大八木町公民館の「大日堰頌徳碑」と並ぶようにして、「金壱千圓也」という、領収書のような石碑が建っています。
「救濟資金」「寄附者 佐復(さまた)文子」とも刻まれているので一目瞭然ですが、裏面にはこのように刻まれています。
「昭和九年(1934)八月五日故佐復政吉殿長女文子嬢ハ(略)
濟世ノ資ヲ大八木區ニ贈ラル(略)
區民感激永久ク其恵澤ヲ傳ヘント欲シ茲ニ貞石ニ勒ス」
昭和九年の千円は、平成二十年の七十六万円位に相当するようです。
昔の人の義理堅さ、感謝の心の強さというものを感じる石碑です。
公民館の左奥が、「妙音寺」です。
元和九年(1623)の開山で、当初は「八木山融通寺」と称していましたが、正徳三年(1713)に「慈眼山福聚院妙音寺」と改称したのだそうです。
山門の左下に「群馬聖地霊園」と書かれた石看板がありますが、平成九年(1997)に境内西側に出来た新しい霊園です。
お寺さんの経営も、なかなか大変なんでしょうね。
山門を潜った右手には、観音堂があります。
享保年間(1716~1735)に建立された堂で、中には十一面観世音菩薩が安置されているそうです。
妙音寺で興味深いのは、観音堂の並び、左手の一角です。↓
石宮、勝軍地蔵などが並んでいますが、その中で、ひときわ目を引くのが、お釈迦様の金銅仏です。↓
高崎では、金銅仏というのは珍しいそうですが、寛保二年(1742)の銘があるとかで、270年前の代物です。
前回の記事に出てくる、「大日如来像」は、この金銅仏の左隣に建っています。
しかし、それらを上回るくらい興味深いのが、「先玉尊霊」と刻まれた、この石塔です。→
何の変哲もない、自然石の石塔です。
裏面には、「明治三庚午八月二十八日 當邑若者中」と刻まれています。
実はこれ、「熊の墓」と言われているそうなんです。
そのお話は、また次回のお楽しみということに。
「救濟資金」「寄附者 佐復(さまた)文子」とも刻まれているので一目瞭然ですが、裏面にはこのように刻まれています。
「昭和九年(1934)八月五日故佐復政吉殿長女文子嬢ハ(略)
濟世ノ資ヲ大八木區ニ贈ラル(略)
區民感激永久ク其恵澤ヲ傳ヘント欲シ茲ニ貞石ニ勒ス」
昭和九年の千円は、平成二十年の七十六万円位に相当するようです。
(日本銀行調査統計局「企業物価戦前基準指数」で比較・計算)
今、百万円の寄付をしたとしても、ここまでしてもらえるでしょうか。昔の人の義理堅さ、感謝の心の強さというものを感じる石碑です。
公民館の左奥が、「妙音寺」です。
元和九年(1623)の開山で、当初は「八木山融通寺」と称していましたが、正徳三年(1713)に「慈眼山福聚院妙音寺」と改称したのだそうです。
山門の左下に「群馬聖地霊園」と書かれた石看板がありますが、平成九年(1997)に境内西側に出来た新しい霊園です。
お寺さんの経営も、なかなか大変なんでしょうね。
山門を潜った右手には、観音堂があります。
享保年間(1716~1735)に建立された堂で、中には十一面観世音菩薩が安置されているそうです。
妙音寺で興味深いのは、観音堂の並び、左手の一角です。↓
石宮、勝軍地蔵などが並んでいますが、その中で、ひときわ目を引くのが、お釈迦様の金銅仏です。↓
高崎では、金銅仏というのは珍しいそうですが、寛保二年(1742)の銘があるとかで、270年前の代物です。
前回の記事に出てくる、「大日如来像」は、この金銅仏の左隣に建っています。
しかし、それらを上回るくらい興味深いのが、「先玉尊霊」と刻まれた、この石塔です。→
何の変哲もない、自然石の石塔です。
裏面には、「明治三庚午八月二十八日 當邑若者中」と刻まれています。
実はこれ、「熊の墓」と言われているそうなんです。
そのお話は、また次回のお楽しみということに。
(参考図書:「ぐんまのお寺」)
【「金壱千圓也」の碑】
【妙音寺】