2023年07月08日

高崎唱歌散歩-34番 ♪鶴見町には収税局・・・

鶴見町には収税局
小林區署に司令部や
上野鉄道本社なぞ
多くの建物立ち並ぶ

明治三十年(1897)の地図には、「上野(こうづけ)鉄道会社」しか表示されていません。
場所も「赤坂村」になっています。

それもそのはず、「鶴見町」自体まだなかったんですから。

「鶴見町」は明治三十五年(1902)に下和田村から分かれてできた町です。
地図で分かるようにその辺一帯は水田地帯で、鶴の遊息地だったのが町名の由来だそうです。
当時はいたんでしょうか、鶴が。

日本野鳥の会群馬支部が発行した「群馬県鳥類目録」(改訂版2019.08.03現在)を見ると、迷い鳥の目撃情報が二例あるだけなんですけど。


明治四十三年(1910)の地図には「税務署」(収税局)「小林區署」「司令部」が載ってます。

ただ、「鶴見町」ではなく「八島町」にあるように見えます。

大正十四年(1925)の「群馬県群馬郡誌」で、それぞれの住所を確認してみると。
高崎税務署 八島町
高崎小林区署 八島町
高崎連隊区司令部  鶴見町
ということで、「司令部」だけが鶴見町になっていました。
「八島町」「鶴見町」と同じ年に成立した町なので、少し混沌とした時期があるのかも知れません。

さて、「高崎税務署」ですが、創立は明治二十九年(1896)で、初め通町に設置されました。
ところが、明治三十七年(1904)に火災で焼失し、一時下横町「興禅寺」内に置かれますが、翌三十八年(1905)に八島町の新庁舎に移転します。

「小林区署」(しょうりんくしょ)という名称は現在聞くことがありませんが、いまでいえば「営林署」です。
創立は、明治二十四年(1891)「東京大林区署」の管轄として宮元町に設置されます。
どういう訳か移転の多い役所で、翌二十五年(1892)に鞘町へ、その翌年に柳川町に移ります。
八島町に移ったのは明治四十年(1907)です。

次に「連隊区司令部」ですが、これは大日本帝国陸軍の徴兵・動員・召集・在郷軍人の指導等を掌る機関だそうです。
高崎「連隊区司令部」は明治二十一年(1888)宮元町に設置され、明治二十九年(1896)下横町「向雲寺」内に移されますが、翌三十年(1897)に下和田村へ移転します。
その五年後、そこが「鶴見町」となる訳ですね。

「高崎税務署」があった場所は、いま「南小学校」校庭の一部に。


「高崎小林区署」があった場所は、「高崎市美術館」に。


そして、「高崎連隊区司令部」があった場所はここ。



最後に「上野鉄道本社」です。
「上野鉄道」が開通したのは明治三十年(1997)。
五月に高崎-福島間、七月に福島-南蛇井間、九月に終点下仁田まで全通します。
開通当初の様子は、このシリーズ2番に書いていますのでそちらをご覧ください。
  ◇高崎唱歌散歩-2番 ♪汽車の線路はたて横に・・・

明治末期から大正にかけて「上野鉄道」は経営難に陥り、身売りまで検討されていましたが、大正十年(1921)に山田昌吉が社長となってから起死回生します。
その辺の経緯は、こちらの記事をご覧ください。
  ◇鎌倉街道探訪記(33)

こうして、歌詞に出てくる施設の内、唯一「上野鉄道本社」(上信電鉄)だけが鶴見町に残っています。

「上信電鉄」へ行って建物の外観を写真に撮らせて欲しいと言ったら、「いま、総務の人間がいなくて、私では判断できない。」とのことです。
古い体質も、ちゃんと残っていました。

仕方がないので、東口駐車場の3階から撮影することに。

かえっていい写真が撮れたかな。


  


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2023年07月01日

高崎唱歌散歩-33番の続き ♪新田南新喜町・・・

寿橋を過ぎ行けば
新田南新喜町
右手に見ゆる杉森は
愛宕神社の境内ぞ

「新田(しんでん)町」「南町」「新喜(あらき)町」は、「あら町」の南に続く中山道沿いの町です。


「高崎志」に書かれている「新田町」はこうです。
新田町ハ慶長十一年丙午、城主酒井家次新後閑村ノ民家ヲ此ニ徒(うつ)シ、新タニ町トセラレシ故、新田町ト名ヅケシト也」
慶長十一年(1606)に高崎城主・酒井家次が、新後閑(しごか)村の民家を移して町にしたのが「新田町」だということです。

「新後閑村」は、戦国時代からある古い村です。
「高崎の散歩道 第二集」から、拾い読みしましょう。
高崎城の前身和田城と和田氏について記した「和田記」には、和田麾下の馬乗衆の一騎に、新後閑左京亮(しごか・さきょうのすけ)という土豪の名が現れてくる。
永禄九年(永禄六年説もある)の箕輪落城によって、大類城の大類伊勢守は滅亡し、和田城の和田兵衛太夫信業、倉賀野城の倉賀野淡路守らも甲州の軍門に降った。
斯くして、管領上杉氏に代わって西上州が武田氏の勢力下に入ると、大類城は和田の砦となり、和田馬乗衆の新後閑左京亮が大類城代に任ぜられた。
この新後閑氏とは、前述した新後閑村の土豪である。」

「新後閑村」は、明治二十二年(1889)佐野村に合併、昭和十四年(1939)に高崎市に入り、昭和二十六年(1951)に「新後閑町」となりました。


「新田町」の話(高崎志)に戻りましょう。
此地初ハ赤坂村ノ田也、故ニ町ト成テモ猶年貢ヲバ納タリシニ、安藤家城主ノ時寛文四年甲辰、検地ノ後村高ヲ除カレ、唐沢年貢地トナル」
初めは年貢つまり米で税を納めていたけど、城主が安藤氏になってからは「唐沢年貢」になったというんですが、「唐沢年貢」って何だ?

「更正高崎旧事記」にこう書いてあります。
高崎志云、地子銭ヲ土俗是ヲ唐沢年貢ト称ス。高崎ニ限リテノ名也。
其故ハ、安藤家ノ時人、唐沢所左衛門ト云者、町地ノ鐚(びた)年貢ヲ収ムル事ヲ司リシ時、殊ニ厳酷ニ譴責セシホトニ、彼地子ヲ出ス事ヲ土人唐沢ト呼シヨリ、終ニ定ムル称トハ成シト也。
三伝馬町、連雀町ノ外ハ、其地大概地子也。」
「地子銭」を取り立てる唐沢という人がえらく厳しいので、人々は「唐沢年貢」と呼んだというんですね。

伝馬役などをしていた中山道沿いの町屋は地子を免除されていましたが、他は大概が「唐沢年貢」だったということです。

まぁ、唐沢さんも大変だったんでしょう。

「南町」「新田町」よりだいぶ後にできた町で、慶安三年(1650)に高崎城主・安藤重信の命により家作をして町になったということです。
当時は文字通り高崎城下の南端の町で、下の木戸の外側でした。


「新喜町」はさらに時代が下ってからできた町で、正徳二年(1712)高崎城主は間部詮房の時です。
「南町」の住人で荒木某が架けた石橋があったので、それに因んで初め「荒木町」としたんですが、「荒」「荒廃」につながるというので、後に字を変えて「新喜町」にしたんだとか。
しかし、いま「新喜町」という町はありません。
昭和四十八年(1973)再開発により「下和田町」の一部を加え、「和田町」という新しい町になりました。

「愛宕神社」については、過去記事をご覧ください。
   ◇駅から遠足 観音山(4)


  


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2023年06月24日

高崎唱歌散歩-33番外編 柳川町にあった「岡源別館」

前回は、柳川町「岡源別館」が、どこにあったのか分からないというお話でした。


写真を見ると立派な庭園があったようなので、ふと頭に浮かんだのが、ご先祖が造園業をしてた「有花園」亀田さんです。
訊いてみると、すぐに返信が来てその中に、
「今の「黒松」と言うラーメン屋さんがあるところは「小沢別邸」→「中西別邸」で、この庭は有花園の2代目が作ったようです。」
と書いてありました。

「小沢別邸」というのは、銀行家・小沢宗平の別邸で、桜井伊兵衛「蟹下苑」須藤清七「椿荘」とともに「高崎の三名園」と呼ばれた名庭園です。


亀田さんのメールにある「中西別邸」という名前に、ピン!ときました。
「ぐんま経済図鑑」の中に、「岡源別館」中西啓三という人物に売ったという記述があるのを思い出したからです。

六代目・源三郎の後を継いだ七代目・米造が昭和十年(1935)に三十六歳で早世し、その後の「岡源」照子夫人が守っていた時代のことです。
戦中戦後の社会の動乱の中、岡源も大変だった。
昭和十八年には企業整備で商売も中断、柳川町の数寄を凝らした料亭の家と、見事な庭園の岡源別館六百坪を、高崎の相場師中西啓三に売り、新町の家は、軍需工場の榛名航空の社員寮として貸し、家賃で風の過ぎるのを待つように生活していた。」
「ぐんま経済図鑑」

亀田さんの言う「中西別邸」は、中西啓三が買った「岡源別館」ではないのか。
つまり、「小沢別邸」「岡源別館」「中西別邸」ではないかと。
その話を亀田さんにすると、こんなご返事がありました。
「先ほど、岡源の岡田さんに聞いてきました。
おっしゃる通りで、小沢別邸と中西別邸の間に、岡源が所有してた時があるそうです。
年代までは定かではないけど、間違いでは無いとのことでした!」

という感動的なメールです。

とすれば、そこの土地台帳を見ればその変遷が分かるはずです。
法務局へ行って、確認した土地台帳がこれです。


この土地台帳を見ると、小沢宗平が土地を売ったのは昭和十四年(1939)、売却先は「中西啓三」ではなく「中西啓之助」となっています。
でも、肝心の「岡源」の名は載っていません。
あれー?

ここでないとすれば何処だ?
柳川町の土地台帳を、すべて虱潰しに調べてみましたが、「岡源」所有の土地は見当たりません。
あれー?

何とも諦めきれず、もういちど「小沢別邸」の土地台帳を見直してみると、沿革欄に「昭和六年・・・賃貸云々」と書いてあるのに気がつきました。
もしかすると、「岡源別館」は昭和六年(1931)に「小沢別邸」を賃借したものだったのかも知れません。

土地台帳では、昭和三十年(1955)に中西啓之助から高崎市に所有権が移転されていますが、「ぐんま経済図鑑」にもそのような記述があります。
岡源別館は、戦後中西啓三が高崎市に寄附、いまは売却、分割された。
庭園にあった高さ2mもある石灯ろうは高崎公園に置かれてある。」

「中西啓三」「中西啓之助」と同人物と思われますが、中西啓之助については昭和十八年(1943)の「大衆人事録」にこう記されています。
本県峯岸寛一郎三男 明治十七年十二月十日碓氷郡板鼻町に生まれ中西熊吉の養子となる。
夙に現地に料理業を経営、大正十三年現業に転ず。」

この「料理業」については、大正六年(1917)の「高崎商工案内」「なべや支店 連雀町 中西啓之助」とあります。
また、昭和十八年(1943)の「人事興信録」には、「株式仲買商 中西啓之助」とあって、「ぐんま経済図鑑」「相場師中西啓三」という記述とも符合します。

「岡源別館」が閉じられた後、昭和二十三年(1948)に照子夫人が四十九歳という若さで他界します。
前橋医専在学中の長男・米造は、医師への道を断念し、卒業後「岡源」の八代目経営者となります。
そして、昭和四十年(1965)「ニュー岡源」と改称して、時代にマッチした店舗経営を展開します。

しかし、平成十六年(2004)ついにその歴史に幕を下ろす時がやって来ます。


跡地は、今こうなっています。


「岡源支店」があったという高崎公園へ行って見ました。
「動物舎」のある所ということなので、この辺だったんでしょうか。


柳川町「岡源別館」にあったという石灯籠も公園内にあるというので、探してみました。
銘も何も刻まれてませんが、たぶんこれでしょう。

「宝珠」が下に落ちちゃってます。

「岡源別館」(小沢別邸)があったのはこの辺です。
今は、行列のできるラーメン店「くろ松」が角にあります。


高崎の老舗割烹店「岡源」の名が人々の記憶から消えてしまう日も、そう遠くはないのでしょう。
寂しいことです。

「岡源」で、だいぶ長くなってしまいました。
「高崎唱歌33番」の続きは、また次回送りですね。


  


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2023年06月17日

高崎唱歌散歩-33番 ♪寿橋を過ぎ行けば・・・

寿橋を過ぎ行けば
新田南新喜町
右手に見ゆる杉森は
愛宕神社の境内ぞ

「寿橋」は、中山道の新(あら)町新田(しんでん)町との境の「遠構え」の堀に架かっていた石橋です。
下の写真の二つの建物の間を「遠構え」の堀が通っていたので、その手前辺りに架かっていたのでしょう。


明治十五年(1882)発行の「更正高崎旧事記」「寿橋」のことが書かれています。
新町 石橋 寿橋ト云
新町ト新田町トノ界(さかい)遠構堀ニ架クル由緒ハ、明治六酉年発起人岡田源平父孫六齢九十一ニシテ架ス。
同人三夫婦ニテ渡初ス。故ニ名付テ寿橋ト云。」
明治六年(1873)に岡田孫六という人が九十一歳の時に架けた橋で、岡田家三世代の夫婦で渡り初めしたことを祝して、「寿橋」と名付けたという訳ですね。

このことを9年前の記事に書いたのですが、その中で岡田源平は、新町の料亭「岡源」の経営者であると書いていました。

ところが、最近「岡源」の事を調べてみると、「岡源」という店名は6代目の岡田源三郎から使われ(2004.4.5上毛新聞)、その後の当主に源平という人物はいない(ぐんま経済図鑑)ことが分かりました。

じゃ、9年前、私が何を根拠に岡田源平「岡源」の経営者としたのか。
改めていろいろな資料や書籍をひっくり返してみたら、「高崎の散歩道 第十二集下」にありました。

土屋喜英氏執筆の「遠構えめぐり」という文中に「岡田源平とは今の岡源である。」とはっきり書いてあったのです。
尊敬する土屋喜英氏の言なので、俄かにそれが違うとも思いにくいのですが。

平成二年(1990)群馬経済新聞社発行の「ぐんま経済図鑑」に書かれている「岡源」の歴史を見てみましょう。
岡源はいつ創業したのか。
古い記録は火災で焼けてしまったが、江戸期の旅籠、いまでいう旅館で「岡田屋」といっていたようだ。(略)
  岡源の先祖で記録に残っているのは、岡田米造社長(八代目)の曽祖父源七、さだ夫妻からだという。
源七は榛名町室田の素封家で材木商だった清水家の出。さだは旧群馬郡滝川村の旧家天田作左衛門の娘で夫婦両養子だったという。
明治初年から中期にかけ、岡源は割烹と旅館業で大いに繁昌した。
女将のさだは女丈夫で商売上手、当時、日本を横断して、新潟の鍋茶屋、高崎の岡源、東京の八百膳と有名な料亭の三人の女将が、”女三傑”といわれた、ということである。
源七は早く他界したが、さだは岡源を盛りたて、昭和三年に八十三で没した。」
「岡田源平」「寿橋」も出てきません。

明治四十三年(1910)発行の「高崎案内」にも、出てきません。
仝家が割烹店となれる動機を語らんに、維新後新町に初めて劇場の新築せられし時、芝居茶屋を開業し引続き営業は為したれども、其当時は割烹店たるの資格はほとんど零なりしと云う。
然るに老女将の手腕と僥倖にも好時勢に投合したるを以て、予期以上の盛大に至り、家屋器具より一切の設備とても他の企及すべき所にあらず。」
やっぱり、「岡田源平」「寿橋」は、「岡源」とは関係ないようです。

「岡源」自体は「高崎唱歌」に出てこないのですが、せっかくなのでもう少し書いておきましょう。

「岡源」新町の本店と高崎公園内の支店があったようです。


さらに、前橋の馬場川通りにも支店があったんですから驚きです。

ヒゲクマさんのブログに、「前橋岡源」の絵と歴史が載ってます。

さらに、さらに、高崎柳川町「岡源別館」というのもあったらしいです。
源七の後継者源三郎は、榛名町室田の源七の兄源六の子供で、娘婿になった。妻はリキといった。(略)
この時代、高崎市の花柳界は、新町あたりを下検番、柳川町あたりを上検番と芸者の検番が二つあった。連隊や卸商が店を連ね、町は活気があった。
岡源が柳川町に”岡源別館“を持ったのはこの頃である。」


ただ、この「岡源別館」柳川町のどこにあったのか、これがどうも分からないのです。
地図をひっくり返しても、本をひっくり返しても出てきません。

これから柳川町「岡源別館」捜索のお話をしたいのですが、けっこう長くなりそうなので、次回に続けることに致します。


  


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2023年06月14日

号外! 企画展「新町行在所」へのお誘い

高崎市歴史民俗資料館で、企画展「明治11年 天皇を迎えた新町行在所」やってますよ!


ふだんは見ることの出来ない「行在所」の立札はじめ、貴重な資料がたくさん展示されています。


いつものように学芸員の大工原美智子さんが、散らばっている資料を丹念に読み込んで、分かりやすく掲示してくれています。
ぜひ、お出掛け下さい。
7月2日(日)までやっています。


  


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2023年06月10日

高崎唱歌散歩-32番 ♪高崎駅にも近ければ・・・

高崎駅にも近ければ
菓子に煙草に雑貨店
割烹店に旅人宿
軒を並べて栄えゆく

これは、31番に続き「新町」(あら町)のことを言ってます。
「群馬県営業便覧」で明治三十七年(1904)の「新町」を見てみましょう。
停車場道から突き当たって北の中山道沿いです。(ちょっと連雀町も含まれてますが)

水色は菓子、緑色は煙草、黄色は雑貨、桃色は割烹・飲食、白色は宿泊業です。
たしかに、それらの店が軒を並べて栄えてたのがよく分かります。

歌詞にないので色は付けてませんが、「石材商 藤澤淸次郎」という店があります。

今も残るあら町の老舗「藤沢石材店」ですね。


突き当りを南へ行く中山道沿いにも、大店こそありませんが、各種の店が軒を並べています。


停車場通りは八島町ですが、左下は「あら町」分です。

実は、迷道院が生まれたのは「天狗湯」の東隣の家でした。
明治三十七年(1904)当時はお菓子屋さんだったんですね。
我が家は、終戦間際の強制疎開で八島町「専売局」前からここへ移ってきました。

下の写真は、たぶん「信濃屋」旅館の二階から撮影されたと思われる、停車場通りの風景です。

右側に見える高い煙突が「天狗湯」です。
「天狗湯」の歴史は古く、元禄年間(1688~1704)にはあったようです。(高崎の地名)

何歳くらいなのか、家の前で写ってる迷道院です。

バットを持たされているのは、父が町内の野球チームに入っていたかららしいです。

この家には四歳くらいまでしか住んでなかったので、記憶はうっすらとしか残ってません。

十三違いの姉に、間取りを思い出してもらいました。
そう言われれば、何となく憶えているかも。

「天狗湯」との間が路地になっていて、台所からスッポンポンで風呂屋に飛び込んでった記憶があります。
裏は「延養寺」の墓地でした。
塀を乗り越えて墓石によじ上って遊び、お寺の息子に拳骨をもらいましたっけ。

二階に、手回しの蓄音機があったのを憶えてます。
音を聞いた記憶はないので、壊れてたのかも知れません。
日本神話の絵本が沢山ありました。
この頃、もう字が読めたらしいです。

隣が「鳥才」という鶏肉屋で、迷道院と同じくらいの男の子がいました。
写真では、二人とも戦後の浮浪児みたいですが。

二階のトタン屋根を伝ってしじゅう行き来して遊んでました。

名前も忘れてしまいましたが、いま、どうしてるかなぁ。



  


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2023年05月27日

高崎唱歌散歩-31番 ♪それに続ける新町は・・・

それに続ける新(あら)町は
憲兵屯所に延養寺
ここに設けし授産場は
軍人遺族の為とかや

「新町」「あら町」とひらがな表記するようになったのは平成十八年(2006)。
多野郡「新町」(しんまち)と合併したので、同じ高崎で同じ漢字表記だとどっちか分からなくなるからという訳ですが、なにも「あら町」などという野暮な表記にしなくとも、多野郡だった方を「多野新町」とすればよかったのではないかと、今だに思っております。

「新(あら)町」について「高崎志」はこう書いています。
新町ハ連雀町ノ南ニ続ク、和田氏ノ時ヨリ民家アリ、地ノ旧名未詳、
昔此所ニ飯塚常仙ト云者アリ、此辺ノ荘屋也、
慶長四年井伊家当城ニ移徙アリシ日、常仙酒殽ヲ奉シテ祝賀シ、且其日竈火焚始ノ薪ヲ献ス、
此事ヲ嘉例トシテ是年城主ヨリ常仙ニ命ジテ五月端午殿閣諸門ニ菖蒲ヲ葺シメ、又其年ノ暮ニ松飾ヲナサシメラレシト也、今ニ至迄、城中諸門ニ菖蒲ヲ葺、門松ヲ建ルニ、此町ヨリ人夫ヲ出シテ其事ヲ為コトハ、井伊氏ノ嘉例也ト云、新町ノ名ハ其義未詳、城主ヨリ賜リシト云伝タリ、」
和田氏の頃すでに民家があった地で、慶長四年(1599)に井伊直政箕輪から移って来た時、荘屋をしていた飯塚常仙という人が酒肴や薪を献上して祝賀したところ、それから毎年城中諸門の飾り付けを命じられるようになり、城主から「新町」という町名を賜ったと伝わっているということですね。

「憲兵屯所」は、憲兵の詰所のようなもんでしょうか。
「兵の詰所」なんだから十五連隊の中に設ければ良さそうなものですが、その役務はあくまでも軍を取り締まる警察組織なので、営外に置いたのでしょう。

新町のここに「憲兵屯所」はありました。


大正五年(1916)の地図ではこうなっています。

ちょっと字が潰れていて読み取りにくいですが、「矢島八郎」の隣に「憲兵分隊」と読めます。
「憲兵分隊」の土地は、矢島八郎が宅地の一部を提供したからです。

昭和二年(1927)発行の「高崎市史 下巻」に、こう記載されています。
設置ノ始メハ第一憲兵隊群馬憲兵分隊ト稱シ、(明治)二十九年一月十三日、嘉多町覺法寺ニ事務所ヲ設ケ、前橋町ニ屯所ヲ置ク、同年五月十五日、今ノ廳舎落成ス、該地所ハ故八島八郎ノ寄附ナリ
同年四月、渋川、桐生兩町ニ屯所ヲ置カリシモ、三十六年六月十八日廢セラル。
同三十六年四月一日、今ノ名ニ改メラル、創立當時ハ群馬分隊首部及ビ高崎屯所ヲ置カレ、三十一年十二月一日高崎憲兵分隊本部高崎町憲兵屯所ト稱シタリ、三十七年四月一日、高崎憲兵分隊ヲ廢止シ、東京憲兵分隊高崎市分遣所トナリ、四十一年三月十日、宇都宮憲兵分隊高崎分遣所ト改正セラレ、同四十四年八月十五日編成法改正ノ結果、再ビ元ノ名稱、則チ高崎憲兵分隊ト偁シ・・・」
と、まぁ名称はコロコロ変わったようですが、「高崎唱歌」がつくられた明治四十一年(1908)当時の正式名称は「宇都宮憲兵分隊高崎分遣所」で、巷では「憲兵屯所」で通っていたんでしょう。

この「憲兵屯所」が建設される五年前の明治二十四年(1891)、矢島八郎はここに家を新築します。
ところがその四年後、通町から出た火は663戸を焼く大火となり、矢島八郎の家も全焼してしまいます。
矢島邸の門は高崎城「子の門」を移築したものでした。


矢島は、焼け落ちた鯱鉾の破片を集めて屋根の辺りを見上げ、長大息をしていたと言います。
焼けて更地になったことも、「憲兵屯所」用地を提供する要因になったのかも知れません。

大正六年(1917)頃の「憲兵屯所」です。


昭和二十九年(1954)、「憲兵屯所」跡地は「前橋地方法務局高崎支局」になりました。


平成二十九年(2017)のGoogleストリートビューには、「憲兵屯所」への入口跡が写っています。
「金子写真館」「マスムラ酒店」の間が入口跡です。


「延養寺」については、過去記事をご覧ください。
   ◇史跡看板散歩-26 文学僧・良翁

さて、「ここに設けし授産場」ですが、これにも矢島八郎が関わっています。
「矢島八郎銅像建設趣旨書」に、こう記されています。
翁が七十年の生涯を通じて就中其功績の顯著・沒すべからざるは高崎上水道敷設と、廢兵遺族救助法の實施なりとす。(略)
若し夫れ廢兵遺族救護法に至っては、翁が一將功成りて萬骨枯るゝの悲慘事を日露戰役直後の事實によって見分し、國家が不具廢疾の軍人軍屬並に遺族に酬ゆる所の薄きを嘆き、三十九議會に該法律案を提出し、熱誠以て輿論に訴へ、遂に其目的を達せるもの・・・」



戦争さえなければ、そんな授産場も要らなかったんですよねぇ。



  


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2023年05月20日

高崎唱歌散歩-30番の続き ♪警察本部に郡役所

行けば四つ辻連雀町
ここも商業繁華の地
郵便局や新聞社
警察本部に郡役所

旧高崎城内に群馬県庁が置かれた明治五年(1872)、新紺屋町「金剛寺」「警察事務所」が置かれました。

「東宝映画館」があった所ですね。
「金剛寺」は慶長四年(1599)に箕輪から移ったと伝わっていますが、明治二年(1869)に江木町「無縁堂」に合併され、明治八年(1875)には廃寺になっています。

一時連雀町「安国寺」に置かれた「警察事務所」は、明治九年(1876)「高崎警察署」と改称し宮元町の町角に新築移転します。
しかし、その建物は狭隘と粗造という理由で、翌明治十年(1877)立派な二階建洋館を連雀町に新築して移転したのです。


警察組織は昭和二十三年(1948)国家警察と自治体警察(市警察)に二分され、「高崎警察署」「高崎市警察署」と改称されます。
翌二十四年に宮元町に移転されますが、昭和二十九年(1954)群馬県警察に統合されて、呼称はまた「高崎警察署」に戻りました。


昭和四十八年(1973)台町「県立高崎商業高校」跡地に移転し、現在に至ります。

つぎの「郡役所」は明治十一年(1878)の創立です。
この年、群馬県は利根川を境に東西に分割され、左岸(前橋側)を「東群馬郡」、右岸(高崎側)を「西群馬郡」とし、前橋高崎にそれぞれの「郡役所」を置いたのです。

高崎は、明治五年(1872)に定められた行政区画「大小区制」により「第五大区」となり、その「区務所」宮元町にあったので、それを「西群馬郡役所」にあてました。

なかなかおしゃれな洋館です。

明治十一年(1878)の明治天皇東北御巡幸の際には行在所として使われ、翌年は皇太后伊香保行啓の際にも御宿所にあてられたそうです。
しかし残念なことに明治二十八年(1895)四月、付近からの出火により灰燼に帰したとのことです。

類焼後、通町の大信寺に仮庁舎を置きましたが、十二月には連雀町に新庁舎を新築します。
その翌年明治二十九年(1896)の郡区制改正により、「東群馬郡」「勢多郡」になったことで、「西群馬郡」は「西」が取れて「群馬郡」になりました。


当時の高崎は、まだ小さな「高崎町」でした。


明治三十三年(1900)高崎「市」になって「群馬郡」から離脱しますが、「郡役所」は大正十五年(1926)に廃止されるまで高崎市に残っていました。


連雀町「警察署」「郡役所」の跡地は、つい最近までその関連施設に使われていました。


その跡地に造られた「藤五デパート」がなくなったのは、ずいぶん前のような気がするのに・・・。


  


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2023年05月13日

高崎唱歌散歩-30番 ♪行けば四つ辻連雀町・・・

行けば四つ辻連雀町
ここも商業繁華の地
郵便局や新聞社
警察本部に郡役所

連雀町の四つ辻は、高崎の元標です。
   ◇町の元標、道の元標

「連雀町」で思い出すのは、故高階勇輔先生です。
まだブログ駆け出しの13年前、初めて先生の楽しい講演を聴講したのですが、その時の演題が「連雀町今昔」でした。
さわりの部分をお聞きください。
(講演全体の動画はこちらから)

歌詞に出てくる「郵便局」「新聞社」「警察本部」「郡役所」は、こんな位置関係です。


まず「郵便局」ですが。
明治維新後の郵便取扱は民営の「郵便馬車会社」「中牛馬会社」が担っていましたが、明治六年(1873)に官営の「高崎郵便取扱所」が設置されます。
「高崎郵便局」と改称されるのは、その二年後です。

「高崎郵便局」は初め新(あら)町にありましたが、明治十八年(1885)に局舎が類焼し、明治二十四年(1891)連雀町に新局舎を造り移転してきます。
ところが、明治三十七年(1904)またもや類焼に遭い、翌三十八年(1905)に新築されたのがこの局舎です。


昭和二十年(1945)戦時疎開で、郵便業務は八島町、貯金保険業務は宮元町、電話業務は飯塚町に分散移転し、連雀町の局舎は取り壊されますが、その連雀町は終戦当日の同年八月十五日深夜に空襲を受けることになります。


そして二年後の昭和二十二年(1947)連雀町の元の場所に新局舎を再建するのですが、昭和二十六年(1951)一月またまた火災に遭ってしまいます。
よくよく火難の相があるようです。


その年の七月に急いで再建し、昭和三十四年(1959)には新たな局舎を建築します。
でもその局舎が使われたのはわずか十九年、昭和五十二年(1977)には高松町へ移転して現在に至ります。

話変わって、「新聞社」です。
連雀町にあった「坂東日報社」は、明治三十五年(1902)の創刊で、創立者は前橋の弁護士・大島染之助という人です。
当初の発行部数は「上毛新聞」を上回る勢いでしたが、集金がうまくいかず急速に部数を減らし、わずか四年で廃業することになります。


「坂東日報」の主幹を務めていた豊国覚堂は同紙廃刊の年、同じ連雀町「上野日日新聞社」を創立します。
しかし、一年経った明治三十九年(1906)吾妻出身の木檜(こぐれ)某に経営権が渡ると、豊国は翌四十年に第二次「坂東日報」を発刊します。
あくまでも、高崎での理想の新聞を発行したいという願いからだったといいますが、部数は伸びず明治四十二年(1908)再び廃刊となってしまいます。

一方の「上野日日新聞」は、大正二年(1913)前橋「上野新聞社」に吸収合併されます。
高崎の新聞社もこれまでかと思いきや、「上野新聞社」の方から連雀町「上野日日新聞」の社屋に移ってきてくれたのです。
その後、なんやかんやはありましたが、日中戦争以降の言論統制により、県内の新聞が「上毛新聞社」一社に統合される昭和十五年(1940)まで頑張り続けました。

ということで、高崎唱歌に歌われた頃の連雀町の新聞社は、「上野日日新聞社」と第二次「坂東日報社」の二社だったのでしょうね。

「警察本部に郡役所」は、次回に送りましょう。


  


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2023年05月06日

高崎唱歌散歩-29番 ♪九蔵町すぎ田町とて・・・

九蔵町すぎ田町とて
ここぞ名高き上州絹
五十(ごとお)の市の売買は
数万(すまん)の高に上るとか

「上州絹」については「新編高崎市史 通史編3」に、こう書かれています。
市域の村々で『女稼ぎ』として生産されていた絹は生絹(きぎぬ)と呼ばれるものが多かったが、玉糸を原料とする太織(ふとり)や真綿(まわた)もあわせて生産されていたのである。
これらの生絹や太織は、高崎や藤岡など最寄りの絹市で売買していたが、当時、江戸や京都の都市問屋商人の間では桐生を中心に織られていた綾織(あやおり)絹類を桐生綾、あるいは上州綾と呼んでいたのに対し、高崎市域を含む西上州の生絹を上州絹と呼んでいた。」

高崎藩は城下政策として、旅籠は本町と新(あら)町、紙は連雀町、そして絹・綿は田町というぐあいに、町ごとにできる商いを制限していました。
田町の「市」については、「高崎志」にこう書いてあります。
毎月五十ノ日市アリ、此市ニ限リテ絹綿売買アリ、元禄三年(1690)庚午八月ヨリ、他町ニテ売買スルヲ領主ヨリ禁セラルゝガ故也。」

市が開かれる「五十の日」とは、「五」「十」の付く日ということで、月に六回あるので「六斎市」とも言われます。
六回と言っても丁目毎には二回づつで、一丁目が十日と二十五日、二丁目が十五日と三十日、三丁目が五日と二十日に決められていたそうです。

市の立つ日には、江戸やその他の地から集まる仲買人が、常設店舗の前に仮設店舗(露店)を開き、近郷の農民が持ち込む生絹や太織を、口銭を取って売りさばくわけです。

その間、農民たちは町なかを見物し、絹が売れたお金で買物もしますから、”お江戸見たけりゃ高崎田町”の賑わいとなる道理です。

田町の絹市は明治になっても盛んに行われ、明治二十七年(1894)には通りから一歩入った所に、常設の「絹市場」が新設されます。



こうして高崎の商業を牽引していた「絹市場」ですが、昭和十七年(1942)に閉鎖されてしまいます。
戦時統制で全ての物資が軍事優先とされたからです。

戦後になって、「絹市場」跡地には「日本裏絹組合联合会」「群馬県絹人絹織物調整組合上州支部」が置かれ、その奥にあった「高崎絹株式会社」では、絹の卸が行われていました。


その「高崎絹株式会社」も昭和四十二年(1967)に問屋町へ移転して、「絹市場」跡地は駐車場になりました。
それでも十三年前は、まだおぼろげに面影を残していたのですが・・・。
   ◇すもの食堂から絹市場へ

「すもの食堂」も、「珍竹林画廊」も、「高井京染店」もなくなってしまいましたが、その代わりにこんな素敵な「田町絹市場」ができました。


この広場を使って月の何日か、「クラフト市」でもやったらどうでしょう。
かつての「六斎市」のような賑わいが取り戻せたらいいのにな、と思います。


  


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2023年04月29日

高崎唱歌散歩-28番 ♪末広町なる新道は・・・

末広町なる新道は
前橋市へと出づる道
左に建てる建物は
県立高崎女学校

「末広町」という町ができたのは意外と遅く、明治三十五年(1902)です。
「新道」ができたのは、それよりずっと前の明治二十四年(1891)頃で、「前橋新道」と呼ばれました。


「新道」ということは「旧道」がある訳でして、「高崎の散歩道 第5集」を読んでみましょう。
明治初期までの前橋道は、貝沢・下日高・新保田中・箱田・小相木を経て利根川を渡り、実正(さねまさ)の関所から前橋へ入るのが近道であった。」

上の地図で言うと、「前橋新道」より一本東の、高砂町から前橋へ向かう通称「実政(さねまさ)街道」です。

続きを読んでみます。
明治五年(1872)、高崎から前橋に県庁が移転すると、県庁裏の利根川に舟を並べて板を渡した舟橋・曲輪橋が仮設され(現在の群馬大橋のすぐ上手)、前橋・高崎間の近回りコースとして、内藤分(ないとうぶん)村(現在の石倉)から古市・江田・日高・井野・貝沢経由の新道開発が始まった。
これの開通が明治七年(1874)ごろ、それまであった村道、野道をつないだ幅3m足らずのバラス道で、蛇行している部分もかなりあった。
すでにこの時、沿道村民はこの道を、前橋新道とか前橋復還(往還?)と呼んでいた(貝沢町井田義助氏蔵「明治十年貝沢村地誌」より)。」
ということで、明治七年には「前橋新道」と呼ばれる道ができてた訳ですが、貝沢からは「実政街道」を使いました。

この道が、「御幸(みゆき)新道」と呼ばれた時期もあります。
その後、明治九年(1876)に高崎安国寺に戻っていた県庁が再び前橋に移転し、さらに明治十一年(1878)、明治天皇行幸という大事に先駆けて再び新道整備が行われ(略)、行幸を記念して、この道は『御幸(みゆき)新道』と名付けられたが、その呼び名も一時的なもので、その後自然に忘れ去られ前橋新道という呼び名の方が長く親しまれて現在まで残っているというわけである。」

その十年後、「前橋新道」は新しいルートに変わります。
しかし、この前橋新道の高崎側、本町三丁目から普門寺跡を通って末広町、飯塚(飯玉)の踏切をわたり、塚沢小学校裏のホザナ料理学校の辺までは、当時まだ開かれていなかった。
この区間の新道が開通するのは、明治二十一年(1888)から同二十四年(1891)にかけて行った、高崎前橋間の道路改修整備後のことである。」

こうして、「前橋新道」全線が開通した訳です。
この「前橋新道」は大正九年(1920)「国道九号線」となり、後に「国道17号線」となっていきます。

「県立高崎女学校」は明治三十二年(1899)の開校なんですが、その時まだ校舎ができておらず、一年間「春靄(しゅんあい)館」を仮校舎として使用していました。

新校舎の建築はその年の夏ごろから始まったそうですが、敷地は水田地帯だったので、すぐ北の土を掘り取って土盛りすることから始めたと言います。
そして、翌三十三年(1900)四月、本校舎が竣工します。
土盛り用の土を掘り取った所は、水が溜まって池になりました。



校庭の樹々は、明治三十七年(1904)に日露戦争を記念して職員・生徒一同が植樹した200本のシイノキと、明治四十年(1907)に卒業生の一人が寄贈した40本のクスノキだそうです。


つい最近、「高等女学校」跡である高崎中央公民館の庭に、こんな「名所旧跡案内板」が建てられました。



「案内板」は、もうひとつあります。



よく見ると、たしかにクスノキには補修した跡が残っています。


高崎が初めて空襲を受けたのは、昭和二十年(1945)七月十日でした。
以降、終戦当日となる八月十五日の深夜まで、たびたび空襲を受けることになります。



「高等女学校」が爆撃を受けたのは、八月五日の夜でした。

風船爆弾をつくるために運び込まれていた火薬が、爆撃により誘爆を起したといいます。
  ◇風船爆弾と高崎高等女学校(1)
  ◇風船爆弾と高崎高等女学校(2)

クスノキは、戦前・戦中・戦後を見ていたのですね。
そして今、「新しい戦前」という囁きを聞きながら、世の行く末をじっと見つめているようです。

「新しい戦中」が来ないことを祈らずにはいられません。


  


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2023年04月15日

高崎唱歌散歩-番外編 山田町の昇明社

明治三十年(1897)の「髙﨑街全圖」を見ると、山田町「昇明社」というのがあります。


どんな会社なんでしょう。
「新編高崎市史通史編4」の索引で「昇明社」を引くと、こんな表の中にありました。

明治二十三年(1890)にできた製糸会社で、須藤市之助という人が代表になっています。
しかし、表以外の記事は何もありません。

いろいろ調べていると、故高階勇輔先生が「商工たかさき」に連載していた「高崎産業経済史」に、少し記載がありました。
旭社は明治二十年現在で資本金額で第一位を占め、翌年、生産が軌道に乗って営業高一万円を超え、他社を圧倒する存在であった。(略)
他方、高崎の両替商の須藤清七による昇明社が設立されたのは明治二十三年のことである。
この二社がこの時期の高崎製糸業で支配的地位を占めていたとはいえ、製糸諸結社の簇生的状況の中から、都市商業資本による問屋制型改良座繰製糸によって高崎周辺部にその支配の網の目を張りめぐらすには至らなかった。」
おや?と思うのは、「須藤清七が設立」とあることです。
前掲の表では、代表者は須藤市之助となっていましたが・・・。

ここで、須藤清七について少し書いておきましょう。
高崎の大実業家でありながら、その生涯を著したものは意外と少ないのですが、多胡碑記念館和田健一氏の「石碑めぐり」の記事が実によくまとまっているので、使わせて頂きます。


少し補足すると、父は岡田平左衛門、母は竹女、清七の幼名は柳太郎
元旦の生まれだと言いますから、そこからして傑物です。
幼くして少林山達磨寺の僧に書算を習い、家業の農事を嫌って村の群童と商いごっこをして遊んでいたと言います。

志を抱いて江戸へ出たのは嘉永元年(1848)十四歳の時、働きぶりが主人に認められ、十七歳にして番頭として店の一切を任されるようになります。
独立を決意して鼻高村の故家へ帰ったのが安政三年(1856)(安政五年説もある)四ッ屋町に移って古着商を始めるのはその翌年のことです。

自分の衣類を売って得た金十円を元手に、日々古着を背負って市内外各地を行商して歩き、次第に売上を増やしていきました。
そして二十四歳で妻を娶り、妻の姓である須藤となります。
(参考図書:「上毛近世百傑伝」)

前掲「石碑めぐり」の文中、「蚕種業に転じて大失敗」というのが出てきますが、「上毛近世百傑伝」ではこう書かれています。
時に年廿七歳 后(の)チ高崎藩の竝用達(御用達)ヲ申付ラル君ハ 蠶種ヲ輸出セント欲シ 數萬枚ヲ越後國ヨリ買入レ 横濱ニ持チ往キタルニ 意外ニ失敗ヲ生ス
君數年ノ刻苦奔走貯蓄シタル金圓一時ニ消滅ス
嗚呼恐ル可キハ商業ナル哉」
それまでの貯蓄が一時に消滅したというんですから、えれーこん(えらいこと)です。

それにもめげず再び横浜で成功をおさめ、明治三年(1870)高崎九蔵町「第二国立銀行」の真ん前に両替店を開くわけです。


そして明治二十三年(1890)山田町に器械製糸工場を設立し、「昇明社」ブランドで海外貿易に乗り出します。



しかし、明治二十八年(1895)の「第四回内国勧業博覧会」の審査では、あまり良い評価を得られませんでした。

「昇明社出品は糸質不良にして絡交(らっこう:生糸を枠に巻き取る際に生糸に与える一定の秩序)不正、加うるに色沢(しきたく:色つや)また佳ならず」なんて言われちゃってます。

そしてやがて衰退していくのです。
「高崎産業経済史」の続きを読んでみましょう。
さて、「第三次全国製糸工場調査表」(1900年現在)には昇明社は掲載されていない。
また明治三十年の「勧業年報」に記載されたのを最後に、「年報」に登場しなくなる。
おそらく同社はこの頃から急速に衰退過程を辿ったものと推定される。」

明治三十三年(1900)65歳の清七は家政を嗣子・市之助に任せ、自身は別荘「椿荘」(現・暢神荘)で悠々老後を送ろうと思っていたようです。

が、高崎市に於いて水力電気事業の計画が起こり、もうひと頑張りすることになるのですが。

一方「昇明社」は、明治四十三年(1910)「信用販売組合甘楽社山田組」と改称されますが、昭和四年(1929)発行の「上毛産業組合史」には「経営を誤り中途で解散するの止むなきに至ったか」という記述があります。

さて、かつて「昇明社」があった場所は何処で、今はどうなっているんでしょう。
「昇明社」の住所は山田町9番地だということが分かっており、明治時代の道筋も割合と残っていますので、ここら辺だなと見当がつきます。


「高崎聖オーガスチン教会」の真ん前です。


「山田町」、なかなか面白い歴史をもつ町です。


  


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2023年04月08日

高崎唱歌散歩-27番の続き ♪北に連なる町々は・・・

九蔵町には大雲寺
銀行問屋数多し
北に連なる町々は
椿高砂山田町

九蔵町の北に連なるのは、椿町、高砂町、山田町です。


「椿町」(つばきちょう)は、慶長三年(1598)にできた町で、箕輪「椿山権現」を勧請する予定でその町名を付けたのに、井伊直政が慶長六年(1601)に佐和山へ移封することになっちゃったので、「椿山権現」の勧請は取りやめたけど町名は残ったという町です。

椿町で有名なのは、料亭「暢神荘」(ちょうじんそう)でしょう。



立派な庭園が自慢の老舗料亭です。

それもそのはず、かつての「高崎の三名園」のひとつで、唯一今に残る名園です。

その由来が、箸袋に記されています。


「暢神荘」を東へ行くと、「西郷山法華寺」に突き当たります。


このお寺について、「高崎志」はこう書いています。
昔箕輪椿山ニ法華堂トテアリシヲ、此ニ移ス、井伊直政ノ家臣西郷藤左衛門ト云者、中興シテ寺トス、
土俗相伝フ、慶長三年西郷藤左衛門町割検地ノ事ニアヅカリシガ、此地東北ノ隅ニシテ何レヘモ属シ難キ地ナル故、直政ニ請テ箕輪ノ法華堂ヲ移シ、中興シテ寺トスト云、故ニ西郷山ト号スト云伝タリ、」
「法華寺」を中興した西郷藤左衛門は、高崎城下町の町割をプランニングした人物だった訳です。

西郷家は名門で、徳川家康の側室・西郷局(さいごうのつぼね=お愛の方)は、二代将軍・秀忠の生母になります。
西郷局の従姉弟にあたるのが藤左衛門正員(まさかず)で、家康から井伊直政に遣わされ、箕輪の領地統治を担当していたと言います。(井伊直政家臣列伝 西郷正員 ~秀忠生母の一族~)

藤左衛門がプランニングした時の中山道は、本町から椿町を抜け、法華寺の前を南に折れて通町から倉賀野へ抜けるのが街道筋だったそうです。

藩主が井伊(十二万石)から酒井(五万石)になったので、中山道は椿町を通らず、手前の本町三丁目で南へ折れることになりました。
そうならなければ、椿町はもっと大きな町になっていたかもしれませんね。

「高砂町」(たかさごちょう)は明治五年(1872)にできた町で、それ以前は「江木新田」(えぎしんでん)と呼ばれていました。
過去記事がありますので、ご覧ください。
  ◇史跡看板散歩-31 高砂町(1)

「山田町」(やまだちょう)は、「龍見町」と同じように、江戸詰めの高崎藩士を受け入れるためにつくられた町で、赤坂村の地内だったので「赤坂郭」と呼ばれました。
今も、それを彷彿させるような建物が残っています。


「山田町」という町名になるのは明治六年(1873)なんですが、なぜ「山田町」なのか、ちょっと不思議です。

田島桂男氏著「高崎の地名」にはこう書かれています。
この赤坂郭が、城の艮(うしとら:丑と寅の間、東北のこと)にあたり、艮は山の意味を持っていることから命名された。」

「高崎の散歩道 第十二集上」での金井恒好氏もこう書いています。
艮は鬼が出入りするという鬼門の方位。
鬼は伝説上の山男であることから、鬼門である艮の方位を山と見立てて山の字を、また、赤坂郭は赤坂村の田地に置かれたので田の字をとり、これを組合わせて山田町と命名した。」

鬼が出入りする町なんて、あまり縁起の良い町名とは言えませんよね。
教養・博識に富んだ昔の人がそんな町名を付けるでしょうか。

私なりにちょっと調べてみたのですが、そもそも「鬼門」という考え方は、中国の「山海経」(せんがいきょう)という伝説的地理書や中国民話に出てくるもののようです。
ものによって多少のちがいはありますが、おおよそこんな話です。
滄海(東海)のなかに度朔山(どさくさん)があり、山上には大桃木がある。
三千里にもわたって曲がりくねり、枝の間の東北方を鬼門といい、そこは萬鬼(ばんき)が出入りするところとなっている。
山上には二神人がいて、萬鬼をみはっていた。
悪害をもたらす鬼は葦の縄で縛ってとらえ、虎の餌食とした。」
(Wikipedia)
ということから隠居が思いついたのは、こうです。
赤坂郭はたしかに鬼門ではあるけれども、「山」の上には二人の神人がいて、鬼が悪さをしないようにちゃんと見張っているから大丈夫だよ、これから発展して「田町」のように栄えるんだよ。
そんな思いを込めた町名だったのではないかと、ひとり思っている次第です。

「山田町」については、もう少し書きたいことがあるので、また次回に続けましょう。


  


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2023年04月01日

高崎唱歌散歩-27番 ♪九蔵町には大雲寺・・・

九蔵町には大雲寺
銀行問屋数多し
北に連なる町々は
椿高砂山田町

「九蔵町」という町は、その由来からして面白い町です。
過去記事「史跡看板散歩-28 九蔵稲荷」をご覧ください。

「大雲寺」は、高崎城の鬼門除けとして慶長四年(1599)に箕輪から移されたお寺です。


もう14年前になりますが、高崎歴史資料研究会代表の中村茂先生から「大雲寺に山本勘助の子孫の墓がある」と教えて頂き、驚いたことがあります。
今では、多くの人に知られているようです。

「大雲寺」には他にも有名人のお墓がいくつもあります。
寺所蔵の市重要文化財「水墨雲龍図」を描いた武居梅坡とそれに補筆した娘婿の梅堤、梅坡の養父で歌人の武居世平の墓が並んで建っています。


梅坡梅堤の作品は、あの「和泉庄御殿」にもありましたね。



武居世平の歌は、成田山光徳寺にある和田三石のひとつ「上和田の円石」に刻まれています。


絵師とすれば、江戸末期から明治にかけて活躍した高崎の浮世絵師・一椿斎芳輝(歌川芳輝)の墓も「大雲寺」にあります。

ただ、どこにあるのかちょっと分かりにくい。
芳輝の本名は芳三郎、江戸日本橋から上州高崎の旅籠屋「壽美餘志」(すみよし)を営む田中家へ婿入りします。
その田中家の墓域が北東隅にあるのですが、芳輝の墓は物陰にひっそり隠れるように建っています。

戒名「流芳院永寿椿翁居士」がようやく読めました。

芳輝の子と孫は、それぞれ有名な旅館や割烹店を営みます。
  ◇駅から遠足 観音山(35)

それに因む三基の墓石が同じ墓域に並んで建っています。

台石に「宇喜代」「高崎館」「錦山荘」と刻まれているのが読めるでしょうか。
そのどれもが閉館してしまったのは、誠に残念なことです。

九蔵町は、高崎城鬼門除けの「寺町」でしたが、明治に入って二つの銀行が建ち並ぶ「銀行街」になりました。

その先駆けとなったのが、「第二国立銀行」「茂木銀行」です。
過去記事がありますので、そちらをご覧ください。
  ◇史跡看板散歩-117 旧第二国立銀行と茂木銀行跡

さて長くなりました。
「北に連なる 椿高砂山田町」については、次回ということに。


  


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2023年03月25日

高崎唱歌散歩-26番 ♪本町一・二・三丁目・・・

本町一・二・三丁目
商店櫛比(しっぴ)軒ならべ
新規を競ひて売出(うりいだ)
市内第一繁昌地

現在の本町一・二・三丁目の区割りはこうなっています。


「櫛比」とは、「櫛の歯のように隙間なく並んでいる様子」を言うそうです。
明治三十七年(1904)「群馬県営業便覧」に載っている本町の商店群ですが、たしかに、びっしりと並んでいます。

その中で聞き慣れないのが「勸工塲」(かんこうば:勧工場)でしょう。

「勧工場」については、「新編高崎市史 通史編4」にこう書かれています。
第一回の内国勧業博覧会が明治十年(1877)八月に東京で開かれた。
これは各種の国際博覧会に触発され、かたわら政府の掲げる殖産興業の実をあげるために企画されたもので、上野公園を会場として開催された。
出品物の即売も行われ、好評のうちに終了したのち、残った商品を処分するため新たに陳列所を設け販売した。これが勧工場のはじまりであり、のち各地に私設勧工場が続出した。
高崎でも明治二十一年(1888)、本町一丁目の北側に勧工場が開店した。
これまでの伝統的な商いのかたちであった「座売り」を排除して、掛け値なく「正札販売」に徹し、取扱品目も玩具・文房具・化粧品・食料品を除く雑貨類を商う小型のデパート方式の店舗が現れたのである。
勧工場の出現は、当時の商人に衝撃を与え、商店近代化に影響を与えた。」

「高崎繁昌記」にイラストが載っています。


中の様子は、こんな感じでした。
店内の商品はガラスケースに揃えられ、U字形の回遊性をもたせた店舗にハイカラな雰囲気を漂わせて陳列されていた。
建物の持ち主がいて、出店者を募り、彼らの支払う出品料が家賃に相当した。通常、出品料は一円五十銭から二円五十銭であった。」
(新編高崎市史 通史編4)

出店者の一覧が「高崎繁昌記」に載っています。


建物は、明治十八年(1885)に建てられた「北部連合戸長役場」を利用したそうです。


「勧工場」の出現により、人々の買い物スタイルも変化します。
これまで中流以上の家庭では買物は自宅に取り寄せて品選びをする慣習があったが、勧工場商法は、彼らをショッピングに赴かせ、陳列商品の中から自由に選んで買物したり、ウィンドーショッピングを楽しむこともできるようになった。」
(新編高崎市史 通史編4)

後に、新紺屋町にも「勧工場」ができましたが、大正末期になって共に廃業となったそうです。

法政大学イノベーション・マネジメント研究センター発行の「ショッピングセンターの原型・勧工場の隆盛と衰退」の中に、東京市の勧工場数の推移を表にしたものがあります。

これを見ても、大正期に向かって急速に数が減っているのが分かります。

同センターの南亮一氏は、その原因をこう考察しています。
老舗や有名店にとっては出店するほどの魅力がなかったということであろう。
勧工場は、自前で店舗を出せない弱小業者の集まりになりがちであった。
勧工場が誕生した当初は、陶器や美術品、最新の雑貨類など、各地の有力な手工業者などが自慢の品を出品していたが、富国強兵政策のもとで我が国の工業化、大量生産化が進むにつれて新しく生み出された工業製品のうち、あまり品質のよくないものを仕入れて勧工場で売って稼ごうとする人が増えた。
次第に「勧工場物」とは品質が悪い商品の代名詞となってしまった
売れ行きが悪くなると価格競争が起きて価格が下落し、それが商品の質の低下に拍車をかけた。
正価販売は勧工場の特長のひとつだったはずだが、勧工場の店のなかには勝手に値引きして販売する者も現れた
店員の質も問題となった。
当時、老舗の小売店では丁稚として店で働き始めた若者に対し、年長者が商いをする上での様々な知識を伝えていた。
店舗は教育の場でもあったのである。ところが、勧工場の小さな売り場は、低賃金で雇われた者が一人で店番をすることが多く、十分な教育を受けることもないまま店を任されることが多かった。
若い店員たちは店員同士で無駄話をしたり遊ぶことが少なくなかった。
こうした店員の質の低さは人々の勧工場に対する印象を悪化させた
当然、こうした勧工場に対する評価の急速な悪化は勧工場内で商売してみようという小売業者らの意欲を削ぐことになり、館内で商売をしていた小売業者らの求心力をなくし、勧工場から有力なテナントがひとつまたひとつと抜けていった。」

これは東京の勧工場についての考察ですが、高崎でも似たようなことがあったのかも知れません。
思うに、勧工場自身の問題もあったでしょうが、一般商店の方も「勧工場方式」の良いところを取り入れて、人々の満足度を上げていったということもあったのではないでしょうか。

さて、その後の本町通りの変貌ぶりを見てみましょう。

【昭和三十六年(1961)の本町通り】

まだまだ櫛の歯は健在のようです。

【昭和四十七年(1972)の本町通り】

まだ元気ですよ。

そして現在。
【令和四年(2022)の本町通り】

仕舞屋(しもたや)が増え、空地や駐車場が増えて、櫛の歯もずいぶん欠け落ちてしまいました。
再び「櫛比の町」にするには、どうしたらよいのでしょう。
「人々の満足度を上げる」、これは古今問わず、商売繁盛や町活性化の変わらぬキーワードであるのでしょうが・・・。

本町に関する過去記事はたくさんあります。
この際ですから、ずらっと挙げときますか。
お時間のある時にでもどうぞ。
  ◇史跡看板散歩-11 高崎の根本・本町
  ◇本町今昔物語(1)
  ◇本町今昔物語(2)
  ◇本町今昔 蔵探し(1)
  ◇本町今昔 蔵探し(2)
  ◇本町今昔 蔵探し(3)
  ◇本町今昔 蔵探し(4)
  ◇本町今昔 蔵探し(5)


  
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2023年03月18日

高崎唱歌散歩-25番の続き ♪請地町より成田山・・・

請地町より成田山
不動明王縁日は
月の下旬の七八日
老若男女群集する

「威徳寺」の山号「慈応山」「成田山」になった経緯は、「更正高崎旧事記」に書かれています。
同駅本町平民後藤保五郎(旅館堺屋)ナル者、発起シ、下総国海上郡成田山新勝寺ヨリ、不動尊及二童子ノ古像ヲ請待シ、威徳寺ヘ成田山出張(でばり)ヲ設置セン事ヲ出願セシニ、是亦許可アリテ、乃チ同寺旧廟ヲ用テ不動尊ノ堂宇トセリ。」

「成田山出張」を設置した後藤保五郎という人は、「威徳寺」参道入り口で「堺屋」という旅館を営んでいました。

保五郎さんが何故そうしたのかまでは書かれていませんが、そもそも「威徳寺」は元藩主の祈願所で、檀徒衆がいる訳でもなく、寺を維持していくのは大変なはずです。
そこで名のある「成田山」の分院を勧請すれば参詣する人々で賑わい、檀徒も増えるのではないかと考えたのでしょう。

そんな保五郎さんの願いが叶い、明治十年(1877)五月、成田山不動尊の入仏が成りました。
しかし、そうすぐに効果が現れた訳でもなかったようです。
境内に建つ「中興開山 阿闍梨宥海之碑」にこう刻まれています。


(そも)當山ハ當市本町初代後藤保五郎成田山不動明王ヲ信仰スルコト深ク 同九年髙﨑城三ノ丸ヨリ城主ノ霊廟ヲ現地ニ移シ 下総ヨリ本尊ヲ勸請シ成田山出張所ヲ創設セシニ基ス
然レトモ業未タ草創ニ属シ 基礎確立セス前途ノ事業蓋シ尚尠(すくな)シトセス」

そこで、阿闍梨宥海(あじゃり・ゆうかい)が中興の祖として活躍することになるのです。
まずは宥海和尚の経歴です。
成田山光徳寺中興開山阿闍梨宥海和尚ハ 千葉縣印旛郡吉岡村松本儀左衛門ノ三男 安政四年四月八日生ル
十歳ニシテ千葉郡平山邨(むら)東光院宥正和尚ノ室ニ入リ 慶應三秊(年)得度ス 師ニ随テ四度加行ヲ修シテ 盛範阿闍梨ヨリ傳法灌頂ヲ受ケ 明治七秊(年)師跡東光院ヲ繼ク 同年髙照阿闍梨ヨリ三寶院流ノ秘奥ヲ傳フ
同九秊(年)照輪教正ノ徳ヲ慕ヒ成田山ニ到リ 薫陶ニ浴シ大ニ其ノ材ヲ識ラレ 選ハレテ同十七年當山ニ留錫ヲ命セラル
阿闍梨ハ 時ノ本山法主照鳳大僧正ヨリ㝡モ(最も)信任ヲ蒙リ 主任トシテ執行ヲ委任セラル」
ということで、本山の命により宥海和尚が「成田山威徳寺」に着任したのは、明治十七年(1884)のことでした。

さてそこから、様々な改革が始まります。
先ツ(まず)永代日護摩講ヲ組織シ 漸次ニ教線ヲ擴張シ境内地購入整理 大門道路買入修築 伽藍改増築ヲ行フ
同四十五秊(年)遂ニ埼玉縣ヨリ光徳寺ノ寺名ヲ移轉シ 爰ニ始メテ寺院公稱ノ宿志ヲ遂ク
次ニ奉賛會ヲ組織シ 會員千餘ヲ獲教勢愈盛ナリ」
護摩講を組織し、境内や参道を整備し、伽藍も増改築し、奉賛会員は千人を超えます。
さらに、埼玉にあった「光徳寺」という寺名を、明治四十五年(大正元年/1912)に移転したとあります。

実は「威徳寺」は、明治四十年(1907)すでに富岡「施無畏寺」(せむいじ)に合併され廃寺となっていたのです。



こうして「成田山威徳寺」「成田山光徳寺」となった訳ですが、宥海和尚の改革はまだ続きます。
昭和六年多野郡ヨリ阿弥陀堂ヲ移シ 髙嵜十職千餘名ノ奉スル聖徳太子ヲ本尊ニ加ヘ 太子ノ帝國學藝創設ノ洪徳ヲ唱讃ス」

その「太子堂」がこれです。


こんな経緯で、「成田山光徳寺」「月の下旬の七八日 老若男女群集する」までになりました。
昭和八年(1933)、宥海和尚の喜寿と在職五十周年を記念し、信徒たちによって「中興開山 阿闍梨宥海之碑」が建てられました。

その四年後の昭和十二年(1937)、宥海和尚は八十二歳で遷化されました。


合掌。


  


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2023年03月11日

高崎唱歌散歩-25番 ♪請地町より成田山・・・

請地町より成田山
不動明王縁日は
月の下旬の七八日
老若男女群集する

現在の「請地(うけち)町」です。


もとは「赤坂村」「前請地」という字(あざ)でしたが、明治三十五年(1907)に「請地町」になりました。


「請地」という地名の由来はあまり定かではないようですが、田島桂男氏著「高崎の地名」には、こう書いてあります。
『請地』は『請田』と同じ意味と考えられる。
これは、小作を永く勤めあげた人に対して、地主がその労に報いるために、あがりのよい田を贈ることがあり、これを『請田』といった。
もう一つ、大地主から、誰かがある地域の田を引き受けてきて、働き手を手配し、田植えから収穫までをすることも『請田』といった。
したがって、地主から誰かがもらった田地、あるいは、誰かが耕作、作物の栽培、収穫を請け負った土地のことと考えられる。」

「高崎の散歩道 第十二集上」では、金井恒好氏が少し違う説を唱えています。
これは、中世の荘園時代に発生した地名ではなかろうか。
荘園の荘官・地頭・名主(みょうしゅ)などが、荘園領主(荘園の持ち主で、本所・領家ともいう)と契約して、毎年一定の年貢を納めることを請け負い、その代わりに、荘園の支配や管理一切の権利を任される制度や、その権利を持つ者を請所(うけどころ、うけしょ)といった。
この仕組みにとって、請所、つまり荘官・地頭・名主などに年貢を取り立てられて支配された土地を、『請地』といった。(略)
請地の権力を強めた者は、鎌倉中期以後は地頭が、室町になると守護が、室町後期になって百姓の力が増大すると名主や百姓が請所の権利を握るようになった。
これを地下請(じげうけ)、百姓請、村請などといい、土地によっては、農民の手で村を管理する力が強まった。(略)
推測であるが、もとは赤坂荘全体が請所の支配下(請地)にあったが、荘園時代が衰え、請所制度がくずれていく過程で、ここだけ遅くまで請所の支配が残っていたのか、あるいは、百姓請が根強く残っていたのか。
他の土地は、それぞれ特色ある地名が育って行っても、ここだけは昔の制度が地名として名付けられて残ったのかも知れない。」

「前請地」の南に接していたのが字「町浦」ですが、やはり明治三十五年(1907)に「成田町」になりました。

「町浦」「町裏」で、本町の裏っ側だからですね。

その「町浦」にある「成田山」が町名の由来となりました。

現在の寺名は「光徳寺」ですが、上の地図では「威徳寺」となっています。

「威徳寺」は高崎城内にあった、大河内家の祈願寺です。


その「威徳寺」の由緒と「町浦」に移された経緯が、「更正高崎旧事記 五巻」に載っています。
服部権云、威徳寺ハ旧城内三丸坤(ひつじさる:西南)方ニアリテ、旧領主大河内家累世ノ木主(もくしゅ:霊牌)ヲ安置シ、且輝貞朝臣ノ世ニ当リ、五代将軍常憲院殿ノ特恩ヲ以テ、報恩ノ為メ該寺ニ一(ひとつ)ノ廟宇ヲ建築セラレ、霊牌ヲ安置シ奉リ、頗ル輪奐(りんかん:広大で壮麗)ノ美ヲ尽シ、尊重セラルゝ事啻(ただ)ナラズ。
然ルニ王政復古廃藩置県ノ時ニ際シ、旧城郭一円、陸軍省所轄トナルニ拠リ、其時ノ住持手塚良覚、明治九年(1876)六月中、高崎駅接壌北ノ方、赤坂村第三十六番地梶山氏持地ヲ卜(ぼく:吉凶判断)シ、耕地ヲ変換シテ清潔ノ地トナシ、爰(ここ)ニ移転セン事ヲ出願セシニ、速ニ許可アリタリ。」
城内が陸軍所轄になったので、明治九年(1876)に移したという訳です。

いま「威徳寺の内陣」が高崎市指定重要文化財となって、境内に残っています。
最近、近くまで行って見ることができるようになりました。


「威徳寺」の山号は「慈応山」だったんですね。

この後「慈応山」「成田山」に、「威徳寺」「光徳寺」に変わっていく訳ですが、ちょっと長くなりそうなので、次回へ送ることに致しましょう。


  


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2023年03月04日

高崎唱歌散歩-番外編 大橋町の和泉庄御殿

大橋町「和泉庄(いずしょう)御殿」のことが、上毛新聞に載りました。


過日、見学の機会を得、ブログへの掲載も快くご承諾頂きました。
ただ、あまりにも技術的・美術的見どころ満載の建物で、とてもとても私ごときの知識と語彙力では表現することができません。
そこで、評価は皆さんご自身にお任せしたいと思い、スライドショーにしてみました。
ご覧ください。


吉田家当主は代々庄八を名乗っていますが、初代は南蛇井生まれで「荘八」と書いて「しょうはち」と読ませ、元紺屋町の商家で修行の後、田町に店を構えたのだそうです。

屋号「和泉屋」「庄八」なので通称が「和泉庄」(いずしょう)、その五代目・庄八が接待用に建てたのが「吉田御殿」とも「和泉庄御殿」とも言われるこの建物です。

五代目・庄八の略歴が、昭和三年(1928)発行の「人事興信録」に載っています。

五代目は先代の弟だったんですね。
16歳の時に家督を継いだというんですから驚きです。
あれ?と思うのは、「金融業」となっていることです。

明治三十年(1897)の「高崎繁昌記」では、「和泉屋」の主は吉田啓三郎の名前になっています。

この人が先代なんでしょうね。

家督相続をした明治三十七年(1904)の「群馬県営業便覧」では、啓三郎庄八の連名になっています。

でも、「金融業」とは書いてありません。

金融に関係するとすれば、明治三十一年(1898)に設立した「高崎銀行」の設立者の中に、吉田庄八の名前があります。

これが五代目・庄八だとすると十歳ということになります。
まさかですよねぇ。
「人事興信録」には、五代目・庄八を継ぐ前は「佐太郎」という名前だとありましたし・・・。
分かりません。

「佐太郎」といえば、昭和四十二年(1967)に田町の長老たちが集まって「田町昔ばなし座談会」というのをやってるんですが、その席で佐太郎さんのエピソードが語られています。
いくつか抜粋してみましょう。(多少、編集しています。)
佐々木 佐太郎さんって人は、よっぽど変わっていたんですね。
織茂 とにかく珍談続出で、一時間や二時間では語り尽くせないほど、いろいろの実話を聞いておりますけれどね。
佐々木 とにかく、電燈があのまわりの家には全部ついていたのだが、あの家だけはランプだったんだ。
織茂 早起きの家でね。
佐々木 正月のお元日には、近所へみんなダルマを配ったんだね。
田口 くれるんですがね、こっちはそれが迷惑でした。
佐々木 大晦日で、みんな夜、遅いでしょう。その次ぐ朝、早くドンドン戸を叩くんでね。
昔は、みんなヨロイ戸みたいな小さな窓が付いていましたね。
そこを開けると、そこへダルマさんをにゅっと出すんだね、黙って。
織茂 梅山の親父さんが古着屋の小僧さんだった頃、甚兵衛の材料になるものを何か持って来いって。四時だよ、四時に持って来いって。
それで玉田寺の四時の鐘が鳴り終わるのを待って木戸を開けて「ごめん下さい」って入って行ったら、とても機嫌がよくてね、「お前は実に頭がいい。四時の金を背負って入って来た」と言って、後ですぐ番頭さんが三宝に金田の饅頭を百五十個載せて持ってきたんですってよ。
佐々木 気に入ると米一俵でもくれてやったんだから・・・。
織茂 子どもがお堀へ落っこったんですね。それで、運送曳きが抱き上げてみたら、これは和泉庄の坊ちゃんだ、大変だってんで、運送車に乗せて引っぱってきて、「坊ちゃんがお堀に落っこったんで連れてきました」って言うと、「この野郎、ふてえ野郎だ。おらあちの倅だと思って、おべっかいにおべんちゃら使いやがって。さっさと米一俵持って帰りやがれ」ってんで、番頭に米を背負わせて持たせてやったってんだね。
片山 これは黙って取っておけばいいんですけれどね。礼に行くと・・・。
織茂 また、取り返されちゃうんだ。
片山 持って行かれちゃうんです。
【発言者】佐々木芳治郎(一丁目区長)、織茂利一(オリモ洋服店社長)、
     田口小次郎(田口タンス店社長)、片山弘(テーラー片山社長)


ま、豪快な人だったようですが、いいものを残していってくれました。

「和泉庄御殿」をこれからどのように残していくのか、多くの課題がありそうですが、クラウドファンディングという良い仕組みもあるので、行政と市民が知恵を出し合って守っていけたらと、切に切に思っております。


  


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2023年02月25日

高崎唱歌散歩-24番 ♪橋を渡れば大橋町・・・

橋を渡れば大橋町
渋川行きの馬車鉄道
長野直江津方面に
飯塚駅のステーション

「住吉町」の北端を流れる「長野堰」は、むかし「大川」と呼ばれており、三国街道に架かる橋は「大橋」と呼ばれていました。
現在、「大橋橋」なんて名前になっちゃってますが・・・。


その「大橋」を町名にしたのが「大橋町」です。
「大橋町」には「中山道鉄道(現・信越線)」の線路を挟んで、南に「飯塚駅(飯塚停車場)」、北に「群馬馬車鉄道株式会社」がありました。


「高崎唱歌」がつくられた明治四十一年(1908)に高崎-渋川間を通っていたのは「鉄道馬車」でした。
過去記事「電車みち」をご覧ください。

「中山道鉄道」「飯塚停車場」は明治十八年(1885)に開業した駅です。

過去記事「高崎唱歌散歩-2番 ♪汽車の線路はたて横に・・・」もご覧ください。

これ、「大橋町」にあるんだから「大橋停車場」となりそうなものですが、停車場ができた当時ここはまだ「飯塚村」で、「大橋町」はできてなかったんです。


明治二十二年(1889)に高崎が町制を施行した時、線路から南の飯塚村高崎町に編入されます。
そしてそこが「大橋町」になるのは明治三十五年(1902)です。

しかし、「大橋町」になってもなお停車場は「飯塚停車場」のまま、大正十二年(1923)に「北高崎駅」となってしまいます。


ヒトとモノの往来が盛んな三国街道と鉄道駅を有する「大橋町」は、次第に人家や商店が増え、周辺の村や町を取り込みながら成長していきました。
現在は、こんな大きな町になっています。


その「大橋町」に、「御殿」と呼ばれる建物があるのを皆さんご存知でしょうか。
次回はそのお話をいたしましょう。


  


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2023年02月18日

高崎唱歌散歩-23番 ♪北一面を見渡せば・・・

北一面を見渡せば
遙かに聳ゆる榛名山
山と高きをたたくらぶる
高崎中学茲にあり

「室田道」を歩きながら北一面を見渡したんですね。


明治三十五年(1902)に「台町」になる前は「台原」と呼ばれていたくらいですから、今のように建物もなく、遙か榛名山までスカッと見渡せたのでしょう。


「山と高きをたたくらぶる」「たたくらぶる」って何でしょう?
辞書を引いても出てきません。
たぶん「たたえくらぶる」じゃないですかね。
高崎中学の気高さは、榛名山「讃え比べられる」ほどである、という意味なのでしょう。
高崎市民の誇り高き学校だったんですね。

その「高崎中学」=「群馬県立高崎中学校」が開校されたのは明治三十一年(1898)です。
昭和十三年(1938)には上和田から乗附に移転をし、昭和二十三年(1948)「県立高崎高等学校」になりました。
詳しくは過去記事「史跡看板散歩-4 高崎中学校跡」をご覧ください。

では、今回はこの辺で。


  


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