2010年05月09日

下田邸の四者会談

車座になって、何やら会談している男四人。
一人は捨蚕(すてご)氏、また一人はいちじん氏、もう一人は夢寅氏であります。

そして、撮影したのは迷道院

あ、肝心な方をお一人忘れておりました。
高崎市教育部文化財保護課の上村和夫先生です。

この日は、「続・和風図書館」の記事に頂いた、いちじんさんからのコメントがきっかけで、箕輪の名家・下田邸の見学にやって来た、グンブロつながりの四人です。

↓これが、下田邸の全景です。


下田邸は、箕輪城主長野氏の重臣、下田大膳正勝の子孫が、箕輪城落城後この地に土着し、居を構えた屋敷跡です。
庄屋であった下田家はやがて酒造業を営むようになります。
そして、天和三年(1683)、安房・勝山藩の陣屋が白川に置かれると同時に代官に任命され、以後明治維新まで代々その役職を務めました。
(高崎市教育委員会発行「旧下田邸書院および庭園」パンフレットより)

下田邸の母屋があった辺りは、現在植え込み庭園になっています。→





←旧下田邸の建物で残っているのは、書院だけです。

普段は、一般開放していないので、雨戸が閉まりっぱなしになっていますが、この日は、特別に中を拝見させて頂きました。

写真をクリックすると、皆さんも見ることができますよ。→

書院の中は、意外なほど質素でした。

「数寄屋造り」という、侘び寂び(わびさび)を重んじた造りなのだそうです。

唯一、優美なものが、葡萄リスの透かし彫りをしつらえた欄間です。

夢寅さんが、「おーっ!見て下さいよ!」と声を上げたのが、明かり取りの無い書院の壁に、くっきり映し出された欄間の透かし影絵です。→

主人はこれを見せたいがために、わざと薄暗い質素な書院にしたのでしょう。

何とも、小憎らしいほど粋な計らいです。

話は変わりますが、この下田邸高崎五万石騒動の、ひとつの舞台ともなった所です。

大総代の三人(高井喜三郎、佐藤三喜蔵、小嶋文次郎)が斬首刑になった後、何とか事を納めたいと考える、岩鼻県、前橋藩、高崎藩、そして農民代表の四者が参集して会談を行ったのが、ここ下田邸だったのです。

この時、正観寺村の総代・福田子之七が、今日まであった事実を子細に述べ、農民難渋の次第を事細かに、理路整然と明晰な陳述を行い、居並ぶ人々を感服させたといいます。
聞き入る役人達もみな頷き、遂に高崎藩長坂氏は弁解に苦しんで受け身に廻ったということです。
(細野格城著、佐藤行男氏訳「高崎五万石騒動」より)


下田邸の池は、一説によると堀部安兵衛が築造したものと伝わっています。
高崎五万石騒動四者会談が行われたのは、十月だったそうです。
庭の美しく紅葉した楓は、ハラハラと成り行きを見ていたことでしょう。

下田邸箕輪城址までご案内頂き、こと細かなご説明をして頂いた上村先生、ありがとうございました。

次回は、下田家の造っていたという日本酒、「岩戸川」からつながったご縁について、お話をしたいと思います。

【旧下田邸】


  


Posted by 迷道院高崎at 06:24
Comments(14)◆高崎雑感