2010年05月16日

町の元標、道の元標

高崎の町なかへよく行く人は、どこの交差点かすぐ分かるのでしょうね。
注目して欲しいのは、写真右下の石柱です。
写真をクリックすると、何が写っているのか分かります。

歩道側からは文字が見えませんので、もしかすると、初めて見た方もいるんじゃないでしょうか。

ここは、連雀町交差点です。
「雀が連なる」と書くだけあって、いつも沢山の人が行き交うところです。
アングルに人が入らないタイミングを待つのに、一苦労しました。

井伊直政高崎の城下町を整備するにあたり、箕輪城下の住人や町名まで移設したことは、よく知られています。

箕輪城下には、現在高崎の町なかに使われているのと同じ旧町名がありました。

連雀町もその一つで、城の大手前から一直線に伸びていることが分かります。

高崎城下の町割りをする時も、まず大手門から真っすぐ伸びる連雀町の位置を決め、そこから南北に地割をしたのだそうです。 →

ところで、「連雀」とは「連尺」とも書いて、荷物を背負うのに使う「背負子(しょいこ)」のことだそうです。
その「連尺」を背負った各地の行商人が城下町に集まって、物を売っていた所が「連尺町」だということです。
集まって来る沢山の行商人の様を、沢山の雀と見て「連雀」の字を充てたのではないでしょうか。

高崎城大手門前から連雀町をまっすぐ進んで中山道に交わった所が、現在の連雀町交差点です。
ここに、冒頭の「高崎市道路元標」が建てられている訳ですが、連雀町「町の元標」とあれば、「道の元標」をここに選んだのも理解できます。

「道路元標」とは、明治六年(1873)に政府が各府県の道程(みちのり)を計測するため、道路の起点・終点となる場所に設けたものです。
ただ、現行の道路法による起点・終点は、必ずしも「道路元標」に拠らないため、撤去されてしまったものも多いそうです。
古いものに執着しない高崎市に於いて、「道路元標」が残っているのは奇跡かも知れません。

実は、大正六年(1917)頃に撮影された「高崎市道路元標」の写真が残っています。

写っている店舗は、連雀町交差点の東南角にあった、「なべや支店」という、牛肉屋と西洋料理店を兼ねた店です。

二階の天井にも届こうという立派な「道路元標」で、今残っていたら、さぞかし名物になっていたことでしょう。

「なべや支店」は、昭和三年(1928)、蕎麦店「甲子(きのえね)食堂」に建物を譲ります。

右の写真は、昭和十年(1935)頃に撮られたものですが、既に立派な「道路元標」は姿を消しています。
この間に、小さなものに置き換えられたと思われます。

現在の「道路元標」は、最近作られたもののようですから、三代目なのでしょうか。
よく残して頂いたと、拍手したい気持ちではありますが・・・。

(参考図書:「高崎の散歩道 第十二集下」「たかさき町知るべ」「高崎百年」)


【高崎市道路元標】


  


Posted by 迷道院高崎at 07:08
Comments(16)高崎町なか