2010年06月21日

石段の上の隠れ家

清水寺の石段を上がっていくと、大きな招き猫がいたんです。
もう一年以上前に、「見たことある?」で紹介したんですが、今はもういなくなりました。

でも、招き猫の飼い主の家はあります。

この辺を散歩する度に、気になっていたのですが、ついに訪問することにしました。

手打ち蕎麦の「そばっ喰ひ」というお店でした。
門までのアプローチの長さが、期待させます。

←どーです、この佇まい。

な~んも、言えなくなるでしょ。





門から玄関までのアプローチも、これまた風情たっぷり。
どこかのお屋敷に迷い込んだ気分です。

玄関の引き戸を開けると、農家の土間を思わせるような光景が出迎えてくれます。

こだわりの蕎麦の産地は、北海道幌加内産だそうです。

「やっぱりそばはうまい そばっ喰ひ」という手書きのビラが、何とも言えない味を醸し出しています。

ご主人に「どうぞ、こちらへ。」と通されたのは、囲炉裏のある間でした。

行った日は、5月の末とは思えないほどの寒さで、囲炉裏で赤く燃える炭火の温かさが、ありがたいもてなしでした。

人気の「そばがき」は、もっちりあったかで、ボリューム満点。

体が温まる一品で、絶対のお勧めです。


これが、名物「皿そば」です。→

そうそう、このお店で使う器は、全てご主人の焼いたものです。

もともと、ここに窯を持つ陶芸家のご主人が、「器を作り続けていたら、そこに盛るものも作りたくなった。」ということで、蕎麦屋を始めたということです。

←渋い色の障子戸を開けると、ご主人の作品が廊下いっぱいに並んでいます。

よく見ると、作品に「何ポイント」と書かれた札が付いてます。
こちらのお店、ポイントカードがあるんです。

ポイントが溜まるとご主人の作った陶器と交換できるんだそうです。
もちろん、ポイントでお蕎麦の割引もしてもらえるんですが、割引に使う人はほとんどいないそうです。

仕上げは定番の「そば湯」ですが、こちらのお店の「そば湯」は、そんじょそこらの「そば湯」とは違います。

茹で汁なんぞじゃなくて、そば粉そのものを湯に溶いた、濃厚な「そば湯」です。
「蕎麦のポタージュ」と言ってもいいくらいです。
「くず餅」の黒蜜も、ご主人手作りだとのこと。
また、試行錯誤の末に最近やっと完成したという「蕎麦かりんと饅頭」も、他のお店では食べられない逸品です。

本当は教えたくなかった隠れ家ですが、もう既に「高崎新聞」の記事で紹介されてしまいましたので、やむなく拙ブログでも取り上げることにしました。
観音山にお越しの節は、どうぞご賞味下さいませ。

   ◇手打ち蕎麦「そばっ喰ひ」HP

【そばっ喰ひ】


  


Posted by 迷道院高崎at 06:49
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2010年06月27日

幸福になれる石段

グンブロガー蓮明さんの記事「清水寺の鐘」を拝見して、夕方に清水寺の石段を訪ねました。
「植樹1985 あじさい祭り 片岡中学校同窓会」という横断幕が、目を引きます。

諸説ある石段の数を数えながら上っていくと、夕刻ではありましたが、4、5組の人達と行きあいました。

仁王門に、「あじさいのご感想をお書き下さい」という、ノートと鉛筆が下げられていました。

見ると、皆さん結構書いて下さっているのですね。

どうせなら「あじさい祈願帳」とでもして、願いごとと住所・氏名を書いてもらうようにすると、来訪者の数や、何処から来た人かが分かって、いいのではないかと思いました。
そして、あじさい祭りが終わった後、清水寺に奉納・祈願して差し上げるのです。
このことが伝わっていけば、年々、来訪者が増えていくのではないでしょうか。
新しく出来た鐘のある本堂前まで、石段の数は521段でした。

実は、石段の数には諸説あって、536段説、518段説、520段説があります。
今日のカウントによると(1段数え間違えたかもしれません)、520段説が正しいようです。

いつかまた数えたいと思います。(帰りに数え忘れちゃいましたので・・・)

清水寺の舞台に上がると、心地よい風が吹いていて、汗を引っ込めてくれます。

欲を言えば、舞台下の樹の丈を少し詰めて、もっと高崎の町が一望できるようにしたいものです。
そうすれば、下の道からも赤い舞台が見えるようになって、今よりも「石段ルート」を利用してもらえるようになると思うのです。

因みに、この舞台に上がる階段の数、9段なんです!

なぜそんなに力を入れるかというと、ほら、520+9=529(こーふく:幸福)じゃないですか!
ここまで上がってこられるというのは、幸福なことなんですよ!
それだけじゃありませんよ。
本堂に上がるのも、同じ529段になるんです。
「幸福になれる石段」と名付けてもいいくらいです。

舞台で涼みながら、そんなことを考えていると、何処からともなく暮れ六つの鐘の音が聞こえてきました。
しかし、一向にここの鐘をつきに来るようすがありません。
そこへ、ご住職が本堂の扉を閉めにお見えになったので、聞いてみました。
「この鐘は、いつ撞くんですか?」
「別に、決まってはいない。」
「え?決まった時刻に撞くんじゃないんですか?」
「そう。」

ここで引き下がる訳にはいきません。
「撞いているところの写真を撮らせてもらいたかったんですが・・・」
「この格好じゃなぁ・・・。」
と言いながらもご住職、木槌を持って来て下さいました。

「撞くというより、叩くというんだけどね。」

カーン、カーン、カン、カン、カン、カン、カーン・・・とても澄んだいい音色でした。

ご住職のお話では、この鐘は「梵鐘」よりも小さいので、「半鐘」というそうです。
そして、「梵鐘」時の鐘だけれど、「半鐘」合図の鐘だということなんです。

寺院では、僧の着替えとか、儀式とかの始まりの合図に叩くそうです。
「この鐘を叩いて、いい音色を出すには、その人の素質にも拠るけど、十年くらいかかる。」と、ご住職は言います。
「半鐘は、楽器なんだよ。鐘の善し悪しと、叩く木槌の善し悪しと、叩く人の善し悪しが出るから、なかなか難しんだ。一生掛かっても、本当にいい音を出せるかどうか。」なんだとか。

ところで、と、ご住職に清水寺の石段の数についてお尋ねしてみました。
すると、
昭和十一年(1936)に白衣大観音が出来るまでは、536段だった。
その時、本堂の下に道が出来たので、18段減って518段になった。
その後、道と石段のバランスが悪かったので、2段増やして520段になり、現在に至っている。
というお話でした。

これからは、この石段のことを、「幸福になれる石段」と呼ぼうではありませんか、みなさん!

【幸福になれる石段】


  


Posted by 迷道院高崎at 23:27
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2010年07月07日

そなえよつねに

昭和十一年(1936)開眼の高崎白衣大観音、既に74年の長き歳月、高崎の町を見守り続けておられます。

今、老朽化により残すか解体するかと議論されている群馬音楽センターが、築後49年であることを思えば、同じコンクリート建造物でありながら、大したものだと思います。

また、その間、高崎の観光名所としてトップの座を占め続けていることに、先人の先見性と偉大さを改めて認識させられます。

白衣大観音の誕生秘話については、過去記事「観音様の足あと」をご参照ください。

とはいえ、物に寿命の無い道理はなく、過去2回の大修理を行った観音様も、2036年にはコンクリートの寿命と言われる百年を迎えます。

慈眼院本堂脇には、その時に備えようという橋爪住職からの、「白衣大観音再建基金へのお願い」という看板が掲げられています。

観音様の建造費は、当時のお金で16万円だそうです。
今だったら、どのくらいのお金が必要なのでしょうか。

基金は一口が千円です。
1日10円として、3ヶ月とちょっとで用意できそうです。
1万人の人が基金を一口積むと、1000万円!
大きいなー!

偉大な先人の思いを引き継ぐためにも、ぜひとも皆様にご協力いただきたく、不肖、迷道院からもお願い申し上げる次第です。

今、高崎に残る歴史遺産も、それを所有する個人のご努力により辛うじて姿を留めているものが少なくありません。
しかし、今後もそのご努力に頼り続けるのには、限界があるでしょう。
そのような中で、歴史遺産維持・保全のための「基金」を創設するという考え方は、有効な方法かもしれません。

今から少しづつ、将来に備えておく必要がありますね。

そなえよつねに!


  


Posted by 迷道院高崎at 06:15
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2010年08月01日

念願の一路堂

「一路堂の門に看板がありましたよ。」と写メを送って頂きました。

「井上房一郎翁忌・記念展」と書いてあります。

普段「一路堂」は一般公開されていません。

中を見られる滅多にないチャンスということで、何はともあれ、早速、出かけてみることにしました。

行ってみると、普段は閉ざされている引き戸が開いていました。

苔むした階段と坂を、注意深く下りて行くと、「一路堂」の建物が見えてきます。




入り口に掲げられた「一路堂」の額は、円覚寺管長・朝比奈宗源(あさひな・そうげん))老子の筆だそうです。

ネットで調べてみたら、TVドラマ「水戸黄門」の題字も、朝比奈宗源老子の筆だとか。


建物の設計者は、あのブルーノタウト「最高の弟子」と言わしめた、高崎の工芸家・水原徳言(みはら・とくげん)翁です。

これも調べてみると、普段私たちがよく目にしているものが、水原徳言翁の作だと知って驚いています。

左奥の部屋に、今回の「井上房一郎翁忌・記念展」の作品が、展示されていました。

井上房一郎氏については、私如きが改めてご説明するまでもありませんが、高崎白衣大観音を建てた井上保三郎氏の長男です。

房一郎氏はパリに留学して絵画や彫刻を学び、帰国して井上工業に入社してからも、高崎の美術・建築・音楽文化に大いに貢献しました。

房一郎氏に指導を受けた一人に、群馬音楽センターの壁画を手掛けた石沢久夫氏がいますが、その石沢氏が中心となって、毎年開催しているのがこの記念展で、今年が第6回になります。

恥ずかしながら、絵画には全く知識を持たないのですが、その私に「おっ!」と思わせるほどのインパクトを与えたのが、小金澤久司さんのこの絵でした。


迫力のある絵から、ゴッホ岡本太郎のような方をイメージしますが、とても優しそうな方でした。(写真は、ちょっぴり緊張気味ですが。)

着ているTシャツも、ご自身の絵をプリントしたものだそうで、鞘町「自然工房・花」で取り扱っているそうです。

冷たい氷水でもてなして下さった松井次男さんの作品がこちらです。→

夢の中の景色のような、不思議な落ち着きを感じさせてくれる絵だなぁ、と感じました。

他にも、沢山の素敵な絵画が展示されていましたが、視線はついついそれ以外のものに行ってしまいます。

こういう本があるとは知りませんでした。

田中角栄元首相が、井上工業に住み込みで働いていた時、白衣観音の原形を自転車で運んだというエピソードが載っています。

井上房一郎氏愛用の帽子

お洒落な手すりお洒落な欄間
仏壇茶室床の間の
一路居士の書
石庭と石段

念願の「一路堂」の中を見られた喜びで、肝心の「一路堂」の由来について、まったく記すことができませんでした。
次回、改めてお話したいと思います。

【一路堂】


  


Posted by 迷道院高崎at 16:58
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2010年08月04日

一路堂と一路居士

観音山慈眼院本堂の崖下に、ひっそりと建っている「一路堂」(いちろどう)。

高崎市民でも、その存在すら知らない方が多いのではないかと思います。

本堂裏手の木戸「一路堂」の入口ですが、普段は閉ざされたままです。

「一路堂」の完成は36年前(昭和49年:1974)のことですが、私自身、その中に入ったのは前回の記事に書いた通り、初めてでした。

「一路堂」の玄関に「一路堂記」という、この建物の由来が掲げられています。

ここに書かれている馬場一路居士こそが、「一路堂」という名前の由来です。

さて、この馬場一路居士とはどのような人物なのでしょうか。

←この人が、馬場一路氏です。

本名・馬場一郎、明治二十一年(1888)群馬県高崎町大字高砂町(高砂町)で出生となっていますが、実際は母方の祖父宅がある宮元町の士族屋敷で生まれたといいます。
父母の家業は製糸業でしたが、一郎出生の翌年、事業に失敗しています。

子どもの頃から学業優秀だった一郎は、14、5歳の頃から文章や絵の制作に興味を持ち始め、17歳で中学校を卒業すると上京し、中国貿易商・晩翠軒に就職します。
ここで、書画・陶器などの見識を磨いた一郎は、23歳で晩翠軒を退職して独立し、「馬場一郎商店」を開きます。

商売は軌道に乗り、文人墨客との交流も深まった26歳の時、夏目漱石「和風堂」という屋号を命名してもらいます。
その後2度にわたるもらい火で店を消失しますが、40歳にして丸ビルに「和風堂」を新設し、商売は更に順調に伸びて行きました。

一郎が、自らを一路居士と号して観音施画を始めたのは、42歳の頃です。
一路という号は、17歳の時愛読した黒岩涙香「天人論」中の一節、「ああ向上の一路ある哉」に因るものだそうです。

一路氏は、生涯で3万3787体の観音画を描きますが、3万1493体目にあたる白衣観音像を刻んだ石碑が、赤坂町恵徳寺参道に建立されています。

一路氏が観音山で観音施画会を催したのは、昭和三十四年(1959)71歳の時です。
この年、一路氏は最後の観音画を描いた後、脳血栓に倒れ、6年後の昭和四十年にこの世を去ります。

一路氏のお墓は、やはり赤坂町恵徳寺にあると、本に書かれています。

その墓を探しに恵徳寺へ行ったのですが、どうしても見つかりません。
ギブアップして、ご住職にお聞きして分かったのが、写真のお墓です。

そのお墓は、墓石の台座のような姿で、馬場という文字も刻まれていません。
これでは、見つかるはずがありません。
いかにも派手を好まぬ一路氏らしいお墓と言えば、そうかもしれません。
側面に小さな文字でうっすらと、「無染院和風一路大居士」と刻まれていました。

「一路堂」が建設されたのは昭和四十九年ですから、死後9年後のことです。
建設の由来は、こうです。

昭和六十一年(1986)の白衣大観音建立50周年を記念して、それまでの慈眼院仮本堂を改築しようという話が持ち上がり、たまたまそのことを、当時の橋爪良恒住職が、一路氏の未亡人・千代香さんに話しました。
千代香さんは、一路氏の死後、数多いその遺作の処置に頭を痛めていたこともあって、「本堂の片隅でいいので、一路の遺作を展示する部屋を作って頂けないか。」と仰ったそうです。

話が具体的に進む中で、いっそのこと、一路居士の記念堂のようなものを建てたら、という話になってきました。
しかし千代香さんは、「一路は人目に立つことを好まれる方ではなかった。あまり大仰なことは嫌われるに違いない。」と言って、躊躇されたそうです。

そこで、境内の崖下20mのわずかに開けた窪地という、あまり目立たない場所を選ぶことにしたのだとか。
このことが、建設工事に於いては難渋したものの、現在の「一路堂」の風格を醸し出すところとなった訳です。

「一路堂」建設後しばらくは、一路氏の遺作を展示していましたが、現在は展示されていません。(保存は、慈眼院でしているそうです。)

一路氏の作品がどんなものか見てみたいという方は、高崎市立図書館へ行くと、「一路居士遺墨集」を閲覧することができます。

しかし、高崎の誇るべき「一路堂」、そして一路居士の描いた原作を、ただ眠らせておくのはいかにも勿体ない話です。
もう一度、多くの人に見て頂けるように、常設展示をして頂けないものでしょうか。

(参考図書:「一路居士のこと」)


【一路堂】

【恵徳寺】


  


Posted by 迷道院高崎at 07:17
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2010年08月15日

一路堂見学会のご案内

「念願の一路堂」という記事をUPしたところ、何人かの方から「私も見たかった。」というコメントを頂戴しました。

普段は公開されていない一路堂なんですが、ある方に慈眼院ご住職との仲立ちをお願いして、見学会を開かせて頂けることになりました。

つきましては、「隠居の思ひつ記」読者の方に、「一路堂見学会」のご案内をさせて頂きます。

日  時平成22年8月22日(日)午前9時55分~11時30分
場  所慈眼院本堂脇 井上保三郎銅像前に集合
内  容①一路堂見学
②ビデオ「観音山のむかしと今」鑑賞
参加費無料
申込み8月18日(水)までに、当ブログの「オーナーへメッセージ」で、お申し込みください。
その際、氏名(ハンドルネーム可)、メールアドレス、参加人数を記載して下さい。

多数の方の、ご参加をお待ちしております。

【集合場所】
高崎市石原町2710-1 慈眼院(じげんいん)



  


Posted by 迷道院高崎at 06:22
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2010年11月27日

見てきましたよ!五色龍王襖絵

今、観音山慈眼院で公開されている「五色龍王襖絵」を見に行ってきました。

この襖絵は、平成十八年(2006)白衣大観音像建立70周年を記念して、仏画師・江本象岳氏が奉納されたものです。

毎年、春と秋に一般公開されていますが、恥ずかしながら私は初めて見させて頂きました。

大広間(龍の間)に入った瞬間、四方に巡らされている襖絵の色の鮮やかさに、びっくりしました。
「五色・・・」とあるのに、なぜか墨絵を思い描いていたので、よけいに衝撃的でした。

襖絵には、見る順序と、それぞれの絵に込められた象岳氏の強い思い、それと、ちょっとした茶目っ気もあるようです。
檀家の方がとても分かり易く説明して下さったので、実に興味深く拝見することができました。
もしその説明がなかったら、おそらく十分の一も価値が分からずに帰ってしまったことでしょう。

外は、紅葉真っ盛りでした。

今年は、色が今一つということでしたが、「五色龍王襖絵」に込められた思いを聞いた後だったせいか、とても美しく思えました。

観音様も、いつも通りの優しいお顔でみなさんをお待ちしております。

「五色龍王襖絵展」、
   11月28日(日)までです!
入場無料です!


ぜひ、お出かけください!


  


Posted by 迷道院高崎at 10:45
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2011年08月24日

天上天下観音イベント!

昨日、ひょんなことから、すごくアクティブな方々とお話しする機会に恵まれました。
「高崎を、観音山を、なんとかすべぇ。」と盛り上がる中。
「白衣観音は地上の観音、洞窟観音は地下の観音だね。」
と、I さんが。

なるほど、という訳で、
その二つの観音様で行われる大イベントのご紹介です。

【観音山 万灯会】

8月27日(土)午後5時~9時30分

清水寺の石段から白衣大観音まで、10,000本を超える蝋燭が灯されて、それはそれは幻想的な世界です。
詳しくは、慈眼院さんのHPを!



【徳明園 悠久の魂】

9月17日(土)午後7時~8時

昨年に続き、洞窟観音・徳明園の池の中で、藤間信乃輔さんが幽玄の世界に舞い踊ります。
→→→→→詳しいご案内

昨年の様子は、こちら

チケットは、200枚限定です。
前売り:2千円 当日:2千5百円
前売り券取扱所
・洞窟観音
・茶舗水村園
 高崎市本町123
 ☎027-322-3213



どちらも、一年に一度しか見られない世界です。
ぜひぜひ、お出かけくださいますように!


  


Posted by 迷道院高崎at 18:54
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2011年09月19日

悠久の魂 2011

昨年は雨の中での舞でした。
今年も天気予報では傘マーク、心配していた徳明園での藤間信乃輔「悠久の魂」でしたが、星も見える良い天気になりました。

今年の伴奏は、リコーダー奏者の本多悦子さん。

アルトリコーダーでゆったりと奏でる「五木の子守唄」、その哀調のメロディーに乗せた信乃輔さんの舞に、なぜか鎮魂の思いが心の底から湧き上がってきます。

感性豊かなグンブロガー・蓮明さんの記事と、
行動する髭男爵・いちじんさんの記事もご覧ください。

開演に先立ち、「洞窟観音山徳公園維持会」荒井俊幸理事長と、「高崎信乃輔倶楽舞」小見勝栄会長から、洞窟観音創設者の山田徳蔵翁の紹介がありました。

山田徳蔵翁については、昨年このブログでも少し紹介させて頂きましたが、今日は、小見会長から徳蔵翁の人となりを端的に表すこんなお話を聞かせて頂きました。

徳蔵翁が洞窟観音を建設し始めてから20年、昭和十年(1935)七月十八日付の「時事新報群馬版」に掲載された、翁50歳の時の言葉です。

誰しも蓄財と云うことを考えている。しかし大部分は財を蓄め、それを子孫に残すだけである。
処が、子孫は親の苦心を知らずにそれを浪費し、碌な結果を齎(もたら)さない。
だから自分は、子孫に財を残すことは寧ろ悪い事位に思ふ。
子孫に残す金があったらそれを投じて世の為に尽くすのが真実の人間である。
さうした見地から、自分は全財産を投じてこの公園を完成し、高崎の名所として他よりの吸客に努め、一面洞窟中に観世音を安置し、観音に信仰心を起こさせ、世の為に幾分でも尽くしたいとの心願に過ぎません。
いかなる困難に逢ふも、必ず完成させる覚悟です。」

洞窟観音の完成には、ここからさらに30年を要しました。

藤間信乃輔さんは、昨年たまたま来訪した洞窟観音で、徳蔵翁の偉業を知り、言葉に表せないほどの不思議な衝撃を受けたそうです。

徳蔵翁の深い思いが詰まった洞窟観音・徳明園を、多くの人々に知ってもらうことが、自分に課せられた使命でないかとまで感じたようです。

今の時代に徳蔵翁が生きていたら、この高崎をどのような町にしたいと思うでしょう。
おそらくは、「他よりの吸客」と同時に、「世の為に尽くす」心を養う、「文化満ちる町」を目指すのではないでしょうか。

「悠久の魂」とは、そういうことではないでしょうか。


【洞窟観音・徳明園】


  


Posted by 迷道院高崎at 07:19
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2012年04月27日

第20回 観音山丘陵の自然展

毎年開催されて、もう20年。
「観音山丘陵の自然展」が、今年も開催されます。
身近な観音山の、新たな発見が待っているかもしれませんよ。



【高崎シティギャラリー】


  


Posted by 迷道院高崎at 20:30
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2013年05月08日

第21回 観音山丘陵の自然展

もう終わってしまってからの記事で恐縮なんですが、5月4日~6日の3日間、毎年恒例の「観音山丘陵の自然展」がシティギャラリーで行われました。

何ヶ月も前から準備を始め、開催前日には皆さん総出で会場の設営をされます。






そして迎えた当日、沢山の方がお見えになりました。

回を重ねるごとに、内容も多岐多様にわたり、充実してきています。
全てをご紹介する訳にも行きませんが、グンブロ仲間の蓮明さんが自然展の様子を記事にしていますので、ご覧下さい。
   ◇第21回 観音山丘陵の自然展の様子

今回、私が面白いなと思った展示品が、これ。

詩人・関口将夫さんの「神々の庭」と題した作品です。

関口さんが神々の姿と捉えたのは、なんと排水管からの水がコンクリート壁に付けたシミ痕でした。

もう一つ、すごいと思ったのがこれ。

宮大工・上原勉さんの遺した巻物と、夥しい種類の手工具の写真。
この遺産を、何とか伝え残していきたいものです。

そんなすごい人たちの作品と並んで、「上州弁手ぬぐい」を展示して頂きました。

熱心に見入って下さる方、お買い上げ頂いた方が沢山いらっしゃって、嬉しいやら有難いやらの3日間でした。

観音山のことや高崎のこと、自然環境のことなどを考える場として、「観音山丘陵の自然展」はこれからも継続して開催されることでしょう。
今年見逃した方は、ぜひ、来年の5月連休においで下さいませ。


  


Posted by 迷道院高崎at 08:32
Comments(6)観音山

2013年09月18日

悠久の魂 2013

9月14日、今年で第4回となる藤間信乃輔さんの「悠久の魂」
山田徳蔵翁が遺してくれた「徳明園」の池の周りでは、辺りを包み始めた夕闇と虫の音を楽しみながら、大勢のお客様が開演を待っています。

毎年やきもきさせられる当日のお天気ですが、今年は迫りくる台風18号、雨も覚悟で来てみれば、空にはぽっかりお月さま。

「信乃輔倶楽舞」(しんのすけくらぶ)の小見勝栄会長は、開演の挨拶で「天は我に味方した。」と仰っていました。
「一念、天に通ず。」とも言えるでしょう。

回を重ねるごとに、内容が洗練され且つ広がりを見せている「悠久の魂」ですが、今年はまたさらにユニークなコラボレーションが実現しました。
洞窟観音内では、「いけばな四人展」が共催され、徳明園の池のほとりでも実演が行われました。

池辺の石に座り、詩を朗読するのは詩人で画家の関口将夫さんです。

頼政太鼓メンバーによる篠笛と鉦を効果音にした関口さんの朗読は、まるで力強い打楽器のように心に響いてきます。

昨年好評だった頼政太鼓の轟が、今年も園の隅々にまで響き渡ります。

三味線や銅鑼も加わって、もはや伝統芸能の枠を超えた音楽になっています。

ここでの舞は必ず白装束でという信乃輔さんが、池の精のように静かに池に入っていきます。






今年の伴奏は、山徳記念館の屋上に据え付けた三尺の大太鼓。
勇壮な音とリズム、それに競い合うような信乃輔さんの舞は、水中舞台の床が抜けるのではないかと心配になるほどの迫力でした。

舞い終わって、一瞬虫の音だけの静寂が戻った園内に、我に返った観客の大きな拍手がいつまでも続いていました。

さて来年はどんな舞が見られるか、今から楽しみです。

今年見逃した方は、ぜひぜひ来年の「悠久の魂」には逃さずお出かけくださいますよう。
予告編として、過去の動画をどうぞ。






  


Posted by 迷道院高崎at 07:15
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2013年12月12日

号外!「縁JOY!フェスティバルin観音山」

12月15日(日)、観音山ですごく面白そうなイベントが行われます!
うれしいですねー!
昨年「中山道全七宿めぐり」で大活躍した、学生さんや有志の方々でつくる「高崎市体験観光づくり研究会」が企画運営してくれます。

みなさん!
ぜひぜひ、12月15日(日)は観音山へご参集ください!





  


Posted by 迷道院高崎at 08:58
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2013年12月18日

よかったよ!「縁JOY!フェスティバルin観音山」(1)


オープニングセレモニーの和太鼓競演。

一番手は、高崎健康福祉大学和太鼓集団「舞」の娘さん達。
力強いバチさばきながら、女性らしい身のこなしに、「ヤーッ!」という黄色い掛け声。

なかなか、艶っぽくて素敵です。
AKB48の娘さんたちに夢中になる青年の気持ちが、ちょっぴり分かったような気がしました。

二番手は、高崎高校和太鼓部「漢(おとこ)組」。↓

腰を落として大きく脚を開いた一人の奏者が、二本のバチで静かに、ズンッ・・・ズンッ・・・ズンッ・・・と始まる。
次第に奏者の数が増え、やがて全員の太鼓がリズムよく響き合い、ある時は激しく、ある時は静かに・・・。
なんか、感動しちゃいました。

トリを務めたのは、我峰町の「神龍我峰八幡太鼓」。↓

平成十一年(1999)に結成したというメンバーは、お父さん、お母さん、お姉さんにお嬢ちゃんまでと幅広い年齢層ですが、そのかっこいいこと、かっこいいこと。

この日は、ちょっと風も吹いて寒かったのですが、そのおかげで周りの山々や市街地の眺望は素晴らしく、とても良いロケーションの、熱い和太鼓合戦となりました。

静岡では「富士山太鼓まつり」というのが行われているそうですが、高崎もこれを機会に、「観音山和太鼓合戦」とか、高校生を対象にした「和太鼓甲子園」なんてのを企画してもよいのではないでしょうか。

いやー、素晴らしかったです!



  


Posted by 迷道院高崎at 18:24
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2013年12月22日

よかったよ!「縁JOY!フェスティバルin観音山」(2)

いい企画だな、と思ったのがもう一つ。
「かんのんスタンプラリー」です。
観音山を訪れる人でも、普段なかなか一回り散策する人はいないものです。

スタンプラリーで、初めてここへ行ってみたという人もいたのではないでしょうか。

そのひとつが、シークレットポイントになっていた「田村今朝吉」像だと思います。

ただ残念なのは、「田村今朝吉」像には目もくれず、スタンプだけ押して次のポイントを目指す人が多かったことです。

ま、無理もないのです。
ここへ来た人が、「へ~。」と思うような説明看板もないのですから。

せっかくの機会なのですから、各ポイント地点にどんな逸話があるのか分かるようになっていると良かったですね。
まだ田村今朝吉氏を知らなかったという方は、過去記事「幻の田村隧道」シリーズをどうぞ。

←これは、長野県松代町のスタンプラリーなのですが、こんなやり方も参考になるのではないでしょうか。

その前提として、史跡には説明看板の存在が必須となりますが、それは観光客のためばかりでなく、市民町民のためにも必要なことだと思います。

「山愛 Nefel や」さんが、「上州弁手ぬぐい」の暖簾を展示してくれていました。

いつも、ありがとうございます!



スタンプラリー参加者には、参道商店街の3店舗で利用できる「味噌おでん無料券、お楽しみ券」がもらえます。
どのお店の組合せになるかは、くじ引き方式です。

松代町では、こんなやり方をしています。→

各商店の商品によって何文使うかということで、店と商品を選べるのがいいかなと思います。
商店側の負担も、少なくなるのではないでしょうか。

「観音茶屋」さんの近くに、嬉しい看板が立ちました。
とてもいいことですね。

欲を言えば、初めて訪れた方のために、ガイドさんが常駐でいて欲しいところですが。

そうそう、商店街の皆さまにもお願いが。

上州人はどうしてもシャイで、お上手口がきけないんですよね。
でも、店の前を通る人を見たら、せめて店の中から出てきましょうよ。
それと、出てきたら無言で見てるだけじゃいけません。

笑顔で、「こんにちは!」だけでもいいんです。
さらに、こんな声掛けをされたら嬉しいですよ。
「どちらからお見えですか?」
「寒いでしょ?いま熱いお茶入れますから、飲んでってください。」
「中は暖かいですよ。暖まるのはタダですからどうぞお入りなさい。」


ただ、こんな声掛けはやめた方がいいです。
「いろいろなお土産がありますよ、見てってください。」
「美味しいおでんがありますよ。」
「温かいうどんは、いかがですか。」

入ったら出づらくなると思うから、入って来てくれません。

そして、一番大切なのは、何も買わずに出ていくお客様に掛ける一言です。
「ありがとうございました。」
「お気をつけてどうぞ。」
「また、いらして下さいね。」


観音山では、観音様の慈悲(自他怨親のない平等な気持ち)をもって、分け隔てのない「おせったい」の心でいきましょう。
いま流行りの「おもてなし」という言葉は、どうも「うらがある」ようでいけません。

この日、来春から本格オープンする予定の「一路堂カフェ」が、プレオープンしていました。


静けさと、目の前に飛来する小鳥の姿と、美味しいお茶とケーキを楽しみたい人には、最高のカフェとなることでしょう。



「かんのんスタンプラリー」、いい企画でした。
いい企画だけに、次回に向けて少し注文があります。

コースを3つくらい作りましょう。
脚の弱い人や時間のない人はショートコースで、健脚の人や時間がたっぷりある人はミドルコース、フルコースに挑戦ってな感じで。

それから清水寺は、どのコースでも必ず訪れる特別ポイントに設定しましょう。
だって、「観音山」の名前は清水寺に祀られている千手観音がその由来なのですから。

ともあれ、スタッフの皆さん、お疲れさまでした。
観音山で一日中遊べる楽しいイベント、ありがとうございました。
次回も楽しみにしています。


  


Posted by 迷道院高崎at 08:49
Comments(2)観音山

2014年08月31日

「駅から遠足 観音山」 目次

1.井上保三郎と観音山公園開発
2.御伝馬事件と高崎停車場
3.南堀通り、観音通り、愛宕通り
4.愛宕神社
5.旧鎌倉町界隈
6.高崎という地名
7.高崎という地名 異説(1)
8.高崎という地名 異説(2)
9.聖石橋
10.七士殉職供養塔と振武橋
11.観音道路と旧道
12.寝観音と羽衣線
13.伊香保福一と旧福田邸
14.清水寺参道と十日夜
15.高崎の呉服商と観音道路
16.井桁の井戸、清水寺の水事情
17.清水簡易水道と清水配水池
18.芭蕉句碑と西馬
19.西馬と竹の子餅
20.竹の子餅と天来庵
21.西馬物語(1)
22.西馬物語(2)
23.西馬物語(3)
24.西馬物語(4)
25.田村仙岳と姉・徳
26.田村仙岳と高崎藩下妻の戦い
27.田村仙岳と下仁田戦争
28.田村仙岳と田村堂
29.田村仙岳と高崎五万石騒動
30.田村仙岳と木の葉形煎餅
31.田村仙岳と脚気養生園
32.深井仁子と国振学校
33.清水寺の石段は、幸福への石段
34.清水寺と一椿斎芳輝
35.一椿斎芳輝と高崎館、宇喜代、そして錦山荘
36.芳迹不滅碑と幻の鋳銅露天大観音
37.田島尋枝と清香庵
38.矢島八郎翁銅像と森村酉三
39.矢島八郎翁銅像建設由来
40.矢島八郎翁銅像と大河内輝耕
41.矢島八郎と胡桃塚
42.矢島八郎と矢島孫三郎(天来)
43.矢島八郎とキリスト教墓地
44.観音山観光センター
45.平和塔広場と飛行塔
46.観音山参道と田村今朝吉翁銅像
47.銅像山の乃木大将
48.白衣大観音とブルーノタウト
49.白衣大観音建立の趣旨
50.井上保三郎
51.井上保三郎と山形のさくらんぼ
52.井上保三郎翁銅像の変遷史
53.森村酉三と江戸川乱歩、そして白衣大観音
54.森村酉三の生家
55.森村酉三と白衣大観音、そして田中角栄
56.白衣大観音建設工事(1)
57.白衣大観音建設工事(2)
58.白衣大観音建設工事(3)
59.白衣大観音胎内巡り
60.三体あった白衣大観音原型像(1)
61.三体あった白衣大観音原型像(2)
62.慈眼院建立秘話
63.慈眼院の歴史
64.光音堂と一路堂
65.井上翁頌徳碑と桜松苑
66.新日本高崎子ども博覧会からケルナー広場へ
67.新日本高崎こども博覧会
68.染料植物園
番外1高野山と慈眼院
番外2高野山と一路観音
69.洞窟観音
70.徳明園
71.山徳まんが記念館
  


Posted by 迷道院高崎at 08:00
Comments(0)観音山◆高崎探訪観音山遠足

2014年12月14日

駅から遠足 観音山(13)

「羽衣線」のY字路から清水の石段下へ向かうと、建設機械が盛んに地面を掘っていました。

ここは、つい最近までこんな風景でした。

東日本大震災で屋根の棟が崩れてしまっていますが、立派な煉瓦蔵がありました。

ぐるっと回って玄関の方から見ると、こんな感じのお屋敷でした。
このお屋敷、白衣大観音と同じ昭和十一年(1936)建築の旧・福田邸です。

屋敷の角に「伊香保温泉 福一」の大きな看板があります。

「なぜここに福一?」と思われるかも知れませんが、「福」の字でご推察頂けると思います。
昔、伊香保の「福一」に奉公する仲居さんは、そのほとんどが田舎出の若い娘さんでした。
その娘さんたちに、この福田邸に住込みで行儀作法を教え込み、一人前になってから送り出すという、いわば「福一」の教育施設だったのです。

4年前、ある方のご紹介で、このお屋敷を見学させて頂く機会を得ました。
その時は、既にオーナーの方はこのお屋敷の売却を決意されていて、家の中の品々の整理をされているところでした。
売却するにあたって建物はすべて解体して更地にしなければならないというお話で、実に残念に思いましたが、オーナーさんはもっと残念なお気持だったことでしょう。
ブログ記事にしないというお約束で、写真を撮らせて頂きました。

今年の9月、オーナーさんから「いよいよ解体することになりました。」というお電話がありました。

さっそく解体現場に駆け付け、惜しみつつ旧・福田邸とのお別れを致しました。

今はもう見ることのできない素敵な旧・福田邸ですが、ブログ掲載については快諾して頂きましたので、皆さんには4年前に作成したスライドショーで見て頂きましょう。(BGMあり)


さて今回はここまでとし、次回は、清水寺の参道です。


【旧・福田邸跡】




  


Posted by 迷道院高崎at 09:25
Comments(6)観音山◆高崎探訪観音山遠足

2014年12月21日

駅から遠足 観音山(14)

清水寺の参道です。

今はこの参道を通って観音山へ登る人は本当に少なくなりましたが、かつては、ここから石段を上っていくルートが当たり前でした。

正月の初詣、春の花見、そして冬の「十日夜」(とおかんや)と、折につけて人々はこの参道を通って清水寺のご本尊・千手観音にお参りをしました。
それが、「観音山へ行く」ということだったのです。

特に、旧暦十月十日(新暦十一月二十三日頃)の「十日夜」は、遠く新潟や埼玉から泊りがけで参詣する人も多く、右の錦絵に描かれているような、大変な賑わいぶりだったようです。

その賑わいは昭和初期まで続いたようで、実際に体験した方の貴重なお話を聞いてみましょう。↓


「十日夜」は北関東を中心に甲信越から東北地方南部にかけて分布する行事で、今年の収穫を祝うとともに来年の五穀豊穣、養蚕倍盛を祈るものだそうです。

私は実体験がないのですが、子どもたちが稲藁を束ねた「わらでっぽう」で地面を叩きながら歌を歌うようで、石原地区ではこんな文句だそうです。
十日ん夜、十日ん夜、十日ん夜はいいもんだ
朝ソバキリに、昼ダンゴ、ヨー飯食っちゃ、ぶったたけ」
(山口豊氏著「清水の歴史散歩」より)

賑やかだった「清水観音十日夜」が廃れてしまった理由はいくつかあるのでしょうが、もしかして昭和初期の相次ぐ観音山観光振興策がその一因になったとすれば、何とも皮肉なことです。

昭和五年(1930)の羽衣坂開鑿、昭和六年(1931)の聖石橋コンクリ化、昭和七年(1932)の観音道路開通、昭和九年(1934)の遊覧道路開通、昭和十一年(1936)の白衣大観音造立、そして山頂行きバス運行の始まりによって、人々は清水寺の石段を経ずに観音山山頂へ行けるようになり、白衣大観音が観音山観光の中心になっていく訳です。
観音道路から羽衣線に入る手前を右折し、護国神社から来る道と合流し、レストラン風車の前を通って平和塔に至る。

かくして「清水観音十日夜」の賑わいは、現在「少林山だるま市」にその座を譲った感がありますが、「観音山」の名の由来となった「清水観音」のお祭りをもう一度復活させたいものです。

その仕掛けとして、前々から「幸福の楼門作戦」というのを提唱しているのでありますが・・・。
 ◇過去記事「幸福になれる石段」

嬬恋村の方では、「キャベツ畑の中心で妻に愛を叫ぶ」、通称「キャベチュー」とやらで盛り上がっているようです。
わが方では「清水の中心から幸せを叫ぶ」、通称「キヨチュー」でどうでしょう?
「幸福の楼門」から高崎の町に向かって大きな声で叫ぶんですよ。
「お前を幸せにするぞー!」とか、「あなたの奥さんになって幸せよー!」とか。

観音山にはオリエンテーリングのパーマネントコースもあります。
「婚活オリエンテーリング」なんてのをやって、知り合ったカップルが「キヨチューブライダル」なんてことになったら、素敵じゃないですか。
そして、「キヨチューベイビー」の誕生なんてね。

地元の方々、如何なもんでございましょうか?


  


Posted by 迷道院高崎at 08:31
Comments(6)観音山◆高崎探訪観音山遠足

2014年12月28日

駅から遠足 観音山(15)

清水寺参道に入ってすぐ右、「觀音道路開鑿碑」という大きな碑が建っています。

当初、「羽衣線」に曲がる道路の角地にあって、一緒に開鑿の謂れを刻んだ碑もあったそうですが、道路を拡張するので現在地に移した時、謂れの碑はどこかに紛失してしまったということで、実に残念なことです。

裏面には、
  「共通善道共益平和
   正心観音正道極楽
            徳明」

と刻まれています。

「徳明」とは、洞窟観音と徳明園の創建者、山田徳蔵翁です。





その下には、世話人として片岡村最後の村長で小祝神社宮司の松本喜太郎、地元の市議・片山藤次郎、そして山田徳蔵をはじめ市内の呉服商人の名がずらっと刻まれています。

市内の呉服商たちが、なぜ「観音道路」開鑿の世話人になったのでしょう。
きっと、紛失したという謂れの碑にはその理由が刻まれていたのでしょうが、今となっては推測するより仕方ありません。

ひとつには、前回ご紹介した「清水観音十日夜」との関係が考えられそうです。
「十日夜」は五穀豊穣・養蚕倍盛を祈る行事ですから、養蚕あっての呉服商人たちが資金面で協力したのでしょう。

もうひとつは、明治以来、石原村には多数の糸繭商が存在したということです。
明治二十年(1887)には14人が糸繭商を営み、その内7人は製糸業も兼務しています。
中でも、山口亀太郎氏は質屋業、茂木覚太郎氏は酒穀類商も営むという豪商でしたから、昭和期に入っても村と市内の呉服商との関係は強かったのではないでしょうか。

さて、この先に「井桁の井戸」というのがあるんですが、長くなりそうなので次回に回すことにしましょう。

(参考図書:「清水の歴史散歩」「高崎の産業と経済の歴史」)


  


Posted by 迷道院高崎at 07:41
Comments(4)観音山◆高崎探訪観音山遠足

2015年01月04日

駅から遠足 観音山(16)

清水寺の石段の手前に、首を傾げた手押しポンプの付いた古井戸があります。
四角い石を井桁に組んでいるので「井桁の井戸」と呼ばれています。


側面をよく見ると、「井桁」と文字が刻んであります。

「清水」という字名が示すように、観音山の麓には清らかな水が湧き出ていましたが、山上はその逆に水はほとんど出なかったようです。

清水寺を参詣する人の喉を潤したこの井戸の水は、山上の清水寺にとっても無くてはならないものでした。
毎日、毎日、五百数十段の石段を上り下りして水を運び上げていたのだそうですから、それは大変なことだったでしょう。

それにしても、なぜそんな水のない山上にお寺を造ったりしたのでしょうか。
実はあまり知られていないのですが、もともと清水寺というお寺は山上にあった訳ではないのです。
1990年に制作された「観音山のむかしと今」という映画に、その話が出てきます。


この映画によると、清水寺が山上に移ったのは明治になってからということなんですね。
ただ、その辺の経緯がよく分かりません。
ご存知の方がいらっしゃいましたら、ご教示ください。

山上に水がなくて困ったのは、清水寺だけではありませんでした。

昭和九年(1934)九月から着工した白衣大観音の建設現場にとっても、それは大変なことでした。

白衣大観音建設秘話を知る、井上工業の番頭格であった横田忠一郎氏は、その著「高崎白衣大観音のしおり」の中で、次のようなエピソードを紹介しています。
工事は順調に進んだが、山上の事で水が無く、中途で行き悩みの状態となった。こんな大工事に、いちいち水を下からくみ上げるようでは仕事は進捗しない。仕方がないので井戸を掘った。しかし水は出ない。いくつも井戸を掘った。こんな悩みの日が幾日か続いた。
ある日のこと、翁(井上保三郎)は、観音さまの工事現場から帰宅して疲れを休めようと体を横にした。いつ寝入ったのか、ずるずると眠りに落ちてしまった。それから数刻を経たか、突然眠りから覚めた翁は、『不思議だな。不思議だな。』と自問自答して頭を傾げた。

翁は、翌朝夜の明けるのを待って現場に急いだ。土工たちは、こんなに早く、しかもいつもの翁とは、顔つきが違うように見えて不思議でたまらなかった。
『さあ、今日は、皆も元気を出して私の言うようにやってみてくれ。他の事はほっといて、力を合わせて観音様の後裾の下になる所を掘ってくれ。』と、翁に言われるままに、その所を掘り始めた。
『旦那は今日はとても変だぜ。』小声で土工たちが話しながら力強くツルハシを振り上げ、幾時間も一生懸命に掘り下げた。

短い一日の陽は、はや近々の山に落ちようとしていた。その時である。
『水だ!』
『アッ!水だ!』
土工たちは狂喜した。
その声を聞きつけた翁は、土工たちを押し分けて井戸をのぞいた。
『アッ!水だ!ありがたい。』
翁は手を合わせた。熱い感謝の涙が目頭を光らせた。

このありさまを呆然と眺めていた人夫の一人は、翁の側に寄って、『旦那、何かあったのですか。』とおそるおそる尋ねた。
『ウン』とうなづいて、翁は静かに語り出した。
『実は昨夕現場から帰り横になって、寝るともなく、うつらうつらしていると、私の枕元に日頃信仰している白衣の観音さまが現われ、心配するな、水は出る、ここを掘れよと水の出る場所を教えて消えられた。そこで私は目が覚めた。しかし今まで半信半疑でおったが、今日は早くから来て皆にここを掘らせたのだ。こうして水が、しかも清らかな水が湧くのを見ると、夢ではなかったのだ。』」

いい話ですね。

あ、今回はだいぶ長くなってしまいました。
観音山の水の話は、次回も続きます。
では、また。



  


Posted by 迷道院高崎at 09:11
Comments(8)観音山◆高崎探訪観音山遠足