2009年06月28日

タヌキの通り道を・・・

タヌキの通り道を上がっていくと、そこが岩鼻代官所跡地です。

現在は、日本化薬の社員寮になっているので、「外来者の通行および駐車は一切禁止します。」となっていますが、タヌキならいいようです。

ということで、タヌキに化けて入り込んでみました。(不法侵入になるのでしょうか?)

石垣の道が、雰囲気あります。

今にも、坂の上から「これ、そこな町人!いずこへ参る!」と、六尺棒を持った門番が現れそうな感じです。


左側に現れる石段は、代官所時代から残る唯一の史跡、天神山に上る石段です。

天神山山上には、天満宮の社と、陸軍造兵廠岩鼻火薬製造所殉職者之碑があります。

タヌキの通り道の坂を登りきると、右側に大正ロマンを感じさせる瀟洒な建物があります。

これが、「たかさき都市景観賞」も受けている、旧陸軍造兵廠岩鼻火薬製造所の将校倶楽部です。

現在は、日本化薬の福利厚生施設・高崎クラブとして使用されています。
天神山とともに、歴史遺産として、いつまでも残しておいてほしいものです。

岩鼻代官所岩鼻県庁跡の広大な敷地が陸軍用地として接収されたのは、明治十二年(1879)のことです。
現在の日本原子力研究所、群馬の森、日本化薬高崎工場を合わせた広大な土地に、陸軍火薬製造所が開設されたためです。
しかしその後、この火薬製造所は、頻繁に爆発事故を起こします。

そのお話は、またの機会に。

【タヌキの通り道】
  

Posted by 迷道院高崎at 07:52
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2009年06月26日

岩鼻/薩摩/元次郎・・・ん?

岩鼻町交差点の西に、旧中山道を跨ぐ歩道橋があります。

この歩道橋の脇を南に入った突き当りが、昔、岩鼻代官所牢獄があった場所です。

明治になって、岩鼻代官所岩鼻県庁となり、明治四年(1871)の廃藩置県により岩鼻県庁が廃止された後も、牢獄岩鼻監獄として残りました。

道の突き当たりは、現在、近藤医院となっています。

近藤家は、岩鼻監獄典獄(現在の刑務所長)を務めていました。

入口の両脇の石垣は、よく岩鼻監獄時代のものと言われますが、実際は明治二十年(1887)に岩鼻監獄跡地が近藤家に払い下げられた時に、作られたものだそうです。

岩鼻監獄といえば、五万石騒動の第二総代・丸茂元次郎山田勝弥が収監された所です。
明治四年(1871)、共に徒刑十年を科せられましたが、気の毒にも山田勝弥は服役中に病死してしまいます。

元次郎収監中の明治十年(1877)、岩鼻監獄に57名もの囚人達が送り込まれてきます。
遠く、薩摩の地で起きた西南戦争で敗北した西郷軍の俘虜達です。
この人達は、長崎から船で横浜まで送られ、そこからは陸路で岩鼻まで来たということです。
東京-高崎間に鉄道が開通したのは明治十七年(1884)ですから、横浜から歩かされて来たのでしょうか。

元次郎は、西南戦争の囚人達とも当然知り合いになります。
その内の一人に、鬼丸源作という物凄い名前の人がいました。
鬼丸は懲役1年だったので、元次郎よりも早く放免されますが、その時、獄中で書いたという狂歌を元次郎に渡したようで、今も丸茂家に残っているそうです。
監獄地獄と詠んでいますが、面白いのを、いくつかご紹介しましょう。

     しゃばにては 色と酒とを 好めども
       地獄に住めば 食うことぞ おもふ

     地獄から しゃばに生まれて 湯に入りて
       酒食したなら これが 極楽

     地獄より しゃばに生まれて 鬼どんが
       ただ壱合の 酒に ぐらぐら


五万石騒動西南戦争も、日本という国が大きく転換する時代の悲劇といえましょう。
そんな二つの悲劇が出会った岩鼻監獄も、今はまったくその跡かけらも見当たりません。
後世に残しておくべき史跡だったのではないでしょうか。

そう思いつつ旧中山道に戻ると、道角に「陸軍用地」と刻まれた石柱を見つけました。
そうでした、明治十二年(1879)、陸軍岩鼻火薬製造所設置と同時に、岩鼻県庁跡地は、陸軍に接収されたのでした。

次回は、その跡地を散策してみましょう。

(参考図書:「高崎の散歩道 第二集」)


【岩鼻監獄跡地】


【陸軍用地と刻まれた石柱】
  

Posted by 迷道院高崎at 07:53
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2009年06月24日

そうは言われてみたものの・・・

前回の記事で、「丸茂元じ郎」「次」でも「治」でもいいそうです、とお伝えしたのですが、気になり始めると気になるもので・・・。

「高崎五万石騒動」を伝える原典とも言える書籍が、細野格城氏の著書「五萬石騒動」です。
格城氏は十四歳の時に、実際に騒動に加わっており、後に人の勧めもあって明治四十四年(1911)にこの本を発行しています。
(写真は諏訪神社保管のもの)

ということで、原典たる格城氏の本に「丸茂元じ郎」がどのように表記されているのか、気になってきたという訳です。

そこで、高崎市立図書館へ行って原本があるかどうか調べてみました。

端末で検索すると、著者で細野格城というのは出てきません。
ただ、著者・細野平格というのがありました。
格城氏の御子息ででもあるのでしょうか。
(郷土史家で五万石騒動研究家の萩原慧先生にお尋ねしたところ、細野格城と細野平格は同一人物だそうです。2009.06.26)

「貴重本 禁帯」となっている本を、書庫から出してきて頂くと、まさに原本っぽい装丁でした。

巻末に記載されている発行年を見ても、間違いなさそうです。


わくわくしながら、頁をめくっていくと、ありました!

おー!丸茂元だ!

と、一瞬、嬉しくなったのですが・・・。

まてよ?細野格城が字を間違えていたら・・・?
と、またまた、疑問が湧いてきてしまいました。

そこで思い付いたのが、高崎歴史民俗資料館で今展示されている、五万石騒動参加者の連判状です。
連判状ならば、本人が書いているはずだから間違いありません。
我ながらいい所に気がついた!と、喜び勇んで早速資料館まで足をのばしました。

しかし、残念!
連判状は、小塙村大総代・小嶋文次郎のご子孫が保存していた17枚のみで、中居地区のものは残っていないのだそうです。
がっかりして帰りかけた時、ふと展示されている古文書に目が留まりました。
それは、丸茂元次郎山田勝弥に対する減刑の嘆願書でしたが、そこには「元郎」と記されていました。

ということで、どうやら「元次郎」が優勢のようです。
さらに白黒はっきりさせるには、戸籍を調べる手が残っていますが、果たして残っているんでしょうか?
ま、そこまでしなくても・・・、素人追跡はここまでにいたしましょう。
でも、面白かったです。  

Posted by 迷道院高崎at 08:06
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2009年06月21日

どちらでもいいそうです

昨日、高崎市歴史民俗資料館主催の「五万石騒動史跡巡り 中居地区編」に参加してきました。

写真中央のメガホンを持っている方がこの日の講師、高崎市史編纂専門委員の中村茂先生です。

40人ほどの参加者は、やはり中高年層で占められます。
「五万石騒動スイーツ巡り!」とでもすれば、若い方も参加してくれるのでしょうが・・・。

歩いている途中、ここ数日間気になっていた、丸茂元次郎が正しいのか、丸茂元治郎が正しいのか、資料館員の方にそっと聞いてみました。

お答えは、
「昔の人は、音(おん)が合っていれば、字は気にしなかったようです。」ということでした。
うーん、確かに歴史上の人物でもいろいろな文字を当てています。

念のため、元治郎の墓地で中村先生にも同じ質問をそっとしてみました。
お答えは全く同じでした。
字はどちらでもよかったんですね。
昔の人のおおらかさに比べ、数日間も小さなことにこだわっていた自分を笑っちゃいました。

今回の史跡巡りで最大の収穫は、
上中居諏訪神社に伝わる伝説の「抜け縄」を見られたことです。

「抜け縄」については、以前このブログの「ひいらぎさま」で紹介していますが、一度実物を見てみたいと思っていたのです。
今日は、この伝説をもう少し詳しくご紹介しましょう。

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第二総代となった丸茂元次郎は、常日頃より諏訪神社お稲荷様を厚く信奉していました。
2回目の訴願のために密かに上京した元次郎は、捕り手の目を欺くために玩具の行商人を装っていました。
ある日、急に眠気がさして道端でうとうとしていると、いつの間にか捕り手に囲まれて、縄を打たれてしまいます。
思わず、「うわぁーーーーっ!」と大声を上げた途端に目が覚めて、辺りを見回すと何事もありません。

この夢を不思議と思った元次郎は、国元の父に夢の次第を知らせました。
父は、きっと諏訪神社お稲荷様が、息子が災難に逢わぬように夢で知らせてくれたのだろうと、早速お稲荷様に御礼を言いに行き、神官の氏にもこのことを話しました。

それを聞いた氏も驚きます。
同じ晩、氏のところに、元次郎が捕われたことを知らせに東京の若者が来たというのです。
ところが、それも夢だったのです。

不思議なこともあるものだと言いながら、二人がお稲荷様へ行ってみると、拝殿の真ん中に、ちょうど人が縛られた縄を抜け出たような形で、縄が置いてあったといいます。

そこで村人達が集まって、お稲荷様にその神意を聞くために祈りますと、こう言ったそうです。
「・・・日頃我を信仰しているのでヤピッコを遣い、
 元次郎の身代わりにたたせ捕縛されたままここまできて、
 神殿において縄抜けをさせた。」


(細野格城著・佐藤行男氏訳「高崎五万石騒動」より)

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一度はお稲荷様に身代わりになってもらって捕縛を逃れ、訴願の責務も果たした元次郎ですが、そこでついに囚われの身となります。
しかし、お稲荷様のご加護は続いたのでしょう。
獄死することもなく刑期を終え、72歳の天寿を全うすることができました。

それにしても、科学的にはあり得ないと思われる「抜け縄」の話ですが、昔の人にとっては、嘘か真かはどちらでもよかったのでしょう。
そんな昔の人のおおらかな心、現代にも必要かもしれませんね。
  

Posted by 迷道院高崎at 08:03
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2009年06月19日

「次」か「治」か?

高崎-伊勢崎線の南大類西交差点の角に、一本の石柱が立っています。
石柱には「義人 五万石 総代 丸茂元次郎 入口」と刻まれています。

高崎五万石騒動の大総代は、柴崎村・高井喜三郎、下中居村・佐藤三喜蔵、上小塙村・小嶋文次郎の三人でしたが、喜三郎三喜蔵が斬首され、文次郎も入牢の身となったことで、第二大総代の一人に推挙されたのが上中居村の丸茂元次郎でした。

元次郎は、二度にわたって減納願書を東京の民部省に提出することを試みますが、一度は上京の途中川越町で捕えられて十日間留置されます。
二度目は願書の提出には成功したものの、身柄は高崎藩に引き渡されてしまいます。
そして、翌、明治四年(1871)、徒刑十年を言い渡されて岩鼻の牢獄で服役することになります。

元次郎と行動を共にした小塙村・山田勝弥も同じ刑期でしたが、憐れ服役中に獄死しています。
元次郎は幸いにも、無事刑期(恩赦で8年になったともいわれています)を満了し、悠々自適に余生を過ごし、天寿を全うすることができました。

非業の死を遂げなかったからか、元次郎の墓は、大々的に史跡扱いされている他の大総代の墓と異なり、上中居の丸茂家の墓地にひっそりと立っています。
それと知る人も少ないであろうことは、少し寂しい気もします。

ところで、グンブロ仲間の弥乃助さんから、先日こんなコメントを頂きました。
「今日、戒名を彫り終わった過去碑を取り付けに丸茂家の墓地に行きました。
で、丸茂元次郎らしきお墓を見つけました。
でも、元郎となっていましたが・・・。」

早速確認に行ってみると、確かに墓石には「丸茂元郎」と刻まれています。
ほとんどの書籍では、と書いてあるのです。
前述の、交差点角の石柱も元次郎です。
果たしてこの墓は、本当に五万石騒動の丸茂元次郎の墓なのか?
はたまた、書籍が、あるいは墓石の字が間違いなのか?
追跡をしてみることにしました。

まずは、元次郎の生家を見つける必要がありそうです。
しかし、上中居には丸茂姓が実に多いのです。
そこで、墓地の近くのお蕎麦屋さんで、聞いてみました。
すると何と!「あー、もとじろうさんとこね。ここだよ。」と住宅地図を見せて教えてくれました。
住宅地図にちゃんと「丸茂元治郎」と書いてある家があるのです。
「あのー、明治に亡くなってる方なんですけど・・・」

でも、きっと元次郎と関係のある家だと思い、訪ねてみました。
奥様が出てきて、「あー、ひいひいじいちゃんだね。」
「だけど、字は分かんないね。前の家が本家だから聞いてごらん。」


ご本家を訪ねてみました。
「墓は間違いなく、うちのだね。」
「明治の治だと思うよ。お墓の字が間違ってるわけないから。」
「極楽寺に丸茂家の過去帳があるから、それをみれば確かだよ。」


極楽寺を訪ねてみました。
「過去帳じゃわからないね、言われた通り書くだけだから。」

またご本家に伺って「もし、後で分かったら教えてください。」と名刺をお渡ししておきました。
ということで、「次」「治」かという謎はベールに包まれたままです。
もしかすると弥乃助さん、世紀の大発見になるかもしれませんね。

明日は、高崎市歴史民俗資料館主催の「五万石騒動史跡巡り 中居地区編」に参加してきます。
ちょっと、質問しちゃおうかな?
それとも、世紀の大発見まで黙っていようかな?

【丸茂元次郎入口の石柱】

【丸茂元治郎の墓】

  

Posted by 迷道院高崎at 23:16
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2009年06月17日

五万石騒動の「万屋」

前回、「梅乃木大神と五万石騒動」で予告した岩鼻宿「万屋」が、どこにあったのか知りたくなって、高崎市歴史民俗資料館へ行ってお尋ねしてみました。
すると、流石です。
平成20年に資料館で企画した「史跡巡り 岩鼻」の資料を持ってきて下さいました。

その資料の表紙には、横倉興一氏作成の「岩鼻代官所(陣屋)想像図」というのが掲載されおり、そこに、「萬屋(よろずや)」というのが描かれているではありませんか。
意外と、代官所つまり岩鼻県庁のすぐそばに「万屋」はあったのです。

この「万屋」五万石騒動の舞台となったのは、大総代・柴崎村高井喜三郎が捕えられた明治二年(1869)のことです。
「三国屋」岩造一家の岡っ引き達は、倉賀野宿外れ梅の木で大総代・下中居村佐藤三喜蔵を捕えた直後、岩鼻宿「万屋」高井喜三郎の捕縛に向かいます。

「万屋」に踏み込むと、喜三郎はじめ岩鼻県庁へ来た名主達約20人ほどが茶を飲みながら雑談中でしたが、間抜けなことに岡っ引き達は喜三郎の顔を知らなかったのです。
そこで「喜三郎気をつけ!」と声を上げると、喜三郎は狼狽してこの場から逃げ出そうとします。
それを見て「あれが喜三郎に違いない!」と、一斉に飛びかかり、取り押さえてしまいます。(細野格城著・佐藤行男氏訳「高崎五万石騒動」より)

現在、岩鼻代官所跡地の広大な敷地は日本化薬の社員寮となり、代官所の面影をわずかに残しているのは、天神山古墳だけになってしまいました。
天神山の麓には、昭和三十九年(1964)当時の代官所跡地周辺地図看板が立っています。
(朱記部分は、迷道院加筆)

「万屋」のあったと思われるところに、マークを付けてみました。
そこから南(右)へ目を移してみると、「牢」と書かれているのに気が付きます。
代官所時代の牢獄があった場所です。

明治四年(1871)に岩鼻県庁が廃止され、翌年、陣屋が焼失した後も「岩鼻監獄」として、明治二十一年(1888)に現前橋刑務所が開設されるまで使われました。

この「岩鼻監獄」はまた、五万石騒動の第二総代・上中居村丸茂元次郎が、十年の刑を言い渡されて収監された所でもあります。
次回は、その丸茂元次郎についてお話ししようと思います。

【岩鼻代官所跡】
  

Posted by 迷道院高崎at 08:06
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2009年06月14日

梅乃木大神と五万石騒動

旧中山道を倉賀野から岩鼻へ向かい、陸橋で高崎線を越えた左下に、「梅乃木大神」の石碑が建っています。

近所のお年寄りに聞くと、「昔は、足が丈夫になるっつって、草鞋を供えたんだけど、今あはぁ、すたれちゃったいなぁ。」というお話です。

「梅乃木大神」の由来には、二つの話が伝わっています。
ひとつは、昔、加賀前田家の飛脚が、国元と江戸を往復していたが、ある時病に倒れてこの地で亡くなったという話。

もうひとつの話は、少し脚色豊かです。
加賀前田殿様が病気になったという知らせを、急いで運んでいる飛脚が倉賀野まで来ると、女が寄ってきてしつこく引きとめるので、泊まらざるを得なくなったのだそうです。
夜が明けて辺りを見ると、そこは何もない原っぱで、飛脚は初めてムジナに化かされたことに気づき、ここで腹を切って息絶えたという話です。

いずれにしても、その飛脚の死を憐れんだ村人がここに墓を作って霊を祀り、後に梅の木に草鞋を供え、飛脚のように足が強くなることを祈願するようになったのでしょう。

面白い話はまだあって、昔(高崎線も通って無く、陸橋もない頃)はこの辺のことを「雲助、銭拾わず」と言っていたようです。
昔は、この辺は家もなく、赤城おろしがまともに吹き抜ける場所だったそうです。
「雲助」といえば、人の弱みに付け込んででもをふんだくる悪い奴というイメージですが、その雲助でさえ、あまりにも凄い寒風の勢いに、落ちてるも拾おうとしなかったといいます。

さて、前置きがだいぶ長くなりましたが、この「梅乃木大神」もまた、「五万石騒動」の一つの舞台となった場所です。

大総代の下中居村・佐藤三喜蔵が、「三国屋」岩造一家の岡っ引き達に取り押さえられたのが、この辺りだと言われています。
三喜蔵が人目を避けて早朝上佐野村を立ち、大総代・高井喜三郎の待つ岩鼻宿万屋へ向かってここまで来ると、待ち伏せていた十余人の岡っ引きに取り囲まれます。

三喜蔵という人は身の丈六尺(180cm)、目方は三十五貫(130kg)という巨漢で、相撲も取り剣道も心得ていたそうですから、岡っ引き達は相当手こずったようですが、なにせ多勢に無勢、無念にも三喜蔵は捕えられてしまいます。

捕えられた三喜蔵は、この後、倉賀野宿「三国屋」へ引き連れられて行き、捕えた岡っ引き達は、続けて高井喜三郎を捕えるため、岩鼻宿「万屋」へ向かいます。
「万屋」の捕り物についてのお話は、また次回・・・。

【梅乃木大神】
  

Posted by 迷道院高崎at 08:03
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2009年06月12日

粕沢の笠守稲荷

「粕沢の立場茶屋」があったとされるドラッグストア・ウエルシアの道の反対側、その奥まったところにひっそりと赤い鳥居が見えます。

鳥居には「正一位 笠守稲荷大明神」とあります。

「かさもり」というお稲荷さんは全国にあるようですが、本家本元は大阪府高槻市にある「笠森稲荷」だそうで、その地の豪族「笠氏」が創設したといわれています。

東京都台東区谷中にあるのは「瘡守稲荷」と書き、「瘡」つまり皮膚病の治癒に霊験があったようです。
江戸時代、谷中の近くには有名な色里「吉原」がありました。
色里につきものなのは、梅毒などの性病です。
罹患すると「瘡」ができて悩まされるということから、谷中の「瘡守稲荷」は、病気予防・治癒祈願の参拝者で大層盛んだったそうです。

さて、粕沢の近くには倉賀野宿があり、そこには沢山の飯盛女達が働いていました。
おそらく、「瘡」で悩まされていた人も多かったことでしょう。

「粕沢の笠守稲荷」がいつ頃祀られたか定かではありませんが、江戸との水運交流が盛んだった倉賀野河岸です。
江戸谷中「瘡守稲荷」の評判を聞いて、この地に勧請したことは想像できます。

「笠守稲荷」の境内に、石の「お大師様」がちょこんと座っています。
すべては、この「お大師様」がご存知なのでしょう。
  

Posted by 迷道院高崎at 08:04
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2009年06月10日

粕沢橋と五万石騒動

倉賀野から旧中山道松並木を辿って「粕沢橋」までやって来ました。

ちょうどその時、高崎市歴史民俗資料館で「高崎五万石騒動特別展」が開かれたというのは、何かの因縁かもしれません。

というのも、この「粕沢橋」五万石騒動の一舞台となった場所なのです。

年貢減免の願いを無視し続ける高崎藩に業を煮やし、大総代3人を先頭に4,000人の農民は高崎城の枡形木戸に押し寄せ、願書を提出します。
しかし、後日これを「強訴」と見なした高崎藩は、大総代の逮捕にかかります。
この手先となったのが、倉賀野宿の女郎屋を営みながら岡っ引きもしていた「三国屋」岩造一家です。

用心をしていた大総代ではありましたが、下中居村・佐藤三喜蔵倉賀野宿外れで、柴崎村・高井喜三郎岩鼻「万屋」で捕縛されてしまいます。
高崎城へ護送される大総代を奪還しようと、農民たちが待ち伏せていたのが「粕沢橋」でした。

護送する三国屋一家は十七、八人、橋の下や用水路に隠れて待ち伏せた農民は数十人といいます。
武器を持たない農民達は、てんでに石つぶてを投げつけますが、三国屋一家は卑怯にも、捕えた大総代を盾にし、大総代に当たるからと石を投げられない農民に、抜き身を振り回して切りかかります。
ついに奪還は叶わず、高崎城内に入牢された大総代は、翌年、東町無縁堂で処刑されてしまいます。
その辺の話は、グンブロ仲間の弥乃助さんの記事「五万石騒動・・・」をご覧ください。

「五万石騒動」は、しばらくネタにできそうです。

【粕沢橋】
  

Posted by 迷道院高崎at 08:16
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2009年06月07日

いってんべー

上滝町「高崎市歴史民俗資料館」へ行ってみてください!

6月6日(土)~7月12日(日)まで、「高崎五万石騒動」の特別展示をやっています。

興味津々の私は、開催初日早々に駆けつけたのですが、二番目でした。
一番は、指出朋一さん、「あかりの資料館」の館長さんです。
お会いしたかったのですが、もう帰られた後だったようです。

特別展示会場では、ぜひ学芸員の方に説明をしてもらってください。
展示物を見ただけではわからない、五万石騒動の背景まで丁寧に説明して頂けます。
当時の農民の世の中の変化を見る目、減税陳情の真意や用意周到さ、高崎藩の言い分にも一理あることなど、興味深いお話がたくさん聞けると思います。

それにしても、この歴史民俗資料館の職員の方には、いつも感心させられます。
この日も、帰りがけに展示室の全景の写真を撮らせて頂く許可を得るため、事務所へ行ってみるとちょうどみなさん昼食中でした。
にも拘らず、館長さんをはじめ、全職員の方が出てきて下さいました。
そんな対応をしてくれる公共施設は、よそでは見たことがありません。
写真撮影も快く許可して頂き、帰る時は玄関で見送りまでして頂いたのです。

みなさん、ぜひ「高崎市歴史民俗資料館」を一度訪れてみてください。
そこには、昔がたっぷり残っています。

建物自体、木造で懐かしい趣きですが、昭和四十年(1965)まで群南村役場として使われていたものです。
昭和五十三年(1978)に歴史民俗資料館として開館しましたが、日々失われつつある民俗資料の収集・保存・研究・展示に努め、市民から寄贈された資料は17,000点に上るそうです。

どんな昔に会えるかは、行ってみてのお楽しみということにして、パンフレットからほんのさわりだけご覧いただきましょう。


休館日:月曜、祝日の翌日
開館時間:午前9時~午後4時
入館料:無料

【高崎市歴史民俗資料館】
  

Posted by 迷道院高崎at 07:31
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2009年06月06日

粕沢の立場茶屋

大正中期から昭和初期にかけて、倉賀野から高崎方面へ進むと、写真のような風景が見られたようです。(写真は高崎市史民俗調査報告書「倉賀野町の民俗」より拝借)

ここは倉賀野町正六(しょうろく)です。

正六とは面白い地名ですが、一説には、新田義貞の血を引いているという女性が、この地の浅間山(せんげんやま)に住んでいて、その女性が「正六位」という位階を持っていたことから、この村を正六と呼ぶようになったということです。

写真の場所は、大正半ば以降の上正六粕沢という所で、写っている家は「諸国商人宿」だそうです。
実は、この家について貴重な情報を得ることができました。
前回の「並木たずねて・・・」で、新聞の切り抜きを提供していただいた須永志嘉夫さんから頂戴した「上正六村 歴史年録」に、次のようなことが記されています。

明治の中頃、粕沢橋のたもとには、長野堰五貫堀の流れに沿って篠笹の茂る土手があり、その土手下の窪みに冷たい澄んだ水が湧き出ていたといいます。

その湧水を使って、酢饅頭をつくっていた「清水屋」というお店があったそうです。

「清水屋」が昭和初期に店を閉めた後、村越という女性が住み着いて、出稼ぎの人たちを相手に始めた木賃宿が「諸国商人宿」だということです。

遡って江戸時代には、このあたりに「粕沢の立場茶屋」というのがあったといいます。(高崎の散歩道 第二集)
茶屋ができたのは、文化年間(1804~1817)といいますから、第11代将軍・徳川 家斉(とくがわ いえなり)の頃です。
茶屋の主は、高崎宿本町に住む当代の文化人、花岡義旭(平八郎)という人だそうです。

当時の粕沢は滝もある水量の多い川で、その水を引いて池には蓮の花が咲き、鯉の泳ぐ風流な茶屋だったということです。
参勤交代の大名も、旅人も必ず立ち寄ったといいます。

←左の写真は奈良水谷茶屋ですが、こんな雰囲気だったのでしょうか。
(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より)

「高崎の散歩道 第二集」には、「粕沢の立場茶屋」「はなおかゴルフ練習場」のところであったと書いてあります。
ゴルフ練習場の名前からすると、花岡義旭のご子孫の経営だったのでしょうか。
現在は、ドラッグストア「ウエルシア」になっています。


【粕沢の立場茶屋があったといわれる場所】
  

Posted by 迷道院高崎at 08:12
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2009年06月03日

並木たずねて・・・

倉賀野~高崎間の旧中山道に復元された松並木

次々と歴史遺産が消えていく中にあって、一体いつ、どのような経緯で復元されたのか、気になって仕方がありませんでした。

どこかに、経緯を記した記念碑か看板がないかと思い、松並木に沿ってずーっと歩いてみましたが、それらしいものは見当たりません。

ネットで検索しても、それらしいものは引っかかってきません。
ならば、と市役所へ電話してみました。
観光課の方が、忙しい中、親切に調べて下さいましたが、資料を見つけることはできなかったようです。
ただ、「住民の有志の方が、やられたようですよ。」という情報を頂きました。

そこで、街道沿いに古くからありそうな、お店を訪ねてみました。
最初の時計屋さんでは、
「15年前ぐらいじゃねぇかな?」というお話でした。
次のお蕎麦屋さんは、
「私は知らないけど、近くの造園屋さんが、この辺一手にやってるから、きっとわかるよ。」と教えてくれました。

その造園屋さんでは、
「並木の手入れはやってるけど、並木はうちが来た時にはもうあったよ。」ということでした。
ちょっぴり諦めかけた時、
「ガソリンスタンドの前のおじいちゃんが、昔のことよく知ってるよ。行ってみ。」と教えてくれました。
これが、大ヒットでした!

行ってみると、ちょうど、そのおじいちゃん(失礼!)が庭から家に入るところでした。
大急ぎで駆け寄って、「すみませーん!」と声をかけたもんだから、ビックリされたようで、申し訳ないことをしちゃいました。

「松並木が、いつ頃復元されたかご存知ですか?」と聞くと、
「うーん、あれは・・・」としばし考えておられましたが、
「ちょっと待ってて。」と家の中に入って行きました。
しばらくして、縁側から手招きをするので行ってみると、何やら冊子を数冊持っています。

なんと!ご自身でワープロを駆使して、正六地区の歴史資料を作っているのだそうです。
その資料の中から出して見せてくれたのが、右の新聞切り抜きです。

「おーっ!これですねー!!」

ちょうど日付のところが切り取られていたのですが、記事の中に「ことし三月、倉賀野バイパスが開通し・・・」とあるので、昭和五十八年(1983)とわかりました。

松並木復元のきっかけになったのも、倉賀野バイパスの開通でした。
「町内を通過していた長距離便などの車が減ったのがきっかけ。
 町に静かなたたずまいが戻り、植物や昆虫に悪影響を及ぼす排気ガスも減少し、並木復元の機運が盛り上がった。」
とあります。

復元の中心になったのは、「倉賀野公民館の染谷次雄館長、正六地区の町田新次郎区長、上町地区の武井正幸区長ら」で、「地元区長十一人と地元の社会教育団体の連名で、県に請願書を提出」したということです。

もっと知りたくなって、倉賀野交番で元倉賀野公民館長・染谷次雄氏のことを調べて頂いたら、既にお亡くなりになっていました。
交番の女性の方がすごく親切な方で、松並木のことを知っていそうな人に連絡をつけてくださいました。
先方から連絡を頂けるということで、楽しみに待っているところです。  

Posted by 迷道院高崎at 20:31
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