2009年07月31日

女へんに男と書いて・・・

  ←こんな字があるんですね。
さて、何と読むでしょう? (*^_^*)

五万石騒動の影の指導者といわれる小園江丹宮の墓が、宿大類町慈願寺(じがんじ)にあるというので行ってみました。

慈願寺は、永禄元年(1558)に、高崎城の前身である和田城の城主・和田信業の開基といいますから、随分と由緒あるお寺です。
もっと前の戦国時代には、大類城の一部になっていたそうです。

普通のお寺は、山門を入った正面に本堂があるものですが、ここはまっすぐ進むと本堂の脇を抜けて、二本の松の木の下に出ます。

この二本の松の木が、
名木「夫婦(めおと)松」です。
実は、これを言いたいがために「娚」の字を出した訳でして、じつはこの字も「めおと」と読むんだそうです。
(・・・まさか、「おか※」なんて思った人はいないでしょうね。)

この「夫婦松」「娚松」と書く方がふさわしい位に寄り添って、仲睦まじく手を取り合っているように見えます。
慈願寺開基と同じ永禄元年の植樹といわれていますから、樹齢450年ということになります。
どちらの松も、幹に大きな洞(うろ)が空いていますが、それでも立派な枝葉を茂らせていて、その生命力にあやかりたい程です。
「夫婦松」を潜った先には、「当寺開山和田兵部少輔」という額の掛った建物があります。

と、その横で草むしりをしているご婦人がいるのに気がつきました。
奥様でしょうか、目元のとても美しい素敵なご婦人でした。
ちょっとどぎまぎしながら、取り敢えず怪しい者でないことを伝えようと、
「夫婦松というのはこれですか?」などと、知っているくせに聞いてしまいました。

そんな私を訝(いぶか)ることもなく、こんな話をしてくださいました。

この建物は、今は観音堂になっているが、昔はここに本堂があったのだそうです。
しかし、明治の初めに火災で焼失してしまい、本堂は山門の右手に建て替えたということです。
「夫婦松」の幹が空洞になってしまったのは、この時の火災の熱で、片側が焼け焦げてしまったためだそうです。
今は樹齢が古いこともあり、定期的に樹木医さんが来て、手当てをしているのだと仰っていました。

奥様に、小園江丹宮の墓の場所を聞くと、ご親切に案内して頂きました。

大きな板碑の墓ですが、本当はもっと大きかったのだそうです。
段々、手前に傾いてきたので、少し短くしたのだとか。
「流石、偉大な教育者のお墓ですね。
実るほど頭(こうべ)を垂れるんですね。」
と軽口を言いかけて、ぐっと飲み込みました・・・。

丹宮の長男、小園江章もまた教育の道を歩み、初代佐野小学校長、中央小学校長などを務めたそうです。
ただ、不思議なことにそのお墓は、慈願寺でなく龍廣寺にあるのだといいます。
ここ慈願寺も、代々寺子屋を開いて村人たちの教育にあたっていて、山門を入ったところに、子弟が建てた「筆子塚(ふでこづか)」というのがあると、奥様にお聞きしました。

昔は、が教育にあたったことで、単なる「読み書きそろばん」の習得だけでなく、人間としての「徳」の心も、自然に醸成されたことでしょう。
案外、現代における教育のヒントも、そんな、かつての寺子屋にあるのではないでしょうか。

【慈願寺】
  

Posted by 迷道院高崎at 07:57
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2009年07月29日

ひっそりと・・・

柳原観音堂入口の水路のほとりに、ひっそりと石碑が建っています。

あ、話は逸れますが、この水路には「地獄堰」という、恐ろしげな名前が付いています。

さて、話を石碑に戻しましょう。

「義全師碑」という銘が刻まれていますが、碑文はすべて漢文で、なんのことやらさっぱり分かりません。
(あ、それで分からないことを、「チンプン漢文」と?・・・ちがうか・・・。)

なので、五万石騒動史跡巡りの時、高崎市史編纂委員の中村茂先生に頂いた資料を参考にさせて頂きました。

元水戸藩士の小園江義全(おぞのえ・ぎぜん)という人が、ある日、武人の虚しさを感じて突然出家し、諸国遊歴の旅に出たのだそうです。
そして文化十一年(1814)この南大類の地に来た義全は、村人の願望で柳原観音の別当となってここに住み着き、寺子屋を開いて村人の教育にあたったといいます。
石碑は、その功績を讃えたものなのですね。
すべて漢文で書かれているのも、水戸学の影響を受けたものでしょうか。

義全の子が小園江丹宮(おぞのえ・たみや)といい、父の後を継いで村人たちの教育にあたりました。
その教育を受けた村人の中に、五万石騒動の中心的人物(高井喜三郎、佐藤三喜蔵、丸茂元次郎等)がいます。
訴願に至るまでの用意周到さ、組織運営の緻密さ、統率の見事さなど、丹宮からの指導あってのことといわれています。

丹宮とともに、五万石騒動の影の指導者といわれているのが、進雄神社の神官・高井左衛門大夫です。
そして、その一族である高井喜三郎が、大総代になっている訳です。
当時のこの地区の文化度の高さには、本当に驚かされます。

訴願成就を見ぬまま、刑場の露と消えた高井喜三郎の墓は進雄神社の400mほど西にありますが、大通りから入り込んでいるので、知る人は少ないようです。

墓の傍らに、辞世の句碑が建っています。
     「吾(われ)人の 為ともなれと身を捨てて
           いまいけにへ(生け贄)と なるぞうれしき」


今、世間は、来たる衆院選に向けて、大騒ぎになっています。
神社に必勝祈願をする候補者も多いと思いますが、喜三郎の墓に詣でて、心静かにこの辞世の句を噛み締めた方が、ご利益があるのではないでしょうか。

【高井喜三郎の墓】
  

Posted by 迷道院高崎at 07:24
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2009年07月26日

覗いてみたら・・・

白い馬が二匹いました。

一匹は反省してるんでしょうか、うなだれてます。
向こう側の一匹は奥さんなんでしょうか、気のせいか怒ってるように見えます。



ここは、南大類町柳原観音堂(馬頭観世音)です。

どうでしょう、なかなか姿の美しい素敵なお堂だと思いませんか?

軒の左側に、由来を書いた額が掛けられていますが、それを見ると永長年中(1906~1907)に源(新田)義重が造営したとあります。

ただ、その後火災で焼失してしまい、現在の堂宇は、天保十四年(1843)から近郷百六ヶ村で寄付を募り、嘉永五年(1852)に再建されたものだそうです。
堂の周囲には、みごとな彫刻が施されていますが、特に正面の梁に巻き付いた龍の彫刻は、素人目にも素晴らしいと思います。

堂内の二匹の白馬の胎内には、享保二十年(1735)江戸日本橋ねずみ屋製作と書かれているそうです。

前述の由来額には八幡太郎義家の逸話が書かれていますが、内山信次著「徐徐漂(ぶらり)たかさき」には、こんな話が紹介されています。

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いつだったか南大類でこんな話を聞いたことがあります。
それは随分昔のことだそうですが、この柳原で一人の女の人が馬に蹴られて死にました。
その人は身籠っていました。
それから暫くたって、観音堂に安産を祈って参籠していた婦人の夢枕に、身籠った美しい裸身の観音様が現れてこう言ったそうです。
「私は馬に蹴られて死にましたが、今は馬頭観音になったので、あなたのお産を守ってあげましょう。」
またこんな話も聞きました。
年に何回かの観音様の縁日の「お蝋」の燃えさしを貰い受けておいて、妊婦が産気づいた時、「お蝋」をとぼして安産を祈るのだそうです。

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「美しい裸身の観音様」と聞くと、私は弁天様を連想します。
←境内の左奥に、かつては水が湛えられていたはずの「弁天池」跡があります。

その中島に、屋根に蛇が這っている一風変わった祠があります。

白蛇は弁天様のお使いと言われていますから、おそらく弁天様の祠なのでしょう。
草に埋もれさせておくには勿体ない、珍しい代物だと思います。

もう一度池に水を入れ、「美しい裸身の弁天様」に戻ってきてもらってはどうでしょうか。

【柳原観音堂】
  

Posted by 迷道院高崎at 08:22
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2009年07月22日

上正六の竜巻

7月19日(日)に岡山竜巻が発生し、2棟が全壊、71棟が一部損壊するなど、大きな被害が出たようです。
被害に遭われた方に、心よりお見舞い申し上げます。

このニュースに接し、思い出したことがあります。
旧中山道松並木の取材をしている時、上正六須永志嘉夫さんから、昭和六年(1931)にこの辺で大きな竜巻被害があったということを聞いていたのです。
いつかブログに書こうと思いながら、ずっと忘れてしまっていました。

上正六の歴史を几帳面に記録している須永さんでしたが、竜巻のあった時は小学6年生だったそうで、写真や新聞記事はお持ちでありませんでした。
そこで今日、県立前橋文書館へ行って当時の新聞記事のマイクロフィルムを探してきました。

竜巻があったのは、昭和六年六月十二日(金)の午前1時40分頃だったということです。
住家12戸が空中高く捲き上げられ、死者2名重軽傷者10数名とあります。
旧中山道の松並木も、この竜巻で大半が倒潰してしまったのですね。

当時、前橋測候所は次のような見解を示しています。
「この時の日本列島付近には、オホーツク方面の高気圧と、四国土佐灘沖の低気圧、および日本海方面の低気圧が分布していた。
高崎は、これら三つの高低気圧に挟まれる位置にあったため、気流が不安定となり、竜巻が起こったらしい。
(略)
今度のはそれほど大きなものでなく、天気図にも載らない程度であるにも拘らず、被害は全国でも稀有のものである。」


竜巻は、下佐野方面の烏川付近で発生し、正六公民館のところにあった薬師堂の屋根を吹き飛ばし、火の見櫓を倒し、旧中山道の松並木をなぎ倒して、浅間山古墳にぶつかって向きを変えたようです。
そして、上正六の家々を破壊して、和田多中下和田を通り、上信電鉄の車庫の屋根、石灰製造所の屋根などを壊して、やっと衰弱し、市の中央部方面に去ったといいます。(「高崎市史民俗調査報告書第七集」より)

高崎から遥か遠いオホーツクの気圧が影響したこの竜巻ですが、その年の9月18日、大陸では日本軍が関与したとされる南満州鉄道爆破事件が起こります。
そして、翌年5月15日の、いわゆる5.15事件により軍部の力が強くなり、ついに戦争という大竜巻が発生してしまいました。
岡山の竜巻が、そのような大竜巻発生の予兆でないことを、心から祈っています。
  

Posted by 迷道院高崎at 21:54
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2009年07月19日

神楽塚のねじれ杉

柴崎町進雄(すさのお)神社近くの交差点角に、こんもりとした所があります。

ここは、昔、前方後円墳だったという「神楽塚(かぐらづか)」です。


この茂みの中に、伝説の「ねじれ杉」があります。→

幹が捻じれているのが分かるでしょうか。

「伝説 神楽塚の由来」を書いた看板も立っていますので、進雄神社にでも車を停めて、一度ゆっくりご覧になってください。

進雄神社の御由緒によると、創祀は貞観十一年(869)といいますから、今から1140年前、すごいです!
神職の高井氏は、少なくとも大永二年(1522)から代々世襲で続いているというのですから、それもまたすごいことです。

ご祭神が牛頭天王(ごずてんのう:スサノオノミコトのこと)であることから、高井氏は天王大夫(てんのうだいふ)と呼ばれ、西上州すべての神職の上に君臨していたといいます。
その権力とご威光もまた、さぞかしすごいものだったことでしょう。

もしかすると、長い間のその権力とご威光をかさにきて・・・ということもあったかも知れません。
あるいは、その地位を狙うものが出てきたのかもしれません。
永禄末年(1570)に武田信玄が、新たに伊藤大夫という人に替えたというのも、きっと何かあってのことでしょう。

ところが、一旦は権力の座に就く伊藤大夫でしたが、なぜか不可思議な出来事が次々と起こります。
堪らず、伊藤大夫は、就任後10年の天正八年(1580)、剣や面を神楽塚に埋めてから逃げ出したといいますが、それも不自然な気がします。
しかもそのあと、伊藤大夫は行方知れずになっています。
埋められたのは、剣や面だけだったのでしょうか?それとも・・・。

再び神職の座に戻った高井氏は、埋められた面を掘り起こして神宝とします。
伝説とともに、自身の職を正当とする証としたのでしょう。
そして、神楽塚には捩じれた杉の木が残りました。

埋められた剣が「ねじれ杉」になったといいますが、なぜ剣のまま掘り起こせなかったのでしょう?
そして、なぜ苦しそうに身をよじるような姿のになったのでしょう?
もしかして、伊藤大夫・・・。

神楽塚の茂みの中に、隠れるように石宮と鳥居が建っています。

いつの世も、権力争いには不可思議な出来事がつきもののようです。
科学万能、情報化社会の現代では、どうなのでしょう?

「ねじれ杉」は芯が空洞になりながらも、昭和四十五年(1970)頃まで生き続け、子どもの夜泣きに霊験があるとされていたそうです。
ところが、この空洞に火をつけた者がいて、三日間燃え続けたといいますが、ついに枯死してしまいました。
いずれ、その姿を留めぬほど朽ち果ててしまうでしょう。
見ておくのなら、今のうちかもしれませんよ。

【神楽塚】
  

Posted by 迷道院高崎at 20:36
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2009年07月17日

久々の五万石ネタ

先月、6月26日に高崎中央公民館で、高崎観光ガイドの会主催「五万石騒動と御伝馬事件」の講演会がありました。

講師は、郷土史家で高崎五万石騒動研究会員の萩原慧先生です。

五万石騒動の背景や運動の顛末、その後の伝承運動など、熱のこもった講演で、ついに御伝馬事件の話まで辿りつきませんでしたが、大変興味深く面白くお話を伺うことができました。

先生のお話を伺いながら、今と似てるなーと思いました。
長年続いた幕府政治から、明治新政府への政権交代。
農業では生活が成り立たないと訴える農民。
年貢の公民比を5:5にして欲しいという地方の訴え。
期待される新政府と、戸惑い混乱する旧政府(高崎藩)。

など、など・・・。

お話の中で、驚いたことがひとつあります。
下中居村の大総代:佐藤三喜蔵の住居が、中里村(現高崎市東中里町)に移築されて現存しているという情報です。
頂いた資料に、こう書かれていました。
「明治五壬申年(1872)、家屋新築ノ挙、同年一月二十一日、下中居村佐藤三喜蔵氏家屋ヲ曽テ買取置シ故、本日之ヲ引キ取ラント欲シ・・・」
「中里村 五十嵐勘右衛門長男 五十嵐喜一作成」とあります。

実は、「高崎の散歩道 第三集」には、下中居町発性寺近くに「三喜蔵宅跡」があると記されています。
しかし、行ってみるとそれらしきものは、跡形もありませんでした。

三喜蔵の墓は、そこからちょっと東へ行った普門寺に、それは立派なものがあります。

三喜蔵宅をなぜ残せなかったのかなぁ、とずっと思っていたのです。

前回の記事で、高崎城「しゃちほこ」「裏門」を探しに、栗崎町台新田町を探索しましたが、東中里町もすぐそばです。
ついでと言っては何ですが、移築されたという三喜蔵の家を探してみることにしました。

そして見つけました!

表札には、五十嵐勘衛と書かれていますので、五十嵐勘右衛門さんのご子孫と推察しました。

念のため確認をしようとチャイムを押しましたが、、残念ながらお留守でした。
お隣の家もまた、五十嵐姓の立派なお屋敷でしたので、図々しくお尋ねしたところ、間違いありませんでした。

その方のお話では、「明治四年(1871)に火災にあって家が焼失したため、三喜蔵の家をここに移築したと聞いている。」とのことでした。

先の文書に、「買取代価は金百六拾両なり」とあります。
どのような経緯で、三喜蔵の家を買い取ることになったかはわかりません。
ただ、多くの農民を率いての訴願活動は、おそらく莫大な出費だったことでしょう。
しかも、明治三年(1870)に三喜蔵が処刑されてしまった家の家計は、さぞかし苦しかったことでしょう。
三喜蔵は民を救うために、文字通り、財も命も投げ出した訳です。
五十嵐家が、そんな三喜蔵家を救う意味もあって、家屋の買取をしていたのではないでしょうか。

五万石騒動を伝える貴重な史跡として、この家をずっと残していってほしいものです。

【三喜蔵宅があったところ】


【三喜蔵の墓】


【移築された三喜蔵宅】
  

Posted by 迷道院高崎at 20:03
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2009年07月15日

民家に残る高崎城

高崎城址公園に旧高崎城「乾櫓(いぬいやぐら)」が復元されているということは、ほとんどの高崎市民がご存知だと思います。

ただ、近くに立つ説明看板をじっくり読んだという高崎市民は、意外と少ないのではないでしょうか。
看板には、こんなことが書かれています。
「幸いにこれ(乾櫓)が保存されていたのは、明治初年に払い下げられ、下小鳥町の梅山氏方に移り、納屋に用いられていたからである。」

昭和二十六年(1951)、たまたま、高崎市史編纂委員数人が下小鳥町を踏査中、風変わりな土蔵を発見したのです。
委員の一人、本多夏彦氏所蔵の「旧高崎城各部実測図」と照合したところ、「乾櫓」だということが判明したということです。(「開化高崎扣帖」より)

ただ、「乾櫓」発見時には、図面にある「しゃちほこ」が屋根に付いていませんでした。
これについては、説明看板にこのように書かれています。
「屋根の『しゃちほこ』は、栗崎町の五十嵐重五郎氏宅に現存する、もと高崎城のものを模造したものである。」

・・・ということは、栗崎町に行けば、本物の高崎城の「しゃちほこ」に会えるということですね。

これは、探しに行かない訳に行きません。
愛車「赤ちゃり」に打ち跨って、栗崎町を探索したのですが、なんせ、この地域は五十嵐姓だらけです。
しかも、どの家もどの家も、立派な門を構えているのです。

細い脇道まで入り込んで、やっと見つけました!
付いてます、付いてます、「しゃちほこ」!!

高崎城には、「しゃちほこ」の付いた門が、八つあったそうです。
しかし、門本体は城門ですから、もっとごつかったはずです。
きっと、屋根の「しゃちほこ」だけ払い下げを受けたものでしょう。

実は、この調査をしている段階で、民家に移築されている旧高崎城の門が、台新田町にもあるという情報を得ました。

これも探し回りましたが、何と「隠れマリア」地福院のすぐ近くでした。

情報では、この門は旧高崎城烏川に面した西門(裏門)とありますので、おそらく「刎橋(はねばし)御門」であろうと思います。

ご主人に、この門の由来をお聞きすることができました。
「明治四年(1871)の廃藩置県の時、初代高崎市長の矢島八郎の勧めで、村長だったこの家に移築した。
高崎城の後ろの烏川から、筏で岩鼻まで運んだ。」

ということです。

今となっては残念な旧高崎城の取り壊しですが、当時も財政難だったようで、売れるものは市内の素封家に売却したものと思われます。

もしかすると、まだまだどこかの民家に高崎城が残っているかもしれません。

心当たりのある方は、ぜひとも市・文化財保護課にご連絡願いたいと思います。

(参考図書:「高崎城絵図」「岩鼻地区の歴史的遺産を写真でつづる」「高崎の散歩道」「開化高崎扣帖」)

【復元された「乾櫓」】


【栗崎町 高崎城の「しゃちほこ」】


【台新田町 高崎城の「裏門」】
  

Posted by 迷道院高崎at 08:13
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2009年07月12日

恋文横丁と団菊じじい

いやー、参りました!
「中山道 恋文横丁 高崎田町 屋台通り」だそうです!

高崎青年会議所メンバー有志で結成する「有限責任事業組合 高崎食文化屋台通り」が運営主体となり、田町にある民有地を借りて20店舗ほどの「屋台通り」を運営するという記事が、9日付上毛新聞1面トップに載っていました。

共有スペースやイベント用地も設け、昼間は地場産農畜産物を扱う「上州とれたて市場」を開催する予定だとか。
高崎市高崎商工会議所も後方支援して、11月ごろにオープン予定とあります。

高崎には昔から「なんとか横丁」というのがあちこちにありました。
このブログでも「湯屋横丁」「烟草横町」「古着横町」「稲荷横丁」などというのをご紹介したことがあります。
今度はこれに「恋文横丁」が加わることになる訳ですね。

高崎の青年たちも、やるじゃありませんか!!
とかく古いものを壊しまくる風潮の高崎にあって、「中山道」「横丁」「高崎田町」「屋台」という、懐かしい響きの言葉をキーワードにするとは、見直しました!
私のような歳になると、つい、人のやることを批判的に見てしまうものですが、この計画には素直に嬉しかったです!
やっと高崎の若者にも、古いものの良さが分かってもらえるようになったんだ!

と、そんなことを思いながら、同じ日のコラム「三山春秋」を見たら、考えさせられちゃいました。

「団菊じじい」という初めて聞く言葉に、「あれ?自分のことだ。」と思う。

「年を重ねると懐古趣味が頭をもたげてくるようだ」と言われれば、「自分のブログのことかな?」と思う。

「社会に対する批判の目を持ち続けることは大切だが、現代を理解する努力も忘れてはならない。」とご意見されるに及んでは、思わず「すみません。」と謝りたくなってしまう。

ともあれ、「恋文横丁の屋台通り」は、「団菊じじい」の迷道院から見ても、すごく魅力的な取り組みに思えます。

願わくば、老・若・男・女産・官・学・民が混じり合って参画し、古さと新しさの調和した町づくりにつながっていくといいな、と思うこの日の団菊じじいでした。  

Posted by 迷道院高崎at 07:13
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2009年07月10日

隠れマリア

岩鼻小学校の近くの地福院というお寺に、隠れキリシタンの「マリア像」があると聞いていたのですが、地福院が見つからずにそのままにしていました。

最近、ブログネタ取材のために、自転車で岩鼻界隈をうろつき回るようになって、やっと見つけました。
車道から細い道に入った左奥にあるので、車で通ったのでは見えなかったのですね。

問題の「マリア像」がこれです。→

え?これが?という感じですね。

これは、表向きは「慈母観音」の像なんだそうです。
抱かれている乳飲み子が、観音様の乳房をつかんでおっぱいを飲んでいる姿です。
この像が、隠れキリシタン「マリア像」ではないかということで、別名「マリア観音」とも呼ばれているようです。

なぜ隠れキリシタン説があるかと言うと、観音様の右肩(右脇?)に、
「キリスト」「キ」という文字が刻まれているというのです。

さあ、みなさんには見えましたか?















見えなかった方は、下の写真でどうぞ。


【隠れマリア像】

  

Posted by 迷道院高崎at 05:57
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2009年07月08日

裏返え碑

「銀河鉄道?」の取材の時、岩鼻小学校近くの踏切(第三栗崎踏切)から、左の写真のような塔の先っちょが見えました。

「なんだろう?」と思って行ってみると、「忠霊塔」と書かれた塔が建っていました。
あぁ、ここにも忘れられかけた戦争遺跡があったのですね。

←その「忠霊塔」の右には、もうひとつ石碑が建っています。

しかし、これが実に不思議な石碑なのです。

写真を拡大して、お分かりになるでしょうか?
何も文字が刻まれていないのです。

ところが、後ろへ回ってみると刻まれていました。

「忠魂碑」と刻まれています。

やはりこれも戦争遺跡のようです。

それにしても、なぜ裏返しになっているのでしょう?

近くの畑に居た方にお聞きしてみましたが、ご存じではありませんでした。

不思議に思いながら家路についたのですが、帰ってきて「高崎の散歩道 第三集」を見ていたら、謎が解けました。

説話文学家で郷土史家の吉永哲郎氏が、このように書いています。

「・・・この踏切りをわたる前に、東の方にこんもりとしている木立から、
 忠霊塔が見える。
 そこには戦時中役場に建立されていた乃木希典の書「忠魂碑」の
 大きな石碑が、こともあろうに裏側を正面にしてある。
 その正面には太平洋戦争で戦死したこの里の出身者の名を刻して
 あるが、この石碑が裏面を表にするには次のようなことがあった。
 終戦時には日本中の里で、国策に関する戦争賛歌を思わせる物件は、
 何もかも破壊しようとする面と、それを隠そうとする方向があった。
 この石碑もいったんは土の中にあったが、戦没者の慰霊碑として
 よみがえった。
 しかし、むかしのものは裏になった。」


そんな歴史があったのですね。
岩鼻近辺には、このような戦争遺跡がたくさん眠っています。
これらの遺跡にもう一度光を当てれば、平和について考えるテーマパークになるのではないでしょうか。

【裏返え碑(忠魂碑)】
  

Posted by 迷道院高崎at 07:12
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2009年07月05日

柳瀬の渡し

岩鼻町の信号を、東に下っていく道が旧中山道です。
昔の旅人は、みんなこの坂を上り下りしていたのです。

一度、歩いてこの坂を下ってみてください。

一瞬、時空空間に迷い込んだかと思うほど、昔の趣きが残っているのに驚くことでしょう。

坂を下り始めるとすぐ右側に、北向きの「子育て観世音」の社があります。

小じんまりしたお堂ですが、毎年夏になると「子育て観世音大祭 奉納煙火大会」が盛大に催されます。
もっとも、この境内で花火を上げると大変なことになるので、近くの烏川の河原でですが・・・。

「子育て観世音」脇の細道へ入ると、そこも時空空間でした。

街道へ戻って、坂の上を振り返ると、振り分け荷物を肩にかけた旅人が、今にも現れそうな不思議な感覚を覚えます。

坂を下りきったところにも、時空空間はあります。

電信柱や電線や無粋な看板がなかったら、そこはもう江戸時代です。
・・・と、いきなり車が目の前を走り抜け、現実に引き戻されました。

カーブミラーに隠れるように、「旧中山道」の看板があります。
昔は堤防もなく、ここから烏川の河原に出ると、対岸の中島村との間を、舟で渡る「柳瀬の渡し」があったそうです。


右の写真を拡大すると、川の流れが白くなっているところが分かるでしょうか。
これは、「柳瀬の渡し」跡に掛けられた木橋(旧々柳瀬橋)の名残だそうです。

「柳瀬の渡し」の少し下流には、こんなものも建っていたそうです。
南無妙法蓮華経と刻まれたこの石は、烏川の河原にあったという刑場で処刑された人の供養塔です。
(現在は、観音寺の境内に移されています。)
牢獄から遠いにも拘らず、わざわざ往来の激しい中山道の、しかも渡し場の近くに刑場を設けたのは、見せしめの意味があったのでしょう。

斬首した首は、竹の先に刺して、晒し首にしたといいます。
晒し首に使ったり、刑場牢獄の矢来(囲い)に使うため、この付近一帯には竹林が多かったそうです。
そういわれると、現在の土手下にも竹がたくさん生えています。

そんな土地の歴史を知ってしまうと、懐かしい風景を見ても複雑な思いになってしまいますね。

(参考図書:「高崎の散歩道 第二集」「同 第三集」「図説 高崎の歴史」)


【北向き子育て観世音】


【柳瀬の渡し跡(推定)】


【観音寺(処刑供養塔)】

  

Posted by 迷道院高崎at 07:58
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2009年07月03日

銀河鉄道?

岩鼻小学校の近くに、空中で忽然と消えてしまう鉄道線路があります。
まるで銀河鉄道が、そこから夜空に飛び立つような・・・。

高架上は、こんな風になってます。→

不思議な行き止りの線路は、現在、倉賀野貨物ターミナルの貨車入替線になっていますが、その昔、ここには「岩鼻軽便鉄道」という私鉄が通っていたのです。

「岩鼻軽便鉄道」は、旧岩鼻火薬製造所倉賀野駅をつないで、火薬を運搬する貨物専用線でした。

岩鼻火薬製造所の火薬運搬は、明治十七年(1884)の高崎線開通後も暫くは舟運が利用されていました。
明治二十七年(1894)に倉賀野駅が開設されると、荷馬車倉賀野駅まで運び、貨車に積み替えられるようになったそうです。

やがて運搬量が増えてくると、さすがに荷馬車ではどうにもならなくなったのでしょう。
大正六年(1917)に地元有志により、倉賀野駅から上州岩鼻駅までの貨物専用線「岩鼻軽便鉄道」が開設され、直接、貨車による火薬運搬が可能になりました。

行き止りの高架の先を目で追うと、高南幼稚園東の道路とぴったりラインが合います。

この道路が、かつての「岩鼻軽便鉄道」廃線跡です。
緩やかにカーブしていますが、「鉄道カーブ」という曲率なのだそうです。

当時は高架ではなく、その下を通って粕川を渡っていたようです。

この道を進むと、前橋-長瀞線に出ますが、渡った先にも未舗装ではありますが、カーブした道が同じラインで続くのがわかります。
その道をさらに進むと、日光例幣使街道(高崎-玉村線)に出て道は途切れますが、この辺りに上州岩鼻駅があったと思われます。

目の前のフェンスの向こうは、日本原子力研究所つまり、旧岩鼻火薬製造所です。
上州岩鼻駅からは、岩鼻火薬所構内まで引き込み線が接続されていたそうです。

戦時中は盛んに利用された「岩鼻軽便鉄道」ですが、終戦と同時にその役目を終え、昭和二十年(1945)に廃線となりました。

かつて「岩鼻軽便鉄道」というのがあったということを、今、どのくらいの人が知っているのでしょうか。
このままではやがて廃線跡も消え、人々の記憶からも忘れ去られてしまいそうです。
ここもまた、平和を考えるための戦争遺跡として、せめて説明看板だけでも残せないものでしょうか。

(参考図書:「新編高崎市史」)


【岩鼻軽便鉄道廃線跡】


  

Posted by 迷道院高崎at 07:49
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2009年07月01日

浅間か岩鼻か?

群馬の森の中程に、「我が国ダイナマイト発祥の地」と刻まれた大きな石碑があります。

裏側の碑文には、次のように記されています。

「ここ、旧岩鼻火薬製造所の歴史は、明治十二年(1879)に始まる。
富国強兵、産業の振興をはかり、(略)当時としては唯一の動力源である水車の利用に適し、水利と水運に恵まれ、東京にも近いこの地に建設を決定した。」


群馬県の明治百年記念行事として、昭和四十八年(1973)「群馬の森」が開設されたのに合わせ、旧岩鼻火薬製造所の従業員、遺族、関係者の有志一同により、この碑が建立されました。

当初、黒色火薬を製造していた岩鼻火薬製造所が、国産ダイナマイトの製造を開始するきっかけとなったのは、明治三十七年(1904)の日露戦争・旅順攻略です。

難攻不落のロシア要塞を陥落できたのは、当時、なけなしの外貨で輸入をしていたダイナマイトの威力でした。
そこで、明治三十八年(1905)、岩鼻火薬製造所国産ダイナマイトの製造が開始されることになります。

岩鼻という地名は、断崖が鼻のように川に突き出ているところだからといわれています。

岩鼻烏川井野川が合流する地域で、水量は豊富でした。
今でも、写真のように、合流点は大河の様相を呈しています。
明治初期には倉賀野河岸もまだ盛んでしたから、川面を舟が行き来する姿も見られたのでしょう。

豊富な水量はまた、不慮の爆発事故や火災に備える意味でも、必要だったのかも知れません。
事実、明治十二年(1879)の創業以来、昭和七年(1932)までの爆発事故で28名の犠牲者を出しているそうです。

昭和七年には、その殉職者慰霊のため、岩鼻代官所跡の天神山山上「殉職者之碑」が建てられました。

また、近くの観音寺には、殉職された方々の遺骨や、遺品を拾い集めて供養した「殉職者供養塔」も建てられています。

しかし、手厚い慰霊や供養にも関わらず、その後も爆発事故は続きます。
昭和十年(1935)代には浅間山もよく爆発したようで、高崎近辺の人々は「ドーン!」という爆発音がすると、外へ飛び出して「浅間か岩鼻か?」を確かめたといいます。

爆発事故も悲惨ではありますが、爆発しなかったために自らの命を絶った人もいます。
明治二十七年(1894)に勃発した日清戦争で、岩鼻火薬製造所に火薬の増産命令が下ります。
全力を尽くして製造したにもかかわらず、いくつかの弾丸が戦場で不発弾となってしまい、初代所長の町田実秀は責任をとって自刃したといいます。

観音寺の墓地に眠っていると聞き、お墓を探してみましたが、見つかりませんでした。
お寺の奥様にお聞きしても分からなかったので、もしかするともう無縁仏として、始末されてしまったのでしょうか。

観音寺の墓地には、初代岩鼻代官吉川栄左衛門の墓があり、市指定史跡になっています。

町田実秀の墓もそうあってほしかったものです。


さらに言えば、旧陸軍岩鼻火薬製造所跡地全体を、現在非公開の当時の施設も含めて、平和を考えるための戦争遺跡として整備・保存し、後世に語り継いでいってほしいとも思います。

最後に、岩鼻火薬所の爆発事故を体験した人の話をご紹介しましょう。
(高崎市史民俗調査報告書第七集より)
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大正十二年(1923)の関東大震災、九月一日ですけどね、
その次ぐ年の九月の一日には、岩鼻の陸軍の火薬製造所、
あの火薬庫んなかにね、火が入ったっていうことで、
大変な騒ぎがあったんですよ。

自分たち、小学校の頃でね、ちょうど朝礼で校長先生の話ぃ聴いてたら、
そこへ、火薬製造所の方から知らせてきたんです。

自転車で夢中で来てね、早く子どもたちを家へ帰せってんですよ。
そいでね、早くしろ早くしろって。
四里四方はだめだからって。

「それっ」てんで、みんな岩鼻の人たちもね、
ぞろっこぞろっこね、倉賀野まで逃げてきたんですよ。

で、おれたちも、家へ帰らないで高崎の方ぃね、
並木の方へ逃げろってんで、
それで、小学校からさぁ、ぞろぞろ逃げてったん。

しょうがねぇから、もうみんな一所懸命逃げたんだけど、
くたぶれちゃって、正六ぐれえまで行って、
もうだめだってんでさ、そこんとこで休んでた。

そうしたら、こんだ、消防組合のほうからね、
火が消えたから、みんな家へ帰るようにってんで、
それで帰ったんだけど。
(倉賀野町下町 大正五年生まれ)
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(参考図書:「高崎の散歩道 第三集」「高崎市史民俗調査報告書第七集」)

【ダイナマイト碑】


【天神山】


【観音寺】
  

Posted by 迷道院高崎at 06:55
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