2010年04月04日

三国街道 帰り道(17)


前回からの続きですが、「大日堰」という名前の由来となった「大日如来像」、実は、大八木町公民館北の、「妙音寺」境内にありました。
この像がそうです。→

←如来像の傍らには、「ラジエ工業」が建立した石板があります。

これにより、「大日如来像」は、昭和五十年(1975)まで「ラジエ工業」敷地内にあったことが分かります。

ここで少し、「ラジエ工業(株)」のご紹介をしておきましょう。

「国内最大の放射線総合照射サービス会社」だそうです。
放射線の照射により、滅菌や殺菌をしたり、材料の改質や加工をするのが主事業です。

同社の会社概要によると、その前身は、明治三十六年(1903)創業の「吉田銃砲火薬店導火線工場」です。
大正十二年(1923)に下和田町から常磐町の烏川土堤下に移り、後に「関東導火線(株)」と改称します。
昭和二十六年(1951)、烏川土堤上に国道17号線が開通すると、火薬を扱うには不都合だったのか、新たな工場用地を大八木に求め、昭和四十年(1965)に現在地へ移転します。
「ラジエ工業(株)」となったのは、昭和四十八年(1973)のことです。

大日如来像妙音寺に移されたのは、ラジエ工業が今の場所に移った時だと思っていたのですが、どうやらそうではなかったようです。
そうなると、なぜ移したのかということが知りたくなってきました。

本当にご迷惑とは思ったのですが、ラジエ工業さんに当時のことをご存知の方がいないか、お尋ねしてみました。
不躾なお尋ねにもかかわらず、総務部の高橋さんは、既に退職されている方にまで連絡を取ってくださいました。
ご紹介頂いた方は、当時、大八木への移転計画に携わっていたという門倉義一さんです。
門倉さんは、大正七年(1918)生まれ、92歳ですがとってもしっかりされた方で、当時のことをよくご記憶でした。

門倉さんのお話によると、敷地奥に三棟目の火薬庫を建築する際、その予定地に如来像があったのだそうです。
参詣に来る地元の人達が、火薬庫の近くに立ち入ることを懸念して、妙音寺境内に移したということでした。

どの辺にあったのかお尋ねすると、地図で示して下さいました。
(現在は売却されてグラクソ・スミスクラインの敷地になっている。)

確かに、「大日堰」の傍らです。
これで、「怪しい水路」「大日堰」だということも、はっきりしました。

ただ、残った疑問が二つあります。
ひとつは、開鑿当時、「大日堰」はどのように「早瀬川」を跨いだのかということです。
橋を組んで、木樋でも通したのでしょうか。

もうひとつは、如来像移設のことを記した石碑に刻まれている、「深き因縁に結ばれて」という言葉です。
「大日堰頌徳碑」のことを指しているのでしょうか。
あるいは、大日如来像の開眼をしたのが、妙音寺のご住職だったのでしょうか。
「大日堰」の完成は明暦元年(1655)。未(ひつじ)年であったことから、当初「未(ひつじ)堰」と呼ばれていた。大日如来像が堰の傍らに建立されたのは元禄六年(1693)、以降「大日堰」と呼ばれるようになった。
(上毛文庫「ぐんまのお寺」より)

謎は残りましたが、二つの石碑のおかげでここまで追跡できました。
高崎の消えた歴史遺産、消えそうな歴史遺産、今の内に石に刻んでおく必要がありそうです。


  


Posted by 迷道院高崎at 07:13
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