさえ)が明治十七年(1884)に「二宮翁夜話」を著し、金治郎を語る原典となっている。



  


Posted by 迷道院高崎at 09:22
Comments(2)◆隠居の控帳二宮金治郎

2012年10月28日

藤塚の洪水碑

「伝者繁栄碑」で道草を食ってから、だるまの大門屋の前を通り過ぎると、地下からにょっきり生えているような石鳥居が見えてきます。

近くまで行くと、道路より低いところにこじんまりしたお宮があります。

藤塚「大神宮様」と呼ばれているそうです。

お宮の右に、「洪水記念之碑」というのが建っています。
漢字を拾い読みしてみると、明治四十三年(1910)のこの地域の洪水について、こんな風に記されているようです。
明治四十三年八月十日の暴風雨で碓氷川に大水が出て橋が流され、藤塚村は低地で人家も岸に近いので、鐘を打って近村に助けを求めたが、風雨はますます激しくなって、ついに堤防は決壊して村中が濁流に浸かった。
人は皆あわてて、梁につかまり屋根に上がり、泣き叫ぶ声は夜通し続いた。
翌十一日の明け方になって、ようやく水の勢いは弱まったが、流失家屋18戸、損壊2戸、半壊50戸、溺死者2名、生死不明者1名であった。(略)
九月六日、侍従日野根要吉郎は県知事神山潤を派遣して、天皇陛下のお言葉を下賜された。
また、皇族諸侯からも見舞金を賜り、村民は感泣した。(略)
翌年、堤防を再築し全復旧を得た。(略)」

裏面には、「大正七年 大字藤塚建之」と刻まれています。

さらに、お宮を挟んだ左には、「射水神」(いみずしん)と刻まれた大きな石碑があり、裏面にはこう刻まれています。
大正九年六月向山字赤岩下山林面積約二町歩ニ大地滑ヲ生ジ、地先碓氷川流域ヲ閉塞シ水勢部落ニ氾濫シ村民ハ狼狽憂懼直ニ善後策ヲ講シ、其筋ノ踏査ヲ申請シ時ノ長官大芝知事ノ決済ヲ経テ延長五百弐拾餘間ノ河岸修築工事ヲ住民請負ニテ堅牢ヲ主トシテ完了セリ、為ニ村民ハ漸ク其堵ニ安ンズ、茲ニ築堤ヲ永遠ニ守護シタマヘル射水神ヲ奉戴シテ建立スルナリ
 大正十一年二月
       寄附者 瀧澤喜市」

大正九年(1920)に、碓氷川対岸の山林約2万㎡が滑り落ち、土砂が碓氷川の流れを堰き止めて氾濫した、とあります。
皮肉にも、「洪水記念之碑」を建立したわずか2年後のことです。

とにかく昔から、この藤塚地区は碓氷川の氾濫に悩まされてきたようです。
対岸の少林山達磨寺の縁起さえ、碓氷川の氾濫が元となっています。
延宝【えんぽう】年間(1673―1680)のはじめころ、大洪水があって碓氷川が氾濫したときのことです。
水が引けたある夜、村人が川の中に何やら怪しく光る物を見つけました。 不思議に思った村人達は夜が明けるのを待って調べてみると、どこから流れついたのか奇異な形の黒光りする大きな古木でした。 そして引き上げてみると、お香のような良い香りまでするのです。
みな不思議に思い、霊木として観音堂に奉納しておきました。
それから数年過ぎた延宝8年(1680)の春、この鼻高村に諸国を廻る一了【いちりょう】という老行者がわざわざたずねてやってきました。
不審に思った村人がここに来た訳を尋ねると、一了老人は不思議な夢の話をしました。 それによると、ある時達磨大師が夢枕に立たれて言われるのに、「一了よ、鼻高の聖地に霊木があるから、坐禅をしているこの私の姿を彫りなさい。」と申されたので尋ねてきたのだそうです。 村人はすぐにあの霊木だと気がつき観音堂に案内しました。
一了老人は涙を流して感激し、さっそく沐浴【もくよく】して身を清め、信心を凝らして、ひと彫りするごとに五体投地【ごたいとうち】の拝礼を三度する、一刀三礼【いっとうさんれい】という最高の彫り方で四尺ほどもある達磨大師の坐禅像を彫り上げました。

さて、その達磨像を観音様と並べて安置しようとしましたが大きすぎて納まりません。 困っていると、ある日碓氷川に朽ちて大きな穴の開いた大木が流れつきました。
村人達はまた観音堂に運ぶと、一了老人は達磨大師の厨子に丁度良いのではないかと思い、入れてみると不思議にもぴったりと納まりました。
村人達は一了老人が心を込めて素晴らしい達磨像を彫り上げたので、「有難い達磨大師が鼻高に現れたぞ!」と噂をするようになりました。
この達磨座像の噂は、たちまち近郊近在に知れわたり「活然【かつねん】大師(達磨大師のこと)出現の霊地」として、誰言うとなく村の人たちが「少林山」と呼ぶようになったそうです。」

さらに下って昭和十年(1935)、またもや碓氷川は氾濫し、藤塚地区を襲います。
ちょうどこの時、少林山洗心亭に仮寓していたブルーノ・タウトが、乏しい生活費の中から贈った義捐金は、「お見舞 ブルーノ・タウト」と書いた大バケツとなって各戸に配られ、残金は貧困家庭に分けられたそうです。

タウトは、群馬県に対して高い堤防の建設も陳情しています。
その堤防は、昭和十一年(1936)タウト洗心亭を去って間もなく着工され、現在も藤塚地区を護っています。


【藤塚の洪水碑】



  


Posted by 迷道院高崎at 10:05
Comments(2)中山道

2012年10月24日

黄葉と霧氷と…池の平湿原

浅間山に初冠雪という今日、落葉松の黄葉を求めて「池の平湿原」へ行ってきました。

昼近かったんですが、寒暖計は2℃を示しています。
隣の最高最低温度計を見ると、最低気温は-6℃、最高気温は27℃のようです。

木々の梢は、霧氷で白くお化粧されていました。→







←水の塔山かなぁ、山の頂も霧氷か雪か、粉砂糖をまぶしたようになっています。

三方ヶ峰の火口壁が崩れてできたという「放開口」

遥か眼下に見えるのは、小諸の町でしょうか。





視線を遠くの山に向けると、富士山の姿がはっきりと見えました。

富士山も、うっすらと雪化粧です。

ほとんど人に出会わない静かな木道。
広々とした湿原を、一人占めできます。






少し山の中に入ると、日の当たらないところには、りっぱな霜柱がにょきにょき立っています。

稜線に生える木々の梢は霧氷に閉じ込められていますが、その芽は既に春への準備をしています。↓


稜線からの眺めは、絶景、絶景!



途中、こんな光景が。→

倒木更新とは少し違うようです。
倒れた木の枝が、それぞれ独立した木のように成長しているのでしょう。

逞しいもんですねぇ。


帰り道、鹿沢「たまだれの滝」付近で素晴らしい紅葉を見つけました。


今年は、なんやかんやで、なかなか紅葉見物に行けませんでしたが、
やっと出会えました。
紅葉も、これから、だんだん里に下りてくるでしょう。
そのあと、やって来るんですね、冬が。


【池の平湿原】


  
タグ :池の平湿原


Posted by 迷道院高崎at 21:56
Comments(6)◆出・たかさき

2012年10月21日

♪泉に水汲みに来て♪

音楽センターを目的に来るのは、久しぶりのような気がします。

今日は、おもちゃの兵隊さんのようないでたちをした人が、たくさん集まっていました。
マーチングフェスティバルの日だったんですね。

私の目的は、こちら。
「ここに泉あり」の上映会です。

マーチングフェスティバルの盛大な盛り上がりを横目に、じみーな案内ビラが貼られていました。
収容人数二千人の観客席に、百人ほどの方が入ってました。

何度かこの映画を見たはずなのですが、初めて見るようなとても新鮮な感動を覚えました。
モノクロで所々傷が入り、音もブツブツと雑音が混じりますが、それすら子どもの頃に見た映画の懐かしさを、思い出させてくれます。

今はもう見られない高崎の町なかの風景、懐かしい高崎駅の駅舎、アパートのようになっていた連隊の中の風景、楽団が訪れる山村の風景、貧しさの風景、どれもこれもが記憶の中から蘇ってきます。

それにしても、岸恵子さんは美しい。
大滝秀治さんの映画デビューが、この「ここに泉あり」だったと、亡くなってから知りました。
ヴァイオリン弾きの役で出ていたんですね。

この映画を音楽センターで見ることに、意味があるように思います。
もっと頻繁に上映して、高崎市民はもちろん、高崎を訪れた人もひょいと見られるようにしたら、良いのではないでしょうか。
せめて「高崎音楽祭」期間中の、土日だけでも。

今日の次なる目的は、ここ。
「高崎まちなか寄席」です。

元ヤマハ音楽教室が使っていた、小泉ビル





この後も、こんなことを考えて
           いるようです。→

幟と暖簾は下がっていますが、なんか盛り上がりに欠けるなぁと思っていたら、スタッフの方もそれを感じたようです。

すぐに、寄席のお囃子のCDを用意して、流し始めました。
その、気の利き方と行動の速さがいいですねー、気に入りました!

3階に設けられた会場は、お年寄りにはちょっと階段がきつかったようで、もう少し低い階の方が良かったでしょうね。

高座も、その名のとおり高かったですねぇ―。
噺家さんがトンネルでも潜るように高座に上がって、首が金屏風の上に出ちゃってましたからね。
ま、おかげで客の方からは、よく見えてよかったんですが。

古今亭今輔さんの創作落語、よかったです!
演題も「群馬伝説」
そうそう、今輔さんのブログ「上州弁手ぬぐい」を紹介して頂いております。
今日、お礼を申し上げることができました。

師匠の古今亭寿輔さん、なんとも飄々としたいい味の噺家さんです。
私、こういう芸風、好きですねぇ。
噺の締めで、こんなことをおっしゃっていました。
古典落語ってのはね、素晴らしいんですよ。
だけどね、噺家の「噺」ってのは、「口偏に新しい」って書くんですよ。
古いものをただそのまんまやってたんじゃ、ダメなんですよ。若い人に分かってもらって、面白いと思ってもらわなきゃダメ。
そのためには、古いものに新しいものを入れていくんです。
新しいことをやるのは苦しいんです。苦しくってもやらなきゃダメなんです。
「高崎まちなか寄席」も、これからもっと沢山の噺家を呼んで、定席の寄席ができるようにしてって下さい。
それは、お客様の力、特に若い方の力ですよ。」

ここのところ、高崎の町なかが変わってきたように感じています。
というか、変えようという雰囲気、風を感じられるようになってきました。

「ここに泉あり」に終戦直後のバイタリティを感じ、「高崎扇亭」高崎の若いエネルギーを感じました。

今日は、泉に水を汲みに来てよかった。

  


Posted by 迷道院高崎at 20:54
Comments(8)高崎町なか

2012年10月17日

控帳 「取ると施すとの二つに止まれり」

夫れ国家の政体は多端(たたん)なるが如しといへども 
 之を要するに 取ると施すとの二つに止(と)まれり。

国の政(まつりごと)は多岐にわたっているように見えるが、要は、(民から)取ることと、(民に)施すことの二つだけである。
(富田高慶著「報徳記」より)

これは、財政破綻に陥っていた陸奥国相馬中村藩の家老・草野正辰が、二宮金次郎に復興の教えを乞いに行った時、金次郎が語った言葉。

中村藩(現在の福島県相馬市)は高六万石だが、元禄から正徳にかけての開墾で石高以上に田畑が増え、領民は豊かな暮らしができていた。
それを見た藩は検地をやり直し、新たに三万八千石分の年貢を徴収することにした。
これにより、藩の米蔵と金蔵は溢れんばかりとなり、それに応じて藩士たちの俸禄も増え、その生活は節倹を忘れ奢侈に流れるようになった。

一方、年貢が重くなったことで領民の生活は衰え、加えて天明期の大飢饉により、飢渇・死亡・離散する者おびただしく、村は人が減り、戸数が減り、増えるのは荒地ばかりとなった。
ために、藩の年貢収納は三分の一に減り、やがて蓄えもなくなって、藩自体が困窮することとなる。
藩は隣国や江戸の豪商から米や金を借り、膨らんだ借金で、もはや一年の租税では利息も返せぬ状態に陥る。

その時、藩主・相馬益胤(ますたね)に意見具申したのが、郡代を務めていた草野正辰(まさたつ)と池田胤直(たねなお)。
二人は、藩主自ら飲食・衣服を節約し、藩士の俸禄を減じ、万事一万石の大名の収支を基準にして節倹に励むよう忠言する。
これが藩主の心を打ち、二人を家老職に就けて復興に取り組むこととなった。

藩政がやっと安定しかかった時、天保期の飢饉が襲い、蓄えは再び底をつき、ついに二宮金次郎の力を頼ることとなった。
その時、金次郎が語ったのが、冒頭の「夫れ国家の政体は・・・」という話だった。
現代語訳で全文を見てみよう。

そもそも藩の政務は複雑多岐にわたるようでありますが、要約すれば、取ること、施すことの二つに尽きます。
この二つをおろそかにして何がありましょう。
盛衰も安危も、この二つに由来します。存亡・禍福もそうです。
ところが世間では、国の盛衰の理由を考えない。これでどうしてその衰廃を興すことができましょうか。
なぜなら、取ることを優先すれば国は衰え、民は窮乏し、恨みの心が生じ衰弱が加わる。
ひどいときには国家を傾け、滅亡に至らしめるほどである。
施すことを先にすれば国は栄え、民は豊かになる。領民はよく帰順し、上下とも富み、百代を経ても国家はますます平穏である。
聖人の政は恩恵を施すことを第一の務めとし、あえて取ることに心を用いない。
暗愚な主君は取ることを優先して、施すことを嫌う。
国がよく治まることもまた乱れることも、その原因はすべてここにあるのです。(略)
まず与えなければ民はその生を安んずることはできません。
民が貧しい時には我儘(わがまま)で邪(よこしま)になる。
ついに年貢は減少し、土地は荒廃し、上下の大きな心配となります。
与えることを第一にする時には、民はその生を楽しみ、なりわいを楽しみ、土地は毎年に開墾され、生活に必要な物資に困ることはなく、国の衰廃は求めても得られなくなります。(略)
私が荒廃した土地を開墾し、百姓を慈しみ、その恩恵が他領にまで及んだのは特別なことではない。
ただ与えることを第一の務めとしたためです。
相馬藩が衰えて貧しいといっても、大いに恩恵を施し、領民を慈しむときには、どうして復興しないことがありましょう。」
(児玉幸多氏編「二宮尊徳」【報徳記】より)


金次郎のことを、もう少し調べてみたくなった。


  


Posted by 迷道院高崎at 18:56
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2012年10月13日

号外!高崎まちなか寄席 2012!


やってきました!
高崎まちなか寄席!

数年前に高崎で行われた全国イベントの際に「高崎扇亭プロジェクト」を立ち上げ、期間中17回、73名の噺家を招いた大興行を成功させた高崎青年会議所元理事長の清水篤司さんが、定期落語会『高崎まちなか寄席』をスタートする。」
高崎市物産振興協会「物産日記」より

プロジェクト名の「高崎扇亭」は、知る人ぞ知る高崎藩主・大河内家の家紋「高崎扇」が由来。

そんな高崎ならではの「高崎扇亭」を、なんとか、定席の寄席にしたいものです。
それには、大間々「ながめ余興場」みたいな場所が欲しいところですが、どこかにないもんでしょうかねぇ。

ともあれ、今回の「高崎まちなか寄席」、なかなか捻りが利いてます!
10月21日(日)は、群馬観光特使に就任したばかりの古今亭今輔さんと、師匠・寿輔(じゅすけ)さんによる「爆笑親子会」

11月18日(日)は、子どもでも分かりやすく楽しめる「子ども寄席」

かと思うと、12月9日(日)は、成人向け「粋な大人が楽しむ落語」
高崎が生んだ(本当に生んだのはお母さん)、三味線エンターテナー・柳家紫文師匠が登場します!

行きましょう!見ましょう!聞きましょう!
「高崎扇亭」を、どうぞよろしくお願い致します!


【10/21 小泉ビル】

【11/18 玉田寺】

【12/9 Gru(グルー)】


  


Posted by 迷道院高崎at 19:18
Comments(2)柳家紫文

2012年10月10日

伝者繁栄

鎌倉街道板鼻境まで辿った帰り道、八幡八幡宮遠鳥居で道草を食べました。

源頼朝鎌倉に幕府を開くにあたって、八幡宮の社殿を改修し、並木参道を開き、同時に建てたのが、この遠鳥居だと言われています。

遠鳥居の額に書かれている「八幡宮」の文字は、武蔵坊弁慶の書だと伝わっていますが、さて。

八幡様といえば戦の神様ですが、先の戦争において、東京始め日本の大都市が相次いで空襲を受けるようになった昭和二十年(1945)三月のある日、この遠鳥居が突然倒れてしまったのだそうです。(八幡村史)
不思議といえば、不思議な出来事です。

戦後の混乱で暫くそのままになっていましたが、八幡町出身の湯浅梅太郎氏の奉納により、昭和二十七年(1952)鉄筋コンクリート製の遠鳥居が再建されました。
場所は現在地より50mほど南の国道沿いでしたが、その後、国道拡幅のために撤去され、平成二年(1990)現在地に今の鳥居が新設されました。

遠鳥居の手前に、石玉垣で囲まれた一角があり、御神燈や石碑が建っています。

玉垣の柱には寄進者の名前が刻まれていますが、その中に、高崎の呉服商で貴族院議員だった櫻井伊兵衛氏の名も見えます。
この玉垣は、安政五年(1858)に造られたものだそうですから、三代目の櫻井伊兵衛氏でしょう。

石碑の中に、「石柵上棟 伝者繁栄」というのがあります。

この碑は、石玉垣を奉納した記念に建てられたものだそうですが、「伝者繁栄」とはどういう意味なのでしょう。

石玉垣を寄進した人の繁栄を祈願したもののようにも思えますが、私は、「伝うれ者(ば)繁り栄える」と読みたいのです。

歴史を伝える史跡を大切にして後世に伝え、そこから学ぶことで繁栄することができる。
そういう思いを込めた「伝者繁栄」碑ではないかと思うのです。

その意を受けてでしょうか、昭和五十四年(1979)に建てられた「杉並木を偲ぶ碑」という、石碑もあります。
此処八幡宮参道には鎌倉時代から杉並木が存在したが、昭和四十三年にすっかり枯れ、伐採された。
八幡村に生まれ育った者にとって、あの杉並木が消えたことは幼き日の想出が断ち切られた思いである。
そこで此の碑を建てて、心の縁としたい。」


しかし、それらの記念碑の前には、「伝者繁栄」の思いとは全く異なる光景が広がっていました。


「伝者繁栄」を願った石玉垣は、ゴミ置き場の烏除けネットや看板を取り付ける、構造物でしかなくなっています。

何とも悲しい気持ちになって国道へ戻ると、信号の角の工場入り口に文化十三年(1816)の小さな道祖神が、建っていました。

嬉しかったのは、車やフォークリフトで壊さないようにという配慮なのでしょう、しっかりとした土台と、トラマークの柱で守られていたことです。

少しほっとした気分で前方を見ると、少林山への歩道橋が夕日に映えていました。

歩道橋の左右にある「3」の字型の照明灯は、だるまをイメージしているそうです。
これも、伝えていきたい高崎の名物ですね。

「伝者繁栄」、そういう高崎であって欲しいと思います。


【「伝者繁栄」碑】


  


Posted by 迷道院高崎at 21:54
Comments(4)中山道

2012年10月06日

脇本陣 壁の下張り

「上州中山道全七宿めぐり」倉賀野宿を通る時、脇本陣の建物を覆う養生シートにびっくりしたことをブログに書いたところ、日頃お世話になっているN先生からメールを頂戴しました。

「(脇本陣の)漆喰壁に和紙と新聞紙の下張りがしてあるので、明日剥ぎ取りを行う予定。時間がありましたら覗いてみてください。手伝い可。すごい埃覚悟で。」

こりゃ滅多にできない貴重な経験です。

ということで、ヘルメット、防塵マスク、防塵メガネ持参でお邪魔することに致しました。

初めて入った脇本陣の内側。

相当解体が進んでいて、一階部分は骨組みだけになっていました。



作業は二階部分で進行中でした。
塵埃濛々たる作業場を想像してましたが、その日が雨だったせいか、埃はほとんど舞ってませんでした。

壁には、大正元年発行の「萬朝報」と、その下に、筆文字の書かれた和紙が見られます。

「脇本陣」ということで、江戸時代の建築のように思われていますが、実はこの建物、明治時代に建て直されています。

ただ、その時期は明治二十年(1887)代とも、明治三十六年(1903)とも言われ、定かではありません。
今回、大正元年の新聞紙が壁の下張りに使われていたということで、もしかすると、新しい説が生まれるかもしれません。

作業は、霧吹きで水を含ませながら、丁寧に、丁寧に、剥いでいきます。

水気が足らなければ剥がれないし、多すぎれば破けてしまうしということで、なかなか大変な作業です。





剥ぎ取った一枚には、通い帳の表紙でしょうか「明治廿三年(1890) 油之通」と書かれています。

大正元年の新聞紙の下に、明治二十三年の通い帳が貼られていたことになります。
まだこの後、日付の書かれた紙が出てくるでしょうから、いずれ建物の再建時期もはっきりしてくるでしょう。

せっかくの機会なので、私も剥ぎ取り作業を少しだけやらせて頂いたのですが、なかなか根気のいる作業でした。
短気な私がやると、まるでジグソーパズルのようにコマ切れになってしまいます。
貴重な資料を台無しにしてもいけないので(ほんとは、根気が切れたのですが)、お昼になったのを口実に引き上げさせて頂きました。

ともあれ、この貴重な経験をさせて下さったN先生、邪魔者扱いせずに受け入れて頂いた関係者の皆さま、大変ありがとうございました。
学術的な研究というのが、如何に地道で大変なものかということが、よく分かりました。
これからは今まで以上に、感謝して、諸先生方の研究結果を使わせて頂きます。


【倉賀野宿脇本陣跡(須賀喜太郎家)】



  


Posted by 迷道院高崎at 19:16
Comments(10)倉賀野