2008年12月30日

「嘆」

2008年も残りあと2日。
今年の「世相漢字」は変化の「変」だと発表されたが、私は嘆きの「嘆」だと思う。

政治しかり、公的機関しかり、経営者しかり、・・・実に嘆かわしいことの多い年であった。
来年こそが、良い意味での「変」の年であってほしい。

来年は遅かれ早かれ衆議院選挙となる。
今度こそ、間違いなく民意を一票に込めたいところだが、2大政党と言われながら、どちらも民の方に顔が向いてなさそうで、心もとない。
TVでこの一年の政治を振り返っているのを見ながら、ふと思った。
そもそも、選挙で個人名や政党名しか選べないのが問題なのではないかと。

郵政選挙では自民党圧勝、次の参院選では民主党圧勝。その結果、真面目にきちんと議論をすればいいものを、政党のメンツ優先で国民は置いてけぼりだ。
結局、選挙で政党を選んでも、それは「白紙委任状」を渡してしまったのと同じこと。
次の選挙までは、やりたい放題やられてしまう。

そこで隠居は考えた。
「アンケート選挙」というのはどうだろう。

国のやるべき仕事を「国防」「外交」「社会保障」・・・などの項目に分け、各政党はその項目ごとに5W2H(なぜ、誰が、なにを、いつまでに、どこで、どのように、いくらで)をはっきりさせた政策を発表する。(これが本来の「マニフェスト」のはずだ。)
投票はマークシート方式で、どの項目は〇〇党、どの項目は△△党・・・と、項目ごとに政党を選ぶのである。
そして、最も多くの項目を獲得した政党が与党となる訳だ。
そうすれば、例え他党の提案した政策であっても、国民が望んでいればそれをせざるを得なくなるだろう。

しょせん、隠居の思い付きだ。そんな簡単なものでないのは百も承知。
だが、「白紙委任状」よりはましだと思うが、いかがなものであろう。
今の日本、これくらいの「変」をしないと、「変な国」のまま終わってしまいそうな気がする。

来年こそ、良い年でありますように。  

Posted by 迷道院高崎at 22:53
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2008年12月29日

チトン、チントシャン♪

柳川町の細道に入ったら、すごく粋な佇まいの家を見つけた。(写真クリックで拡大)

いつ頃建てた家だろうか、板塀漆喰壁、軒には吊り灯篭、小ぢんまりとしながら趣きがある。
今にも中から、鴨長明でも現れそうな雰囲気である。

立っている看板には、「表千家 茶道」、「琴 三味線」とある。
「なーるほどー、だからかー」と一人で納得した。

何しろここは高崎の花柳界、柳川町
昔は芸者衆が、「置屋(おきや)」さん(今で言えば「タレント事務所」)に籍を置いて、お座敷が掛かるのを待っていた。
昼間はお座敷がないので、三味線踊りの稽古をしていた。
「置屋」さんの前を通ると、チトン、チントシャン♪と三味線の音がしたりして、子ども心にも「いいなぁー」と思ったりした。

そう言えば、「置屋」さんの前には、いつも「輪タク(りんたく)」が停まってたっけ。
芸者さんは、それに乗ってお座敷に行っていたようだ。
「輪タク」と言っても、若い方には想像がつかないかも知れない。
「二車(自転車)で引くタクシー」ということなのかな。
写真を持ってないので、トヨタ博物館のサイトをご覧いただこう。
ただ、こんなに垢抜けてはいなかった。幌は国防色(死語か)、カーキ色(これもだめか)、うーん、自衛隊の服みたいな色で、お米屋さんのような自転車で(これも通じないかな?)・・・うーん難しい。

古い話のついでに、「お富さん」の話もしちゃおう。
昭和29年に、春日八郎が歌って大ヒットしたのが「お富さん」だ。
この歌の作詞は山崎 正という人だが、この人は高崎市出身である。
うろ覚えなのだが、「お富さん」の歌詞で「粋な黒塀 見越しの松に・・・」というのは、柳川町がモデルだという話を聞いたことがある。

この日見た、粋な白塀の家は、昔から芸妓さんに三味線を教えているお師匠さんの家なんだろう。
残念ながら、この日は三味線のお稽古はしていなかったようだ。
でも、脳みその奥深くで確かに音が聞こえた。
チトン、チントシャン♪って・・・。


  

Posted by 迷道院高崎at 22:09
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2008年12月28日

タイムトンネル

高崎は、路地の多い町だった。

区画整理や、都市計画で随分失われてはいるが、それでも少し歩くと路地の入口を見つける。

そこは、まるでタイムトンネルの入り口のようだ。
もう使われていない井戸の手押しポンプが、そこだけ時間が止まっているかのようにポツンと佇んでいる。
懐かしさと、その先にある未知のものへの期待に、ふと足を踏み入れてみたくなった。



← その路地は、やはりタイムトンネルだった!
そこだけ時空が捻じれているような、不思議な感覚に襲われる。

子どもの頃に嗅いだ、あの空気と同じ匂いを感じながら、ゆっくり歩を進める。







捻じれた時空を抜けて、ふと後ろを振り返ると、路地はもう真っ直ぐに戻っていた。







← 路地の角を直角に曲がると、あの頃の家の佇まいが、逆光の中に忽然と現れたのに吃驚した。

右手の家の庭から、突然、男の子と女の子が飛び出してきた。
「こんにちは。」と声をかけると、男の子は手に持った戦隊物の拳銃を、得意げに見せてくれた。
女の子は、本物そっくりな猫のぬいぐるみを抱いて、「こうすると、お話しするの。」と猫の頭を撫でると、猫は頭を振りながら「ミャー、ミャー」と鳴いた。
「バイバイ!」と言って手を振ってくれる子ども達の姿は、あの頃と何も変わっていない。
ただひとつ違っていたのは、男の子が「青っ洟」を垂らしていなかったことかな・・・。

今日の、タイムトンネルの冒険はここまで。
また、どこかのタイムトンネルを潜ってみたい。  

Posted by 迷道院高崎at 11:04
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2008年12月26日

発見!中央小の旧校歌

拙ブログの「高崎市立中央小学校」の記事で、「今の校歌の前に校歌らしきものがあった」と、覚えていた歌詞を紹介したところ、異なる歌詞で覚えているというコメントをいただいた。

そう言われてみると、その校歌らしきものの楽譜や歌詞をもらった記憶がない。
5年生の時だったと思うが、運動会の「棒倒し」の時、入場行進の歌として覚えた気がする。
だから、口伝で受け継がれた歌だったのかも知れない。

コメントをいただいてから、この歌が気になって仕方がなかった。
中央小へ行けば、あるのかも知れないと思ったが、生来の人見知り癖がなかなか足を向かわせない。
そんな折、偶然、市立図書館「校歌アルバム 西毛編」という本を見つけた。
あった、あった!ありました!
まぎれもない、あの時歌っていた中央小の旧校歌だ。

出版は昭和57年、「あさを社」(高崎市乗附町)、編者は「ふるさとのうた保存会」主宰の横田金治氏とある。

早速、「あさを社」さんに電話をし、複写とブログ掲載の許可をお願いしたところ、快諾をしていただいた。
ご厚意に感謝して複写させて頂いたのが、左の楽譜だ。(楽譜クリックで拡大)

やはり、私の記憶していた歌詞とチョコっと違う。
しかも、歌詞は5番まであった。
だがその歌詞を見て、
「こりゃ、校歌としてずっと歌う訳にはいかないや。」と納得した。

この校歌、昭和17年頃のものとある。
昭和17年と言えば、太平洋戦争の真っただ中。ミッドウェー海戦で日本海軍が手痛い打撃を受けて、以降じわじわと米国に押されていくことになるが、まだ日本国民は勝利を信じていたころである。
校歌の3番、4番など、まさに当時の教育姿勢を物語っている。

3番の「御使御差遣・・・」など、どう読むのかも分からない。
たぶん、「おんし、ごさけん・・・」と読むのだろう。「天皇陛下がお遣わしになった使者」が学校に来たことを、誉れとして忘れるな、という訳だ。

中央小の新しい校歌が制定されたのは、昭和35年とある。
終戦になってからその間、旧校歌の1番だけが口伝されていた理由が、やっと分かった。  

Posted by 迷道院高崎at 13:09
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2008年12月25日

人情ラーメン物語

この風景、50年前とそう変わっていない。(写真クリックで拡大)
嘉多町通りを東から西に向かって見ている。
真っ直ぐ行った突当りが「高崎神社」だ。

あの頃、ゑびす講というと、この通りの左側(覚法寺側)には、ズラーっと露店が並んだ。

露店の灯りは今のような電灯ではなく、カーバイトのガスを燃やすランタンだった。
シューっという音と、独特の臭いと熱さは、今でも思い出せる。
夜が明けると、カーバイトの使い残しが道に捨ててあったりする。
拾って水たまりに放り込むと、ブクブクと白い泡を出して、小さくなっていく。
触ると、熱かったっけなぁ。

写真に写っているおそば屋さん「中よし」さんには、貧乏のどん底だった時代に助けてもらったことがある。
私の家は一応店を構えていたが、客足はさっぱりだった。
何日も客が来ないので、米びつも財布も空っぽだ。

その日も客は来ず、夜になって当時5歳の私は、「母ちゃん、おなかが空いたよ~!」と泣きべそをかく。
母親は見るに忍びず、「中よし」さんへ行って、ラーメンを3つ届けてもらう。
空いた丼を取りに来るまでに、客が一人でも来れば金が払えると考えてのことだった。

ところが、客が来ない内に丼を取りに来てしまった。
母は「すみません。まだ空いてなくって。」と嘘をつく。
そんな訳はない。もう、2時間も経っているのだ。
でも「中よし」さんはそれを承知で、「はい、わかりました。」と言って帰ってくれた。
確か、もう一度来た時も言い訳をして引き取ってもらったと思う。

夜が明けた。
もう、いくらなんでも丼が空いてないとは言えない。
だが、神様というのはいるもので、やっと一人の客が来て、3杯のラーメン代(1杯30円位?)を払うことができた。
母親は、この話をするたびに、「中よし」さんの人情の厚さに感謝して涙を流していた。
その母も他界して、もう20年。
一度、その時のお礼を言いに行かなくてはバチがあたるな。

「中よし」さんの隣にある、「綿貫病院」の院長先生にも助けられた。
母が真夜中にぎっくり腰になり、七転八倒でもがき苦しんだことがある。
「綿貫病院」に駆け込んで往診を頼むと、院長先生が一人で来てくれた。
頭の毛は寝癖そのまま、眠たそうな眼をしていたので、子どもの目にも先生が就寝中だったことがすぐわかった。
そういうお医者さんがいた時代だった。

貧しかったけど、助けられて今がある。
感謝、感謝。
  

Posted by 迷道院高崎at 10:24
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2008年12月24日

上和田の「円石(まるいし)」

今日はいよいよ「和田の三石」の3つ目、「上和田の円石(まるいし)」である。

「円石」は、成田町の成田山光徳寺の境内にある。
それがなぜ「上和田の・・・」となっているかという訳は、他の2つの石と同じく、名石ゆえの流転人生があったようだ。
いつもお世話になっている田島武夫氏著「高崎の名所と伝説」から、教えて頂くこととする。

「円石」はもともと上和田の畑の中にあった。
享保年間(1730年代)、善念寺(元紺屋町)の住職が地主に請い、その石を切らせて門前の石橋として利用した。
ところが、石橋にして人に踏ませたせいか、異変が起こるようになった。
天明9年(1789年)、善念寺の旦那で新町(あらまち)の矢島八郎左衛門という人が、この石橋を砂賀町の用水堀に掛けたが、明治11年(1878年)橋の架け替えで売り物となった。
これを買い取った土屋老平という人が、父武居世平歌碑として成田山光徳寺の境内に建立し、現在に至っている。
ということだ。

実は、この「円石」は一つの石を二つに切ったもので、もう一つの石は善念寺庫裡の池のほとりにある、とも書かれている。
それじゃ、そちらも見てこなくては片手落ち。
バチでも当たっては敵(かな)わないと思い、善念寺へ行ってみた。

だが、庫裡も分からず、池もどこにあるのやら分からない。
ただ、本堂右手の築山風のところに、どうもそれらしい石がある。
勝手にそれだと決めつけて、写真を撮ってきた。

それにしても、「和田の三石」を訪ねる小さな旅、なっから楽しませてもらった。

↓ 「円石」・・・成田山光徳寺



↓ 「円石」の片割れ・・・善念寺

  

Posted by 迷道院高崎at 11:34
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2008年12月23日

和田の「立石(たていし)」

今日は「和田の三石」の2つ目、「立石(たていし)」のご紹介だ。
(画像クリックで拡大)

高崎の古称が「和田」だというのはご存知の方も多いと思うが、田島武夫氏著「高崎の町名由来」によると、もっと前は「赤坂」と言っていたそうだ。
今の赤坂町の坂の土質が、赤埴(あかはに:赤色の粘土)で目立ったからのようだ。

田島武夫氏著「高崎の名所と伝説」には、次のような話が書かれている。
赤坂の坂下には中山道西口の木戸があり、その傍らに「立石」はあったそうだ。
弘法大師行脚の節、この石に腰掛けられたというので「大師石」ともいう。
名石だというので、井伊直政が築城の時、他の場所に移そうとして十余人の人夫に担がせたが、途中で急に重くなって動かなくなったので、人々は怪しみ恐れてそのままに捨て置いたという。
元禄の頃、再び動かす必要ができたので、里人が「神と崇め祀るから」とお願いしたところ、数人で軽々と担ぐことができ、赤坂の観音堂境内(現「恵徳寺」内)に移動した。
おこり(瘧:マラリヤ)を患う人が石に祈ると必ず治るというので、「おこり石」とも名づけられていた。

私が子どもの頃は、高崎神社境内の中央付近(現在の駐車場)にあったような気がする。
そんな偉い石とは知らず、上によじ登ったりして遊んでいた。
よく、バチが当たらなかったものだ。(いや、もしかすると、当たってるかも知れない・・・。)
今現在は、高崎神社(熊野社)石段脇の植え込みにある。
流石の「立石」も近代の重機にはたてつくこともできず、あちこちと動かされてしまったようだ。

  

Posted by 迷道院高崎at 17:07
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2008年12月21日

下和田の「方石(かくいし)」

高崎には「和田の三石」というのがあるそうだ。

「和田の立石(たていし)」
「上和田の円石(まるいし)」
「下和田の方石(かくいし)」

というらしい。

今日は、下和田の「方石」をご紹介しよう。
田島武夫氏著「高崎の名所と伝説」によると、「方石」は現在若松町の佐藤病院の敷地内にあるという。

余談だが、昔のお年寄りは佐藤病院のことを「館出張」と呼んでいた。
「かんしゅっちょう」ではなく「たてでばり」と読む。
その由来については、佐藤病院の沿革をご覧いただきたい。

で、その佐藤病院へ「方石」を探しに行ったのだが、周囲をぐるりと回っても見つからない。
よっぽど、受付へ行って聞こうかと思ったら、「めっけた!」
室外休憩所の自販機と喫煙ボックスの陰に、ひっそりと隠れるように潜んでいた。

説明看板も何もないので、知らない人はただの石だと思っちゃうだろうな。
まぁ、見かけ「ただの石」なんだけど・・・。

前述の「高崎の名所と伝説」の中では、こんないわれが書いてある。
「この石が化け物に見えたので、源頼朝の馬が驚いて石を蹴ったという。それで『化(バケ)石』でもあり、『馬蹴石』でもある。」
また、地名で「馬上(バアゲ)」という所があったので、「馬上石」「バケ石」になったのだろうとも書いている。

さらに、郷土史家の土屋喜英氏は「高崎の散歩道」の中で、「この辺りに、『損馬堀(そんまぼり)』という深い堀があって、死んだ馬をこの堀に投げ捨てたそうである。」と書いている。
もしかすると、その馬たちの・・・。

ただの石も、調べてみると面白い。
皆さんも、佐藤病院の近くへお出かけになったら、一度探してみてはいかがですか?

  

Posted by 迷道院高崎at 17:53
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2008年12月20日

金のなる木に花が咲く



高渋線の「ミスター・タイヤマン」店内にある「金のなる木」に花が咲いていた。
「金のなる木」の花を見たのは初めてなので、この不景気のさなか、何かご利益がありそうで、パチリとやってきた。

「金」といえば、もうだいぶ前だが、ラジオ「小沢昭一的こころ」で、「金々節(かねかねぶし)」という歌を流していた。
♪カネだ、カネ、カネ、この世はカネだー♪という歌詞がすごくインパクトがあった。

調べてみると、明治の演歌師・添田唖蝉坊(そえだ・あぜんぼう)という人の作った、「ああ金の世や」というのが元歌らしい。
その頃の「拝金主義」の世相を痛烈に皮肉っているのだが、現在でも充分通用する内容である。
長い歌詞の一部を抜粋してみよう。

ああ金の世や金の世や。地獄の沙汰も金次第。
   笑うも金よ、泣くも金。一も二も金、三も金。
親子の中を割くも金。夫婦の縁を切るも金。
   強欲非道と譏(そし)ろうが、我利我利亡者(がりがりもうじゃ)と譏ろうが、
痛くも痒くもあるものか、金になりさえすればよい。
   人の難儀や迷惑に、遠慮していちゃ身がたたぬ。

ああ金の世や金の世や。希望(ねがい)は聖(きよ)き労働の
   我に手足はありながら、見えぬくさりに繋がれて、
朝から晩まで絶間なく、こき使われて疲れ果て
   人生(ひと)の味よむ暇もない。これが自由の動物か。

ああ金の世や金の世や。牢獄(ろうや)の中のとがにんは、
   食うにも着るにも眠るにも、世話も苦労もない身体。
牛や豚さえ小屋がある。月に百両の手当をば、
   受ける犬さえあるものを。「サガッチャコワイ」よ神の子が、
掃溜(はきだめ)などをかきまわし、橋の袂(たもと)や軒の下、
   石を枕に菰(こも)の夜具、餓えて凍えて行路病者(ゆきだおれ)。

ああ金の世や金の世や。憐れな民を救うべき、
   尊き教えの田にさえも、我儘勝手の水を引く。
これも何ゆえお金ゆえ、ああ浅ましき金の世や。
   長兵衛宗五郎どこにいる。大塩マルクスどこにいる。


歌詞全文を知りたい方はこちらをどうぞ。

「金のなる木」は、ポロっと落ちた葉を土に刺しておくと根がついて、また立派な「金のなる木」に成長するらしい。
まるで金が金を生む資本主義の象徴のような木にも思えるし、
困難にめげず逞しく生きる庶民の象徴のような木とも思える。

今、大量の木の葉が、冷たいコンクリートの上に放り出されようとしている。
願わくは、木の葉一枚一枚を大切に、土に刺して育てて欲しい。
いつか花咲く、「金のなる木」なのだから。  

Posted by 迷道院高崎at 12:01
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2008年12月19日

来た・見た・良かった!

「榛名湖イルミネーションフェスタ」行ってきました!
年々、規模が大きくなり、内容も充実しています。
入り口で、トナカイがツノを振って出迎えてくれます。


後は、入ってからのお楽しみ!ということで・・・。

駐車場は「警備協力金」という名目で300円です。小銭のご用意を。
下がぬかるんでいるので、長靴を用意していくといいですよ。
道路が凍結しているところもあるので、気をつけて。

いってらっしゃい!  

Posted by 迷道院高崎at 10:48
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2008年12月17日

もしも、お城があったなら

高崎のお城が写っている貴重な写真がある。
(写真クリックで拡大)
上毛新聞社出版局のご厚意で、「実録・たかさき」に掲載されていた写真を複写させて頂いた。

手前に写っているのは、旧陸軍第15連隊の兵舎である。
高崎市教育委員会がお堀端に立てた「高崎城址」の説明看板によると、写っているのは天守閣ではなく、三層の櫓(やぐら)らしい。
それにしても、今残っていれば良い観光資源になったろうにと、残念に思う。


1998年(平成10年)、高崎城跡には地上21階、地下2階、高さ102.5mの新・市庁舎がそびえ立った。
この庁舎が立つ時、半分冗談、半分本気で知人に話していたことがある。

「どうせ作るんだら、お城の形にすりゃぁ良かったんになー。
そいでさー、市長室は天守閣にしてさー、市長は殿様の格好してるんさ。
男子職員は裃(かみしも)つけて仕事するんさ。
女子職員は腰元だいな。
そうすりゃ、全国から人が来るぜー。
町にも金が落ちらいなー。
観光客は土日に来るから、役所だって土日開くがな。
そうすりゃ、市民だって便利だしよー。いいがんな!なー!
俺に相談すりゃ、教えてやったんにー。ハハハ!」


今、宮崎県庁には、知事見たさに観光客が押し掛けてるという話だから、まんざら馬鹿っ話とも言えないと思うのだが・・・。
今年の漢字と同じで、「変」ですか?わたし・・・。  

Posted by 迷道院高崎at 10:33
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2008年12月16日

高崎市立中央小学校

昭和35年頃の「高崎市立中央小学校」の正門である。(写真クリックで拡大)

木造校舎の玄関には
「髙崎學校」の額が掲げられ、玄関の左傍らには「二宮金次郎」の石像が建っている。

この学校は面白いことに窪地に建っているので、多くの児童は坂道を使って登下校していた。
雪が降って道が凍ると危険だったはずだが、怖い思いをしたという記憶はほとんどない。
むしろ面白がっていたような気がする。

学校のHPで沿革を見てみると、明治6年に「鞘町(さやちょう)小学校」として宮本町に創立したとある。
「鞘町小学校」創立については、上毛新聞社発行の「実録・たかさき」に面白いことが書いてある。
要旨はこうだ。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
田町に、「積小学館」という私塾を開いていた市川左近という人がいて、結構盛っていたらしい。
左近先生は、「ドケチ先生」と噂されるぐらいの合理主義者で、友人や知人から来た手紙の余白をメモ代わりに使い、食事は一汁一菜。
他人からお呼ばれされても一汁一菜で済ませ、残りを家に持ち帰ったという。
当然、巨額な金銭の所有者になっていた。
ところが、高崎にも学校ができると聞くや、ポーンと(当時)巨額な一千円(現在の1千万円位かな?)を寄付したので、住民は「あの、ドケチ先生が!」とびっくりしたそうだ。
当時、豪商たちは口実を作って寄付逃れをしていたらしい。
左近先生にとっても商売仇の「学校」ができるのだから、当然反対するだろうと思っていたら率先して寄付したので、豪商たちも後に続かざるを得なくなった。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

左近先生は、福沢諭吉の「学問のすすめ」を実践するために、倹約生活をしていただけで、ただの「ドケチ」ではなかったのだ。
生きたお金の使い方。現代人は一度立ち止まって、考え直す時期に来ているようだ。




現在の「中央小学校」の正門である。








「髙崎學校」の額は、今どこに掲げられているのだろうか。
「二宮金次郎」の石像は残っていたが、どことなく寂しげだったのが印象的だ。。

最後に、今の校歌の前に歌っていた校歌らしきものを、思い出せる内に書いておこう。

♪遠く榛名の峰の雲
 流れてやまぬ烏川
 朝な夕なに仰ぎつつ
 ここに立つなり 中央校♪
  

Posted by 迷道院高崎at 12:01
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2008年12月14日

堰代町(せきしろちょう)

昭和36年頃の堰代町の家並みである。(写真クリックで拡大)
堰代町は小さな町で山車(だし)は持っていなかったが、この日はちょうど成田町の山車が通過するところを、覚法寺の塀によじ登って撮影した。
左から2軒目と3軒目の間が、「高崎神社」の入り口になる。その角を右へ曲がると嘉多町(かたまち)、真っ直ぐ行けば四ツ屋町だ。

堰代町は、昔、用水を管理する役人の「方屋敷」と「城組屋敷」があったのでその名がついたという。(田島武夫著「高崎の町名由来」より)
写真をよーく見ると分かるのだが、道路に対して斜めに家が建てられていて、ちょうど鋸の刃のようにギザギザになっている。
郷土史家の土屋喜英氏の著書「続・高崎漫歩」によると、「中山道から高崎城を攻めるには、この高崎神社前の道か湯屋横丁を通るしかなく、この道を大勢の人数で一度に通過することができないように考えられていた」のだそうだ。
子どもの頃、この家並みのギザギザのところに兵が隠れるようになっているのだと聞いたことがある。本当か、嘘かは分からない。
ただ、この道はやたらと細い路地のある、妙に折れ曲がった道であったことは記憶している。

写真右の側溝にはいつも水が流れていた。
タニシやカワニナ、どじょう、ヒル、ヤゴなどが生息する、生物多様性に富んだドブ川だった。
このドブ川の少し上流に、鰻(うなぎ)屋さんがあった。
鰻の他にも鯉や金魚、泥鰌(どじょう)を店の生け簀(いけす)で飼っていたが、たまーに脱走する魚がいて、子どもにとってはそれが楽しみで、よくドブの中を漁ったりしていた。

その場所が、今はこんな風景になっている。
同じ場所にずっと残っているのは、高崎神社角の「友松綿店」だ。
車がすれ違うのもやっとだった道路は、片側2車線の広い道路になった。
昔、道の真ん中でベーゴマやメンコをして遊んでいたなんて、とても信じられないだろう。

いつの間にか、昭和も遠くなってしまった。

  

Posted by 迷道院高崎at 16:37
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2008年12月13日

高崎市立第二中学校

古いアルバムの中に、「高崎市立第二中学校」の空中写真があった。(写真クリックで拡大表示)
たぶん、昭和37年頃の写真だと思う。
右端にチョコっと写っているのが昭和36年開館の「音楽センター」だ。
「二中」という人文字の左右に建っているのが、旧陸軍高崎15連隊の兵舎で、これを教室として使っていた。
右側の校舎の上に建設中の建物が新校舎で、やっと隙間風の入らない、南向き窓のある校舎に入れたのは、翌年のことになる。
この頃、歌謡曲は西洋のポップスを日本語で歌うのが流行っていた。坂本九、中尾ミエ、木の実ナナ・・・なつかしー!
「サラリーマンは~、気楽な稼業ときたもんだー」植木等が歌っていた。
あの頃は、世間が何となく明るく、夢があった。

右の写真は、国土地理院が提供している「空中写真閲覧システム」のものだ。
昭和49年の撮影とある。
高崎15連隊の兵舎はすべて撤去され、音楽センター周辺も随分と整備されているのが分かる。
この年、小野田寛朗元陸軍少尉がフィリピンのルバング島で、旧日本兵として発見されている。
長嶋茂雄が引退したのもこの年だ。
流行語は「狂乱物価」「便乗値上げ」「ゼロ成長」・・・、あぁ、この頃から始まったんだな。
流行った歌も中条きよしの「うそ」、さくらと一郎の「昭和枯れすすき」
う~ん・・・。

そして、右の写真が現在のグーグルマップで見たものだ。
「二中」と「三中」が統合され、「高松中」となって、現在の場所(旧専売公社跡)に移転した。
「二中」の跡地には、「シティギャラリー」が建ち、「音楽センター」との間には「シンフォニーロード」が開通して、駅前から抜けられるようになった。
市庁舎は、移転して21階建ての高層ビルとなった。
道路も建物も良くなった。でも、人々の夢や幸せはあの頃と比べてどうなんだろう?

今、この付近を歩くと、昔はどんな風景だったのか思い出せないことがある。
でも不思議なことに、夢の中では今の風景ではなく、あの頃の風景の中を歩っている。
そんな時、昔の風景を知っていてよかったと、心から思う。  

Posted by 迷道院高崎at 15:10
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2008年12月11日

あの頃みんな(?)貧乏だった

「みんな」と言うと、そうでなかった人に怒られるかもしれないが、そう言いたくなるぐらい「ウチは貧乏だ。」と思っていた子供は多いと思う。
昭和20年~30年代のことだ。

左の写真は私が小学校へ上がる時に、記念に撮ってもらった写真だ。
「帽子」「運動靴」「学生服」「ランドセル」「上履き」「上履き袋」、どれひとつ親は買う金を持っていなかった。
入学式直前、ある人が私の母親に「おばさん、○○坊のランドセルはあるんかい。」と訊ねた。
その人は、床屋をしていた我が家のお客さんで、職業は「寅さん」と同じだった。
我が家の状況をよく知っていての質問だった。
寅さんは「わかった、俺に任しときない!」と言って、私の上から下まですべて買い揃えてくれたのだ。
母親からその話を聞いた時は、もう寅さんの消息は分からず、いまだにお礼を言うこともできていない。

そんな貧乏な我が家に、隣の家の子が「おばさん、電気がつかなーい。」と言って来たことがある。
その家も、我が家に劣らぬ貧乏暮らしだった。
母が行ってみて、どうも電球が切れているらしいとわかると、父には内緒で、そっと電球を買ってきてつけてやった。
父が「あれ?隣は電気がついたらしいな。」と言うと、しらばっくれて「あれ、そうげだね。」と言っていた。
そんな母親だった。
隣の家の子がご飯を食べてないと聞けば、自分の家が食うに困っているにもかかわらず、冷や飯を持って行って食べさせたりもしていた。
今風に言えば、「貧貧介護」だが、みんなが貧乏だったけど、みんなが助け合っていた時代だったように思う。

今、不況の嵐に巻き込まれ、職を失う人達が大勢出ている。
我が家は貧乏だったが、それでも僅かな日銭と、人と人との助け合いで何とかしのぐことができた。
今、職を失った人は日銭すら入らないのかと思うと、その不安、辛さは痛いほどよく分かる。
本当は、ワークシェアリングをしてでも雇用を守るべきだったと思うが、事ここに至っては仕方がない。
今こそ、富める者も貧しき者も、持てるものを持ち寄って、あの頃のように助け合うことができないものだろうか。  

Posted by 迷道院高崎at 21:42
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2008年12月10日

歌声喫茶「風」

最後に「風」で歌ったのは、35年ほど前だったと思う。
夫婦喧嘩をして飛び出したものの行き場もなく、学生の頃に通い詰めた「風」で歌を歌って時間を潰していた。
ところが女房の勘というのはすごいもので、ここをぴたりと探し当てられてしまった。
歌を歌って私の怒りも収まっていたので、無事休戦(敗戦かな?)できた。
今日まで夫婦でいられるのは、もしかしたら「風」のおかげかも知れない。

郊外に引っ越し、すっかりご無沙汰になってしまったある日。
前を通りかかって懐かしく「風」の看板を見上げたが、店を開いている様子はなかった。
その時は、1階の薬屋さん「マツヤス薬局」がまだやっていたので、ご主人にお話を聞くことができた。
ご主人から聞いて初めて知ったのだが、「風」を開いていたのは「マツヤス薬局」の奥様だったのだ。
お身体を壊されて、やむなく「風」を閉めることになったのだが、「看板は残しておいて。」と言われているので、ということだった。
またいつか「風」を再開するつもりなのだな、再開されたら絶対に来ようと思っていたのだが、ついに「マツヤス薬局」のシャッターも降ろされてしまった。

「風」には、カウンター席が6つぐらい、4人がけくらいのテーブル席がやはり6つぐらいあったような記憶がある。
いつも満席に近く、ガラガラだった記憶はない。
伴奏はエレクトーンだった。その伴奏に合わせてリーダーが歌い、客が一緒に歌うのだ。
1曲歌い終わると、客席から「(歌集)何集の何番!」とリクエストが出る。
客は一斉にそのページを開いて、伴奏が始まるのを待つ。
今のカラオケのように、一人が歌い、他の人はろくに聞きもせずに曲探しという冷たさはない。
みんなが一緒だった。
みんなと歌いながら、知らなかった歌をずいぶん覚えた。
特に、山の歌、ロシア民謡、労働歌はよくリクエストされていた。

ママ(マツヤス薬局の奥様)は、いつも笑顔でカウンターの中にいた。
初めて「風」に入ったのは中学3年生の時だった。
当時は、中学生が喫茶店に入るのは禁止されていたかも知れない。
だが、昼飯のパンを買う金を2日我慢して貯め、「風」に通っていた。
初めての日は金がなくて歌集が買えなかった。(1冊100円ぐらいだったかなぁ?覚えてない。)
ママは笑顔で店の歌集を貸してくれた。

ある日こんなことがあった。
見るからにその筋らしいお兄さんと、その手下らしい人が店に入ってきてカウンター席に座った。
横目でチラチラ見ていると、お兄さんも「場違いなところに来ちゃったなぁ。」という顔をして、黙ってコーヒーを飲んでいた。
すると、ママが少しも臆することなくいつもの笑顔で、
「ほら、歌いなさいよ!」とお兄さんに歌集を手渡すと、照れたような顔で小さく開けた口で一緒に歌い始めた。
心の中で「すげー!ママ!」と感心することしきりだった。

あの頃の「同胞感」って、今、必要なんじゃないかなー。  

Posted by 迷道院高崎at 15:26
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2008年12月09日

音楽センター(その2)

高崎市へ送ったメールの内容です。

《結論》
「音楽の町 高崎」のシンボルとして、今のままの姿で残して
ほしいと思います。

《理由》
1.高崎市は、コンセプトのない町だと感じています。
一応「音楽の町」という名前にはなっていますが、いま一つ実
態が伴いません。
高崎駅を降りて街に出ても、音楽に関する施設や店舗が沢山あ
る訳ではありません。
「音楽センター」を核にして、もっと音楽にこだわった街づく
りを推進してもよいのではないかと思います。

2.「音楽センター」の構造上の問題が挙げられていますが、
それ自体が歴史の遺産として残すべき理由だと思います。
「昔は、このような構造のホールで、このような音響で音楽を
楽しんでいたんだ」ということが体験できるなんて、何と素晴
らしいことではないでしょうか。
大間々の「ながめ余興場」や上三原田の「歌舞伎舞台」は古い
からこそ価値があるのではないでしょうか。
CDの音楽にない良さが、真空管のレコードプレーヤにはある
と思います。
もちろん安全上の配慮はしなければいけないでしょうが、避難
の問題や車いすの問題などは、危機管理を予め想定しておけば
克服できると思います。

3.「音楽の町 高崎」の草分け的喫茶店「あすなろ」も今は
閉店しています。
新紺屋町にあった歌声喫茶「風」も今はシャッターで閉ざされ
ています。
確か、群響の草創期には、ケーキ店の「ラ・メーゾン」が練習
場で、故山本直純さんが子どもの頃お父さんと一緒に来ていた
という話を聞いた気がします。
どうしても「音楽センター」で大規模なコンサート会場として
使えないのであれば、これらの店舗を音楽センター内に復元さ
せることはできないものでしょうか。
ノスタルジックな空間として、市民の集う場所になると思うの
ですが。

4.高崎市民が群響のコンサートをあまり聞きに行かないとい
う問題もあるようです。
「音楽センター」を群響の常設練習場にして、練習風景をいつ
も見られるようにしてはどうでしょうか。
入口にカンパを呼び掛ける箱を置けば、たとえ僅かでも市民や
観光客の浄財を期待できるのではないでしょうか。
そして何よりもそのことが、市民との距離を近づけ、ひいては
コンサートへの誘導灯になると思います。

5.新しく建て替えるのは、お金があればできることでしょう

しかし、古いものを残さなかったために、今、高崎の街なかは
シャッター通りになってしまいました。
「町興しは町残し」という言葉があります。
どうか、高崎の貴重な音楽遺産をそのまま残してください。
そして、「音楽のことなら高崎へ行け。」という言葉が全国に
広まるぐらいに、音楽にこだわった街づくりをしていってくだ
さい。

6.高崎駅前から音楽センターに続く道々に楽器屋さん、音楽
スタジオ、音楽スクール、コンサート用衣装店等々の音楽関連
店舗がひしめいている姿が目に浮かんできます。
町の角々にはストリートミュージシャンの姿、柳川町の居酒屋
には流しのミュージシャン、いつかその中からトップミュージ
シャンが出てくるでしょう。
観音山丘陵には名高い作詞家や作曲家の別荘があるといいです
ね。
音楽に関する店舗や人物の誘致を、行政としても考えてみてく
ださい。

お願いします。そのまま残してください。


  

Posted by 迷道院高崎at 19:06
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2008年12月08日

音楽センター

高崎市の「音楽センター」が、今、改修か建て替えかの議論になっている。
広報高崎12月1日号「音楽センターを考える」

同年代の高崎市民には、「音楽センター」に深い思い入れのある人が多いのではないだろうか。
終戦の年、昭和20年に高崎市に生まれた「高崎市民オーケストラ」(群馬交響楽団の前身)は、群馬県内の小中学校を回り「移動音楽教室」を開いた。
同年代の中には、実際にその生の演奏を聴いた人もいるはずだ。
この活動は後に映画化されて、全国に知られることとなった。(「ここに泉あり」

このような市民レベルでの音楽活動を支え発展させるために、昭和36年、当時は東京にしかなかった音楽ホールが高崎市に誕生した。
それが「音楽センター」だ。
今ならもしかすると「箱もの行政」だとして、やり玉に挙がるのかも知れないが、当時、高崎市の年間予算が8億円であった中で、「音楽センター」の総工費は3億円だ。半端な額ではない。
だが、その内の1億円は市民の寄付で賄われた。
「音楽センター」の傍らに立つ記念碑には、
「ときの高崎市民 之(これ)を建つ」と刻まれている。

「音楽センター」の建設された場所は、明治の廃藩置県があるまで高崎城の建っていた所で、その後、陸軍の高崎歩兵第15連隊が置かれた。
終戦後はその兵舎は、今で言うとアパートとして市民が生活していた。
たぶん、戦争で家を失った人々だと思う。空地には、色々な野菜が植えられていたのを記憶している。
その後、市民はそこから他所へ移り住み、兵舎は市立第2中学校、高崎経済大学、東京農大2高の校舎として使われた。
校舎の縁の下に潜ると、銃弾が落ちていたりした。
南北に細長く、窓が東西にある、冬は寒い校舎だった。
そんな校舎群の近くに、忽然と建った近代的な「音楽センター」の姿に、高崎市民として誇らしい気持ちを感じたような気がする。

あんなに近代的な建物だった「音楽センター」が、まだ60年も経たない内に老朽化したと言われ、莫大な改修費用がかかっているという。
さらに、最近催される舞台の装置が大型化し、現在の構造では対応できないのだそうだ。
もうひとつ、音響性が近年の大ホールと比較して良くないということも挙げられている。

ただ、年寄りの懐古願望かも知れないが、そのままの姿で残してもらえないかと思う。
CDの音楽はクリアでメリハリがあっていいのかも知れないが、真空管のレコードプレーヤーのボワッとした丸っこい音もいいものだ。
そんな、昔の音が聴ける音楽遺産をそのまま残しておいて欲しいと思う。
そんな気持ちを、メールにしたためて高崎市へ送った。
その内容は、また次回。
  

Posted by 迷道院高崎at 18:58
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