2020年06月14日

史跡看板散歩-192 藤塚の皇大神宮

「藤塚の浅間神社」から板鼻方面へ約450m、道路から一段低い所に「天照皇大神宮」(てんしょう・こうたいじんぐう)の社があります。


史跡看板は、社のすぐ前に建っています。



社に向かって右に建っているのが「洪水記念之碑」

史跡看板では「洪水祈念・・・」になっていますが、洪水を祈念しちゃいけません。
これはちょっとまずい誤字ですね。

この洪水を小学二年生で体験した吉田良太郎氏の回顧談が、「高崎の散歩道第十集」に載っています。
この年は八月上旬毎日雨模様の天気で、地面が本当に湿っていた。
そのうえ十二日からは豪雨となり、まる一日降り続いた。
そのため十三日の夜明け近く上流に降った雨水を集めた碓氷川は、急激に増水し河原いっぱいに広がったと思う間もなく、堤防を乗り越えた濁流は中山道に押しよせ、道が碓氷川本流のようになって藤塚村を襲ったのであった。
私の家は当時中山道の南側にあったが、この濁流は家々を見るまに呑み込んでしまい、隣のおしんこ屋(米の粉でおしんこを作り、赤黄の色付けをしたお菓子)は見ている間に家人もろとも流されてしまった。
たまたま二階家で当時としては比較的大きい家だった私の家へ近所の人々が助けを求めてやって来た。
増水するにしたがいみんな二階へ避難した。
しかし勢いづいた濁流はみるみる中に床下から畳を持ち上げ、一階の天井近くまで水につかってしまった。
やがて朝明けと共に雨も小やみになり水勢はいくらかやわらいだようだ。
階段口(二階)より村の他五朗さんが深さを測ろうとして竹竿を下へおろした所、途中でつかえて下に行かない。
他五郎さんが『大丈夫だぞ、泥が下にたまってこの家は助かるぞ』とこれを聞き、みんな狂喜するのだった。
時間が過ぎると水もひけたので、二階から下りながら一階天井近くまで埋まった泥の中を、天井に頭をぶつけながらはいまわった。」

そしてその10年後、藤塚村はまたもや洪水に襲われます。
今度は大雨ではなくて、地滑りが原因でした。
そのことを記しているのが、「射水神」碑です。

どんなことが碑に刻まれているのかは、過去記事をご参照ください。
  ◇藤塚の洪水碑

ところで、「射水神」ってどんな神様なんでしょう。
富山県に射水市という町があり、その隣町の高岡市に「射水神社」というのがあるそうです。
現在「射水神社」の祭神は「ニニギノミコト」ですが、古くは高岡市と氷見市にまたがる「二上山」(ふたがみやま)をご神体とする「二上神」(フタガミノカミ)だったそうです。
その「二上神」を祖神とするのが、「伊弥頭国造」(いみづのくにのみやつこ)という豪族だったと言います。

ということで、どうやら「射水神」という神様はいないようなのです。
ただ、「射水(いみず)」「出ずる水」=「洪水」とも取れますし、字面からは「水を射る」=「水をやっつける」とも取れところから、「水を司る神」として村を洪水から護ってほしいという思いで「射水神」としたのかも知れません。

さて、大正九年(1920)の洪水は、地滑りの土砂が碓氷川を堰き止めたのが原因だった訳ですが、昭和の半ばになって妙な地滑りがこの辺りに起きました。
過去記事でご覧ください。
  ◇隆起した国道18号

「天災は忘れた頃にやってくる」
近頃は、「疫病は忘れたコロナやってくる」と言われているとかいないとか。


【天照皇大神宮】


  


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2020年06月07日

史跡看板散歩-191 藤塚の浅間神社

国道18号線を挟んで、藤塚「一里塚」「浅間神社」が向きあっています。


今回は、「浅間神社」の方です。



ここからは浅間山が良く見えるので、「あさま神社」かと思いきや、富士山「せんげん神社」です。


Wikipediaには、こんな記述があります。
  「浅間」の語源については諸説あるが、長野県の浅間山のように火山を意味するとされる。
「あさま」は古い呼称で、現在の「せんげん」は中世以降から用いられたと見られている。

「富士浅間神社」の祭神が「木花咲夜姫」(コノハナサクヤヒメ)ということで、社殿の中に姫の絵が掛かっています。


なぜ「富士浅間神社」の祭神が「木花咲夜姫」なのかというのも、Wikipediaに書いてあります。
富士山の神霊をコノハナノサクヤヒメに当てる起源は明らかでないが、文献の初見は江戸時代初期の『集雲和尚遺稿』である。
「コノハナ(木花)」は桜の古名といわれ、祭神は富士山の美貌の形容に由来するとされる。
また、神話にある「コノハナノサクヤヒメの火中での出産」も、火にまつわる事象として意識されたと見られる。」

「浅間神社」のある塚は、もともとが「一里塚」の片方だった訳ですから、塚の上には椋の木が立っていたはずです。
「豊岡誌」によると、藤塚の住人が「富士浅間神社」の神霊を勧請したのは、元禄期だったとあります。
場所も何度か北へ北へと移動して、今の位置になったのは、国道が拡幅された昭和六十三年(1988)のことです。
拡幅前の一里塚と浅間神社の姿が「豊岡誌」に載っていました。


向かい側にある「一里塚」については、過去記事をご覧ください。
   ◇藤塚の一里塚

では、本日はこの辺で。


【藤塚の浅間神社】


  


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2020年05月31日

史跡看板散歩-190 下豊岡の団地稲荷大明神

ここも史跡看板が無かったら、分かりづらい所です。



看板にあるように、昭和三十四年(1959)に造成された豊岡団地に因んで、「団地稲荷大明神」となっています。

この鳥居は平成三十年(2018)に奉納されています。

お社の中には、なるほど「団地稲荷」らしく、お稲荷さんが密集していました。


昔は、「ハケノ山稲荷」とか「原の稲荷」とか呼ばれていたと書いてあります。
境内に、「果之山正一位稲荷大明神」の石碑が建っています。

いつ建てたものなのかなぁ、と思って碑背を見たら、昭和三十八年(1963)でした。

「果」「ハケ」は、崖の端を意味するということで、上空から見てみると確かにそんな感じです。


だったら、そのまま「ハケノ山稲荷」の方がよかったんじゃないでしょうか。

ちょっと物足らなかったので、この近くの「姫宮神社」もご紹介しておきます。
  ◇続・鎌倉街道探訪記(11)


【団地稲荷大明神】


  


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2020年05月24日

史跡看板散歩-189 中豊岡の毘沙門堂

ここは史跡看板が建ってなかったら、まず分かりません。


うっかり入り込むと、住居侵入罪で捕まりそうな・・・。


その奥に空き地があって、傾きかかったお堂が建っています。



その中に「毘沙門天」(びしゃもんてん)が祀られています。


史跡看板にはいろいろ書かれていますが、この毘沙門天がなぜここに祀られているのかまでは書かれていません。

「施主飯野善左衛門」とあるので、上豊岡茶屋本陣の飯野家が建立したものです。
「寛政九年」ということは、二代目の善左衛門でしょう。

飯野家は、三代にわたって掛屋・御用達役を務めた名家です。
「新編高崎市史通史編3」に、次のような記載があります。
飯野家の由緒書によると、寛保元年(1741)善次郎が御城方御材木御用・御払米御用役となり、宝暦四年(1754)から十人扶持・御用之節帯刀御免となり、御領分御米御用役に任命されている。(略)
飯野善次郎は、その後、平日帯刀御免、並代官格、中小姓加扶持十人扶持、御勝手御用役などを経て、宝暦十三年(1763)には江戸表で郡奉行席となり新知二百石、以後、元締御用役勤めの武家として城内に居屋敷が与えられた。
これにより、善次郎の弟善左衛門が上豊岡村の飯野家を受け継ぐと同時に、藩から御用達・御払米世話役を命ぜられ、安永六年(1777)に名字御免、同八年に三人扶持・帯刀御免、天明三年(1783)十一月から地役人上席に任ぜられたのである。
寛政四年(1792)二月、善左衛門の跡を継いだ二代善左衛門も御用達として三人扶持であったが、同十年九月に御掛屋・御用達を命じられ、以後、飯野家は嘉永三年(1850)九月まで三代にわたり掛屋・御用達役を務めた。」

いつの世も、権力と財力は、持ちつ持たれつなんですなぁ。
藩にとって飯野家は「余人をもって代えがたい」存在だったのでしょう。


【毘沙門堂史跡看板】


  


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2020年05月17日

史跡看板散歩-188 上台の地蔵堂

「血書理趣分塔」のある「下台公民館」から北へ、道なりに450mほど行くと、「上台公民館」があります。


史跡看板が、桜の木の下に建っています。


今は公民館となっていますが、ここに「常安寺」七世住職が建てたという「地蔵堂」があった訳ですね。
現在は、公民館の建屋の中に地蔵尊が祀られているようです。


「豊岡・八幡の民俗」には、上台の地蔵祭について、こんな記載があります。
子供達は一人で一個、大きい子は二個のあんどんを作る。
公民館の庭の桜の木にひもを張って、あんどんを吊り下げる。
三時頃、六時頃、八時頃の三回、庭で花火を上げる。(子供用花火を大人があげてやる)。
午後五時から常安寺の和尚さんにお経をあげてもらい、その後大人の代表が線香をあげる。
次に子供の世話役があげ、お経の間、二列に並んで待っていた子供達が一人一人線香をあげる。
子供達に、赤飯、西瓜、ジュースを与え食べさせる。
お母さん方が七~八人と男の世話役で面倒を見る。
子供達は小学生だけである。」

この日は、子どもたちがお客様なんですね。

そういえば、お地蔵さまの前で遊ぶ子どもの姿というのは、ほのぼのとした農村の原風景です。
「地蔵菩薩」のことを、サンスクリット語で「クシティガルバ」と言うそうで、「クシティ」「大地」「ガルバ」「胎内」とか「子宮」のことだそうです。

なるほど、「大地」という「子宮」「蔵」するから「地蔵」か。
だから、子どもの守り仏なんですね。

お地蔵さま、子どもたちをよろしくお願いいたします。(合掌)


【上台の地蔵堂】


  


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2020年05月10日

史跡看板散歩-187 下台薬師堂の血書理趣分塔

「中豊岡の道しるべ」が建っていたであろう辻から北へ200mほど行くと、「お堂踏切」という面白い名前の踏切があります。

それを見たせいか、踏切を渡った左角の建物が何となくお堂っぽく見えてしまいます。

しかしその感覚は間違いではなかったようで。
建物には「下台公民館」という看板が掛かっていますが、そこにある石碑には「薬師堂」云々と刻まれています。
もとは「薬師堂」だったのでしょう。

よく見ると、前庭に香炉と花立てが備わっていました。

公民館の裏と左側は墓地になっていて、道路に面して史跡看板が建っています。


ちょっとケアレスミスの多い看板です。
パソコンの誤変換と、漢字を出す時の読みがそのまま振り仮名になってるのに、気付かなかったのでしょう。

看板の後ろにいくつかの石造物が建っていますが、その内の一つが「血書理趣分塔」です。


調べてみると「理趣経」というのは3000字以上あります。
「血書」とは言うものの、その全文を血で書いたら、行人塚に入る前に失血死しちゃいそうです。
墨に血を混ぜて書いたものも「血書」と言うらしいですから、きっとそれなんでしょう。

看板の文面からすると、その「血書」は残ってないようで、きっと、僧が入定する時、携えていったのでしょう。
そして、その代わりに建てたのが「血書理趣分塔」なのかも知れません。

看板に載っているこの写真、何の説明もないんですが。

薬師堂のご本尊である「薬師像」らしいです。

高崎市教育委員会発行の「豊岡・八幡の民俗」に、こんな記載があります。
下台の薬師
目の神様である。
十月十三日が縁日で、「おさご」「おさいせん」を進ぜる。
お堂の扉に「め、め」と半紙に書いて貼る。
以前は木彫りの薬師像があったが盗まれてしまった。
現在は石仏である。」

きっと薬師様は「めっ!」と叱ったのでしょうが、盗人猛々しいとはよく言ったものです。


【血書理趣分塔】


  


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2020年05月03日

史跡看板散歩-186 中豊岡の道しるべ

あれ?
無くなってる!


8年前、ここに転がってたんだけどなぁ。

これ、「高崎最古の道しるべ」というものなんです。
史跡看板が建ったというんで来てみたんですが。
あれぇ?

あーっ、あったあった、ありました!
ずーっと奥の塀の陰の畑の畔に。

気付くかなぁ、これ。



看板の冒頭、「この場所は」って書いてありますが、文末には「現在は道路改修に伴い、ここに移されています。」と書いてあります。
じゃ、「ここ」「この場所」じゃないってことですよね。

看板の文面から、元あった場所を推定してみました。


なぜ、元あった場所に建てられなかったのかなぁ。
スペースは充分あるように思いますがねぇ。


ま、でも、無造作に転がっていたのをきちんと起こして、史跡看板まで建てて頂き、8年前の望みは叶いました。
ありがとうございます。

「向 右野道 前中仙道 後下台 左中仙道 通」
転がってた時には隠れてた面の文字も、見えるようになりました。
「右 室田 者(は)るな 神山 ??? 道」
ただ、最後が読めません。
「三之くら」「西よくら」

うーん・・・。


【中豊岡の道しるべ】


  


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2020年04月26日

史跡看板散歩-185 笛吹塚

場所の説明がちょっと難しいんですが、「豊岡中学校」の西150mくらいの所です。


牛若丸伝説としてしか知りませんでしたが、源頼義説もあったんですね。

看板の冒頭に「花見堂」という名称が出てきますが、この名称は源頼義の子・義家伝説から来ているのだとか。
   ◇続・鎌倉街道探訪記(17)

また、「塚のあった場所はここから西に約50mの所でした」とありますが、その場所はこの記事に書いてあります。
   ◇続・鎌倉街道探訪記(16)

史跡看板が建ったことで、懐かしい場所を再訪することができました。


【笛吹塚】


  


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2020年04月19日

史跡看板散歩-184 金ヶ崎不動尊

「湯沢のお地蔵様」から西へ200mほど行った所に、「金ヶ崎(かねがさき)不動尊」があります。



飾り気のない木造堂宇には、


不釣り合いなくらい立派なお不動様が祀られています。

いま気づいたんですが、お不動様の足元に小さなお不動様が二体座ってらしたんですね。

史跡看板に、「明治四十三年の大水害で流されて、現在地に建てられた」と書いてありますが、その辺の経緯を8年前に記事にしてますので、読んでみてください。
  ◇2つの金ヶ崎不動尊

そう言えば、史跡看板に「清流が中山道沿いに流れていた」と書いてあるので思い出したんですが、たぶんその清流を利用したんでしょう、この辺に「草木染研究所」というのがありました。
全国的にも珍しい、観音山の「染料植物園」の原点でした。

土地に歴史ありですなぁ。


【金ヶ崎不動尊】


  


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2020年04月12日

史跡看板散歩-183 湯沢のお地蔵様

「石神社」から西へ200mほど行くと、国道406号と旧中山道の分去れに「下豊岡の道しるべ」が建っています。


ここから左の旧中山道へ入って、「若宮八幡宮」「上豊岡の茶屋本陣」を楽しみながら1.2kmくらい歩くと、道路右側に石造物が並んでいます。

一番左のが「湯沢のお地蔵様」です。


おや?

トックリバチも、お地蔵様の裾におすがりしています。

そうだ、私もおすがりしておこう。
「人類の欲望とともに世界中に蔓延した疫病が、一日も早く鎮まりますように。」


【湯沢のお地蔵様】


  


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2020年04月05日

史跡看板散歩-182 下豊岡の石神社

君が代橋西の信号から国道406号線に入って160m、うっかりすると見過ごしてしまいそうなのが、旧豊岡村字尺地(しゃくじ)の「石神社」(しゃくじ・じんじゃ)です。



「石神社」ですから、どんな石が祀られているのかと中を覗いてみると・・・。



石は見当たらなくて、神像が一体祀られています。
御祭神は「八衢比古神」「八衢比賣神」となっています。
木簡には「やくさひこ」「やくさひめ」と仮名が振ってありますが、「やちまたひこ」「やちまたひめ」ではないでしょうか。
疫病・災害などをもたらす悪神・悪霊が集落に入るのを防ぐとされる神様です。

神像左側の木簡を見ると、
1910年(明治四十三年)三月二十六日勅令第二二〇号に基き豊岡若宮八幡宮に合併」
1960年(昭和三十五年)七月三十日地元信徒の要望により尺地境内に遷宮」
1973年(昭和四十八年)九月二十九日地元崇敬者の寄付により上屋葺替補修完了」
とあります。

史跡看板の中ほどに、「万日堂」というのが出てきますが、8年前、「鎌倉街道」を訪ね歩いている時、ここへ寄っています。
  ◇続・鎌倉街道探訪記(8)

そしてそのあと、「石神社」へも行きました。
看板の後段に「昔は社殿にシャモジを寄進」したとありますが、その理由も過去記事に書いてありますので、探して見て下さい。
  ◇続・鎌倉街道探訪記(9)


【石神社】


  


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2020年03月29日

史跡看板散歩-181 西うらの池と鴫上の道祖神

ここ何回かおなじみの「白川辻集会所」から、西へ道なりに430mほど行くと、「ほたるの里自然公園」という看板が目に入ります。


ベンチがあって、手押しポンプの口からきれいな水が出っ放しになっています。


ほほー、「鴫の里 手水処」だそうです。

パット見「カモの里」と間違えましたが、「シギ」だそうです。

近くに、もう一つ手作り案内板が建っていました。



この先100mの所に、「西うらの池と鴫上道祖神」があると書いてあるので、行ってみました。

道路工事をしていて分かりにくかったのですが、かろうじて史跡看板と石造物がいくつか並んでいるのに気付きました。

正面の「小堀川」の谷間を跨ぐ高架橋は、いま工事真最中の「西毛広域幹線道路」だそうです。


工事前の、のどかな風景が、ストリートビューに残っていました。

石造物は、もっと曲がり角に近い所にあったんですね。

工事の時に移動したのでしょう、史跡看板と一緒にお行儀よく並べられています。



真ん中の「道祖神」は、だいぶ風化が進んでいます。


左端の「道しるべ」に刻まれている文字は、看板とだいぶ違ってますね。
「大字 向 右經下芝至前橋 左經本郷至室田」です。


相向いに、柵に括り付けた手作り案内板がありました。



フェンスの内側の小さな水たまりが、「西うらの池」でした。

「湯前の弁天池」のようにポコポコと湧き出してはいませんが、きっと、じわーっと滲み出ているのでしょう。

「西うらの池」の水は、道路の下を抜けて「小堀川」に注いでいました。


「小堀川」の清浄な水に、クレソンも嬉しそうです。


地球上の水の約97.5%は海水で、淡水は2.5%にすぎない。しかも淡水のほとんどは南極や北極の氷で、利用しやすい河川や湖沼などの水は0.01%にすぎない。
(日本ダム協会 「21世紀は水の世紀」

地球上の水を200リットルのお風呂一杯分とすると、人間が利用できる淡水は、大さじ2杯分程度しかないんだそうですよ。
だいじにしなくちゃね。


【鴫の里 手水処】

【西うらの池】


  


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2020年03月22日

史跡看板散歩-180 塚の越の宝塔

「白川辻集会所」のフェンスに建っている、もう一つの案内板。


集会所の西側道路の角に、またも道しるべがあります。

「向 右經本郷至室田 左經楽間至前橋」となっています。

そこから南へ140mほど行った所を右に曲がると、赤い屋根のお堂がある斎藤家の墓地です。


史跡看板は、その入り口に建っています。


お堂の左手前にあるずんぐりむっくりしたのが、「塚の越の宝塔」です。


看板に「甫秋津師が建立した」と書かれていますが、たぶん「律師(りっし)」だろうなと思って、念のため基礎(地輪)に刻まれた文字を確認してみると、やはり「律師」のようです。
戒律の師の意で,徳望の高い持律の僧に対する尊称。


その時、おや?っと思ったんですが、律師の名前、ほんとに「甫秋」ですか?
そう見えないんですが・・・。

はっきりしませんが、「靜哉」のように見えます。
どうなんでしょう・・・。

こんな、謎の「如意輪観音」もありました。

普通は右手を右頬に当ててるように思うのですが、これは左手を左頬に当てています。
何か意味があるのでしょうか。

看板には、「『榛南文化』では箕郷七古塔の・・・」とあって、これも気になったのですが、「榛南文化」に辿り着けず、「箕郷七古塔」も分からずじまいです。

辻々に道しるべの建つ「白川辻」ですが、謎を解く道しるべも欲しくなった迷道院でした。


【塚の越の宝塔】


  


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2020年03月15日

史跡看板散歩-179 白川の満光寺跡

「白川辻集会所」の辻の角に、道しるべが2つあります。


手前のには、正面に「右經本郷至室田」、側面に「右經西新波至髙崎 左經楽間至前橋」とあります。


向こう側のは、字が薄れてて読めません。
しかも、てっぺんにワンちゃんの置き土産。

「犬の高ぐそ」とはよく言ったもんです。

集会所のフェンスに、史跡の手作り案内板が2つ括り付けてあります。


その内の一枚が、「満光寺跡」


ということで、先ほどの2つの道しるべの間の道を行ってみると、190mほど行った丁字路の角に史跡看板が建っていました。



「僅かに石仏や墓標を見ることができ」るというので、辺りを見渡してみると、畑の向こうに墓石がかたまっているのが見えました。


看板から南へ60mほど行くと左へ上がる道があり、その上に墓地が見えます。


上がっていくと、高台の上に古い石仏や墓石がズラーっと並んで、モアイ像のように遠くを見ていました。


その中に、看板にある「大聖護国寺の四十二世長春」の墓石がありましたので、ここに間違いありません。


並んだ石造物の中に、ちょっと気になる石祠が・・・。

丸に十字・・・、隠れキリシタン・・・?
まさかね。

満々たる春の光が、真っ白な梅の花弁に反射して、「満光寺跡」を照らしていました。


春ですなぁ。


【満光寺跡の史跡看板】


  


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2020年03月08日

史跡看板散歩-178 湯前の弁天池

前回の「白川陣屋跡」前の道を西へ500mほど行くと、喰い違いの四つ辻があります。
左に見えるのが「白川辻集会所」です。


集会所の道の反対側に、地域の人の手作りらしい看板が建っています。



看板にある「右前方、石垣の道」を25mほど入ると、道端に石仏と道しるべが建っていました。


道しるべには、「向 右經樂間至前橋 左經本郷至室田」と刻まれていますが、指し示す方向と、建っている場所に、ちょっと違和感を感じます。

そう思ってるところへ、ちょうど土地の人らしい人が通りかかったので聞いてみました。
これ、前からここに建ってましたか?」
ここに埋まってたんだよ。それを掘り起こして台をつくって据えたんだいね。」
あー、じゃ元々ここに建ってたんですかね。
道しるべって、ふつう角に建ってるのに、これは違うんで変だなぁって思ったんですけど。」
あ、そう言えばね、昔はここに道があったんだよ。
集会所の前の道路を広げたんで、ここにあった道をつぶして家を後ろに下げたんだいね。」
あー、じゃ昔はやっぱり角に建ってたんですね、きっと。」
なるほど、その道をつぶした時に、石仏と道しるべが埋められちゃったのかも知れませんね。

疑問が解けてさっぱりした気持ちで道なりに進むと、中に石祠の建ってる四角い池が見えてきました。


これが、「湯前の弁天池」ですか。


なるほど、透き通った水の中を色とりどりの鯉が、悠々と泳いでいます。


向こう側には、鯉の稚魚なのか、看板にある渓流魚なのか、小さな魚がたくさん見えます。


よく見ると、池の底から水が湧き出ているじゃありませんか。
動画でご覧ください。

あー、なんか、和むなぁ。


【湯前の弁天池】


  


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2020年03月01日

史跡看板散歩-番外編 白川陣屋跡

前回、「白川神社」「白川砦跡」へ行ったので、「白川陣屋跡」も見たくなって行ってみました。

「白川陣屋跡」は、「白川神社」の東南440mほどの所にあります。



「榛名町誌 通史編下巻」に、陣屋の平面図が載っていました。


陣屋跡から東へ40mほど行くと丁字路になり、その曲がり角に道しるべがありました。
上面には「向左經本郷至室田」、前面には「向右經和田山至箕輪 左經西新波至髙崎」となっています。

そこから20mほど南に、こんなものが建っていました。

「當地御代官 安藤弥四郎火葬塔」と刻まれています。

あれ?
「白川陣屋跡」の説明板には、「代官は下田家当主により代々世襲された」と書いてあったはずです。
この「安藤」という代官はどういう人物なのか。
しかも、「供養塔」ならともかく「火葬塔」ですから。
何か、曰く因縁がありそうです。

たまたますぐ近くに、その名も「安藤商店」というお店があったので、飛び込んでみました。


ご主人がこんな話をしてくれました。
謂れと言われてもよく分かんねんだけど、白川の土手の下に半分埋まったような感じんなってたんだよ。
それを掘りだして、ウチも安藤だからいいだろうって、そこに建てたんだいね。
もともと、今んとこにあったんだよ。
それがいつ、何で土手ん所へ持ってたのか分かんねんだけどね。
そんなことくれえしか分かんねぇな。」

ますます気になります。

斎藤勲氏著「みさと散策」には、こんなことが書かれています。
この塔はもと白川土手にあった。
拡巾工事で土手下に落とされ、ちょうど白川団地の北から二番目の道のまん東の土手下に頭だけ出して埋まっていたのを、掘り出して昭和五十五年五月十八日にここに建てられた。(略)
強いて言えば、安藤氏は領主酒井氏が勝山から派遣した直臣であり、死亡の際遠地なので当時は珍しかった火葬に付したのではないだろうか。
勝山藩の記録には安政から明治まで盾石徹が白川代官を務めたとあり、似たケースかと想像される。」

「白川陣屋」には、代官が二人いたということなんでしょうか。
分かりません・・・。


【白川陣屋跡】

【安藤弥四郎火葬塔】


  


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2020年02月23日

史跡看板散歩-177 白川神社と白川砦跡

前回で旧群馬町の史跡看板巡りはひと通り終わり、今回から箕郷町白川付近を巡ります。

まずは、「白川神社」から。

桜が咲くころはきっといいんだろうなと思うんですが、この日はまだ冬枯れの趣。
人っ子一人いない、静かな境内です。

鳥居はまだ新しく、平成十三年(2001)の奉納です。


鳥居は場所が移ったようで、参道の手前道路上に基礎の痕跡が残っています。


社殿の右後方に、石造物がたくさん建っていますが・・・、

肝心の史跡看板が見当たりません。
ぐるっと回ってみたら、裏口(?)に建っていました。


もともとは「諏訪神社」で、前方に「砦」があったんですね。


たしかに、そんな雰囲気はあります。




ここから南へ140mほど下った篠薮の所に、「白川砦跡」の史跡看板も建っています。



「白川神社」と改称したのは明治四十年(1907)だそうですが、社殿はその後に改修されてるように見えます。
でも、彫物は古さを感じさせる、なかなか手の込んだ素晴らしいものです。



ずらっと並んでいる石碑群は、御嶽山信仰に関するものが多いようです。


看板に「珍しい」と書かれているのが、昭和七年(1932)建立の「一心霊神」碑。

御嶽山の行者の一人ということですが、知らなかったのでちょっと調べてみました。

「一心霊神」こと「一心行者」は、御嶽教の開祖・普寛行者の最後の弟子だそうです。
中山郁著「修験と神道のあいだ」から、「一心行者」に関する部分を抜粋してみましょう。
一心行者は明和八年(1771)、信州小県郡上本入村に誕生、俗名を橋詰長五郎といい、江戸に出て下谷車坂の穀物商、丸山重兵衛の養子となり、一家をたて信濃屋又四郎を名乗ったが、妻の死を契機に下谷金杉の萬徳寺恵性のもとに入門、さらに氷川大乗院役僧福寿院順徳のもとで修験となり、本明院一心を名乗った。
彼は普寛最後の弟子ともいわれ、その業績を慕い、御嶽山中において三年間の木食修行を行ったと伝えられている。
また、深く御座法を研鑽するとともに、新たに「五行座」、「中座の位置替え」や、「神薬差し下し」など、後に一心講の特色として継承される御座法をあみだし、それらの呪法を積極的に信者に伝授し、武蔵から上州の農村や宿場を中心に講中を結成していった。」

こうやって多くの人々に慕われ信仰された「一心講」でしたが、それ故に幕府の弾圧を受け、「一心行者」は捕えられて獄死することになってしまいます。
彼らは祈祷料を取らず、俗人身分で家業を持ったうえで修行するという、普寛以来の御嶽講のあり方に従い活動を行っていたものの、文政三年(1820)、一心は名主の訴人により捕縛され遠島を申し付けられ獄死し、門弟六名は所払いの処分を受けることになった。
弾圧の理由はこれまで諸説あげられているものの、「近頃御嶽山講中の義関東筋大流行」という状況や、その活動が異説を言い触らし不埒であるとして、幕府から富士講と同類のものとして警戒されたことが考えられるとともに、断罪の理由が俗人への祈念や呪法の伝授と、俗人による祈祷であったことが注目される。」

不運な「一心行者」ですが、その名は庶民の心にしっかりと根付いていたようです。

その証拠に、江戸時代末期から明治にかけて活躍した三遊亭圓朝の噺の中にも、「一心行者」が登場してきます。
圓朝の長編噺で、安中生まれの盗賊・安中草三(あんなか・そうざ)を語った「後開榛名の梅が香」(おくれざき・はるなの・うめがか)というのがあります。
安中草三に剣術を教えた恒川半三郎が火縄銃で撃たれんとするその時、たまたま通りかかった「一心行者」が法力を以て助けるという場面です。

(圓朝全集 第二巻)より

因みに、安中「三社神社」には、安中草三の碑が建っているそうです。
グンブロ仲間の風子さんのブログ「群馬・ふぉと雑記帳」をご覧ください。

さて、「白川神社」から、話がずいぶん飛んでしまいました。
飛びついでに、次回は「白川陣屋跡」へ行ってみましょう。


【白川神社】

【白川砦跡】


  


Posted by 迷道院高崎at 07:26
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2020年02月16日

史跡看板散歩-176 金剛寺の顔切り薬師

三国街道(高崎-渋川線)福島の信号を西に入って170mほど行くと、「百度石」と刻まれた大きな石碑があります。


そこを北へ入った正面が、「金剛寺」です。


史跡看板は、山門右前の分かりやすい所に建っています。



このお寺も10年前に訪ねていて、「顔切薬師」のことも書いたんですが、ちょこっと看板と違うところもあるんですね。
   ◇旧三国街道 さ迷い道中記(4)

山門を潜った左側に、「金剛寺」の縁起が刻まれた石碑が建っています。


山門右隣の長屋門の屋根に御幣が建っていて、お寺なのに何でかなぁと思っていたのですが、縁起に「近世の中頃、鎮守である浅間神社と共に現在地に移転した」とありますから、神仏混淆時代の名残なんでしょう。


「金剛寺」の歴史と言えば、観音山「清水寺」住職だった田村仙岳は、嘉永三年(1850)ここ「金剛寺」から移ってきました。
また、明治十四年(1881)には、「中野秣場騒動」の時に農民側の闘争本部が置かれたのも、ここ「金剛寺」でした。

境内に、小さな池があります。
「顔切薬師」の伝説に出てくる「弘法ヶ池」ではないでしょうが、築山の岩のあちこちに弘法大師が立っておられます。


池の中には、なぜか石に彫られたナマズ

ナマズが暴れると地震が起きると言われ、漢字では「鯰」で魚に念ずると書きますから、石に固定して暴れないようにと念じたものなんでしょうか。

池のほとりに建つ石造の五重塔は、各階にお地蔵様らしき方がひとりづつ住んでらっしゃいます。


本堂は、平成二十三年(2011)に新築相成り、きれいになりました。


その本堂の裏に「薬師堂」があります。
薬師如来は仏様ですが、参道には鳥居が建っています。

新しい鳥居ですが、神仏混淆時代から鳥居はあったのでしょうか。
もしかすると、その鳥居のおかげで「顔切薬師」は、廃仏毀釈の難を免れたのかも知れません。

「薬師堂」の中には石像がいくつも納められていますが、「顔切薬師」は後列右端にいらっしゃいます。


堂の後ろには、中に入れてもらえない薬師様もたくさんいらっしゃいます。


境内の外にも・・・。


たくさんの薬師様に出会えた一日でした。
コロナウィルス、何するものぞ。


【金剛寺】


  


Posted by 迷道院高崎at 07:22
Comments(0)◆高崎探訪

2020年02月09日

史跡看板散歩-175 中泉の旧三国街道

三国街道(高崎-渋川線)中泉町交差点の一つ南の信号を西へ入って140mほど行くと、えらく立派な蔵造りの建物が目に飛び込んできます。


左側へ回ってみると、いわゆる長屋門というやつでしょうが、まるで城門のようです。


その東側の道が、旧三国街道です。


曲がり角に、案内板が建っていました。

「踏査する歴史愛好家のための」というのが、いいですね。
ここは、名主・畔見家のお屋敷でした。

北へ140mほど行くと、また大きな門のお屋敷があります。


史跡看板は、電信柱に隠れるように建っていました。




さて旧三国街道は、この先を北へ向かうのですが、10年前に辿っていますのでご覧ください。
   ◇旧三国街道 さ迷い道中記(6)

10年経っても、風景はほとんど昔のまんまです。
ホッとするなぁ。


【畔見家長屋門】

【旧三国街道史跡看板】


  


Posted by 迷道院高崎at 07:31
Comments(2)◆高崎探訪

2020年02月02日

史跡看板散歩-174 中泉の医光寺

前回の「中泉八幡宮」のすぐ南にある「医光寺」
大きなお地蔵様が迎えてくれます。


けっこう長い参道の先に山門が見えます。


史跡看板は、山門前に建っていました。



看板にある「薬師堂脇の六地蔵石幢」というのは、これでしょう。


台座の三面にそれぞれ2体づつ、お地蔵様が彫られています。


「六地蔵石幢」に並んだ覆屋の中には、防空頭巾を被ったような如意輪観音様が。


さて、山門の中へ入ってみましょう。
「本堂建立記念碑」を見ると、新しい本堂は平成三十年(2018)に落慶したばかりのようです。


それ以前の本堂の写真が、「群馬町誌通史編下」に載っていました。

こんな記載があります。
本堂の棟札には、明治初年檀徒一同の希望により、白川村の宮大工小菅に依頼し、並榎町護国寺の寺を参考にして現在のような荘厳な瓦葺に改造され、門前の薬師堂も再建された。」

境内の回向柱から五色の紐が、新しくなった本堂まで延びています。
その先は、ご本尊の御手に結ばれているんでしょうか。


真新しい柱から突き出した「木鼻」は、以前の本堂の物を再利用しているようですが、それがまたいい味になっています。


滝川村「慈眼寺」から根分けされたという、樹齢三百年の枝垂れ桜。


春が楽しみです。
早く来ないかなぁ。


【医光寺】


  


Posted by 迷道院高崎at 07:26
Comments(0)◆高崎探訪