2020年10月04日

史跡看板散歩-208 下里見町仲通りの道祖神

国道406号の下里見交差点のすぐ北、里見川のほとりに「仲通りの道祖神」というのが建っています。




後ろは「富久樹園」の駐車場です。


大きなトチノキが、たわわに実を付けていました。


何となく物足らない思いで下里見交差点に戻ると、「ぴんころ地蔵尊」という看板が目に入ったので、行ってみました。


急な坂道を150mほど上ると「城山稲荷」という大きな鳥居があり、その先にも小さな鳥居が並んでいます。


並んでいる鳥居を潜って・・・、

さらに石段を上ると「城山稲荷」の社殿があり、その左にあるのが「ぴんころ地蔵尊」のようです。



「ぴんころ地蔵尊」の説明板を見て、「城山稲荷」という名前の由来も分かりました。
「里見城」の鬼門除けだったんですね。

それから、思い出しました、昭和四十九年(1974)の土砂崩落災害。
死者6人を出すという大災害でした。


台風が来た訳でも、雨が降り続いた訳でもない、カラリと晴れ渡った10月6日(日)の朝7時半ごろの出来事でした。
一ヶ月ほど前から、山肌から水が滲み出ていたが、崩落直前はその量が多かったといいます。

崩落現場の上には、剣崎・若田浄水場への市上水道の導水管が埋設されていました。
その導水管の他にも、榛名町の石綿製配水管も埋設されており、山頂には配水槽も設置されていました。
いずれかの設備からの漏水が、斜面の土砂を緩めて崩落させたものと思われます。

その時、奇跡的に崩落を免れたという「奥の院」は、一段高い所に祀られています。



崩落した斜面は、現在コンクリートで補強されています。


その上に社殿を再建したが、その後、再度の土砂災害があったとあります。

しかし奇跡的に崩落を免れ、「落ちない稲荷」という新たな御神徳が加わったというのですから、ま、よかったですね。

「ぴんころ地蔵尊」も、コロナ除けの御神徳を加えて「ぴんコロナ地蔵尊」と呼ぶのはどんなもんでしょう。


【仲通りの道祖神】

【ぴんころ地蔵尊】


  


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2020年09月27日

史跡看板散歩-207 下里見中原の道標

国道406号下里見交差点から板鼻方面へ800mほど行くと、「アルベロ」という割と有名なジェラートショップがあります。

そのすぐ南の四つ辻に、「下里見中原の道標」が建っています。




道標に刻まれた文字は、ちょっと判読しにくいです。


石筆で擦ってみましたが、文字が二重に刻まれているということで、やはり読みにくいのですが、これはこれで珍しくて面白いかも知れません。


すぐそばに、「原水道記念」という石碑が建っています。



写真ではちょっと読みにくかったので、文字を起しておきましょう。
原水道記念
アイデアマン
 マルブン(富沢文司)さんの夢実現
このあたり一帯を「里見っ原」と言って名産「里見梨」の本場です。
丘陵地帯のため昔から一摘の水も出ず、当時は飲み水を初め梨づくりに必要な水を得るには、下の方からリヤカーなどで引き上げるしかなく、それは大変な苦労でした。
何としてもこの地に水をと一念発起のマルブンさん、県・町当局に日參し、遂に水道敷設事業(予算百二十万円)が認められました。
梨生産者が一丸となって人力による工事に当り、昭和三十七年夢のような全梨園水道がひかれました。
以来里見梨は景勝榛名の山麓で豊穣に恵まれておりますが、地域の人々はこの大事業を導いた今は亡きマルブンさんを懐かしく偲んでおります。
     昭和五十六年春
      榛名町農協組合長
      榛名町広報委員
織田仲次郎(文・書)

いい石碑だなぁ。


【下里見中原の道標】


  


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2020年09月20日

史跡看板散歩-206 上大島町安養寺跡の笠塔婆

「上大島町公民館」の所が、むかし「安養寺」があったという場所です。


「安養寺」については、「里見村誌」にこう書いてあります。
明治二十三年の夏、落雷にて出火、全焼した。
その時本尊の阿弥陀如来の像一体と不動明王像一体とを辛うじて安泰ならしめたるも、他の寺宝等悉く焼失し、従って古記録等一切なく、世代、由緒等も尋ねるに由無い。
明治四十二年に、同宗の高崎市玉田寺へ合併、本尊阿弥陀如来及び不動明王像を同時に安置した。
檀家は上大島一円にて約五十軒あり、現在は本堂跡に間口五間に奥行き三間半、木造平屋一棟あり、上大島の公会堂となっている。
広い庭はそのままで庫裡の跡は耕地となっている。」

さらに、「参考雑記」として、
口碑によれば、焼失する前の建物は広大な本堂に、西側には不動堂があり、東側に庫裡があり、境内には考(高?老?)樹鬱蒼として荘厳の気に打たれる程の構えであって、古く新田氏の領地であった頃の建立といわれている。」
とあります。

そこに建っているのが、高崎市指定重要文化財「安養寺跡の笠塔婆」です。



看板に、笠塔婆の願主「沙弥西佛は安養寺ゆかりの在家信者と思われる」とありますが、これも諸説あるようで。
「榛名町誌 通史編下巻」には、こう書かれています。
新田義貞が少年の時、この沙弥に学んだといい、後に義貞は同寺を壮大に再建したという伝承がある。」

ところが、同じ「榛名町誌」でも「民俗編」では、新田義貞が師事したのは「沙弥西佛」とは書いてません。
往時、安養寺には名僧がおり、幼少の小五郎はその名僧に師事して学問、修養に励んだと伝えられている。」
後に新田義貞となる里見小五郎は、里見氏第六代里見城主里見大炊介義忠の第三子(一説に第五子)として里見郷に生まれ、新田宗家朝氏に嗣子がなかったため養子となり、新田小太郎義貞に改めたという言い伝えがある。

「里見村誌」では、こうです。
境内に現存する石仏に文永元年四月十九日の文字と、判然とは読めないが正面に「広宝妙録西仏」、右側に不動明王浮刻、左側に大日如来らしい刻がある。(略)
古く里見城のあった頃、里見小五郎(後の新田義貞)が、幼時この寺の博学の名僧に師事したとも伝えられている。」

ま、火災で記録がすべて焼失したというのですから、仕方ありませんね。

公民館の周囲には、古い石造物が残されたままになっています。



でも、最近建立されたものもいくつかあります。



地域の人には、まだ「安養寺」であるのでしょう。


【安養寺跡の笠塔婆】


  


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2020年09月13日

史跡看板散歩-205 町屋町の八坂神社

「町屋井堰之碑」から町屋橋方向へ60mほど行った左側に、注連縄の張られた覆屋があります。


これが「八坂神社」だと言うのですが、祀られている石には何も刻まれていません。



ま、看板にも「神社とは認められない路傍の祠的存在」と書かれてはありますが。


看板の文章を読んでいると、頭がこんがらがってきます。
インドの神の「牛頭天王」と同じ神とされる「須佐之男命」を、朝鮮新羅国から京都に勧請して祀ったのが「八坂神社」だと言うんでしょ?
いやいや、「須佐之男命」朝鮮から勧請した神様って、そんな馬鹿な、もともと日本の神様でしょ。

ところが、その「須佐之男命」朝鮮に居たということが、「日本書紀」に書かれているんです。
「一書に曰く」(ある書によると)という前置き付きではあるのですが。

素戔嗚尊(すさのおのみこと)
其の子(みこ)五十猛神(いたけるのかみ)を帥(ひきい)て、
新羅国(しらぎのくに)に降到(あまくだり)まし於(て)
曾尸茂梨(そしもり)(の)(ところ)に居(ま)します。


つまり「須佐之男命」は、その乱暴な所行によって高天原から追放されて、新羅国(古代の朝鮮半島南東部にあった国家)の「そしもり」という所に居たと書かれています。

韓国語で「そし」「牛」「もり」「頭」にあたり、韓国の江原道春川には「牛頭山」という山があって、そこでは熱病に効果のある栴檀(せんだん)が採れたことから、この山の名を冠した神が信仰されてきました。(八坂神社編「八坂神社」)

この二つの話を合わせると「須佐之男命」「牛頭天王」ということになります。

それが、なぜ「八坂神社」の祭神になったのかということですが。
「八坂神社」のある所は「八坂郷」と言って、「八坂造」(やさかのみやつこ)という人が住んでいたそうです。
この「八坂造」の祖先は、「新撰姓氏録」「狛国人」と書いてあって、「狛」(こま)=「高麗」(こま)で、朝鮮半島から来た人だという訳です。

さらに言えば、「八坂神社」は明治以前「祇園社」と言っていたそうです。
この「祇園」というのは「古代インドの舎衛国(しゃえこく)にあった、陀太子(ぎだ・たいし)の樹だそうで、そこに建てた「精舎」(僧院)が「祇園精舎」なんですって。

ということで、「インド」「朝鮮」「日本」「須佐之男命」「牛頭天王」、そして「八坂神社」の関係が何となくすっきりしてきました。

最後に、「八坂神社」「悪疫防除」のご利益についてですが。
京都の「八坂神社」の西楼門を潜ると、正面に「疫(えき)神社」というのがあります。

これは、厄除の神として「蘇民将来」(そみん・しょうらい)を祀っているそうですが、ここにも「須佐之男命」が関わっています。

長崎県神道青年会の作った動画をご覧ください。

という訳で、「蘇民将来」に厄除の方法を教えたのが「須佐之男命」だった訳です。

これで、看板に書かれている事柄が全てつながったような気がします。

町屋町には昔から室田街道が通っていて、大勢の旅人が行き交います。
疫病や災厄が入って来るのを防ぐ「賽の神」として、大きな石に「八坂の神」の力を念じ、大切に祀られてきたのでしょう。


【町屋町の八坂神社】


  


Posted by 迷道院高崎at 07:26
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2020年09月06日

史跡看板散歩-204 町屋井堰之碑

「諏訪神社」から街道へ出て「町屋橋」の方へ少し行くと、「宝福寺」の前に出ます。

そこに、「町屋井堰之碑」が建っています。

史跡看板もそこに建っているのですが、私の悪い癖で、その隣のお堂の方に気がいってしまうのです。


特に、そのお堂の通りに面して掲げられている看板に。

さて、これはいったい何の看板なのか。
地元の商店名を並べてあるのかなと思いましたが、県外の店もあれば個人名もあります。
お堂を建てた時の寄進者なんでしょうか。
描いてある絵も、茄子なのか、唐辛子なのか、インゲンなのか・・・。

いい暫く看板を眺めていたのですが、そうしていると不思議なもんで、うっすらと文字が見えてきたのです。

「・・・外燈建設・・・」と読み取れます。

なるほど、絵は外燈のランプとその明かりを表現しているようです。
きっと、この通りに外燈を建設した記念に、その寄附者か何かを掲示した看板なんでしょうね。

きっともうすぐ退色して読めなくなってしまうでしょうから、今の内に書き残しておきましょう。
丸千青物店 沖町
薫風園 観葉植物
小川美術染物 町屋町
岡田正太郎
建設業
町屋町
広瀬洋服店 町屋町
櫻井商店 町屋町
大塚養魚場 町屋町
クリーニング店織茂   沖町
湯浅二郎 東京新聞
浦野畜産 箕郷町
可ん寅 名古屋
千曲社
高崎出張所
長野県
五十鈴製絲
前橋出張所
三重県
木村屋パン店 市内本町
中山房吉 熊ケ谷市
須田屋洋品店 沖町
住吉屋菓子店 沖町
広瀬農材店 沖町
十一屋酒店 沖町
江刕屋商店 沖町
大久保薬店 沖町
魚広 沖町
清水自転車店 沖町

お堂は「観音堂」だそうで、その脇に隠れるように石造物が建っています。


ふ~ん。

あ、忘れてました「町屋井堰之碑」でした。


「町屋井堰」というのは、町屋町への用水の取水堰のことらしいです。
ただ、「コンクリート製の井堰」というのがよく分かりません。
どんなものか見てみたいと思ったのですが、取水口の場所だという「町屋町字大笠43番地」というのも分かりません。

「宝福寺」近辺のお宅を訪ねてお聞きしたのですが、みなさんご存じないと言います。
4軒目のお宅で、ようやくご存知の方がいらっしゃいました。
「烏川の土手をずっと上流へ行くと、川へ下りる道があるんだよ。
大きい銀杏の木の所にある。」

言われたとおり、土手を上流へ向かってしばらく歩いたのですが、それらしい所はありません。

畑作業している方に、もう一度お聞きしました。
「あぁ、もっとずっと先だよ。
だけど、コンクリートの四角い桝があるだけだよ。
それに、ロップが張ってあってそこまで行けないよ。
造園業の人の私有地になってるし。」

ということなので、この日は行くのを諦めました。

家に帰って来てから、中島正義氏作成の「高崎の字図」を見てみたのですが、「大笠」という字はありません。
ただ、「大サカ」という字が町屋町の外れ、まさに烏川の上流にあります。

もしかすると、ここが「大笠」なのではないかと思いました。

そう思ったら、もう矢も盾もたまりません。
翌日、その近くまで車で行き、土手から下りる道を見つけて下りてみました。
すると、コンクリートの枡がありました。
これが「井堰」か?
水路もあって、町屋町の方向へ流れています。

一瞬喜んだのですが、どう見ても、あの大きな記念碑を建てるほどの代物ではありません。
それに、川からも離れすぎています。

もっと川の近くまで行ってみようと、木々の間を進んで行くと、たしかに立ち入り禁止のロープが張られていました。
しかも、胸ほどの高さの草が生い茂っていて、進むことができません。

しかたなく土手上に戻って来たものの、どうにも諦めきれずに、大きく迂回してみました。
すると、遠目に水色の水門のようなものがチラッと目に入りました。
土手を下りて、本当はいけないのかも知れませんが、桃畑の中を進んで行くと・・・、なんと、あるじゃありませんか!

伐り倒そうとしたのか斧痕の残る銀杏の木の向こうに、水門のハンドルの付いたコンクリートの枡が。
間違いありません。

上から覗くと、けっこう深くて、井戸のようです。
だから「井堰」なんですね。


「井堰」のすぐ向こうは、烏川です。



取水するための立派な堰堤がありました。


「町屋井堰之碑」から直線距離で1kmちょっと、ようやく探し当てた「町屋井堰」でした。


【町屋井堰之碑】

【町屋井堰】


  


Posted by 迷道院高崎at 07:32
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2020年08月30日

史跡看板散歩-203 町屋町の諏訪神社

下大島町の北隣の町が、町屋町です。
右から書いても左から書いても町屋町というのが面白い。

もとは大島村の一部でしたが、家並が揃い、ちょうど「町屋」のようになったので、独立して「町屋村」となり、昭和三十年(1955)に高崎市に入って「町屋町」になったのだとか。(田島桂男氏著「高崎の地名」)

新しい家並のドン突きに鎮座しているのが、「諏訪神社」です。



鳥居の左に、だいぶ風化した双体道祖神が建っています。

台石に何か文字が刻まれているように見えます。
「左」かなぁ、もしかすると道しるべになってるのかも知れません。
石筆で擦ってみると、「左り いた者(は)な」と読めます。

きっと、以前はもっと南の室田街道沿いにあったんでしょう。

鳥居の右には、芸術的な石灯籠。
裏面には「嘉永元年(1848) 申八月吉日 氏子中」と刻まれていますが、火袋だけ新しい材に見えるので、最近修復されてるのかも知れません。


史跡看板は、鳥居を潜って左側に建っています。


社殿もしっかりしていて、建ててからそう年月は経っていないようです。

屋根の造り物がなかなかユニークです。


ちょっと、社殿の中を覗いて見ましょう。

張られている幕に、「昭和五十・・・」と染め抜かれているので、社殿はその頃に修復されたのでしょうか。

気になったのが、本殿の左下に転がっている丸太です。

丸太の向こう側を見られないのではっきり言えないのですが、丸太に竹のタガが巻かれているようなので、花火の筒ではないかと思うのです。
ネットで探してみたら、「花火筒」の写真がありましたが、よく似ています。

町屋町はすぐ近くに烏川がありますから、昔から花火を上げて夏を楽しんでいたのでしょう。

拝殿の天井には、見事な龍が描かれています。

「林雄斎守満」と署名があります。
この絵師は、この近くの本郷村の出身です。
あの有名な、天竜護国寺「並榎八景絵巻」の絵も描いています。

「並榎八景絵巻」は文化元年(1804)に描かれていますから、天井絵もその近辺のものなんでしょう。

社殿の脇に貼り付くようにして、もうひとつ小さなお宮があります。

中は、もぬけの殻のようなんですが。

これが、看板の最後に書かれている「白山神社」のお社なんでしょうか。
不思議なのは、そのお社の真後ろにまるで事件現場のようにトラロープで囲まれたエリアがあるんです。

いったい、何があったんでしょう。

史跡看板に書かれていないことが、すごく気になる町屋町「諏訪神社」でした。


【諏訪神社】


  


Posted by 迷道院高崎at 07:33
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2020年08月23日

史跡看板散歩-202 下大島町の春念仏供養地蔵?

「大嶋神社」のすぐそばに、石造物の建ち並ぶ一角があります。



史跡看板には、「春念仏供養地蔵立像」と書いてあります。


「寒念仏」というのは聞いたことがありますが、「春念仏」というのは珍しいな、と思って台座を見ると、こう刻まれていました。
「寒念仏」ですよねぇ。
春はどこから来たのやら。

そもそも「寒念仏」とは、「一年でもっとも寒さの厳しい小寒から立春の前日までの30日間にわたり鉦をたたきながら声高く念仏を称え、仏堂・山内・墓地・街頭などを巡回し報恩感謝を表する念仏。念仏者の寒行ともいえる。」(新纂浄土宗大辞典)
ということで、厳寒だからこその功徳であって、暖かくては有難味も少ないでしょう。

すぐ近くに、お地蔵さまより10年も前に建てられた、宝暦四年(1754)の「寒念仏供養塔」もあります。


その隣には、二基の「馬頭観世音」

大きい方には、「征露役為徴發馬匹供養」と刻まれています。
日露戦争の時に、農耕馬を軍馬として徴発されたんですね。

「寒念仏塔」の後ろには、六角の石灯籠があります。
各面にお地蔵さまが彫られているんですが、その内二面に穴が開いています。

これは、どのように使われた物なんでしょうか。
笠を取って、燈明でも入れたんでしょうか。

その他、やたらとでかい「弐十二夜墖」(二十二夜塔)とか、見事な彫りの「青面金剛像」もあります。


一つだけ、分からない石仏があるんですが、お地蔵さまともちょっと違うみたいで。


ところで、ここはどういう場所だったんでしょう。
「大嶋神社」のすぐ隣ですから、別当寺でもあったんでしょうか。
「念仏塔」「青面金剛像」、「二十二夜塔」などが並んでいるところをみると、村の人が集うお堂があったんでしょうか。

その辺のことが史跡看板に書いてあると嬉しいんだけどなぁ。


【念仏供養地蔵】


  


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2020年08月16日

史跡看板散歩-201 大嶋神社

国道406号「下大島町」交差点北の、ガソリンスタンド前の細道を西へ入って500mほど行くと、「大嶋神社」の前に出ます。


史跡看板は、鳥居を潜ってすぐ左に建っています。


前身は屋敷「石神社」で、そこに森田「榛名神社」を合祀してできたのが「大嶋神社」だと書いてあります。
屋敷森田は、隣合う字(あざ)です。


「石神社」と言えば、下豊岡「石神社」「しゃくじ・じんじゃ」と読みますが、ここは何と読んだのでしょう。

近藤章氏が、「高崎の散歩道 第九集」「大嶋神社」について書いています。
大島神社はまた伝えによると石上(いそのかみ)氏の八幡宮ともいわれている。
石上氏は箕輪の長野氏との関係もあり、古代では物部氏の流れも考えられ、八幡の観音塚古墳もこの附近の石上氏の墓にも考えられている。
この附近一帯、古代では石上氏の勢力圏でもあったのか。(略)
この神社も、稲荷様が中世には箕輪城長野氏の守り神となり、武人の神八幡宮に変化し、近代になっては上下大島の部落の神社として大島神社に変身したのかもしれない。」

また、高崎市教育委員会発行「豊岡・八幡の民俗」には、神社合祀の経緯が書かれています。
明治四十一年の県指令によって多くの神社が廃合させられたが、下大島の両社は、維持・管理の為の資産と組織が確立されていなければならないという規定をクリアした為、社格を認められ、相談して両社を石神社の地に新社殿を建てて合せ祠ることにした。(四十一年七月六日、村社石神社と改称同年同月村社大島神社と改称)
四十二年春、棟梁織田米吉(上大島)を選定し建築が始まり、間もなく新社殿は完成したが、四十三年の大洪水で村は大被害を被ったこともあり、竣工式は延び延びになった。
大正六年、災害の復旧もなり村に平穏もおとずれたので、境内地の整理をし、三月二十九日の春祭りの日に八幡宮神主竹林氏のもとに盛大な竣工式典を挙行した。」

いずれの文にも「石神社」にふり仮名が振られていないところをみると、素直に「いしじんじゃ」でいいのかも知れません。
それにしても、大変な経緯があって建立された社殿なんですね。


素朴ながら、格調の高さを感じられる、いい社殿です。

拝殿の中を、覗かせて頂きました。

飾られている写真を拡大してよーく見ると、手前に大勢の人たちが写っているようです。
きっと、大正六年(1917)の竣工式典の時の写真なんでしょうね。

拝殿の右に建っているのは、たぶん「稲荷社」でしょう。


社殿の左にズラーっと並ぶ石祠。
「石神社」「榛名神社」両社の境内社なのかな。


大樹の下の涼しくて静かな「大嶋神社」でした。


【大嶋神社】


  


Posted by 迷道院高崎at 07:12
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2020年08月09日

史跡看板散歩-200 下大島町の薬師堂

国道406号「下大島町」信号北のガソリンスタンド脇の細道を東へ250mほど行ったところに、「薬師堂」があります。


史跡看板は、大きな欅の木の根元に建っています。


お堂の中に石祠があります。

石祠なんてものは、普通は露天にあるもんですが、こんな立派なお堂の中に祀られているということは、看板にあるように黄金の薬師像が入ってるからなんでしょうか。
見てみたいものです。

その薬師像が、額部小幡羊太夫由来の物だとか、高瀬「袂薬師」だとかいう話も書いてありますが、いま一つ話の筋が分かりません。
「袂薬師」については、「富岡市史 民俗編」にちょこっと出てきます。
上高瀬に袂薬師がある。
昔新居家の祖先が元和の大阪の役に出陣して帰村のとき、何処かで薬師像を得、これを袂に入れてもってきて祀ったので、袂薬師というと伝えている。」
と、もともと出所不明の薬師様です。

看板の最後に書かれている「嗽盥」(うがいたらい)というのがこれなんでしょうが・・・。

これ、「うがいたらい」とは読まないでしょう。

明治十三年(1880)の物ですから文字は右から読むはずですし、刻字は「嗽」ではなく、「漱」です。
「盥漱」の読みは「かんそう」で、意味は「手を洗い口をすすいで身を清めること」だそうです。(デジタル大辞泉)
因みに、「嗽盥(うがいだらい)」「口をすすいだ水を受けるための木のたらい、または木鉢」のこと、とあります。
(日本国語大辞典)

「愚山佐々木溥が書を刻んだ」とありますが、これも刻まれているのは「木泉居士溥」です。

戸籍上の名前が「佐々木溥(ひろし)」、雅号を「愚山」という、江戸末期から明治初期にかけての儒学者がいます。
一般的には「佐々木愚山」と呼ばれますが、まぁいろんな名前を使う人だったようで、「佐々木綱弘」とか「佐々木溥綱」とか、雅号も「愚山」の他「十二峰小隠」「白鳥山人」「天心居士」他にも二、三あるということです。
ただ、調べた範囲では「木泉居士」という雅号は見つかりませんでした。
もしかすると、「盥漱」と刻んだ「手水鉢」を、境内の「木々の中の泉」と見立て、この時だけ用いた号なのかも知れません。

「佐々木愚山」について、「久留馬村誌」にこう書かれています。
佐々木愚山先生、諱は溥、字は子淵、愚山又十二峯小隠とも号した。
文政六年(1823)十一月十一日、仙台で生まれた。(略)
先生、人となり容貌魁偉、身長は六尺近く、音吐清高で、金石から出るような声だった。(略)
性格は純潔精誠で、質素を信条とし、其の生涯は離落不遇、環堵蕭々(かんと・しょうしょう:家が狭く、みすぼらしいさま)、これという程のものは一つもなかった。
しかも先生はこういう環境にいて一向平気で、毫も冥利のために其の志操を動かさなかった。(略)
  先生は以前下野の足利学校の都講であったが、ついで、上野安中藩造士館の教授、仝国七日市藩の儒学教授、房州勝山藩の支領白川の儒学教授、群馬県下神道事務局の講師担当、榛名神社教会本部講師担当、相馬神社相馬講社々長、神宮協会の協賛担当などの諸役につかれ、中教正に補せられた。
弟子は殆んど三千人近くもあり、現今でも所在の明らかなものが五百人もあるということである。
先生の人を教える態度は誠心誠意、忠孝に基づき、実践を期し、恭倹質直を重んじ、文華浮靡(ぶんか・ふび:表面上のみ華やかで実質の伴わないこと)の風を嫌った。(略)
先生の歩くときの態度は、奇観異物が側らにあっても、これをふりかえって見るようなことはせずに、姿勢はいつも正直を保っていた。
そして『姿勢を正しくしなければ、自ら心も正しくならない。』といわれたそうである。(略)
幕末になってから、某藩がその卓識高行を敬慕し、礼を厚くして幣物をとゝのえ、使者を再三つかわして先生を聘して臣下にしようとしたが、先生は固く辞退し、『普天の下、王土に非ざるなし、率土の浜、王臣に非ざるはなし、何ぞ必ずしも臣下たるをなさんや。』といって、とうとう召しに応じなかった。(略)
そこで住居を、上野国群馬郡久留馬村大字本郷村に定めたのである。
先生はいつも時間を惜しんでは読書をし、『夏夜の螢燈、冬夜の雪』といった。」
儒教の基本経典のひとつ「詩経」の一節、「溥天之下 莫非王土 率土之濱 莫非王臣(この空の下に王のものでない土地はなく、地の果てまで王の臣でない人間はいない)」を引き、なぜ某藩の臣下になる必要があるのかと問うた。

そんな「愚山」先生ですが、村人達はこんな風に見ていたようです。
高崎町の市川左近先生と、本鄕村の佐々木愚山先生とは、ともに奇行を以て村里の間に聞こへたり。
特に愚山先生は左近先生に優る奇人として評判ありたり。
村里の人々は能く先生の人となりの眞相を會得せず、ただ奇人として之を見たるが如き感ありたり。」
(上毛及上毛人153号 東山道人著「佐々木愚山先生(上)」より)

どんな奇人ぶりだったのでしょう。
晩年の「愚山」に会ったことがあるという、箕輪町西明屋清水初五郎氏の談話として。
私はまだ年少で、小学校にもあがっておらず、弟子にはなれず、当時二十戸ほどの松之沢を先生が弟子を連れて歩く時、私はそれに加わってついて歩いた。
先生は一般の人と変わっていて、他家に招かれた折、膳部の食い残りは全部持って帰った。
今でも松之沢の年寄り達は、膳部を綺麗に片付けることを、『愚山先生の様だ』と云っている。
昔のことで、茶菓子は黒砂糖、梅干、煮つけなどであった。
先生はそれを白紙に包んで持って帰り、私達に分けて下さった。
分ける仕事は、弟子の浅見宇十郎という人で、その人は後に高等小学校の校長になった。」
(愚山孫・佐々木忠夫氏著「愚山とそのルーツ」より)

食べ物についての話は、方々に残っています。
榛東村の「黒髪神社」神職夫人が祖母から聞いたという話。
食事を供されて食べ余した場合は、汁の垂れるようなものでも、懐紙に包んで袂に入れた。
だから先生の奥さんは、一年中洗濯が大変だったという。」
(愚山孫・佐々木忠夫氏著「愚山とそのルーツ」より)

安中藩の代々勘定奉行家だった小林壮吉氏の話。
或る時若侍たちが、愚山は出された物は何でも食べてしまうそうだから、と云って食事の折、とうがらしを山盛りにして添えた。
若侍たちが、ひそかに注視している中で、愚山はポロポロ涙をこぼしながら、平らげたという。」
(愚山孫・佐々木忠夫氏著「愚山とそのルーツ」より)

晩年の「愚山」は、本郷村鴫上(しぎあげ)の小幡家へ出張教授していたようですが、小幡家の近くへ来ると必ず咳払いをし、座敷の縁先に立ってもう一度咳ばらいをすると、一礼も一言もなく上がって床を背に座ったということです。
「愚山」は、この小幡家で病中を養われ、明治二十九年(1896)九月十四日、同家で歿し、この地に埋葬されます。

榛名町発行「わが町の文化財」によると、「愚山」の墓は、「本郷北部鴫上(しぎあげ)に旧愛宕神社(明治四十年本郷神社へ合祀らしい)別当寺宝常院(修験宗)墓地があります。この墓地の側ら桃林の中」にあると書いてありましたので、行ってみました。

「宝常院」も今はありませんが、小幡家の墓地入り口に「寶常院顕彰碑」が建っています。


近くの畑の中に、「愚山」と妻・ツル、次女・サダ、三女・トヨの墓が建っていました。


と、ここまで書いてきて「あれ?」と思うのですが。
下大島町の「薬師堂」の薬師像は、元は甘楽郡小幡羊太夫に由来するということでした。
その「薬師堂」の境内に、「佐々木愚山」書の「盥漱」が奉納されていました。
その「佐々木愚山」は、教授先である鴫上の小幡家で歿し、同家の土地に眠っています。
その小幡家は、「寶常院顕彰碑」によると、甘楽郡国峰城主・小幡氏の裔です。
これは、偶然なんでしょうか。

「愚山」歿後3年の明治三十一年(1898)建碑頌徳の話が持ち上がり、門弟だった伊香保の木暮武太夫が資料を提供して、当時貴族院議員の楫取素彦に撰文を依頼します。
撰文は明治四十年(1907)にできあがり、大正二年(1913)「本郷神社」境内に顕彰碑が建立されたのでした。


その「本郷神社」には、鴫上の小幡家が別当職を務めていた「愛宕神社」が、明治四十年(1907)に合祀されます。

何かの糸で結ばれているような気がしてなりませんが、どうなんでしょう。


【下大島町の薬師堂】

【佐々木愚山の墓】

【佐々木愚山顕彰碑(本郷神社)】


  


Posted by 迷道院高崎at 07:14
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2020年08月02日

史跡看板散歩-199 物見塚古墳

「若田浄水場」入り口の道向こうに、てっぺんに大きな石の乗った見るからに古墳と分かる塚があります。


「物見塚(休み塚)古墳」という史跡看板が建っています。


「塚に登ると展望が良い」と書いてあるので、登ってみました。


石室の石がむき出しになっていますから、もとの塚はもっと高さがあったのでしょうが・・・。


天井石からの眺望は、まぁ、こんなもんです。

昔は高い建物などなかったでしょうから、きっと関東平野も一望できたんでしょうけど。

看板によると、「物見塚古墳は若田古墳群の中の一つ」とありますが、「高崎市内古墳分布図」を見ると、若田、剣崎、八幡の古墳群のちょうど真ん中に、ポツンと独立しているように見えます。


ま、せっかくなので「若田古墳群」を見に行ってみましょう。
「八幡霊園」内の中央公園に、説明板があります。


中央公園のメインに位置する二つの古墳。

左が「楢の木塚古墳」、右が「若田大塚古墳」です。

「若田大塚」は別名「稲荷塚」とも言うらしいので、墳頂にお稲荷さんでも祀られていたんでしょうか。
旧陸軍の砲台・陣地にも使われていたということです。

近くに「峯林古墳」があります。


園内には、古代住居跡というのがいくつかあります。





「縄文時代の住居跡2」以外はみんな埋められちゃってて・・・。
保存のためと言えばそうなんでしょうが、模造石でも並べて発掘時の姿を見せてもらえないものでしょうか。


【物見塚古墳】

【若田原古墳群】


  


Posted by 迷道院高崎at 07:25
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2020年07月26日

史跡看板散歩-198 若田ヶ原古戦場と若田八幡宮

「八幡霊園」の南、「若田町住民センター」の駐車場に、「若田ヶ原古戦場」の史跡看板が建っています。



「若田原台地」「若田支台」とも呼ばれ、「剣崎支台」「八幡支台」とともに烏川碓氷川に挟まれた台地です。


「若田ヶ原合戦」の際、武田信玄が本陣を置いたというのが、前回の「福泉寺」でした。
寺の周辺を土地の人々は「乱闘場」と呼んでいるということでしたが、ここ「若田ヶ原」もまさに「乱闘場」だったのでしょう。
現在その一角に「八幡霊園」が造成されているというのも、何か因縁を感じさせます。

ブランコの向こうに、もうひとつ史跡看板が見えます。




看板の最後に、「弁慶が書いたと言われる額が、八幡宮参道の大鳥居に掲げられていると言います。」と、妙な言い回しで書かれていますが、実はその額は掲げられていません。


8年前は、たしかに掲げられていたんです。→◇伝者繁栄


どうしちゃったんでしょう。
「八幡八幡宮」にお聞きしたら、平成二十八年(2016)の鳥居改修の時に外し、八幡宮で保管しているとのことです。

レプリカでも掲げておけばいいのになぁ。


【若田ヶ原古戦場跡史跡看板】


  


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2020年07月19日

史跡看板散歩-197 鼻高小学校跡

「鼻高天満宮」から「鼻高展望花の丘」方面へ440mほど坂を上り、細い道を左へ入って100mほど行くと、「福泉寺」があります。


「鼻高展望花の丘」へは何度も行きましたが、ここにお寺があるということには全く気付きませんでした。
ここが、かつての「鼻高小学校」であったとは、なおさらです。


入口を入った石段の脇に、「鼻高小学校跡」の朽ちかけた木札が転がっています。
史跡看板が建つまでは、この木札が入口に建っていたのでしょう。


境内に入ってまず驚くのは、これです。


草を刈っていたご住職がこちらへいらっしゃったので、「これは何ですか?」とお聞きすると、「むえんさまです。」とのこと。
「地蔵講というのがあって、路傍に捨てられているお地蔵さまや墓石をここに持ってきたんです。」と。
あぁ、「無縁さま」なんですね。

ここにお寺があることに気付かなかったのは、大きな寺院建物が無かったこともあります。

この平屋建ての建物が本堂でした。

写真を撮っていると、奥様が庫裡から出てきて、「これ、どうぞ。」と冷えたサイダーを下さいました。

冷たくて、美味しかったです。
ごちそうさまでした。

「鼻高小学校」が廃止になった後、「福泉寺」はしばらく無住で、安中の「蓮華寺」が兼務していたそうです。
大正年間に放火に遭って本堂を焼失し、昭和二十七年(1952)に一度解散します。
そんな「福泉寺」を再興したのは、千葉県香取郡多古町の「実相寺」から迎えた橋本幸順師(現住職のご父君)でした。
昭和五十七年(1982)に住職となった幸順師は、本堂を再建しますが、「寄付は一切貰うな。」と言って、すべて自費で建立したということです。(奥様談)

「高崎の散歩道第十一集」に、幸順住職と「無縁さま」のことが書かれています。
そういえば各寺の墓地の整理はまたすさまじい。
無縁の石塔は墓地のすみにコンクリートで固められ、またある寺ではゴミ捨て場にという所もあるという。
福泉寺の住職は、こうした無縁の墓を粗末にするのは、人間を生き埋めにするに等しい。
ただの石ではない。その時の念がこもっているのだ。
こうして無縁の石塔を集めれば、自然と有縁の霊が集まると住職はさわやかに話してくれた。」
それで、このように一基一基大切に建てられて供養されていたのですね。
感動です。

この地域では、今も二十二夜講が続いているそうです。

二十二夜様へのお賽銭は、すべて町内の方に渡すそうです。

幸順住職が建立した「上杉武田両軍戦没者各霊菩提」という供養塔があります。


供養塔の説明板にもありますが、「福泉寺」周辺は「鼻高の砦」だったようです。


内山信次氏著「徐徐漂(ぶらり)たかさき」には、こんな話が載っています。
中鼻高の福泉寺の東は内出と呼ばれています。
内出とは中心城から派出された出城のことです。
ここは永禄九年(1566)九月、武田信玄が箕輪城攻撃の最後の野戦、若田ヶ原の合戦のとき、甲州軍の本陣を置いた所といいます。
また福泉寺の前の平は乱闘場といって、上杉武田両軍の合戦のあった所だといわれています。
昭和の初め、ここを開墾していて四、五体の戦国時代の人骨が掘り出されました。
その後も牛蒡を作っていて人骨が出たり、梨畑を掘って討ち死にしたらしい人骨が出たりしました。
骨を掘りだした人は良くない事が続くなどといわれ、最近はさまよい歩く戦国の亡霊を見た、などとささやかれるようになりました。(略)
再建なった福泉寺の周囲を戦国の亡霊がさまよう噂が広まって、テレビにも放映されました。
橋本師は、乱闘場に四百年も冥ることの出来ない戦国の武士の霊を鎮めるため、五輪の供養塔を建てました。昭和五十六年五月のことです。
以来亡魂の噂は聞かれなくなったといいます。」

境内には、サクランボやミカンのなる木がありますが、鳥がみんな食べに来て、残りを人間が頂くとのことです。
奥様は、「こういう静かな所に住んでいると、腹が立つことがないんですよ。」と仰います。
「カラスも可愛いんですよね。」とも。

お庭には四季折々いろいろな花が咲きますが、今はちょうど端境期だとか。
お花が咲くころに、またお邪魔したいと思った「福泉寺」でした。




【福泉寺】


  


Posted by 迷道院高崎at 07:36
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2020年07月12日

史跡看板散歩-196 鼻高天満宮

少林山通りを安中方面へ行くと、「鼻高展望花の丘」へ別れる信号があります。
その角にあるのが、「鼻高天満宮」です。


さすが天神様を祀る「天満宮」
石段の途中に梅の種が・・・。


あれ、史跡看板、ここ?!

みなさん、分かりました?左側の植え込みの陰です。

これじゃ、読めないじゃありませんか。


枝を手で掻き寄せ、苦労して写真に収めました。


「天満宮」「菅原道真」については、社殿の横っ腹に詳しい説明板が掛っています。
難しい漢字には仮名が振ってあって、親切です。


社殿の後ろへ回ると、「飛梅」ならぬ「落梅」がいっぱい。
熟した実の、いい香りが漂っています。


境内には「鼻高の石造物」という看板、そして立派な「地蔵和讃碑」が建っています。



碑の隣には、沢山のお地蔵様が捉えられて檻の中に入れられています。


銘版の文字が小さくてちょっと読みにくいので、書き出してみました。
「21世紀 愛と心 結ぶお地蔵さま」
お地蔵さまは地上に現出してあらゆる人々を救護してくださる菩薩様です。
特に子供の守り本尊であります。一心に拝む心がご利益を授けてくださいます。
子供達に「健康と、やさしい心、すなおな心」・・・お地蔵さまはいつもにこにこ見てござる。
お地蔵さまは江戸中期頃碓氷川近くの上川原に建立され、あたりはお米がいっぱい取れ、畔道には花が咲き・・・子供達の遊ぶ声がするのどかな場所でした。
天満宮の近くでは、仲よく、醤油を作り、笑う声が聞こえ・・・その風景をにこにこと・・・お地蔵さまが見守っていてくれました。
しかし、時が流れ子供のころ手を合わせたその場所に行って見たら、お堂も無く、お地蔵さまは土にうもれ首も取れて、そのお姿は大変あわれでした。
そこで私達は修復し鉄のお堂を作り、昭和45年12月末日に長伝寺住職の師にあたる、能登本山総持寺祖院監院黒杉道院老師のもと、上鼻高町内の有志で盛大なる法要を営みました。
その後年月が過ぎ鉄のお堂が古くなったので、ハイレベルな技術でお堂を再建いたしました。歴史あるお地蔵さまに心より手を合わせ、町の発展と子供達の守り本尊として、後世に伝えていきたいと願うものであります。
平成15年7月24日  施主 深堀誠
あぁ、檻じゃなくてお堂だったんですね。
失礼いたしました。

その地蔵堂の右に、石造物がずらっと並んで建っています。

ひときわ大きな庚申塔は、少林山達磨寺九代住職・東嶽和尚の筆だそうです。

小さいながらも、しっかりと鼻高の地を見守ってくれている「鼻高天満宮」でした。




【鼻高天満宮】


  


Posted by 迷道院高崎at 07:15
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2020年07月05日

史跡看板散歩-195 大聖護国寺

「八幡八幡宮」の隣にある「大聖護国寺」



昭和五十三年(1978)に再建されたという本堂は、平成二十八年(2016)の開山八百年を機に改修されて、きれいになりました。
平成二十四年(2012)に撮影した写真に、改修前の本堂が写っていました。


平成二十九年(2017)には客殿、令和元年(2019)には阿弥陀堂書院も建立されました。


史跡看板に、「大聖護国寺」と徳川五代将軍・綱吉の母・桂昌院との関係が書いてありますが、この桂昌院という女性、なかなか興味深い人物です。
寛永四年(1627)の生まれで名前は光子、父親は京都の八百屋だという説があります。
その父が亡くなった後、母は賄い奉公先の本庄宗正と再婚します。
本庄宗正が二条家の家臣だったことからか、光子は六条家のお万の方の輿入れに同行し、江戸城奥勤めになります。
後に春日局の目に止まって、秋野という名前で将軍付き中臈に取り立てられます。
そこで将軍・家光のお手がついて、側室・お玉の方となります。
「玉の輿」という言葉は、ここからきているんだそうで。

そして将軍のお種を宿し、無事男子を授かりたいと、以前から帰依していた「大聖護国寺」二十四世住職・亮賢僧正の祈祷を受けます。
亮賢僧正「将来、天下を取る男子が生まれる。」という予言通り、正保三年(1646)男子・徳松(後の綱吉)を産み、ついには将軍の母・桂昌院にまで上り詰めるという訳です。

この亮賢僧正は、「大聖護国寺」へ来る前は小野小町伝説のある富岡「得成寺」(とくしょうじ)の住職だったということで、同じような話「得成寺」にも伝わっています。

「大聖護国寺」の参道左側、「阿弥陀堂」の横に、徳川綱吉、桂昌院、亮賢僧正の供養塔が並んで建っています。



本堂には、亮賢僧正像の後ろに、桂昌院が寄贈した本尊・不動明王像三十六童子像が祀られています。


三十六童子像は今も修復作業中で、昨年の12月1日~6日の間、その工程が客殿に展示されていました。


その時は、仏師の方々の作業風景も見学することができ、大変感動いたしました。


その外、いろいろお伝えしたいことはあるのですが、あまりにも長くなりそうなのでこの辺に留めておきましょう。
「大聖護国寺」さんのHPが大変すばらしい出来栄えで、沢山の写真・資料も惜しみなく公開されていますので、どうぞそちらをご覧ください。

ところで、昔から参道にあるこの木、面白いんですよね。


伽羅の幹の虚に、楓がちゃっかり根を張って生きてるんです。

これも一つの「玉の輿」・・・?

そして、もうひとつ面白いものを見つけました。
「大聖護国寺」の門前から隣の「八幡八幡宮」境内に続く小道の途中、高台に建ってる大きな石碑。
どこかで見たような・・・。




前回の記事で、「剣崎小路城」跡だという「御嶽山神社」に建っていた石碑とそっくりじゃないですか。

そう言えば「新編高崎市史資料編3」に、「剣崎小路城」「大聖護国寺の東南にあり、この寺のある丘を背負う形になっている。」と書いてありました。
そっくりな二つの「御嶽山座主大権現碑」は、そのことと関係あるのでしょうか。

「剣崎小路城跡」の推定地から、「大聖護国寺」方向を遠望してみました。


道祖神と庚申塔が、疫病の侵入を見張っているようでした。


【大聖護国寺】

【剣崎小路城跡】


  


Posted by 迷道院高崎at 07:27
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2020年06月28日

史跡看板散歩-194 鳴熊神社

土地勘のない私には説明しにくいのですが、剣崎町小島鉄工所の西300mの所です。

どう見ても、大きな家のアプローチの植え込みなんですが。


そこに、いろいろな石造物が並べられています。


如意輪観音の後方に、「鳴熊神社」という札の掛かったお社があります。


そこに建っている史跡看板を読んでみましょう。

ここには「剣崎小路城」の支城と伝わる単郭の屋敷があったということです。

その屋敷「鳴熊城」の図と、Google Earthの写真を並べてみました。

たしかに、城跡という感じではないですね。

「鳴熊城」について、「新編高崎市史資料編3」にはこう書かれています。
ここは福田氏の城とされているが、福田忠政が永正四年(1507)関東管領上杉顕定の招きに応じて、武蔵国児玉郡福田村から下板鼻鳴熊の地に移り、その子加賀守信義が倉賀野十六騎の筆頭になったと伝えられている。
信義は倉賀野落城後、ここに戻り武田方となり「板鼻陣箕輪先駆相勤め」(上野志)、その功として永禄九年(1566)頃藤塚を与えられて移った。
それまでここを拠点としていたのであろう。」

近くに、本城である「剣崎小路城」の跡があるというので、そちらへも行ってみました。
城跡だという「御嶽山神社」「鳴熊神社」の北東400mほど、群馬八幡-剣崎線添いにあります。


石段を上ると、大きな「御嶽山座王大権現」碑が建っています。




碑の前に説明看板が建っていました。


しかし、「新編高崎市史資料編3」の付図を見ると、「御嶽山神社」「剣崎小路城」とは、まったく違った場所になっています。


そして「剣崎小路城」については、こう書いてあります。
現在完全に消滅し、その場所の推定さえ困難である。
大聖護国寺の東南にあり、この寺のある丘を背負う形になっている。
わざわざ丘の上をやめて平地に構えている点、八幡館とは逆に作戦的配慮の薄い築城と考えられる。(略)
丘を背にした中世館から近世陣屋へ移っていったのであろうか。」

ということで、幻の剣崎古城址巡りでありました。


【鳴熊神社】

【御嶽山神社】

【剣崎小路城跡】


  


Posted by 迷道院高崎at 06:59
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2020年06月21日

史跡看板散歩-193 剣崎の宝積寺

県道406号線の剣崎バス停から南へ140mほど入った所に、「宝積寺」(ほうしゃくじ)があります。

西側の門扉は針金でガッチリ閉められています。

南側の表門へ回ってみると、

やはりチェーンと門扉で封鎖され、今流行りのロックダウン状態です。

立ち番をしているお地蔵さまと観音さまに聞いてみると、「史跡看板を読みなさい。」ということでした。

あー、板鼻「称名寺」のご住職が兼務していて、普段は無住のお寺なんですね。
「称名寺」については、グンブロ仲間の風子さんが記事にしてますので、そちらをご覧ください。
  ◇板鼻・七不思議伝説〈3〉♪

これ、山門ではなく鳥居と言うらしいんですが、銅板葺きの立派なものです。


右の柱には、「天台宗寶積寺」、左の柱には何やらいろいろと書かれています。


これがなかなか気になります。
上の方の「吾唯足知」は分かりますが、その上にくっついてるマークは何なんでしょう。
「卍」なのかなぁ。

その下に、文字がたくさん書いてあります。
「世間虚仮」「唯佛是真」聖徳太子の言葉で、「せけんこけ・ゆいぶつぜしん」と読むんだそうです。
意味は、「世間は虚しき仮のもの。唯一仏のみが真実である。」ということです。
いかにも、すべてお見通しの聖徳太子らしい言葉ですが、その実は、「仏教で善い世の中をつくろうと力を尽くしてきたのに、世間は相変わらず対立や戦を繰り返している。」と嘆いた言葉らしいです。

「忘己利他」(もうこ・りた)は、「己(おのれ)を忘(わす)れて他(た)を利(り)するは慈悲(じひ)の極(きわ)みなり。」という、天台宗開祖・伝教大師(最澄)の言葉だそうです。
「止悪行善」(しあく・ぎょうぜん)は、読んで字の如く「悪いことは止め、善い行いをする。」
「不思不足」は、「思わざれば足らず」ということなのでしょうか、その後に「創意工夫精進努力」と続きます。

ここまで読んでくると自分にはとても無理なことばかりで、相田みつをの言葉を借りれば、「それがなかなかできねぇんだよなぁ。」ってとこですが、その後に書かれている言葉に、少しホッとします。
「明日は明日の風が吹く
 その風を看(み)て
 其の場に最善の努力する」


最後に、「倫理実践」と結んであります。

「宝積寺」、境内には入れませんでしたが、門前の小僧よろしく勉強させて頂きました。


【宝積寺】


  


Posted by 迷道院高崎at 07:27
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2020年06月14日

史跡看板散歩-192 藤塚の皇大神宮

「藤塚の浅間神社」から板鼻方面へ約450m、道路から一段低い所に「天照皇大神宮」(てんしょう・こうたいじんぐう)の社があります。


史跡看板は、社のすぐ前に建っています。



社に向かって右に建っているのが「洪水記念之碑」

史跡看板では「洪水祈念・・・」になっていますが、洪水を祈念しちゃいけません。
これはちょっとまずい誤字ですね。

この洪水を小学二年生で体験した吉田良太郎氏の回顧談が、「高崎の散歩道第十集」に載っています。
この年は八月上旬毎日雨模様の天気で、地面が本当に湿っていた。
そのうえ十二日からは豪雨となり、まる一日降り続いた。
そのため十三日の夜明け近く上流に降った雨水を集めた碓氷川は、急激に増水し河原いっぱいに広がったと思う間もなく、堤防を乗り越えた濁流は中山道に押しよせ、道が碓氷川本流のようになって藤塚村を襲ったのであった。
私の家は当時中山道の南側にあったが、この濁流は家々を見るまに呑み込んでしまい、隣のおしんこ屋(米の粉でおしんこを作り、赤黄の色付けをしたお菓子)は見ている間に家人もろとも流されてしまった。
たまたま二階家で当時としては比較的大きい家だった私の家へ近所の人々が助けを求めてやって来た。
増水するにしたがいみんな二階へ避難した。
しかし勢いづいた濁流はみるみる中に床下から畳を持ち上げ、一階の天井近くまで水につかってしまった。
やがて朝明けと共に雨も小やみになり水勢はいくらかやわらいだようだ。
階段口(二階)より村の他五朗さんが深さを測ろうとして竹竿を下へおろした所、途中でつかえて下に行かない。
他五郎さんが『大丈夫だぞ、泥が下にたまってこの家は助かるぞ』とこれを聞き、みんな狂喜するのだった。
時間が過ぎると水もひけたので、二階から下りながら一階天井近くまで埋まった泥の中を、天井に頭をぶつけながらはいまわった。」

そしてその10年後、藤塚村はまたもや洪水に襲われます。
今度は大雨ではなくて、地滑りが原因でした。
そのことを記しているのが、「射水神」碑です。

どんなことが碑に刻まれているのかは、過去記事をご参照ください。
  ◇藤塚の洪水碑

ところで、「射水神」ってどんな神様なんでしょう。
富山県に射水市という町があり、その隣町の高岡市に「射水神社」というのがあるそうです。
現在「射水神社」の祭神は「ニニギノミコト」ですが、古くは高岡市と氷見市にまたがる「二上山」(ふたがみやま)をご神体とする「二上神」(フタガミノカミ)だったそうです。
その「二上神」を祖神とするのが、「伊弥頭国造」(いみづのくにのみやつこ)という豪族だったと言います。

ということで、どうやら「射水神」という神様はいないようなのです。
ただ、「射水(いみず)」「出ずる水」=「洪水」とも取れますし、字面からは「水を射る」=「水をやっつける」とも取れところから、「水を司る神」として村を洪水から護ってほしいという思いで「射水神」としたのかも知れません。

さて、大正九年(1920)の洪水は、地滑りの土砂が碓氷川を堰き止めたのが原因だった訳ですが、昭和の半ばになって妙な地滑りがこの辺りに起きました。
過去記事でご覧ください。
  ◇隆起した国道18号

「天災は忘れた頃にやってくる」
近頃は、「疫病は忘れたコロナやってくる」と言われているとかいないとか。


【天照皇大神宮】


  


Posted by 迷道院高崎at 07:23
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2020年06月07日

史跡看板散歩-191 藤塚の浅間神社

国道18号線を挟んで、藤塚「一里塚」「浅間神社」が向きあっています。


今回は、「浅間神社」の方です。



ここからは浅間山が良く見えるので、「あさま神社」かと思いきや、富士山「せんげん神社」です。


Wikipediaには、こんな記述があります。
  「浅間」の語源については諸説あるが、長野県の浅間山のように火山を意味するとされる。
「あさま」は古い呼称で、現在の「せんげん」は中世以降から用いられたと見られている。

「富士浅間神社」の祭神が「木花咲夜姫」(コノハナサクヤヒメ)ということで、社殿の中に姫の絵が掛かっています。


なぜ「富士浅間神社」の祭神が「木花咲夜姫」なのかというのも、Wikipediaに書いてあります。
富士山の神霊をコノハナノサクヤヒメに当てる起源は明らかでないが、文献の初見は江戸時代初期の『集雲和尚遺稿』である。
「コノハナ(木花)」は桜の古名といわれ、祭神は富士山の美貌の形容に由来するとされる。
また、神話にある「コノハナノサクヤヒメの火中での出産」も、火にまつわる事象として意識されたと見られる。」

「浅間神社」のある塚は、もともとが「一里塚」の片方だった訳ですから、塚の上には椋の木が立っていたはずです。
「豊岡誌」によると、藤塚の住人が「富士浅間神社」の神霊を勧請したのは、元禄期だったとあります。
場所も何度か北へ北へと移動して、今の位置になったのは、国道が拡幅された昭和六十三年(1988)のことです。
拡幅前の一里塚と浅間神社の姿が「豊岡誌」に載っていました。


向かい側にある「一里塚」については、過去記事をご覧ください。
   ◇藤塚の一里塚

では、本日はこの辺で。


【藤塚の浅間神社】


  


Posted by 迷道院高崎at 07:28
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2020年05月31日

史跡看板散歩-190 下豊岡の団地稲荷大明神

ここも史跡看板が無かったら、分かりづらい所です。



看板にあるように、昭和三十四年(1959)に造成された豊岡団地に因んで、「団地稲荷大明神」となっています。

この鳥居は平成三十年(2018)に奉納されています。

お社の中には、なるほど「団地稲荷」らしく、お稲荷さんが密集していました。


昔は、「ハケノ山稲荷」とか「原の稲荷」とか呼ばれていたと書いてあります。
境内に、「果之山正一位稲荷大明神」の石碑が建っています。

いつ建てたものなのかなぁ、と思って碑背を見たら、昭和三十八年(1963)でした。

「果」「ハケ」は、崖の端を意味するということで、上空から見てみると確かにそんな感じです。


だったら、そのまま「ハケノ山稲荷」の方がよかったんじゃないでしょうか。

ちょっと物足らなかったので、この近くの「姫宮神社」もご紹介しておきます。
  ◇続・鎌倉街道探訪記(11)


【団地稲荷大明神】


  


Posted by 迷道院高崎at 07:32
Comments(0)◆高崎探訪

2020年05月24日

史跡看板散歩-189 中豊岡の毘沙門堂

ここは史跡看板が建ってなかったら、まず分かりません。


うっかり入り込むと、住居侵入罪で捕まりそうな・・・。


その奥に空き地があって、傾きかかったお堂が建っています。



その中に「毘沙門天」(びしゃもんてん)が祀られています。


史跡看板にはいろいろ書かれていますが、この毘沙門天がなぜここに祀られているのかまでは書かれていません。

「施主飯野善左衛門」とあるので、上豊岡茶屋本陣の飯野家が建立したものです。
「寛政九年」ということは、二代目の善左衛門でしょう。

飯野家は、三代にわたって掛屋・御用達役を務めた名家です。
「新編高崎市史通史編3」に、次のような記載があります。
飯野家の由緒書によると、寛保元年(1741)善次郎が御城方御材木御用・御払米御用役となり、宝暦四年(1754)から十人扶持・御用之節帯刀御免となり、御領分御米御用役に任命されている。(略)
飯野善次郎は、その後、平日帯刀御免、並代官格、中小姓加扶持十人扶持、御勝手御用役などを経て、宝暦十三年(1763)には江戸表で郡奉行席となり新知二百石、以後、元締御用役勤めの武家として城内に居屋敷が与えられた。
これにより、善次郎の弟善左衛門が上豊岡村の飯野家を受け継ぐと同時に、藩から御用達・御払米世話役を命ぜられ、安永六年(1777)に名字御免、同八年に三人扶持・帯刀御免、天明三年(1783)十一月から地役人上席に任ぜられたのである。
寛政四年(1792)二月、善左衛門の跡を継いだ二代善左衛門も御用達として三人扶持であったが、同十年九月に御掛屋・御用達を命じられ、以後、飯野家は嘉永三年(1850)九月まで三代にわたり掛屋・御用達役を務めた。」

いつの世も、権力と財力は、持ちつ持たれつなんですなぁ。
藩にとって飯野家は「余人をもって代えがたい」存在だったのでしょう。


【毘沙門堂史跡看板】


  


Posted by 迷道院高崎at 07:32
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