2015年02月01日

駅から遠足 観音山(20)

知りたい知りたいと思っていると、奇跡というのは起こるものです。

たまたま見ていた、明治四十五年(1912)発行の細野平格「金比羅霊験記 : 付・高崎名所案内」という本に、「竹の子餅」の広告が載っているのを発見!
細野平格は、「高崎五万石騒動」の著者・細野格城と同一人物。

どうやら、高崎駅構内の「矢島賣廛(売店)」で売られていたようです。

右端に書いてある文字を「さいち民芸店」のご主人に読んでもらったところ、「天来庵特賣」だそうです。
やはり、前回記事中の短冊に書かれていたのは「天卒庵」ではなくて「天来庵」だったようです。
ということは、西馬の句に付け句をした「天来」は、牧岡天来ではなく「天来庵」の主人である線が濃厚です。

この絵を見ると、形は「ちまき」のような感じですね。
竹皮の中にはどんなお餅が入っていたのでしょうか。
そして、「天来庵」というお菓子屋さんはどこにあったのでしょうか。

ひょいと思い出したのが、若いころ高崎駅前の「梅玉堂」で修行していたという、新(しん)町・酢屋製菓のご主人です。
御年八十歳のこのご主人なら、もしかするとご存知かもしれないと思い、車を飛ばして行ってみました。
が、残念ながら「竹の子餅」「天来庵」も聞いたことがないとのことです。
う~ん、万事休すか・・・。

ところがですよ。
そんな迷道院に、またまた奇跡が起こりました!

高崎市立中央図書館に於いて、「千客万来 高崎の引き札・広告~明治から昭和~」というミニ展示会が開かれていまして、その展示品の中に、あったんですよ!
「天来庵」の弁当の包み紙が!
あまりのことに、飛び上がりました!

職員の方に、写真撮影とブログ掲載の許可を求めたところ、責任者の方が三人ほど入れ替り立ち代りお見えになりましたが、結局、撮影はできないということでした。
基本的に館内は撮影禁止であるということと、ブログで公開されると撮影したいという人が後を絶たなくなるから、というのがその理由でした。
う~~~ん。
それでも、撮影したい理由を縷々説明したところ、展示期間が終わった2月26日以降ならばよいというお話を頂くことができました。

それまで待つ訳にもいかないので、取りあえず小さなメモ用紙にスケッチをして帰ってきました。
その、下手なスケッチがこれです。↓


見づらいかも知れませんが、左下に「髙崎駅前 天来庵 矢島」と書いてあります。
これで、やはり「天卒庵」ではなく「天来庵」であること、場所は高崎駅前にあったということがハッキリしました。
先の「金毘羅霊験記」の広告に「高崎駅構内矢島売店」とあるのは、「天来庵」の広告でもあったという訳です。

包み紙上部の松・竹・梅の飾り枠の中には、「高崎の三大観音」として「洞窟観音」「清水寺戦捷観音」「白衣大観音」のイラストが描かれていました。
「白衣大観音」が描かれているということは、昭和十一年(1936)以降であり、「戦捷観音」「時局弁当」という表現からは、昭和二十年(1945)以前に作られていた弁当と思われます。

さて、「天来庵」が駅弁をつくっていたとなると、明治十七年(1884)創業の「たかべん」こと「高崎弁当」の前身ではないかという気がしてなりません。
しかし、「高崎弁当」のHPを見ても、それらしいことは書かれていません。

ところが、ここにも奇跡の神様がいらっしゃいました。
「ライター望月の駅弁E-KIBUN」というブログに、「天来庵」「高崎弁当」の関係が書かれていたのです。
著者のライター望月さんによると、
元々、高崎弁当は、55年前の昭和33年に松本商店、天来庵矢島、末村商店という高崎駅で駅弁を販売していた3つの業者さんが合同してできた駅弁屋さんです。」
とあります。

ここまで分かると、「天来庵」の駅弁を検索したくなります。
すると、こういうもののコレクションをなさっている方が、いらっしゃるんですね。
「天来庵」の弁当の包み紙の画像が、掲載されていました。
  【上ちゃんさんのHP(駅弁の小窓)】より
    ◇「すき焼弁当」 昭和十一年(1936)
    ◇「上等御辨當」 昭和十三年(1938)
  【isso.usuiさんのHP(見せたがり屋のコレクション)】より
    ◇「上等御辨當」 昭和十年(1935)
図書館で撮影できなかっただけに、嬉しくなりました。

とそこへ、今度は奇跡のメールが入りました。
「さいち民芸店」のご主人からです。

すでにお調べ済みかもしれませんが、今日、近所の年配の方にお会いしましたので、「天来庵、矢島」について聞いてみました。
戦後の矢島商店は、高崎駅構内にあった駅弁屋で、昭和30年代半ばに、国鉄の指導で、三軒有った弁当屋、矢島、松本商店、末村商店を合併させ、「高崎弁当」(現存)にしたようです。
矢島の工場は、今の高島屋の北側、元のダイエー跡、現駐車場にあり、わりと大きな地所であったようです。
(この間、お見せした、大正時代の電話帳に、矢島孫三郎 天来庵、旭町37 高崎駅構内飲食類販売業としてでていました。番号五五一)
合併の結果、矢島商店は無くなり、「高崎弁当」は最もやり手だった末村さんが主導権を握り、現在ではもっぱら末村さんが経営しています。
ちなみに、鶏めし、は末村商店の弁当だったようです。
矢島さんの消息は、今では不明なようです。
ただ、近所の方の話では、戦後、「竹の子餅」は見たことがないそうで、いつまで販売していたのか分かりません。」
という内容でした。

そこで、昭和三十六年(1961)の住宅案内図を見ると、ありましたよ!
「高崎弁当 第二工場矢島」


やれやれ、これでやっと胸のつかえが半分とれたような気分になりました。

すると、また追いかけるようにメールが。
今日、たまたま、中紺屋町(銀座通り)の菓子店、「観音屋」さんの前の御主人、武井さんがいらっしゃいましたので、話を聞くことができました。
武井さんも戦後、一時、駅構内で脱脂粉乳の牛乳を売っていたので、矢島さんや、高崎弁当のことを良くご存じでした。
竹の子餅についても覚えていました。
餡(あん)を牛皮(ぎゅうひ)でくるみ、それに、黄粉(きなこ)を掛けて、竹皮で包んだようです。
観音屋さんでも、売っていたことがあったようです。
まったく、天来庵のものと同じかは分かりませんが、似たようなモノかもしれません。」

ついに「竹の子餅」の正体も明らかになり、胸のつかえはすっかり解消いたしました。

此の度すっかりお世話になってしまった「さいち民芸店」のご主人、ハンドルネームが「雀の子」さんといいます。
何だか「竹の子」と似ていますし、は付き物です。
これも、奇跡といえば奇跡かも知れません(笑)
ありがとうございました!

さて、今や幻となってしまった「竹の子餅」ですが、これだけの謂れある高崎名物があったんですから、ぜひとも復刻版をつくってほしいものです。
とかく名物がないと言われる高崎の、古くて新しい名物にしてはいかがでしょうか。
高崎のお菓子屋さん、ぜひ挑戦してください!

いやー、すっかり「竹の古道」の奥まで入り込んでしまいました。
長い記事を最後まで読んで頂いた皆さん、ありがとうございました。

次回こそ、西馬さんのお話です。
では、また。


  


Posted by 迷道院高崎at 08:45
Comments(10)観音山遠足

2015年02月15日

駅から遠足 観音山(21)

西馬さん西馬さんと言ってる割には、なかなか西馬さんが登場せずに、大変お待たせしておりまして。
やっと今回の記事でご紹介することとなります。

ま、ご紹介するといっても、本多夏彦氏の講演録の読みかじりですので、ご容赦を。

西馬は文化五年(1808)高崎田町富所家に生まれ、幼名を豊次郎といいます。
田町のどこでどんな稼業をしていたのかは分かりませんが、父の富所忠兵衛という人は「俊臣」という諱を持ち、橘守部(たちばな・もりべ)に歌道を学んでいたということですから、そこそこ裕福な暮らしぶりだったのでしょう。

豊次郎が生まれた時、父の忠兵衛が28歳、母の町子は19歳だったそうですが、町子は産後の肥立ちが悪く長患いをした末に、数え2歳になったばかりの豊次郎を遺して、この世を去ってしまいます。

町子は、高崎片町(嘉多町)の左官・志倉伊八の娘でありましたので、幼い豊次郎志倉家へ引き取られることとなりました。
本多夏彦氏の記述では、「叔父夫婦に子どもがないのを幸いに・・・。」とあるので、引き取ったのは町子の兄夫婦だったのでしょうか。

志倉家は代々伊八を名乗っていたようです。
この志倉家の場所については、わりと詳しく記述されています。
高崎の嘉多町通りから本町へ抜ける新道、その交番前の四辻から、北へ入口の道路敷が嘉多町二十五番地、即ち西馬の養家、三好屋といった志倉氏の家敷跡で・・・。」

四つ辻にあった交番は、もうありません。
Yahoo!地図と昭和36年の住宅図を比較しながらご覧ください。
嘉多町25番地というのはありませんが、23番地、24番地があるのでおおよその見当はつきます。


「嘉多町通りから本町へ抜ける新道」というのは、大正に入ってから出来た道です。
因みに、本町から北の成田山光徳寺への道が抜けたのは明治十年(1877)で、それまでここには高札場のある問屋年寄・梶山家がでんと構えており、その北には佐渡から江戸へ運ぶ金を一時保管する為の「御金蔵」が建っていました。

万延元年(1860)の「覺法寺繪圖面」を見ると、右上に「御金蔵」「梶山家」「高札場」が描かれています。

そこから真っ直ぐ下に、「嘉多町通りから本町へ抜ける新道」が出来た訳ですが、ちょうど嘉多町通りと交差する角に、「伊八」と書かれた家があります。
おそらくここが、豊次郎が引き取られた志倉伊八の家なのでしょう。

豊次郎が13歳になった時、叔父の伊八が他界します。
叔母は、豊次郎に左官職を継がせようと、高崎寄合町室田屋という左官の親方の所へ弟子入りをさせたのです。
ところが、これが豊次郎を俳諧の道に向かわせるきっかけになってしまうのですから、人生解からないものです。

では、この続きはまた次回ということに。

(参考図書:「上毛及上毛人199号 俳人西馬の一生」)


  


Posted by 迷道院高崎at 08:45
Comments(2)観音山観音山遠足

2015年02月22日

駅から遠足 観音山(22)

さて前回は、 「夫・伊八を亡くした叔母が、13歳の豊次郎に左官職を継がせようと、高崎寄合町の室田屋という左官の親方の所へ弟子入りをさせた。」というところまででした。

この室田屋について、本多夏彦氏はこう書いています。

室田屋は只今の救世軍の筋違向ふ邊で、神宮文右衛門といって、職人でこそあれ、中々見識高い一國親爺で、或いは多少の學問もあったのではないかと思はれます。」

「救世軍」は今でも同じ場所にあります。


ただ、「筋違い向こう」って表現は、初めて聞きます。
「筋向こう」とか「筋向かい」ってのは、斜め前ということになりますが・・・。
ま、「違い」が付いていても、そんなに違いはないのでしょう。

その室田屋のすぐ近所に、久米逸淵(くめ・いつえん)という俳諧の宗匠が住んでいました。
この逸淵という人なかなかユニークな人物で、何か品行上のことで女房から勘当されちゃって、高崎へ流れてきて二度目の女房と暮らしながら、俳諧の弟子をとって暮らしてたらしいのです。

何事にも鷹揚な人だったようで、指導するにも長所を伸ばすというやり方で沢山の弟子を集め、この人のおかげで高崎はじめ上州の俳壇はめきめき盛んになっていったといいます。

逸淵さん、室田屋文右衛門さんと気が合ったものか、朝な夕なに室田屋に遊びに来ていて、そこにいた豊次郎は、次第に門前の小僧よろしく俳諧に惹かれていったようです。
豊次郎ののめり込みぶりを、本多夏彦氏の文で見てみましょう。

毎晩仕事を仕舞って、五文の湯錢を貰って、錢湯へ行くかと思ふと、西馬(とよじろう)はズンズン宗匠の家に入って行って、行燈の下に蹲って、逸淵から借りた「俳諧七部集」を讀むのですが、子供ではあり、晝間の勞働に勞れてるから、いくら好きでも直き眠氣がさして、その儘居處寝をし、逸淵のお神さんに起こされる、ともう遲くなって、錢湯へゆくことが出來ない。

毎晩かういふことを繰り返してる内に、湯錢の五文が行燈の油皿へ乘せたまゝ、積り積って、二百七十文になってしまった。
逸淵のお神さんのお連といふ婦人が西馬の熱心にスッカリ感心して、自分が百文足し前して、例の「俳諧七部集」を買って遣りましたから、西馬は嬉しくって溜りません。
それからは、左官の仕事に行くにも、いつでも懐に七部集を持って居て、職人のお茶休みなどには、自分は静かな處でこれを讀む。
かうして二三年經つ内に、西馬は、自分も是非、俳諧師になりたいと思ふ様になりました。」

文政九年(1826)19歳になった豊次郎は、病膏肓に入るとでも言いますか、ついに叔母を説得して左官の道を捨て、逸淵の家に内弟子として住み込むようになります。
豊次郎は最初の号を「樗道」(ちょどう)と付けました。

樗道に力が付いてくると、かねてから江戸へ進出しようと思っていた師匠・逸淵は、樗道に留守を任せて頻繁に江戸へ出掛けるようになります。
そして、天保六年(1835)にはついに高崎を引き払ってしまいました。
後に残った樗道はそれを機に独立し、号も「毛軒西馬」と改めます。

実父・富所忠兵衛が58歳で亡くなったのは、それから三年後の天保九年(1838)のことでした。
忠兵衛の後妻・お紋に子がなかったため、西馬は実家に戻り、「富所西馬」と名乗るようになります。

実家の主となった西馬には、もはや道楽で俳諧を楽しんでいるだけでは済みません。
名を広め、沢山の弟子を集める必要に迫られたのでしょう。
そこで天保十三年(1841)、江戸から当代随一の宗匠・田川鳳朗、師匠・久米逸淵を招いて、高崎清水寺に於ける盛大な句会、俳諧百韻興業をぶち上げたのです。

その記念に建立したのが、このシリーズ18話でご紹介した、清水寺石段下の「芭蕉句碑」という訳です。

いかがでしょうか、西馬さんのことが少し分かってくると、この芭蕉句碑も何だか愛おしく思えてきませんか。

次回は、西馬さんが江戸へ繰り出し、「惺庵西馬」になるというお話です。

(参考図書:「上毛及上毛人199号 俳人西馬の一生」)


  


Posted by 迷道院高崎at 10:01
Comments(2)観音山観音山遠足

2015年03月01日

駅から遠足 観音山(23)

西馬が、高崎清水寺の石段下に「芭蕉句碑」を建てた天保十三年(1842)という年には、大きな意味があったようです。

同じ年に、芭蕉の生まれ故郷・伊賀上野の「愛染院」(遍光山願成寺)では、盛大な芭蕉追善供養が行われています。

翌年の天保十四年(1843)には、芭蕉が眠る江州粟津の「義仲寺」(ぎちゅうじ)で、芭蕉の百五十年忌という大イベントが予定されていました。

それには、日本全国関係者一同みな参列することになるので、「愛染院」ではその前年に追善供養を行ったのでしょう。
西馬「芭蕉句碑」建立と盛大な句会の催しが天保十三年に行われたのも、おそらく同じ事情だったのだと思います。

芭蕉が亡くなったのは元禄七年(1694)十月十二日だそうですから、百五十年忌が行われたのも十月だったのでしょうが、西馬はその年の春の内に、もう高崎を出立しています。
西馬には、上方地方で活躍する俳人を訪ねるという目的もあったようで、京・大坂を半年近くかけて回った後に百五十年忌に参列し、その足で四国にまで渡っています。

そして十二月、阿波小松島の俳諧師の家に滞在している時に、今でいえば速達にあたる赤紙付飛脚便が西馬のもとに届きます。

それは、高崎に大火があって、西馬の養家であった片町(嘉多町)の三好屋・志倉家が丸焼けになったという知らせでした。
しかも、西馬が俳諧の道に入ることを許してくれた叔母は、逃げ遅れて焼け死んでしまったというのです。

このシリーズ第4話でもお話ししましたが、高崎というのはとにかく火事の多い町でした。
天保十四年十二月十一日に発生したこの火事は、いわゆる「恵徳寺火事」と呼ばれる大火で、赤坂町「恵徳寺」から出火し高崎宿全町焼失、死者7名と伝わっています。



上図の赤枠内が焼失した範囲ということですが、三好屋は火元の恵徳寺に近く、十二月の強い北西風に煽られた火の速さでは、逃げる間もなかったことでしょう。

驚いた西馬は、取るものも取りあえず高崎へ戻り、叔母の葬式を出し、三好屋の復興に力を尽くしたということです。
西馬が暮らしていた生家・田町富所家、そこに一緒にいたはずの父の後妻・お紋はどうなったのでしょう。
本多夏彦氏の「俳人西馬の一生」には、そのことは書かれていません。
西馬「志倉西馬」の号を名乗ったこともあるようなので、もしかするとこの時、復興した志倉家に入ったのかも知れません。

火事から3年後の弘化三年(1846)、西馬江戸へ出ます。
京橋宗十郎町に一戸を構えて「惺庵」(せいあん)と名付け、以降の号が「惺庵西馬」となる訳です。
弟子入りを希望する人で門前市をなす程の盛況ぶりで、8年後の安政元年(1854)には銀座に移ります。

しかしこの安政年間は、安政の大獄あり、安政の大地震あり、さらには伝染病「コロリ」が大流行するなど、この後にやってくる何かを予兆するような出来事が続く時代でした。

この「コロリ」ですが、安政五年(1858)の八月と九月のふた月だけで、江戸町民の二万八千人が死んだといいます。
ついに、西馬もこの伝染病に罹ってしまい、最後の時を覚悟することとなります。

次回は、西馬さんの話し最終回です。
いましばらく、お付き合いのほどを。

(参考図書:「上毛及上毛人199号 俳人西馬の一生」)


  


Posted by 迷道院高崎at 10:09
Comments(2)観音山観音山遠足

2015年03月08日

駅から遠足 観音山(24)

安政五年(1858)江戸で大流行していた「コロリ」の病原菌は、ついに西馬の体内に入り込みます。

病床で死を覚悟した西馬の大きな心残りは、「芭蕉七部集」(俳諧七部集)の標注本を、まだ刊行できないでいることでした。
「七部集」に載っている句について註釈を入れ、その句の意味を正しく解釈できるようにという、言わば「蕉風俳諧」の手引書のようなものなのでしょう。

これまで全国の俳諧師たちを訪ね歩いたのも、おそらくその註釈についての考えを尋ね歩く旅でもあったのだと思います。

西馬の弟子は何百人もいたそうですが、その中で西馬に最も愛されたと言われるのが、渋川石原出身の石坂白亥(いしざか・はくがい)という弟子でした。
急を聞いて駆けつけた白亥西馬は、「七部集」のことをくれぐれも頼むと遺言したということです。

安政五年(1858)八月の十五夜が近づくある日、西馬は縁側近くに床を移動させ、月を見ながらこう詠んだそうです。
 「名月の 方へころばす 枕かな」

西馬が大勢の門人たちに囲まれて永遠の旅立ちをしたのは、ちょうど満月の光が降り注ぐ十五夜の晩でした。
享年五十一、戒名は蕉林院實翁誘月西馬居士江戸芝金地院に葬られました。

←現・港区芝公園の「勝林山金地院」にある、西馬さんのお墓です。

写真は、埼玉県在住の琥翔さんのブログから拝借いたしました。





わが高崎通町にある大信寺にも、愛弟子・石坂白亥と養子・志倉移柳が建てた西馬の墓(供養墓?)があります。

墓を建てた養子の移流は、西馬の跡を継いで惺庵為流と名乗りますが、その墓も並んで建っています。

墓の後ろには、高崎観光ガイドの会が立てた手作りの説明看板があります。

手書きなので、文字が詰まって多少見づらい感じはありますが、説明内容はなかなかよくできています。

同じ大信寺にある「徳川忠長の墓」「守随彦三郎の墓」には、教育委員会が立てた鉄板製の立派な看板がありますが、西馬さんの墓はその仲間に入れてもらえなかったようです。
補って頂いた高崎観光ガイドの会に、拍手を贈りたいと思います。

さて、病床で西馬が気に掛けていた「七部集」標注本のことですが、明治十七年(1884)になって、弟子の春秋庵潜窓こと三森幹雄(みもり・みきお)が編集し、西馬の師匠・逸淵の弟子で不知庵こと河田寄三(かわた・きさん)の校訂により、「標注七部集」という題名で刊行されました。

このとき序文を書いたのは、西馬の弟子でもあり旧知の友でもあった加部琴堂でした。
加部琴堂とは、上州の三大尽と言われた一人、大戸の加部安左衛門十二代目(嘉重)です。
(ブログ仲間・風子さんの記事をご参照ください。)

「標注七部集」の序文です。↓


本文です。↓ (上段部分に標注が入っています。)


これにて、西馬さんのお話は終わりに致します。
お付き合いいただき、ありがとうございました。

気付けば、清水寺の石段をまだ一歩も上っておりませんでした。
次回は、いよいよ上ることに致しましょう。

(参考図書:「上毛及上毛人199号 俳人西馬の一生」)


【大信寺・西馬の墓】



  


Posted by 迷道院高崎at 09:00
Comments(2)観音山観音山遠足

2015年03月22日

駅から遠足 観音山(25)

清水寺の石段を上ります。

正面に見えるのが、「仁王門」
この「仁王門」は、寛文十一年(1671)高崎藩主・安藤対馬守重治(重博)により、本堂改修とともに建造されたものだそうです。

仁王門を潜って少し上ると、左側に墓地があります。

清水寺歴代住職の墓地ですが、観音山山上に簡易水道を敷設した時は、この辺りに中継水槽を設けたということです。

その墓地の一角に、幕末から明治にかけて清水寺の住職を務めた、田村仙岳(たむら・せんがく)の墓が建っています。
墓石正面には「中僧都仙岳」、裏面には「明治三十貮十二月二十三日遷没(?)享年七十四歳」と刻まれています。

田村仙岳は、「田村堂」を建てて、下仁田戦争戦死者の木造を安置した人物として知られています。
(注:「田村堂」の「田村」は「坂上田村麻呂」から)

しかし、その生い立ちや人となりについてとなると、あまり知られてないように思います。
「新編 高崎市史」にも、ほんの少ししか出てきません。

清水寺の歴史の項に、
享保二年(1717)七月、清水寺賢隆が遷化しその後は専従の住職は置かれず、本寺大聖護国寺から院代が派遣されて管理していた。
弘化五年(嘉永元年/1848)に至ってようやく石原村世話人共の請願が実り、寄合町玉田寺から快音が専任住職となり、嘉永三年(1850)には福島村金剛寺から仙岳が入院した。」

もうひとつは、水戸浪士追討のために高崎藩が野州へ出陣する件りの中で、
この時清水寺住職田村仙岳が、武運長久と勝利を祈願した守護札を持参したので、出陣する藩士の士気はいやが上にも高まった。」

と、たったこれだけです。

もっと知りたいと思って本を探したのですが、見つかったのはたった一冊、高橋敏氏著「国定忠治を男にした女侠 菊池徳の一生」だけでした。
田村仙岳と全く関係なさそうな題ですが、実は田村仙岳の姉が、国定忠治の妾と言われる菊池徳という人なのです。

この本によると、仙岳は九つ違いの姉弟で、生家は有馬村(渋川市)の農間煮売渡世(農業の傍ら茶屋を営む)・一倉家だそうです。
父・佐兵衛国分村(高崎市)住谷家の次男で、一倉家の長女の入り婿となり長男をもうけたが妻に先立たれ、中里村(高崎市)の家から迎えた後妻との間にできた長女と次男が、仙岳(本名不明)だということです。

は二十五歳で五目牛村(伊勢崎市)の菊池千代松に嫁し、仙岳はいくつの時か分かりませんが中里村徳蔵寺へ出家修行と、いずれも一倉家を離れています。

田村仙岳について、この本から少し抜き書きしてみましょう。
ところで、仙岳は、何故に出家し、姓が生家の「一倉」ではなくして「田村」なのか。謎を解く手がかりは目下ない。
ただ推測を逞しくすれば、徳がそうであったように、母親の生家の影響が垣間見える。
というのは、仙岳の宗派は、有馬村一倉家の菩提寺神宮寺の天台宗ではなく、中里村の母の生家岸家の檀那寺徳蔵寺の真言宗なのである。
おそらく後妻の男子であった仙岳には、零細な田畑で茶屋を営む父母から分家させてもらうことは考えられない。
通常は、他家の女婿になって百姓になるか、いっそ蚕で潤う商家の奉公人になるかである。
仙岳は、いずれの途も採らなかった。出家して僧侶になる途を選んだのであった。
いつ、どの寺で得度し、どこで修業し、一人前の僧侶となったのか、仙岳の修業時代はまったく不明である。」

ということで、やはり謎の多い人物であります。

その後、仙岳は26歳の若さで高崎清水寺の住職に就く訳ですが、その時期がまた因縁めいています。
高崎華蔵山弘誓院(けぞうざん・ぐぜいん)清水寺への転住の記事によって、僧仙岳が現われてくるのは、嘉永三年(1850)十二月三十日である。(略)
その九日前、姉・徳が精魂傾けた国定忠治が大戸で磔刑に処せられていた。」

姉のが「国定忠治を男にした女侠」と呼ばれたように、弟・仙岳もまた、この後、任侠に富んだ住職として活躍をするようになるのですが、そのお話は、また次回。

  


Posted by 迷道院高崎at 09:29
Comments(4)観音山観音山遠足

2015年03月29日

駅から遠足 観音山(26)

田村仙岳の活躍が記録されている事件の一つに、水戸天狗党の一件があります。

元治元年(1864)三月二十七日、水戸藩士・藤田小四郎は水戸町奉行・田丸稲之衛門を総帥に担ぎ、横浜鎖港を訴えて同志60人余りを率い筑波山に挙兵します。

当初、水戸藩にその対処を任せていた幕府ですが、その六月になって弱冠16歳の高崎藩主・松平右京亮輝聲(うきょうのすけ・てるな)を江戸城に呼び出し、浮浪の徒を追討する総督の任を指示します。

驚いたのは藩の重役たちです。
追討軍総督の立場となって、万が一不首尾となったらえらいことです。
考えた末に、「本来、水戸藩が鎮圧すべき筋であるので、水戸藩が出兵するなら高崎藩もそれに従う。」と要望を述べ、総督という立場だけは免れようとします。

その要望通り水戸藩が出兵することとなったので、高崎藩も出ていかざるを得ません。
1080人の藩士を二隊に分け、6門の大砲を用意して出陣することとなります。
前回の記事で、田村仙岳が武運長久と勝利を祈願した守護札を与えたというのは、この時のことです。

七月七日、高道祖(たかさい)村(茨城県下妻市)で始まった戦闘は、圧倒的多数の追討軍が大勝利をおさめ、天狗党は筑波山に敗走します。
意気揚々と引き揚げてきた追討軍は本陣の多宝院に入ります。
高崎藩は先遣隊200余人を多宝院から直線距離で1kmほど離れた雲充寺に、主力部隊800人はそこから10kmほど離れた関本村(関城町)に宿陣させました。

ところがその夜も明けぬ午前四時、敗走したはずの天狗党が、突如多宝院に夜襲をかけて火を放ったのです。
勝利の酒に酔いしれて熟睡していた不意を突かれ、追討軍本営は総崩れ、着の身着のまま逃げ出したといいます。
その火の手を見た雲充寺高崎藩兵もびっくり仰天、慌てふためいて戦わずして逃げ出すという騒ぎになりました。

その慌てふためきぶりを、「新編 高崎市史」はこのように記述しています。
地理不案内の彼らは、藩主の銘が入った大砲や武器を投げ捨て、往還をひたすら南に走った。そして鬼怒川の宗道(そうどう)河岸(茨城県千代川村)に出てようやく一息をつき、地元の人に炊き出しを命じた。
だが恐怖に陥っていた高崎藩は、朝飯が出されたにもかかわらず食べずに飛び出し、鎌庭(かまにわ)の渡し(千代川村)をこえた所で土地の人に高崎の方角を聞いた。すると人々が、川にそってどこまでも上に行けと答えたので、ふたたび走り出した。
ところが川尻村(茨城県八千代町)まで来ると、下妻の火が近くに見えてきたのに驚き、桐ケ瀬村(茨城県下妻市)の渡しを東にこえ、ようやく関本村に入ることができた。」

この取り乱しようを嘲笑する、落首まで出たそうです。
 「右京亮(うきょうのすけ)
     卑怯の亮(ひきょうのすけ)と改めむ
         匍匐(ほふく)逃げし 恥の高崎」


いやはや、えらいことになってしまいましたが、問題は逃げる時に雲充寺に置きっぱなしにしてきた武器・弾薬です。

それについて「新編高崎市史」は何も書いてませんが、高橋敏氏著「国定忠治を男にした女侠」には、こう書かれています。
下妻雲充寺に残して来た武器・弾薬は高崎藩にとって敵の手にでも渡ったら恥の上塗りである。
これを何とか取り返し、高崎まで持ち帰りたいと考えた。
武装した藩士では水戸浪士に見破られるということで、名乗りを上げたのが清水寺住職田村仙岳城下書肆(しょし)店沢本某である。
人足を引き連れ、非戦闘員を称して野州下妻まで出かけ、武器・弾薬その他を収容し、高崎まで運搬したという。
高崎藩内における仙岳の覚えはますます高くなり、藩主輝聲の厚い信任を得ることになった。」

どうです、さすが女侠・菊池徳の弟、度胸ある行動じゃありませんか。

ところで、名乗りを上げたもう一人、書肆店の沢本某という人物ですが、実は「国定忠治を・・・」を読む以前に、偶然この名前に接しておりまして。
それは、高崎昭和町で染物をしている丑丸さんから頂いたこんなメールでした。
当店所蔵の本で嘉永五年新刻の庭訓往来諺解と言う本が有りますが、巻末に「諸国書林 上州高崎 澤本屋要蔵」とゆう記載が有りますが、ご存知でしょうか。」

後日、撮らせて頂いた写真がこれです。↓


まったく知らなかったので、いつもいろいろ教えて頂いてる先生に問い合わせたところ、すぐご返事を頂きました。
澤本屋要蔵はあら町の本屋と判明。
天保15年の資料に「上州高崎新町書物地本澤本屋要蔵」とあります。
学問用のお硬い本を「書物」といい、大衆娯楽用の柔らかい本を「地本」といいます。つまり各種取り揃えているというか、要望に応ずるということですね。」

この澤本屋要蔵が、仙岳と一緒に下妻へ行った沢本某に相違ないと思いますが、それにしても妙な組み合わせですね。

ま、お坊さんともなると、いろいろな書物を読んで勉強してたでしょうから、澤本屋へも足しげく出入りし、昵懇の間柄だったのでしょう。
要蔵さんが、仙岳同様任侠心に富んだ人物だったのか、得意客の仙岳に言われて仕方なく付いて行ったのか、それは定かでありません。
タイムマシンでもあったら、この目で二人を見てみたいものです。

さて、高崎藩はこの後、いわゆる「下仁田戦争」で再び水戸天狗党と対峙することとなります。
そして田村仙岳もまた、そこに登場することとなるのです。

では、また次回。

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Posted by 迷道院高崎at 08:42
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2015年04月05日

駅から遠足 観音山(27)

次に田村仙岳の名前が出てくるのは、下仁田戦争の時です。
仙岳さんのお話をする前に、まず下仁田戦争について少しお話ししておく必要があるでしょう。
しばし、お付き合いください。

元治元年(1864)七月八日下妻に於いて戦わずして敗走した高崎藩は、追討軍目付・氷見貞之丞に不首尾を責められた上、「結城と下館に陣をおいて水戸浪士に備えよ。」という指示を受けます。
しかし高崎藩隊長・田中正精は、「藩兵が長い間戦地にあるので、しばらくの間高崎で休養させたい。」として、十七日に高崎へ戻ってきます。

そして九月になって再び出動した高崎藩は、幕府軍に合流して那珂湊で浪士軍と戦いをまみえ、ここでは何とか凱歌を挙げることができました。
那珂湊の戦いに敗れた浪士たちが企てたのが、京都にいる一橋慶喜を介して朝廷に自分たちの思いを訴えることでした。
ここに、武田耕雲斎を総大将にした水戸天狗党の西上が始まる訳です。

十一月一日に筑波山を出発した天狗党は大砲15門を有し、騎馬武者150人、歩兵700人、砲隊65人の総勢925人で、十日には太田まで進んで来ました。
それを阻止せよと、高崎藩に命令が発せられたのは、十一日のことでしたが、この時、高崎藩の主力部隊はいまだ那珂湊にあって帰城できず、残る城兵わずかに600人ほどであったといいます。

天狗党太田で二泊したあと中山道を通り、十三日に本庄へ入ります。

一方高崎藩は、一番隊109人を十三日夜に出発させますが、天狗党日光街道を通るという情報をもとに、玉村に向かいます。
そして二番隊92人が倉賀野に向けて出発するのは翌十四日の朝でした。
その後で天狗党が本庄にいることを知った高崎藩は、急いで一番隊を新町河原に、二番隊を岩鼻河原に転じ待ち受けます。

ところが、それを察知した天狗党本庄から神流川を渡って藤岡へと進路を変え、吉井を通る姫街道へ進んで高崎藩との衝突を避けようとします。
ここで高崎藩が体よく追討を断念していれば、この後の悲劇は起きなかったのでしょうが・・・。

吉井に入った天狗党の宿営を、吉井藩は黙って見過ごします。
また富岡七日市藩は、秘かに間道を案内して迂回させます。
そんな中、高崎藩は一昼夜歩き通して一の宮貫前神社へ兵を進め、小幡、七日市両藩と作戦会議をもちますが、及び腰の両藩は先鋒を務めることを断り、高崎藩を後方から援護するという約束をします。

悲劇の舞台・下仁田天狗党が姿を現したのは、十五日の午後四時ごろだったそうです。
同じ日の夜、一の宮を出発した高崎藩一番隊も、梅沢峠から下仁田に入ります。
そして、十六日の夜明け前、ついに戦いの火蓋が切られます。

やや遅れて梅沢峠に到着した高崎藩二番隊も、砲撃の音を聞いて急ぎ参戦し、最初の内こそ高崎藩優勢であったようですが、なにせ多勢に無勢、やがて三方から包囲され崩されていきます。

戦いの逐一については他に譲ることとし、ここでは二番隊大砲方として参戦していた深井直次郎(景員/かげかず)の著書「下仁田戦記」(明治四十三年発行)から、勝敗を決定づけたと思われる出来事だけ引用しておきましょう。
戰酣(せんかん/敵味方入り乱れて戦うこと)なる頃、所々の藪林丘岡(そうりん・きゅうこう)に潜伏せる敵兵盛に發砲す、我兵之に應して砲戰彌久(びきゅう/長引くこと)し、時に左方狐窪の山上に突如として一隊顯(あら)はる。
我は之れ小幡の藩兵前約を履(ふん)(一の宮での約束を履行して)敵を襲ふものとし、爲に備を設けず。
然るに我に向て發砲するに及びて初めて其敵なるを知り・・・」

高崎藩を援護すると約束した小幡藩はその時どうしていたかというと、大塚政義著「義烈千秋」(昭和五十一年発行)によれば、
小幡藩兵三百余名は、小坂峠をさけて馬山村に出て十六日の明け方、白山峠で浪士たちに対峙した。
水戸浪士より一発の砲撃をみまわれ、驚いて神農原まで退いたという。」

同じく高崎藩を援護するはずだった七日市藩に至っては、
七日市藩兵も南蛇井の中沢村に入ったが、この砲声が大桁山に大きくひびきわたったので、中沢村より一歩も出なかったという。」

高崎藩自体も応援のために三番隊133人を編成し、十六日朝に城を出発させていたのですが、一の宮まで進んだところで戦いは終わったという報に接します。

そんな訳で、味方の援軍も得られぬまま、よく善戦した一番隊二番隊でしたが、ついに正午ごろ退却を決定し、松井田を抜けて安中に敗走することとなります。

この戦いで天狗党の戦死者はわずか3名、片や高崎藩は戦闘による死者29名、生け捕り18名の内切腹または斬首7名と、計36名の死者を出すという悲惨な戦いとなってしまいました。

この戦死者たちの収容と供養に奔走したのが、高崎清水寺住職・田村仙岳だったのですが、ここまでだいぶ長い記事になってしまいました。
続きは、また次回ということにいたしましょう。


  


Posted by 迷道院高崎at 10:57
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2015年04月12日

駅から遠足 観音山(28)

田村仙岳下仁田戦争の戦死者をどのように収容し供養したのか、高橋敏氏著「国定忠治を男にした女侠 菊池徳の一生」に最も詳しく書かれているので、引用させて頂きましょう。

水戸浪士が去った下仁田戦場の惨状は言語に絶するものであった。
死屍累々。至るところに白兵戦のすさまじさを物語る太刀や槍、武具が散乱し、重傷を負い息絶えた者や負傷した者が取り残され、浪士により処断された藩士の首や遺体は放置されたままであり、敗北の悲劇をまざまざと見せつけていた。
下仁田戦場に家族関係者ともども真っ先に駆け付け、戦死者の遺体を探し出し、弔ったのは田村仙岳であった。
(略)
十九日、仙岳らは下仁田に駆け付ける。
敗戦の高崎藩士は、武田耕雲斎らの首実検を受けた後、専修院に埋められた者八名の他は、討死場所に放置されたままであった。
首の付いた死者は稀で、ほとんど首を落とされ、屍を喰う犬もあり、何よりも戦死者を収容することが急がれた。
仙岳は遺族、親類縁者を引き連れ、戦場を駆け廻って、死者への読経に余念がなかった。」

このあと仙岳は、高崎清水寺境内に寺の開祖・坂上田村麻呂を祀る堂宇「田村堂」を建て、その中に戦死者の木像を祀って、その霊を後々の世まで弔うことを発願します。

祀られている戦死者36名には、高崎藩士31名の他に、医師や町人など民間人5名が含まれています。

この時の仙岳の気持ちを、高橋氏はこう書いています。
仙岳の本意は、君命を奉じて戦場に討死するは武士の本分で誇るに足らず、むしろ、たまたま巻き込まれた戦いに徴発され命を落とした者の肖像を後世に残すことにあった、という。
仙岳は、ただ高崎藩におもねるために戦死者の供養に邁進したわけではない。
幕末維新の激動に倒れた身分の低い足軽、小物、百姓町人身分の戦死者に対して、深く追悼する気持ちがあったのである。
仙岳も姉徳に似て、弱きを扶ける任侠の風格を備えた傑僧であったといえよう。」

大正二年(1913)の下仁田戦争50年祭にあたり、傷みのひどくなった田村堂は建て替えられ、木像も作り直されています。
また、昨年は下仁田戦争150周年にあたることから、木像36体を初めて「田村堂」から出して高崎シティギャラリーに展示し、「慰霊木像と原画絵巻展」が開催されました。

その時の説明動画を、「高崎史志の会」の方がYoutubeにUPして下さっていますが、その中から田村堂に関する部分を抜粋させて頂きました。
全ての説明をご覧になりたい方は、こちらからどうぞ。

下仁田戦争が終わった後も、高崎藩はいくつもの戦に巻き込まれ、そのつど藩士の命は露と消えてゆきました。

下仁田戦争では36名、戊辰戦争では6名、西南の役では7名の戦死者を出しています。

明治十一年(1878)その魂を祭り鎮めるための「褒光招魂碑」が、旧藩士族17名の発起により頼政神社境内に建立されました。
碑の篆額を書いたのは、藩兵をそれぞれの戦に送ることとなった高崎藩最後の藩主・大河内輝聲です。

同じく下仁田の戦地に、旧高崎藩主並びに690人の有志者により「高崎藩士戦死之碑」が建てられたのは、三十年祭にあたる明治二十六年(1893)でした。
この碑の建立の経緯については実に興味深い話しがあるのですが、いつかまたあらためて記事にしたいと思っております。

下仁田の戦争史跡については、ブログ仲間の風子さんが取材してくれていますので、そちらをご覧ください。
   ◇下仁田・歴史さんぽ (1)♪
   ◇下仁田・歴史さんぽ (2)♪
   ◇下仁田・歴史さんぽ (3)♪

さて、仙岳さんのことに話を戻しますと、この四年後にまたまた高崎藩の騒動に巻き込まれることになります。
次回はそのお話を。


【田村堂】


【褒光招魂碑】



  


Posted by 迷道院高崎at 07:07
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2015年04月19日

駅から遠足 観音山(29)

天狗党事件の次に田村仙岳の名前が登場するのは、「高崎五万石騒動」です。

「高崎五万石騒動研究会」の活動によって、知る人も多くなってきたこの事件ですが、簡単におさらいをしておきましょう。
と、思ったのですが、私が書くと長くなってしまいそうなので、その昔、ブログ仲間の弥乃助さんが書いた記事を読んでください。
ついでに、私の駆け出しのころの記事も読んで頂けたら、嬉しいです。

さて、田村仙岳です。

細野格城「高崎五万石騒動」を読まれた方の中には、仙岳さんにあまり良い印象を持っていない方もいるかも知れません。

この中に出てくる「西光寺の大根投げ」という話で、仙岳さんがこんな登場のしかたをしてくるからでしょう。

(句読点は迷道院加筆)
役人の方では突然の事ではあり、大根が雨霰れの如くに降り來り、避け樣とも何とも詮(せん)(すべ)なく呆然(ぼんやり)として惘(あき)れて居られました。
此時も矢張り田村仙岳師も居りましたので、百姓方は日頃田村師を蛇蝎視して居たもので在るから、大勢は張り烈(裂?)けん斗(ばか)りの大音聲にて、淸水寺の田村坊主は隱密に來て居るのだ。
坊主を引き摺り出して歐(たた)き殺せ(など)と口々に罵り、中には師を目かけて瓦礫抔を投げる樣な事に成りましたので、役人の方も今や迚(とて)も鎭撫處(どころ)でなく、浮か浮かして居ては其身が危うくなり恁(かかっ)て來たものだから、寺の裏口の雨戸を破り逃げ走って脱(のが)れましたが、其中には寺の裏の溝(どぶ)へ落ち込み、履物は勿論大切なるものを遺夫(失?)して、雫の滴下(したた)る衣服を其儘絞りもせず、逢々(ほうほう)の体で城下指して駆け付け、右の旨を重役に訴えた。」

仙岳さん、農民にはえらく評判が悪いです。
「蛇蝎」、つまり蛇か蠍(さそり)のように見られていたというんですから。
ところで、なぜ仙岳さんが、この騒動の舞台に登場してくるのかということです。

格城は、このように書いています。
當時藩士以外に於いて藩主に御目見へ以上の優待を受けし者數多(あまた)在りしと雖(いえど)も、石原村淸水寺の住職田村仙岳、南大類村觀音の別當小園江丹宮(おぞのえ・たみや)の両氏程、城内に對し信用を得た者は殆ど無った。
斯樣(かよう)な譯で在ったから、藩の重要事件には何時も諮問に與(あずか)り、此減納訴願に就ひても初めより諮問が有った。」

藩の相談役というか知恵袋というか、事件が起こればいつもそこに仙岳さんがいた訳です。
だから、天狗党の騒動の時にも下妻まで武器を回収に行ったりしたんですね。
農民の言う「藩の隠密だ。」という言葉も、当たっているように思えます。

しかし格城は、同じ「高崎五万石騒動」〔最後の顛末〕の項で、こう言っています。
尚ほ申上げ殘した事柄が少しござります、夫れは斯うである。
田村仙岳師の事は、本編所々に顕るゝが如き無髪の偉僧にて、水滸傳中の「ゝ(ちゅ)大和尚」の如き磊落率直な謂はば一種の變人で、氣骨稜々人世百般の出來事には自己を損(すて)て相怜(あわれ)てふ、復(また)得易からざる脱俗僧である。
何條本件の樣な事柄に默止して居られ樣、藩と農民側の表裏に亘って斡旋した事は一両度ではなかったが、誠意赤心(偽りのない真心)のある所が間々一汎より曲解誤認されて徹底しない所が西光寺大根投げの時の様に反って惡感情を惹起せしめたこともあるが、此は農民側の觀測(おもい)が足らない誤解邪推より起こったこと。
尋常普通の人なら一遍に怒ってしまう。自分が是れ程に盡力するのに、何故其れが知了(わから)ない乎(か)、了解(わから)なければ己れには己れの考が有ると見切をつけるが普通であるが、田村氏は却々(なかなか)さうでない。
万望(どうか)して百姓の苦惱の輕量(かるから)むことを衷心より思って居られた・・・」

自分を捨てても人を憐れむという、俗世間にはめったにいない得難い人物である。
普通の人なら悪しざまに言われればすぐ怒って、「勝手にしろ!」と放り投げてしまうところだが、仙岳さんはそんなことはせず、どうにかして農民の苦悩を軽くしたいと思っていた人物なんだ、と言っているのです。

さらに、
兎に角、東鄕に小園江師あり西鄕に田村師在って、圓滿なる勞を執(と)られました爲め、東鄕二十三ヶ村、西鄕の内田村師の居村石原村それに乘附村等より一人として罪人を出さなかったのは、僥倖な事でござりました。」
と、仙岳の功績を認めています。

仙岳の慈悲心は、騒動が終焉した後も引き続き農民に向けられています。
段々方がついて、夫れぞれ處分せらるべきものは罪の多少を酌量して懲役に服される者が出來たので、田村師は平素の俠氣傍觀するに忍びず、氣の毒である可愛相であると測隱の心禁ぜんとして禁ずる能わず、千思万考種々胸中に畫た末、碓井郡神山驛の名主岡田平六、並に群馬郡(現今佐波郡)南玉村の名主町田孝五郎の両人に懇談する所あって、外役として使役いたしたいと岩鼻監獄へ出頭に及んだ處遂に聞届けになりて、十余人の入監者は外役との事で非常に喜んだと云ふ。
何んで囚人が外役を喜んだと云に、監督が緩やかである斗(ばか)りでなく食事の際抔(など)雇主より雑菜御馳走を與へらるゝも亦因をなして居ると云ふ。
尤も百姓騒動の懲役囚斗でなく、半分は他の囚人を交へ使ったので、懲役人の内には多少自己の誤解を知らずして田村師を恨んで居る者もあったが、この事が知れてからは恨む所か、田村師の慈悲深い温ひ情愛に富だ坊さんであると謂ふことが心中へ徹底したので、今迄僻見(ひがみ)根性を起して愁(うれい)て居た連中も、ガラリと悟る所があったと云ふが左(さ)もあるべき筈で、慈愛の同情は何時かは同化さすと云ふ事だが、之れが眞に僧侶の云ふ菩薩行とでも謂ふのでございませう。
田村師の行動に就ては、世間毀譽褒貶の辭(ことば)に富んだ人だが、人の善事は美擧として賞讃するは當然の事で、功過相刹の偏見は余りに狭量かと、自分は自己の信じたこと丈けを申上げる次第であります。」

五万石騒動で罪に問われた人が獄中の懲役で苦しまないよう、獄の外で農家の手伝いをする「外役」に就けるよう、仙岳さんは岩鼻監獄にまで出向いてお願いしたというのです。
これには、仙岳さんに悪感情を抱いていた農民たちも、仙岳さんの本当の慈悲心を悟ることができたようです。
細野格城は、とかく世間では仙岳さんを毀誉褒貶の人物であると言っているが、それは余りに狭い偏見である、と信念を以て語っています。

だいぶ引用が長くなりましたが、「高崎五万石騒動」に書かれている仙岳さんをご紹介しました。

次回は、その後の仙岳さんについてお話ししようと思います。

  


Posted by 迷道院高崎at 10:59
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2015年04月26日

駅から遠足 観音山(30)

高崎藩の相談役として重用されてきた田村仙岳ですが、明治四年(1871)の廃藩置県によって「高崎藩」がなくなったあと、どうなったのかが気になります。

そもそも清水寺は、檀家が数軒しかなかったそうです。
高崎城の裏鬼門にあたるということで、代々高崎藩の祈願寺として加護を受けることで経営が成り立っていたのでしょう。
その高崎藩が無くなったとなれば、寺の経営はさぞかし大変になったことと思われます。
加えて、明治新政府の発した「神仏分離令」や、それによる「廃仏毀釈」運動も、仙岳さんを悩ませたに違いありません。
石段下にあったという本堂が、明治になってから石段上の観音堂と兼ねるようになったというのも、理由はこの辺にありそうな気がします。

明治二十四年(1891)、意外なところに仙岳さんの名前が登場します。
「磯部鑑」という、磯部鉱泉の案内本のようなものですが、その中の「磯部名産」の項に仙岳さんの名前が出てきます。


いま一般に「磯部煎餅」と呼ばれているものは、大手氏により明治十九年(1886)に発明されたとありますが、仙岳さんはその翌年に「木の葉形煎餅」を発明したというんですね。
高崎でも売っていたというんですが、聞いたことがありません。
どなたかご存知の方は、情報をお寄せいただけると嬉しいです。

と、そんなことを思っていたら、いつもながらで吃驚するのですが、ひょんな所で「木の葉形煎餅」に遭遇することになりました。

「妙義山さくらの里」へ行った帰りに寄った道の駅、「みょうぎ物産センター」にそれはありました。

見慣れた「磯部煎餅」の隣に、木の葉形をした磯部煎餅風の「胡麻せん」が並べてあります。

食べてみると、柔らかくてパリパリする食感はまぎれもない「磯部煎餅」で、それに胡麻の風味が加わってとても美味しいお煎餅です。

製造しているのは妙義町「高木製菓」とか。
磯部に近いとはいえ、どうなのかなと思いましたが、帰り道でもあったのでお店に寄ってみることにしました。

「高木製菓」さんでは、「磯部煎餅」に似た四角い「妙義煎餅」と、木の葉形の「胡麻せん」とを売っていました。
愛相のよい奥様にお聞きすると、「妙義煎餅」は昔からここで手作りをしているものだが、「胡麻せん」は金型がないので磯部の菓子店「ゆもと」さんに製造依頼しているということでした。

それでは、ということで磯部「ゆもと」さんへ行ってみました。

あいにくご主人はお留守でしたが、後ほどお電話でお話を伺うことができました。

お話によると、「ゆもと」さんの創業は昭和四十年(1965)ということで、「磯部鑑」「木の葉形煎餅」のことも初めて耳にしたと仰っていました。

残念ながら、仙岳さんとのつながりは確認できませんでしたが、ご主人からは「そういう由来があることを知って、有難かった。」と言って頂き、これも仙岳さんが残してくれたご縁のおかげと、嬉しい気持ちになりました。

廃藩置県から16年後の明治二十年、仙岳さんがどういう経緯で「木の葉形煎餅」を発明し売り出したのか、確かなことは分かりませんが、寺の経営のためであろうことは何となく察することができます。

仙岳さんは、その後も清水寺の経営のために策を打ち出します。
そのお話は、また次回に。


  


Posted by 迷道院高崎at 06:52
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2015年05月10日

駅から遠足 観音山(31)

明治二十五年(1892)の8月から9月にかけて数回、東京朝日新聞に田村仙岳の名前でこんな広告が載っています。→

脚気の人は清水寺からの良い景色と良い空気のもとで散歩していれば、半月かひと月で快復すると言ってます。

費用は一人一昼夜十二銭とありますから、ひと月三円六十銭。
こりゃ、当たればいい収入になるでしょう。

「新編高崎市史」によると、田村仙岳は明治三十一年(1898)に、「脚気患者転地養生園」として清水寺地内に遊園地を開く計画を立て、一部実施に移しているということです。
(新編高崎市史 資料編14)

仙岳さんはその翌年の明治三十二年(1899)に74歳で亡くなっているのですが、明治三十四年(1901)発行の「大日本名蹟図誌上野国之部」に載っている「華蔵山清水寺之景」を見ると、仙岳さんの計画したであろう養生園の姿を窺い知ることができます。


楼門の左手に「客殿」というのがあり、水が不便であったにもかかわらず「水舎」とか「浴室」もあり、「散策路」や休憩のための「四阿や」も整備されています。

仙岳さんがいなくなって10年後、明治四十二年(1909)発行の「上毛遊覧」という本にも、清水寺の広告らしきものが載っています。

挿絵のすぐ下に、「本堂宇改築し四十三年…」と書いてあります。
ということは、明治になる直前に本堂か観音堂を改築しているということになります。

その資金は一体どこから出たのでしょうか。
幕末の財政破綻状態の高崎藩でしょうか、数軒しかないという檀家でしょうか、それとも誰かから借金でもしたのでしょうか。

どうもこの辺に、「石段下にあった本堂が明治になってから石段上に移った。」という理由があるように思われてなりません。
例によって迷道院の根拠なき推測ですが、仙岳さんは、石段下の本堂を撤去して観音堂と一緒にし、馬頭観音堂も石段途中に移して、更地にした土地を売却してお金を工面する必要があったのではないでしょうか。

また広告には、「當山五十三年目にして大開帳を執行す」ともあります。
53年を逆算すると安政三年(1856)で、仙岳さんが清水寺の住職になって6年目の年です。

「新編高崎市史 通史編3」によると、その前に御開帳されたのは正徳五年(1715)だというのです。
清水寺は享保二年(1717)から弘化五年(1848)までの131年間は無住だったということもあって、嘉永三年(1850)に仙岳さんが来てようやく御開帳されることになった訳です。

この時の御開帳について、「新編高崎市史」にはこう書かれています。
安政三年五月十三日、諸人結縁のため、清水寺は千手観音の開帳を行うことを藩へ願い出た。
期間は翌四年三月十日から四月十日までの三十日間とし、所々に開帳を知らせる建札を立てることにした。藩では公儀へ達して、許可が下りたのは十二月十六日であった。
建札は、
近いところでは高崎宿・新喜町・通町・相生町・常盤町・聖石出口・江木新田入口・倉賀野宿、
東毛の木崎・玉村・世良田・妻沼・太田・桐生・大間々、
西毛では新町宿・金古・室田・神山・一ノ宮・宮崎・下仁田・吉井・富岡・藤岡・鬼石、
中毛の前橋・白井・伊香保・渋川、
北毛の沼田・吾妻郡五か所、
武州では熊谷宿・深谷宿・本庄宿・小川・秩父郡四か所
であった。
当時の主要な街道筋を広域に網羅しているのがわかる。
より多くの参詣人を期待していることと、それほど広域に清水寺の観音が知れ渡っていたことを物語っている。」

きっと仙岳さんは、明治に入ってからも御開帳をやって参詣人を呼び寄せたかっただろうと思うのですが、その遺志は次の住職・隆応師が受け継いだようです。

いま、訪れる人も少なくなった清水寺、いまこそ仙岳さんと同じように、多くの人を呼び寄せる手だてを講じる必要がありそうです。

さて、また少し石段を上るとしましょうか。




  


Posted by 迷道院高崎at 07:45
Comments(2)観音山観音山遠足

2015年05月17日

駅から遠足 観音山(32)

清水寺の石段がカギの手に曲がる所に、明治になって石段下から移されたという「馬頭観音堂」があります。



「馬頭観音堂」の周りには沢山の石碑や石塔がありますが、その中でひときわ大きな石碑が目を引きます。
明治期の教育者・深井仁子の徳を頌する「徳音碑」です。
この碑については、まだ駆け出しの頃、いちど記事にしたことがあります。→ ◇深井仁子さんって知ってますか?

碑文は難しい漢文で刻まれていますが、昭和二年(1927)発行の「高崎市史」にその読み下し要約が載っています。
仁子ハ藩臣深井資治ノ三女、天保十二年二月二日生ル、其生ルニ先ダツ數月府君(ふくん:亡父)歿ス、母氏貞烈難苦鞠育(きくいく:養い育てる)ス、仁子長ジテ文ヲ修メ武ヲ習フ令名アリ、
時ニ勤王佐幕ノ論大ニ起ル、仁子慷慨大義ヲ唱フ、通常幗巾(くかんき:女性)ノ流ニアラズ、危難頻ニ迫ルモ毅然トシテ屈セズ、幸ニ其身ヲ全フセリ、
明治戊寅ノ年、國振學校ヲ興シ、丁未更ラニ幼稚園ヲ開ク、教化ニ身ヲ致スコト三十有余年、後門人相謀リ壽碑ヲ其庭内ニ建テ徳ヲ頌ス、
仁子終身嫁セズ、和歌ヲ詠ジ自ラ娯シム、其交友スル所ノモノハ天下知名ノ士ナリ、大正七年九月歿ス年七十七」

これによると、「壽碑」として幼稚園の庭に建てられたとあります。

掲載されている写真はぼんやりとしていますが、確かに背景が清水寺の石段ではないようですし、碑の周囲に石玉垣もあるようです。

形も同じようでもあり、違うようでもあり、よく分かりませんが、「大正三年十一月十八日」という日付や題・撰・書・建それぞれの人名は同じですので、おそらく同じもので、ある時移設されたものと思われます。

仁子さんが明治十一年(1878)宮元町に開設した「国振(くにふり)学校」と、 明治四十年(1907)に開設した「私立深井幼稚園」が、大正三年(1914)の「高崎市街全圖」に載っていました。



現在の地図だと、ちょうどこの辺ですね。


深井仁子さん、もう知る人も少ないのでしょうね。
清水寺の石段を上る時、一休みするのにちょうどいい場所に「徳音碑」があります。
どうぞ、深井仁子さんのことを思い出してやってください。

さて、一休みしたら、また上りましょう。



  


Posted by 迷道院高崎at 09:33
Comments(2)観音山観音山遠足

2015年05月24日

駅から遠足 観音山(33)

「清水の舞台」と呼ばれる楼門の手前で、カクンッと石段の勾配がきつくなっているのが分かるでしょうか。









昭和二年(1927)発行の「高崎市史」に掲載されている写真では、ずっと上まで同じ勾配で石段が続いています。

ここが勾配の変わる地点ですが、ここから石段の材質が変わり、一段の高さもやや高くなります。




さらに上ると、また材質が変わり、もっと高い二段が・・・。
大概の人は、ここを上がって「ふーっ」と大きく息を吐くことになります。

上がってみると、道が横切っています。

石段の途中から勾配が急になったのは、実はこの道のせいで、この辺の経緯は、過去記事「幸福になれる石段」に書いてあります。

さ、あと一頑張りで「観音堂」に到着です。


お賽銭を上げたら、「観音堂」の後ろへ回ってみましょう。

「千手堂」という額が掛けられているので、清水寺のご本尊・千手観音がここにいらっしゃると思う人もいるようです。→








←ここにいらっしゃるのは愛染明王で、ご住職の仰るには、ここでご本尊の後方を守ってらっしゃるのだそうです。

ものの本によると、愛染明王「煩悩と愛欲は人間の本能でありこれを断ずることは出来ない、むしろこの本能そのものを向上心に変換して仏道を歩ませる。」とする功徳を持っているそうです。
そして、愛欲を否定しないことから、古くは遊女、現在では水商売の女性の信仰対象にもなっている。
また、「愛染=藍染」と解釈し、染物・織物職人の守護神としても信仰されている。
ということです。

いま榛名神社がパワースポットとして若い方々に大人気だそうです。
でも、「幸福への石段」を上り、清水の「千手観音」に広大無限のお慈悲を頂き、「愛染明王」が愛の成就をお手伝いしてくださるという、ここ清水寺こそ最強の「恋愛成就パワースポット」じゃないかと思うのですが、いかがでしょうか。

さらに白衣大観音、その背にある光音堂「一願観音」と組み合わせれば、観音山全体が「恋愛成就パワースポット」になります。
このご利益にあやからない手はないと思うのですが、観光課、観光協会、地元出身議員の方々、そして地元民の皆様は、どのようにお考えでしょうか。

さて、次回も清水寺からのお話です。
では、また。


  


Posted by 迷道院高崎at 08:47
Comments(8)観音山観音山遠足

2015年05月31日

駅から遠足 観音山(34)

清水観音堂内には、高崎市指定重要文化財になっている算額と絵馬があります。

そちらは高崎市のHPでご覧いただくとして、迷道院としては、それよりもっと気にしてほしいものがあります。

高崎の浮世絵師・一椿斎芳輝(いっちんさい・よしてる)の絵馬額です。

観音堂の回廊にずらっと掛けられている一椿斎の絵馬額は、重文指定はおろか、高崎市のHPにすら紹介されていません。

十六枚あるといわれる絵馬額は褪色が進み、それゆえにそのような扱いを受けているのでしょうが、このまま朽ち果てさせるのは何とも勿体ない、高崎の貴重な歴史文化財なのであります。
まずは、一椿斎芳輝という浮世絵師がどのような人物なのかをご紹介することといたしましょう。

一椿斎芳輝は、文化五年(1808)江戸日本橋高砂町米山源四郎の次男・芳三郎として生を受けます。

芳三郎は、幼くして絵画を好み、十五六歳の時、当時の巨匠であった谷文晁(たに・ぶんちょう)の門に入り、北年を号すとあります。

また、二十五六歳の時に浮世絵師・歌川国芳(画号・一勇斎)に就いて学び、歌川芳輝(画号・一椿斎)の号を得ます。

その後、どのような経緯からかは分かりませんが、高崎驛新(あら)田中勘右衛門の一人娘・モヨの婿養子となります。
田中家は、代々高崎藩の御用達を務め、苗字帯刀を許された家柄であったそうですが、芳輝が婿に入った当時は延養寺門前で「壽美餘志」(すみよし)という旅籠を営んでいました。

芳輝は妻・モヨとの間に一男三女を儲けていますが、なぜか高崎田町の呉服太物問屋・三吉屋の吉井川喜蔵の次男・喜平司を養子に迎え、明治六年(1873)六十五歳で家督を譲り隠居します。

こうして楽隠居の身となった芳輝が、好きな絵画に思う存分のめり込んだであろうことは、想像するに難くありません。
清水寺に奉納した十六面の絵馬額は、芳輝六十~七十歳頃の作品だと言われていますが、きっと隠居になってからのものでしょう。

さて、その頃の清水寺の住職はといえば、あの田村仙岳であります。

そしてその仙岳の姉はといえば、このシリーズ第25話にも書いた、あの国定忠治の妾・菊池徳であります。

そのの還暦記念の肖像画を、一椿斎芳輝が描いています。

仙岳は九つ違いということですから仙岳は五十一歳、没年から逆算すると明治九年(1876)に描かれたことになります。

仙岳が、明治維新、廃藩置県、廃仏毀釈という歴史の波に翻弄される中、何とか清水寺に人を寄せて寺を維持したいという、強い思いを抱いていたであろう頃です。
浮世絵の大絵馬額で観音堂を取り巻いて人々をあっと言わせようと、親交のあった芳輝に話を持ち掛けたに違いありません。

当時はさぞかし色鮮やかで、仙岳の狙い通り人々の注目を集めたことでしょうが、今はその色も褪せて、見る影もありません。
復元するには多大の費用が掛かるでしょう。
相当な篤志家でも出てこない限り、叶わぬ夢かもしれません。
完全に湮滅する前に、せめて写真を残しておきたいと思いました。

十六枚の絵馬額には、こんな題名が付けられているそうです。

  1.仁徳天皇高き屋
  2.千早城の楠公
  3.麗人採菊
  4.橿原皇居造営
  5.一ツ家石の枕
  6.平忠盛
  7.神武天皇東征
  8.仕立職娘連中
  9.応神天皇紀王仁来朝
 10.田村麿将軍東征
 11.神功皇后紀新羅朝貢
 12.観音霊験
 13.勧進帳
 14.応神天皇紀呉国織縫女来朝
 15.平維茂鬼女退治
 16.韓信忍耐

ただ、それがどの絵に対応しているのか、ほとんど分かりません。
その方面にお詳しい方は、どうぞご教示をお願いいたします。
また、もっと鮮明に見えている時の写真をお持ちの方がいらっしゃいましたら、ご連絡を頂きとうございます。


神武天皇東征?


平維茂鬼女退治?








勧進帳


千早城の楠公?


仕立職娘連中






応神天皇紀呉国織縫女来朝?




韓信忍耐




観音霊験?



芳輝は、明治二十四年(1891)一月十九日の朝、一杯の酒を所望してそれを飲んで寝たあと、家人も気付かぬ内に息を引き取るという、まさに眠るような大往生だったそうです。
享年八十四歳。
嗚呼、吾も斯くありたや。

この一椿斎芳輝の子孫が、高崎の庶民史に大きな足跡を残しています。
次回は、そのお話を。

(参考資料:白石一著「一椿齋芳輝」)


  


Posted by 迷道院高崎at 08:43
Comments(4)観音山観音山遠足

2015年06月07日

駅から遠足 観音山(35)

前回のおさらいになりますが、一椿斎芳輝は、新(あら)町の延養寺門前にあった旅籠「壽美餘志」(すみよし)田中家の婿養子に入ります。
そして、芳輝もまた養子・喜平司を迎え、家督を譲りました。

喜平司は、田町の呉服太物問屋の倅だったというだけあって、機を見るに敏な人物だったようです。
明治十七年(1884)の鉄道開通を機に、高崎停車場前の一等地に掛茶屋「壽美餘志」を開き、後に旅館「高崎館」とします。

余談ですが、↑の「群馬県営業便覧」を見ると、いま新(あら)町で風情ある佇まいを見せる「豊田屋」は、当時「高崎館」の並び側にあったことが分かります。

この頃の、駅前の風景です。↓


敷かれているレールは、チンチン電車より前に高崎・渋川間を走っていた、「馬車鉄道」のものです。

「高崎館」の三階建て洋館は当時高崎唯一ということで、写真で見てもひときわ異彩を放っています。
しかし残念ながら、明治三十九年(1906)の火災で、この洋館は焼け落ちてしまったそうです。
ただ、異彩を放つ建物は他にもあって、大正六年(1917)発行の「高崎商工案内」では、こんな宣伝文句で売り込んでいます。


「高崎館」の経営は、一椿斎芳輝の養子・喜平司から、その三男・富貴壽の時代になっています。
「サチホコ(しゃちほこ)の乗っている三層楼」の写真が、明治四十二年(1909)発行の「高崎商工案内」に載っていました。


もしかすると、高崎城の天守閣「三層櫓」を模したのでしょうか。
いずれにしても、人目を引く旅館であったことは間違いありません。

昭和に入ると、旅館「高崎館」「高崎館食堂」と名を変え、建物は菓子店「みやげ屋」など他店に貸していたようです。


写真をクリックして拡大してみてください。
一番上の看板に、「鑛泉旅館割烹 髙崎館別荘」とあるのが分かるでしょうか。

これが、今も観音山羽衣坂の途中にある、高崎の奥座敷「錦山荘」です。

昭和六年(1931)の地図を見ると、「清水鉱泉」「錦山荘」は別棟だったようです。

また富貴壽の長兄・輝司は、高崎の一流割烹料理店「宇喜代本店」を経営しておりました。

明治四十三年(1910)に発行された「高崎案内」で、編者の早川愿次郎(圭村)が書いた宇喜代評が、なかなか面白いです。
主人は非常の魂膽家にて、屢(しばしば)座敷の模樣等をも變更して客の便利を圖る故に總ての注意周到なり。
其上廉價に特別の愉快まで行届く、勉強料理店なり。」

実は不肖・迷道院、「宇喜代」の近くに住んでいたことがありまして、若気の至りから、ここの大広間をお借りして婚礼の儀を取り行うという、身の程わきまえぬ暴挙に及んだことがあります。

新郎になったのは生まれて初めての経験だったので、終始緊張の連続で終わってしまいましたが、いま思えば、内部の様子をもっと写真に残しておけばよかったなぁ、と・・・。

私事はともかく、高崎の華やかなりし頃を彩った「高崎館」、「錦山荘」、「宇喜代」の主人たちが、清水寺の回廊を彩った絵馬額の作者・一椿斎芳輝の子孫であった訳です。
清水寺絵馬額をこのまま湮滅させるに偲びないと思うのは、このような高崎の庶民史と深い繋がりがあるからであります。

できうれば、絵馬額修復に向けて動き出したいものです。
清水寺恋愛成就パワースポットとして売り出すにも、この絵馬額修復というニュースは、大いに貢献することでしょう。
一年に一枚づつでもいいでしょう。
行政の力と市民の力を合わせて、何とかならないものでしょうか。


  


Posted by 迷道院高崎at 07:02
Comments(6)観音山観音山遠足

2015年06月14日

駅から遠足 観音山(36)

明治四十三年(1910)発行の「群馬県案内」に載っている、清水観音堂です。↓


写真をクリックして拡大すると分かると思うのですが、観音堂の左隣に大きな仏像が建っています。

こんな立派な観音像です。→
でも、今はもうありません。
戦時中の金属供出で、失ってしまったのです。

この観音像については、過去記事「幻の鋳銅露天大観音」をご覧ください。

この観音像を建てた斎藤八十右衛門雅朝については、この記事も読んで頂けると嬉しいです。
 「鎌倉街道探訪記のおまけ」

過去記事では、碑文の概要しか書きませんでしたので、全文をご紹介しておきましょう。

「芳迹不滅」
昭和庚子夏 為斎藤君
宇佐美毅

宮内庁長官正五位勲四等
  宇佐美毅閣下題辞

此の碑の台石は、わが七代前の祖旧称上毛国緑埜郡緑埜郷の代官斎藤八十右衛門
雅朝が、寛政八年、管内の名主百姓等二百八十余名の発起人となり、蚕穀豊穣祈願の成就を喜びて、当清水寺に寄進せる鋳銅丈六の露天聖観世音立像が座したる旧址なり。

雅朝はさきに天明三年浅間山大噴火の際に数多の難民救助の義挙があり、加え今又この芳躅(ほうたく)を重ねんとし郷民の信望は愈々揚がれり。
然るに斯の尊像の奉納にあたり、初め高崎藩候より郷士の分限にては僭上不屈の所為なりとの咎を受けしため、雅朝は己が一命を屠腹に賭け重ねて乞ひ、聴許を得て建立し後自刃すと言伝ふ、以てその為人を察すべし。

爾来百六十年この苑内にいまして汎(ひろ)く参詣者の尊信を蒐め、且つ寺苑の一景観ともなりぬ。
曾て明治俳壇の巨匠村上鬼城翁(当市居住)の讃句に
   「み佛の お顔の汚斑(しみ)や 秋の雨」

然るにわが国嚝古(こうこ)の大戦に遭ひ、その軍需資材として尊像は回収され、ただ台石を残すのみとなりしは口惜しく、往時を憶ひ転感慨に堪へず、依って予は右像影の消滅を慨(うれた)き、己が嗣子に謀りて建碑の企をすゝめ、わが曾ての上司に題簽(だいせん)を煩し、以て曩祖(のうそ)の逸事を永く後世に伝ふると共に、聊か郷党教化に資せんと斯(かく)云爾(しかいう)

昭和三十五年庚子歳秋彼岸
  雅朝八世孫於浦和市僑居 従六位斎藤義彦撰幷書
義彦嗣子在ペルー国リマ市泰彦建之

(碑裏面)
  雅朝 没年 寛政八年四月二十八日
      寿令 六十有五歳
      法名 東遊院義賢徳忠居士
      墓地 藤岡市緑埜270 旧宅地内

(台石)
  奉造立為国家豊饒蠶成就



と、石碑には刻まれているのですが、それと異なることが書かれているこんな文書があります。



昨年の11月に大類公民館で行われた歴史講座で、中村茂先生から頂いた資料の中にあったものです。
先生の読み下し文を下に転載させて頂きます。
(句読点とカッコ内は迷道院加筆)

観世音御夢想 頭痛即功散
               御初穂として壱包七拾八銅ツゝ
湯島天神前伊勢屋彦七方へ御光来可被下
根元ハ上州高崎ゟ(より)十五丁在花蔵山清水寺与(と)号ス

(そも)当山千手観音ハ沙門延鎮の御作、洛東清水寺の霊物と同木一躰の尊像にして、往古人王五十一代平城天皇の御宇、田村将軍大同三子年御建立の霊場也。

実に当国緑埜郡緑埜の郷士齋藤八十右エ門藤原雅朝与(と)云人、性質篤実ニ志て信心に厚く、母常に頭痛をなやめる事を悲ミ、深重の祈誓をこめ御堂に通夜し一心に願ひけるに、夢想の御告に此薬をもって母の病苦を除べしと御告あり。
眠さめて霊験肝ニ銘し、早速調剤いたし相用候処、霜雪に沸湯をかける如く病即時に全快す。
(それ)ゟ頭痛即功散と号す。
雅朝母子当山に詣て、かゝる霊験ハ稀の事、諸人の病苦を救わん為、薬法を観世音の御寶前へ相納め多年信心。
之年数万人江あたへ是を用ゆるに、壱人として平癒せざるハなし。

雅朝渇仰の餘り寛政八酉年四月十七日、唐銅丈六の観世音当山ニ奉造立、訖(ついに)倍々こゝに無量の妙知力を現し、数万の男女、道ニ行かふ旅人も必一度霊地ニ詣て其とふと(尊)きを知るべし。
(途中略)
諸人の病苦を救わんためひろむるものなり
            上野国清水観世音 別当所 清水寺
東都弘所
 湯島天神門前町 浅草諏訪町 小石川伝通院前表町
 下谷廣徳寺前伊勢屋彦七 中嶋屋平兵衛
 万屋久蔵 三河屋亀蔵


「頭痛即功散」という薬の効能書きらしいのですが、前述の斎藤八十右衛門雅朝のお母さんが頭痛に悩んでいて、清水観音堂に祈誓宿泊したら夢でお告げがあって、その通りに調合した薬を飲んだら全快したので、そのお礼に聖観音立像を造立したことになっています。

何やらガマの油売りの口上みたいで、どうにも胡散臭い話です。
この効能書きがいつ頃のものなのか、年代が書いてないので分かりませんが、少なくとも江戸後期から明治にかけてのものでしょうから、どうもあの田村仙岳が絡んでいそうです。

だとすると仙岳さん、なかなかのやり手住職だったようですね。

では、今日はこの辺で。


  


Posted by 迷道院高崎at 10:09
Comments(2)観音山観音山遠足

2015年06月21日

駅から遠足 観音山(37)

「芳迹不滅」碑の左に、清水寺の裏山に上る小道があり、「矢島八郎翁銅像入口」という小さな看板が立っています。



小道を上っていく途中に、

天地(あめつち)の 
 おのつからなる ふみよみて
  まことの道を 人はゆかなむ
 
田島尋枝

という歌碑があります。

田島尋枝は、このシリーズ32話でご紹介した深井仁子さんに、皇学を指導したという「清香庵」の主人です。

明治四十三年(1910)発行の「高崎案内」で、「清香庵」はこう紹介されています。
連雀町にあり、家號をますやと云ひて三代相傳の鰻鱺(うなぎ)店なり。
開業の當時、其妻君即ち當主人の祖母は、江戸靈岸島の大黒屋に到り蒲焼の調理方を練習して、江戸前の喰い味専門にて賣出せしなり。
當主の父は、業體に不似合なる有名の皇典學者にして、故小中村淸矩博士等と親友なりし。
當主は、體軀布袋然として容貌惠比壽然たり。和歌に巧妙なり。
一見營業には疎きやに見えれども、其間に云ふ可らざるの妙を有し、愛顧する華客(とくい)多く繁盛しつゝあり。
蒲焼の風味も良く、座敷の設備も行届き居れり。」

「清香庵」連雀町のどの辺にあったかというのは、昭和三十三年(1958)発行の田中友次郎著「大手前の子」の中で、著者の記憶によるという町の図に描かれていました。



実は3年前、田島尋枝氏の曽孫の方からメールを頂戴したことがあります。
突然のメール失礼します。
曽祖父のことが記されていたのでうれしくなってメールしました。
清水寺には曽祖父の歌碑もあります。
亡くなった後に矢島八郎さんたちが立ててくれたようです。(裏に発起人の記名があります)」

このメールを頂いて初めて、清水寺田島尋枝の歌碑があることを知りました。
また、ご本名は廣吉で、下横町向雲寺にお墓があることも教えて頂きました。

深井仁子とともに、田島尋枝「清香庵」という名前も、記憶しておきましょう。

さて、さらに小道を上って、田島尋枝の歌碑を建てたという矢島八郎に会いに行きましょうか。


  


Posted by 迷道院高崎at 06:50
Comments(2)観音山観音山遠足

2015年06月28日

駅から遠足 観音山(38)

初代高崎市長・矢島八郎の銅像です。

矢島八郎高崎市民には周知の大人物で、迷道院が改めて下手な紹介をするよりも、高崎新聞のサイトでご覧ください。

このシリーズでも、第2話では「高崎停車場開設」、第12話では「羽衣坂」という話で登場しています。

という訳で、ここではこの銅像の建設についてのお話をご紹介したいと思います。

実は、現在建っている銅像は二代目でして、昭和二十九年(1954)に再建されたものです。


二代目銅像の作者は高崎出身の彫刻家・分部順治(わけべ・じゅんじ)です。
高崎駅西口にある「希望」(写真左)や、高崎市美術館前にある「碩」(写真右)を始め、県内各地でその作品が見られます。


さて、では初代の矢島八郎像は誰の作品で、いつ建設されたのでしょう。
昭和五年(1930)五月四日付け東京朝日新聞の記事に、
「明五日端午の吉日に・・・本縣出身彫刻家森村酉三氏の手になる」と書かれています。


銅像原型の脇に立つ、作者・森村酉三です。↓

森村酉三という名前に、ピンときましたでしょうか。

そうです、白衣大観音原型の作者としてご存知の方が多いと思います。↓

白衣大観音原型と、初代矢島八郎像の作者は同じ森村酉三だったのです。
分部順治は、酉三矢島像を忠実に復元していたということが分かります。

矢島八郎は大正十年(1921)72歳でこの世を去っています。
銅像建設の話が持ち上がったのは、七回忌を前にした大正十五年(1926)頃だったようです。
正式に「矢島八郎翁銅像建設会」が発足したのは昭和三年(1928)、委員長となったのは井上保三郎でした。

井上保三郎が東京池袋の森村酉三のアトリエを訪ね、銅像建設の依頼をしたのが昭和四年(1929)ということです。
おそらく、この時の保三郎酉三の出会いが、後の白衣大観音の原型制作依頼につながったのでありましょう。

さて次に、矢島八郎の銅像をなぜ清水寺の裏山という、あのような目立たない場所に建設したのかということです。

今でこそ観音山の中心は白衣大観音周辺ですが、それは昭和十一年(1936)白衣大観音完成以降のことであって、それまでは清水寺周辺こそ観音山の中心であり、その裏山こそ「観音山山頂」であった訳です。
であれば、ここに銅像を建てて高崎の町を見守ってもらおうと思うのは、ごく自然なことです。

もっとも建設地候補としては、「高崎公園」にという案も挙げられていたといいます。
その中、「観音山山頂」に決定するについては、実はもう一つの理由がありました。

その話は、少し長くなりそうなので、次回に続けることにいたします。


  


Posted by 迷道院高崎at 06:53
Comments(6)観音山観音山遠足

2015年07月05日

駅から遠足 観音山(39)

矢島八郎の銅像を、なぜここに建てたのかというお話です。

その理由が、除幕式当日の昭和五年(1931)五月五日に発行された、「矢島八郎翁銅像建設記念」という小冊子に書いてあります。

翁の銅像は最初高崎市の公園内へ建設せんとの議も起こったが、市公園よりは翁と因縁の深い觀音山頂に建設する方が翁
の遺志に叶ふものであると云ふ所から、觀音山に決定されたのである。
其事に就ては深い因縁がある。
夫れは明治二十五年中、翁が年四十二の時、初めて代議士に當選した、その時に翁は政府擁護の政黨國民協會に投じ、其關係で首腦品川彌次郎子爵を初めて此の觀音山上に招じ大獅子吼(ししく)を爲したことがある。
即ち翁が政治的に呱々の聲をあげた處が此の觀音山頂であった。」

「獅子吼」とは、「釈尊が説法する様子を獅子の吼える様子にたとえたもの」だそうですが、転じて「雄弁をふるう」とか「演説をする」ことをいうようです。

矢島八郎が内務大臣・品川弥次郎を招いて行った大演説会は、当時536段あった石段を上らねばならなかったにも拘らず、本県政治界空前の人出であったとか。
当時高崎にあった50台余の人力車ではとても間に合わず、前橋から40台を呼び寄せたという逸話を残しています。

それと、もうひとつの理由をうかがわせる新聞記事もあります。
除幕式を翌月に控えた昭和五年(1930)四月十五日、取材に答えた井上保三郎の言葉がそれを示唆しています。


これを見ると、当時も観音山は縁日の時以外は、あまり人が来ていなかったようです。
保三郎は、矢島八郎の銅像建設を機に、四季折々の花木を植え、交通の便をよくすることで、四季を通じて観音山に人を呼び寄せようと考えていた訳です。
これは今現在の観音山にも、そっくりそのまま当てはまる策のように思います。

ところで、観音山が寂れた原因として、保三郎が記事の中で面白いことを言ってますね。
明治維新以前は随分盛って・・・賑わいを見たのでありましたが、其後淸水寺の住職に不心得の者が來て、山上の大木等を皆伐採して賣却して仕舞ひ、山の風致を害したり等して・・・」
「不心得者の住職」って・・・、もしかして、仙岳さん?
ありゃ、ありゃ。

閑話休題。
かくして矢島八郎の銅像はこの地に建つこととなり、当時の清水寺住職・高橋隆栄師は、寺地210坪を銅像建設用地として永久無償貸与することとしました。
そして、この銅像へのアクセス道路として、高橋住職はじめ土地の篤志家などの寄付による「羽衣坂」が、除幕式のわずか十日前ですが竣工をみたのです。

次回、話しはまだ続きます。


  


Posted by 迷道院高崎at 06:56
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