2018年07月22日

史跡看板散歩-101 長根神社

国道254号、吉井町長根「西部コミュニティセンター入口」という長い名前の信号を左(南)に入ります。


曲がって170mほど行くと右側に「長根神社」があり、鳥居を潜った左に史跡看板が建っています。



看板に書かれている「獅子舞」については、高崎市のHPにもう少し詳しく書かれています。


社殿は、127段の石段を上った高台にあります。


「境内地は長根城跡の一部で・・・」と看板にある通り、神社は「長根城」の北東の方角、つまり鬼門に位置します。


神社の裏には、見るからに土塁と思しきものが続き、


その土塁が切れた所を入ってみると、


「本丸」跡が広がり、奥の方に「殿様の墓」が見えます。


道なりに進むと、図でいう「横宿」「光円寺」、現在「上の場公民館」の前に出ます。


公民館の前には、六地蔵と何やら東屋のようなのが建っています。
そこに、こんな看板が掛かってました。


つい、右上から縦に読みたくなってしまいますが、左上から横に読んでください。
これで見ると、六地蔵は「光円寺」というお寺の名残り、東屋のようなのは「不動堂」の堂宇だったのかなぁ、と思います。

公民館のすぐ左に、「長根城本丸跡」という石柱と、説明板が建っています。



この道の奥に「殿様(小河原家)の墓」があります。
墓地には、古い石祠や墓石、板碑がたくさん残っています。


「長根城」の図を見ていて気になって仕方なかったのが、右下に書かれている「たもと観音」です。
橋のたもとにでもある観音さまなんでしょうか。

探していると、ちょうどアジサイの剪定をしている方がいたので、「この辺に、たもと観音というのがありますか?」と聞くと、「このすぐ下だよ。右に下りる道があるだろ。」と教えて下さいました。


けもの道のような坂の先にお堂のような建物が見えます。


行ってみると、「元三大師」という扁額が掛かっていて、これではなさそうです。
左手前に折れる石段の先には立派なお堂があって、境内のあちこちに石仏が建っています。
そのどれかが、「たもと観音」なのかなぁ・・・。


と思ったら、このお堂がそうでした。


ただ、肝心の「袂観音」の由来が書いてありません。
「上野国志」にあるから、それを見ろという訳です。

しかたなく「上野国志」を見てみると、たしかに多胡郡の項に「袂之観世音菩薩縁起」という記述がありました。

毛呂權蔵著「上野国志」(明治43年発行)より

ただ、すべて漢文で、素養を持ち合わせない迷道院には読み下しができません。
どなたか漢文にお強い方、ご教示頂けたら幸いです。

ま、字面から推測すると、大体こんなことが書かれてるんじゃないかと思います。(間違ってたらごめんなさい。)
法界の数多くの衆生を救おうと、大和の国の機が熟したのを見て、千手観音菩薩は本邦の至る所に聖閣を設けた。
当寺の本尊は行基大士が彫った千手千眼観音で、その妙なるお姿と威厳は四方の人々から信仰された。
堂宇は飛騨の匠により造営されてから数百年数十世になる。

法灯が灯されたのは一千年の昔、信州伊奈郡の伊藤長者の娘の話に始まる。
その娘は玉のように艶やかで、花のように美しく、父母親族の深く厚い愛情を受けて育った。
しかし、この娘は幼い頃から仏を崇敬し、長じてくると出家をしたいと言い出して、父母の制止の言葉も聞こうともしなくなった。

娘が十七歳になった時、父母は強引に結婚をさせようとするが、娘はその日のうちに家を出て行ってしまう。
驚いた父母は親族とともに後を追い、多胡郡長根村大悲閣の近くでようやく娘に追いつき、なおも逃げようとする娘の袂を捕らえて引っ張ったところ、袂は千切れてしまった。
千切れた袂が寺の窓から堂内に入ったと見るや、娘の姿が見えなくなってしまった。
堂内には、ただ千手観音の尊像があるだけだった。
人々は大変不思議がって、それ以後、袂之観世音と呼ぶようになった。」

失礼をして堂内を覗いてみると、千手観音像の前に白い布が巻き付けてあります。
もしかすると、これが千切れた「袂」


因みに、ここ「常行院」は、樹齢600年と言われる「ラカンマキ」があることでも有名です。


大変長い記事になってしまいましたが、なかなか奥深い歴史スポットでした。


【長根神社】


【長根城本丸跡】


【袂観音】



  


2018年07月15日

史跡看板散歩-100 奥平城跡

場所の説明が難しいのですが、多胡橋北詰の岩崎の信号を富岡方面へ右折して2.7km、岩平小学校を過ぎたら上奥平方面へ右折します。

そこから250mほど行くと、左側にポツンと史跡看板が建っています。
後ろのこんもりした所が「奥平城跡」です。



看板から70mほど行くと、「奥平城跡」の入り口です。


道の草は払われているんですが、奥へ行くとすっかり竹林になってしまっていて、城跡らしき姿はわかりません。


「中世吉井の城館跡」に載っている図で見ると、大手を上って来て、八幡社付近で佇んでいるようです。


「申田川」(さるたがわ)越しに、武家屋敷があったという「九台」(くだい)が望めます。


南側の「桜沢」も深い谷になっていて、敵は容易に登れそうにありませんが、すぐ近くにある「ゴルフ城」から飛び道具を使って玉を撃ち込んでくるようです。


「九台」の集落への入り口に、「史蹟奥平公廟所」の石柱が建っています。


「奥平城」の主・奥平氏は、看板に「十四世紀の末に三河国に移った」と書いてありますが、「中世吉井の城館跡」には、
天授年間(1375~80)三河国作手(つくで)に移った。
その後もこの地に奥平氏は残ったが、永禄六年(1563)武田軍の攻撃を受け落城した。」
とあります。

集落入り口から150mほど上って右へ曲がり、さらに30mほど行くと墓地があります。
そこに、「奥平家発祥之地」という大きな石碑が建っています。


隣に、「奥平氏開基 仁叟寺跡地碑」という標柱が建っていますが、現在吉井町神保にある「仁叟寺(じんそうじ)」のことで、同寺の開基は応永年間(1394~1427)と言いますから、この地に残ったという奥平氏が開基したのでしょう。
因みに「公田院仁叟寺」「公田」は、「九台」のことらしいです。

一方、三河に移って命脈を保ってきた奥平氏は、天正三年(1575)の長篠の合戦に於いて目覚しい武功を上げ、一気に家運を上げます。
長篠合戦の功により(奥平)信昌は上野国宮崎へ三万石を以て封ぜられ、次男家治は長根、四男忠明は小幡を与えられ松平を姓として故地に錦を飾った。
以後十万石の大名として系を伝えて現在まで二十六代、大分県中津城内に居住する。」
(中世吉井の城郭跡)

ご近所の方のお話では、今もご子孫の方が墓参に見えるそうです。

人と土地それぞれに歴史あり。
すごいことだなぁ。


【奥平城の史跡看板】


【奥平家発祥之地碑】



  


2018年07月08日

史跡看板散歩-99 天久沢観音堂

吉井インター直近の「牛伏山自然公園」入口に、「天久沢(あまくざわ)観音堂」の史跡看板が建っています。



「天久沢観音堂」は、ここから直線距離で400m、道のりでは800mも離れた所にありますので、現在地から観音堂までの略地図が描いてあります。
ぜひ行ってほしいという、地元の方々の気持ちがよく伝わってきます。

ただ欲を言えば、略図の向きを左に90度回転させると図と現地の方向が合うので、より分かり易くなったと思います。
ついでに言えば、案内ルート(赤線)が上信越自動車道の下を潜ってるように描かれてますが、実際は上を跨いでいますので、何かの折に修正して頂けたらと思います。
すみません、部外者がつべこべと。

その上信越自動車道を跨ぐ橋を渡ると、小高い丘の中腹に「天久沢公園」の看板が見えてきます。


駐車場に車を止めて、けっこうな鉄製の階段を上ると・・・、


なかなか、いい眺めです。


そりゃ眺めもいいはずで、武田信玄がここに陣を構えたというんですから。
実は、桜の季節も静かでいい穴場なんですよ。

(2006年4月撮影)

回廊状になってる桜の並木道から石段を上ると、「天久沢観音堂」があります。



昭和五十九年(1984)に改修された堂には、平成元年(1989)美しい天井絵と欄間絵が施されました。


観音堂の脇に、詳しい由来を書いた看板が建っています。


看板表題の「天久沢陣城」跡が、現在の「天久沢公園」です。


文中の「一郷山城」牛伏山に、



「新堀城」多比良(たひら)の普賢寺の所にあった砦です。


位置関係はこうなります。


それにしても、信玄はよくまあここまで出張ってきたものです。
「天久」という馬は、きっと天翔けるように速く走れたのでしょう。
馬に乗れる人はいいけど、ついてくる徒歩きの兵隊さんはさぞ大変だったでしょうね。

大変といえば、観音堂の正面にものすごく急な石段があります。

きっと昔はこれが参道だったんでしょう。

やめようかと思ったんですが、覚悟を決めて下りてみると、「牛伏大橋」の袂に出ました。


やれやれ、また上るしかありません。


162段ありました。
ふー。


【天久沢観音堂の史跡看板】


【天久沢観音堂】


【一郷山城跡】


【新堀城跡】



  


2018年07月01日

史跡看板散歩-98 黒熊の浅間神社と入野碑

吉井町の東のはずれ、国道254号線の「黒熊」の信号を南へ入った所に、今回の史跡看板が建っています。


看板は、2つ並んで建っています。



「浅間(せんげん)神社」はここから南へ800m、「入野(いりの)碑」は南へ1kmの所にあると書かれています。

狭い上り坂をくねくねと「入野碑」の矢印看板に導かれながら進み、上信越自動車道の下を潜ると「浅間神社」があります。


歴史のありそうな石の鳥居を二つ潜って、石段を上ります。


社殿まで、107段ありました。


「浅間神社大綱」という、立派な石碑が建っています。


史跡看板より詳しく「浅間神社」へのことが刻まれていて、後半部分に「ゴルフ場開発に伴い、奥浅間にあった石殿を境内に移した」とあります。

これが、その石殿です。


「浅間神社大綱」碑の前を進んで境内を抜けると、「入野碑」への道があります。


うへーっという感じの上りです。


ふくらはぎがつりそうになる頃、「入野碑」に辿り着きます。





ふと足元を見ると、「ゴルフ」という無粋な標杭が埋もれてました。


平成三年(1991)発行の「中世吉井の城館跡」によると、この場所は「黒熊中城」「第二砦」で、「第一砦」「浅間神社」、かつて「石殿」があったという「奥浅間」「第三砦」で、物見台・狼煙(のろし)台として使われていたということです。


ところで、地名の「黒熊」が気になって仕方ありません。
山ですから、熊が生息していたんでしょうか。

昭和五十三年(1978)発行の「多野郡誌」を見ると、こう書いてあります。
大字黑熊村
天正年間ノ頃ハ黑駒ノ稱ヲ用ヒタリトイフ
或云(或いは言う)小幡未大夫(羊太夫)家臣黑駒太郎ノ居リシ處ナレハ採リテ以テ村名トナシタリト」

「羊太夫」の家臣に「黒駒太郎」という人がいた、という訳です。

へ~、と思って調べてみました。
羊太夫伝説を伝える書き物はいくつかあるようですが、「羊太夫栄枯記」「黒熊太郎」という人物が出てきます。

羊太夫が従者・小脛(こはぎ)の脇の羽を抜いてしまったために都へ参内することができなくなり、謀反を疑われて兵を差し向けられます。
その時、羊太夫の命を受けて敵陣視察に行ったのが、黒熊太郎です。
敵陣ノ間(ま)モ何程共(いかほどとも)知レサレハ、黒熊太郎政利ヲ召(めさ)レ、汝敵陣ニ至(いたり)テ、陣古屋(小屋)ノ様子、又者(は)道ノ交(まじわ)ヒ、何程乎(か)見テ参レト有ケレハ、畏(かしこま)リ奉リ候ト、一騎乗リヌケ、敵陣近ク成リケレハ、馬ヨリ飛下リ、忍ヒ足ニテ立回クリ・・・」

戦闘の場面にも登場します。
官軍ノ前備(まえぞなえ)、岡山平治兵衛ハ、諸勢ニ後(おく)レテ打ケルカ、臼井川(碓氷川?)ヘ颯(さ)ット乗リ込ミ、向ノ岸ヘ上ラントスル處(ところ)ヘ、黒熊太郎同ク馬ヲ乗リ込ミ、續テ岸ニテ追ッ付、後ロヨリ引組ンテ、兩馬カ間ニ落ルト等ク、押ヘテ首ヲ掻キ落ス・・・」

「黒熊」というだけあって、けっこう強者だったようですが、最後は討ち死にしてしまいます。

一族郎従が皆討ち死にしたのを見た羊太夫は、金色の蝶となって天引山の方へ舞ったと見えたが、突然鴟(とび)に変じて池村の方角へ飛び去ったそうな。
黒熊太郎は、村の名に残っていつまでもいつまでも村を守ったとさ。(迷道院の想作です)
おしまい。


【浅間神社と入野碑の史跡看板】


【浅間神社】


【入野碑】



  


2018年06月24日

史跡看板散歩-97 首塚八幡宮(2)

「新町商工会館」「新町公民館」の建物の先にあるのが「堂場墓地」です。


「境野翁顕彰碑」は、墓地北の三差路にありました。
正確には、「境野清衛翁碑」でしたが。


養蚕技術の研究と伝習に生涯を尽くした人物のようです。


おどろきました。
墓地の北西角に「閻魔堂」があるんですが・・・、


その脇に、「神流川合戦戦歿者供養塔」というのが建ってるじゃありませんか。


その左側面には、
天正十年盛夏 滝川北条両軍六万数千 神流川ヲ中心ニ合戦ス 多数の戦歿将士ハ 茲ニ埋葬サルト伝ハル
当山四百二十年祭式典に嚴修スルニ当リ 供養塔一基建立シ回向ヲ呈ス
昭和三十九年四月二十一日 宝勝寺」
と刻んであります。
前回の「新町明治百年史」の記載とぴったし合うじゃありませんか。
再掲します。
前年(明治四十三年/1910)の大洪水の時に、森新田方面の堤防を突破した多量の濁流が、鐘紡工場付近に押しよせ、さらに宮本町(1区)仲町(2区)に流れ込み、泉横丁は当時坂道であったので、急流な川瀬に変じた。
このため泉横丁道路の土砂が流失、水のひいた後はくぼ地になり、悪道路となっていた。
この補修のため新町農会の青年の方方が奉仕し、明治44年春早早堂場の塚を取り崩し、この土砂を道路に運び地ならしをした。
その内塚の底に、サレコウベ(どくろ)が重なり合って埋もれていたので、青年たちを驚かせた。
首の部分だけ数百余。骨の腐朽程度から3~400年経たものと思われ、成人のものらしいとのことである。馬の大たい骨らしいもの数十あったが、『どくろ』と同じくらいの古さだったとのことである。
町の古老によれば堂場の塚は往時合戦の首塚であったという伝説を、年寄りから語り聞いていたとのこと。
これ等の『どくろ』は戦死者の首級と思われるので、当時堂場墓地の川へりに埋葬供養した。(略)
堂場の塚は現在境野翁頌徳碑あたりにあり、高さ1丈5・6尺(4.5~4.8m)位で、塚の上に小さな古い石ほこらが1個あった。
昭和39年宝勝寺は開山420年の記念行事の内にこの埋葬地付近へ『神流川合戦戦没者供養塔』を建立した。」

たしかに、ここ「堂場墓地」の所なら、塚を崩した土で道を補修したという「泉横丁」はすぐ近くです。


因みに、「宝勝寺」小判供養塔のあるお寺、「泉横丁」はその小判が発見されたところです。

それにしても、「首塚八幡宮」近くの字「堂場」から遠く離れたこの墓地が、なぜ同じ「堂場」なんでしょう。
「閻魔堂のある場所」「堂場」なんでしょうか。
ということは、「字堂場」にも何らかの「お堂」があったんでしょうか。
それとも、首を失った「胴」が散らばっていた「胴場」なんでしょうか。
うーん、わからん。

さて一方、「首塚八幡宮」のある「実見塚」からは、どうも骨は見つかってなさそうです。
新町10区実見塚地内にある塚は、昔から神流川合戦の首塚と伝えられている。
塚の上に古い石のほこらがあるも文字等の刻まれた形跡はない。
昔は塚の上に老松あり、塚の高さも2丈近く(6m余)あったので、武州児玉町から塚の上にある老松が見渡せたと言われている。
明治、大正の頃、ひそかに塚を掘りかえし、刀剣類を捜す人達があって、塚がくずれ、現在は低い。
昭和37年(1962)建碑当時は、塚とは名ばかりで台地となっていた。
塚一面に雑木、雑草がおい茂るヂャングルであった。
それでもこのほこらに願かける人もあって、草むらをかき分け、参拝に見えられた跡がある。首から上の病には祈願すれば効験があると言われている。
建碑の有志の方々が、このヂャングルの雑木、雑草を除き、かやの古木(相当年数を経過したもの)1本を残し、合戦の由来を刻した首塚跡と首塚八幡宮の石碑2基の建設に奉仕した。」
(新町明治百年史)

ここ、本当に「首塚」だったんでしょうか?


ま、その昔、数人の支配者の野望によって、将兵、軍馬、それに巻き込まれた住民が、この一帯で多くの命を落としたことは事実なのでしょう。

最後に、神流川合戦の顛末をうまくまとめてある、「胴塚稲荷古墳」の説明板をどうぞ。



【神流川合戦戦没者供養塔】


【境野清衛翁碑】



  


Posted by 迷道院高崎at 07:27
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2018年06月17日

史跡看板散歩-97 首塚八幡宮(1)

新町の南端と言っていいでしょう、藤岡に近い字「実見塚」(じっけんづか)に、「首塚八幡宮」があります。



「実見塚」という字名は、看板にもあるように、神流川合戦で討ち取った者の「首実見」をし、それを埋めた「塚」があったという言い伝えからきているようです。

前からある史跡看板には、ここの西に「胴塚」もあると書いてあります。


行って見ると、民家と民家の間の路地の奥に、それらしい鳥居が見えます。


そこは藤岡市の指定史跡で、「胴塚稲荷古墳」となっています。


こちらの看板には、逆に「首塚」のことが書かれています。

ところがその「首塚」ですが、どうも首を埋めたのはここじゃなさそうなんです。
「新町明治百年史」に、こんな話が載っています。
前年(明治四十三年/1910)の大洪水の時に、森新田方面の堤防を突破した多量の濁流が、鐘紡工場付近に押しよせ、さらに宮本町(1区)仲町(2区)に流れ込み、泉横丁は当時坂道であったので、急流な川瀬に変じた。
このため泉横丁道路の土砂が流失、水のひいた後はくぼ地になり、悪道路となっていた。
この補修のため新町農会の青年の方方が奉仕し、明治44年春早早堂場の塚を取り崩し、この土砂を道路に運び地ならしをした。
その内塚の底に、サレコウベ(どくろ)が重なり合って埋もれていたので、青年たちを驚かせた。
首の部分だけ数百余。骨の腐朽程度から3~400年経たものと思われ、成人のものらしいとのことである。馬の大たい骨らしいもの数十あったが、『どくろ』と同じくらいの古さだったとのことである。
町の古老によれば堂場の塚は往時合戦の首塚であったという伝説を、年寄りから語り聞いていたとのこと。
これ等の『どくろ』は戦死者の首級と思われるので、当時堂場墓地の川へりに埋葬供養した。(略)
堂場の塚は現在境野翁頌徳碑あたりにあり、高さ1丈5・6尺(4.5~4.8m)位で、塚の上に小さな古い石ほこらが1個あった。
昭和39年宝勝寺は開山420年の記念行事の内にこの埋葬地付近へ『神流川合戦戦没者供養塔』を建立した。」

ということで、骨が出てきたのは「堂場」という所だそうなんです。


崩した塚があったのは「境野翁頌徳碑」あたりだというので、字「堂場」と思しき地域を歩き回ってみましたが、その碑が見つかりません。
「堂場郵便局」や、昔からやっていそうな店に飛び込んで聞いてみましたが、そんな碑は見たことがないと言います。

新町支所へも行ってお尋ねしましたが、初めて聞く話だということです。
それでも、調べてみて分かったら連絡を頂けるというので、名刺を渡しておきました。
すると1時間ほどして電話があり、「碑のある場所が分かった。」というのです。

新町商工会の所に「堂場墓地」というのがあり、そこに「境野清衛」という人の碑が建っているということでした。
しかし、そこは字「堂場」から北へ直線距離で1kmも離れています。
「?」とは思いましたが、行って見ることにしました。

長くなりそうなので、次回へ続けます。


【首塚八幡宮】


【胴塚稲荷古墳】



  


Posted by 迷道院高崎at 07:26
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2018年06月10日

史跡看板散歩-96 神流川合戦古戦場

新町の東端、「神流川橋」の袂に、「神流川合戦古戦場跡」の石碑やら、史跡看板やら、いろんなものが建っています。




これらが建っている場所は、小字名で「陣馬」と呼ばれ、滝川方が陣を構えた場所と伝えられています。
その場所にいま自衛隊が陣を構えているというのも、なにやら面白いことです。


その対岸の小字「勝場」北条方が勝鬨を上げたところ、本庄の小字「御陣馬」北条方が陣を構えたところと伝わるなど、神流川合戦に由来するとされる字名が残っています。

「新町七区の諏訪神社」に出てくる「毘沙吐村」は、まさに主戦場であったに違いありません。
「神流川合戦」の看板に書かれている「東歌」(あずまうた)について、「毘沙吐村」から移された「七区の諏訪神社」に説明看板が建っています。


お時間のある方は、動画でご覧ください。


次回は、北条方が滝川方の首実見を行ったという「首塚八幡宮」を訪ねてみます。


【神流川合戦古戦場史跡看板】



  


Posted by 迷道院高崎at 09:08
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2018年06月03日

史跡看板散歩-95 新町五区の諏訪神社

前回の「諏訪神社元宮」の場所から移設されたのが、五区にある「諏訪神社」です。


「元宮」の史跡看板は、ここに建てれば説明文そのままでよかったのにと思います。


旧中山道沿いの一の鳥居から参道を50mほど進むと、境内に入ります。


二の鳥居を潜って直角に曲がると神殿があるような配置になってますが、これについては、こんな話があります。
伝えによると中山道の南側に小千木良と呼ばれた旧家が北向きに参道の直前にあった。
笛木村からこの神社が遷座される際、神殿と向きあう形になるので、不敬に当たらぬようにと神社を東向きにしたのだという。」
(新町の神社と寺院)

拝殿前に、石造りの立派な由来碑が建っています。


最後の段に、明治三十九年(1906)の社殿全焼のことが刻まれていますが、日露戦争大勝祝賀会の神社の提燈が火元だったそうです。(新町の神社と寺院)

昭和十年(1935)に再建された本殿には、素晴らしい彫刻が施されています。



花咲か爺にしちゃ変だな、と思いつつ他の二面を見ると・・・、

楠木正成新田義貞だったので、児島高徳だと分かりました。
「太平記」がモチーフだったんですね。

境内の一番奥へ行って見ると、こんなのがありました。


洪水で埋まっちゃったのかと思いましたが、そうじゃありませんでした。


後ろ側に埋まっているのが、昔の「二の鳥居」、こんな風に建っていました。


手前に埋まってるのが、昔「一の鳥居」です。


新町「残す文化」を代表するような鳥居ですね。
すばらしい!


【五区諏訪神社】



  


Posted by 迷道院高崎at 07:28
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2018年05月27日

史跡看板散歩-94 新町宿諏訪神社元宮

新町駅の線路向こうにある「諏訪神社元宮」


史跡看板は、2つ建っています。
ほほーと思ったのは、この看板が敷地に対してちょっと斜めに建っていることでした。
つまり看板の面が道の方向を向くようにしてあるんです。
新町らしい、細やかな気遣いだなと思いました。




ただ、この「諏訪神社元宮」の看板、後半の説明文については、ちょっと残念に思います。
「新町町誌」にある「諏訪神社(五区)」についての説明文をそのまま使ってしまったので、「元宮」の地で読むとこんがらがっちゃいます。

こんな風に書き換えるとよかったんじゃないでしょうか。
元宮の石祠があるここ小字本屋敷には、旧笛木村の鎮守諏訪神社が建っていました。
承応三年(1654)落合村と笛木村が合併して新町宿になった時、諏訪神社は街道の北に移されました。
現在5区にある諏訪神社です。
元あった場所には石祠を祀り、これを元宮としました。」

字図に両社の位置を書き込むと、こんな感じになります。


ところで、「元宮」の隣の建物なんですが、すごく素敵だと思いませんか。


「岡崎醤油株式会社」の建物です。

倉庫か物置として使ってるのかなと思って窓から覗くと、人の姿が見えます。
目が合ってしまったので、一応会釈をしてすぐ離れたのですが、どうにも好奇心が抑えられません。
しばらく外でウロウロしてましたが、意を決して、木製のドアをガタン!と押して中へ入りました。

瞬間、小津安二郎の映画の中に飛び込んでしまったような感覚でした。
事務所の中の趣きも、振り向いた若い女性の清楚で美しい顔だちも、まるで映画のワンシーンのようでした。

会社のパンフレットがあれば頂きたかったのですが、パンフレットはないけどもと、A4一枚にまとめた会社概要をコピーしてくれました。

パンフレットに書いてある会社の歴史は、
 創業 1751年(宝暦元年)8月 群馬県新田郡
 移転 1923年(大正12年)5月 群馬県多野郡新町
とあるだけでした。

もっと詳しく知りたくなったので、調べてみました。
(「新町町史」、「近江日野の歴史第七巻」)

創業者は蒲生郡内池村(現滋賀県日野町)の岡崎傳左衛門という、いわゆる近江商人です。
宝永元年(1704)上州新田郡本町村(藪塚本町)に、「近江屋」という名前で酒造業を始めます。
宝暦元年(1751)に醤油・味噌の醸造も始めたので、「岡崎醤油」としてはこの年を創業年としたのでしょう。

文化十四年(1817)に、藤岡上町(現藤岡市)の近江商人小沢武右衛門から店と蔵を譲り受け、「近江屋孫九郎」という店を開きます。
大正三年(1914)に「近江屋」「岡崎商店」と改称、大正十二年(1923)新町に新工場を建設して藤岡から移転し、藪塚にあった本店も新町に移します。

ということで、この素敵な建物は大正十二年当時のものだそうです。
いつまでも使い続け、残していってほしいと切に思います。

「岡崎醤油」の建物があまりにも素敵だったので、つい「諏訪神社」の話が雑になってしまいました。
次回は、「元宮」の引っ越し先、5区の「諏訪神社」の話をしたいと思います。


【諏訪神社元宮】



  


Posted by 迷道院高崎at 07:00
Comments(4)◆高崎探訪高崎名所旧跡看板

2018年05月20日

史跡看板散歩-93 新町七区の諏訪神社

上武大学の東にある「諏訪神社」です。


ここには、史跡看板が2つ建てられています。



どちらの看板にも、「毘沙吐村」(びさどむら/びしゃどむら)という地名が出てきます。

変わった地名ですが、韮塚一三郎氏著「埼玉県地名誌 名義の研究」によると、
ビシャトのビシャは歩射(ブシャ)の転訛で、村の社の春祭りに歩射を行なったためにおこった。
なおビシャトのトは処の意である。
なお、歩射田はビシャのための行事の共有田をいう」
ということです。

その「歩射」が分からなかったのですが、こういうものらしいです。
御歩射(オビシャ)
騎射(ウマユミ)に対して、歩射(徒弓/カチユミ)で的を射る行事。
関東地方東部の神社で主に年頭に行われていた悪魔をはらい豊作を祈る農村行事。
弓で奉射的(ブシャマト)と呼ばれる大的を射て、当たった矢数でその年の天候や作物の出来具合を占った。 」
(ことばさあち)

「毘沙吐村」ですが、2つの看板に書かれていることを合わせると、「安政七年(1860)まで神流川の東、埼玉県上里町にあったが、弘化三年(1846)の大洪水で壊滅状態となり、神流川の西、新町下河原に村を移した。」ということです。

元禄十五年(1702)の絵図では、たしかに神流川の東に描かれています。


絵図で見る通り、烏川神流川の合流点に突き出しているような村で、まさに「歩射」によってその年の天候を占い、悪魔を祓わずにはいられない「処」だった訳です。

「毘沙吐村」が如何に川に翻弄されたか、「新町町誌」から、拾ってみましょう。
毘沙吐村は、古くは45町歩の耕地を所有していたが、年々の洪水による川欠け(土地流失)の連続によって、承応四年(1655)の検地帳によると、24町8反8畝24歩と約半分に減少していた。
その後の洪水によって17町歩の耕地を失い、さらに文政七年(1824)には畑2町6畝を洪水によって失い、この段階で耕地は5町2反2畝24歩と、(略)八分の一に減少している。
このような村柄に追い詰められた毘沙吐村は天保十三年(1842)には、次に掲げる隣接村々へ出作することになった。(略)
当時の村の耕地面積5町2反歩、出作面積22町3反歩余という極めて不均衡の所有形態であった・・・」

そこへ追い打ちをかけたのが、弘化三年(1846)の大洪水です。
この年の6月中旬から7月上旬にかけて大雨が降り続き、実に66%の土地が流失し、神流川に面した家25軒、烏川通りの家2軒が濁流に呑まれました。
その年の10月、村民は神流川対岸の笛木新町字下河原への全村移住を決意します。

笛木新町側との交渉や、代官への願書提出を経て、岩鼻陣屋から正式に移住許可が出たのは、嘉永元年(1848)のことでした。
そしてまず龍光寺諏訪神社を遷座し、新しい土地での平安な暮らしを祈ったのです。

しかし、全村民が移住するというのはそう簡単ではありません。
移住を逡巡する村民もいる中、安政三年(1856)またもや神流川の濁流が村を襲い、残っていた家の内4軒が流されます。
全村民の移住が完了したのは安政四年(1857)、実に9年の歳月が必要でした。

時は明治に変わり、行政区や税制が改められると、「毘沙吐村」にまた問題が持ち上がります。
上野国新町字下河原に移住しながら、武蔵国賀美郡毘沙吐村となっているのは名実に反し不都合であると、新町側からの合併話が出てきます。

毘沙吐村側では今まで通りにしたいと武蔵国の方に嘆願をしますが、新町側は明治九年(1876)から毎年のように県や郡に願書を出し続け、ついに明治十二年(1879)合併が決定します。

合併後は「川岸町」と改称され、「毘沙吐村」という地名は失ってしまうことになりました。
明治十八年(1885)の「二万分一迅速図」には、「旧毘沙吐村」と表記されています。


この歴史が、「諏訪神社」境内の「沿革之碑」(昭和十年/1935建立)に刻まれています。


新町へ移住した「毘沙吐村」はこうして消滅しましたが、実は「毘沙吐」という大字は、まだ埼玉県側に残っているんです。


現在だれも住んではいませんが、平成二十二年(2010)時点では2世帯あったらしいです。

平成22年(調査日 2010年10月1日)の国勢調査(総務省統計局)による

ということで、史跡看板の主題は「海老虹梁」「笠付庚申塔」なんですが、なぜか「毘沙吐村」の方がすごく気になった迷道院でした。


【新町七区の諏訪神社】



  


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2018年05月13日

史跡看板散歩-92 柳茶屋の芭蕉句碑

新町宿の東の端にある「八坂神社」です。


その「八坂神社」の鳥居の横に、「芭蕉句碑」と史跡看板が建っています。



近くには、史跡看板は要らなかったんじゃないの?と思うくらいの、立派な説明看板が建っています。




双方の看板を見ると、芭蕉がこの場所にあったという「柳茶屋」に来て句を詠んだようにも思えちゃいますが、そうではないみたいです。

江戸時代の俳人・柏木素龍という人がまとめた句集「炭俵」に、芭蕉庵によく通っていた俳人たちと詠み交わした内の一句として載っています。
傘に 押わけみたる 柳かな

こんな意味だそうです。
春雨のしとしとと降る中を、傘をさして外出していると、道端に大きな柳の木があり、もう若芽がだいぶんふくらんで、道の方にまで枝が垂れている。
ほかの樹木の枝なら、傘が破れるので避けて通るところだが、柔らかそうな、しなやかな柳の枝なので、わざと開いたままの傘で、垂れている柳の枝を押し分けてみた。
傘の紙にふれる柳の小枝、はらはらと落ちる雨雫、まさに雨中の春の柳であることだ。
季語は〈柳〉で春。〈押わけみたる〉の〈みたる〉は、〈してみた〉の意で、〈押し分けて〉柳をつくづくと見たというのではあるまい。」
(「新編日本古典文学全集 松尾芭蕉集」小学館)

看板によると、「柳茶屋の芭蕉句碑」は寛政五年(1793)~天保五年(1834)に、「柳茶屋」のそばに建てられたとあります。

「中山道分間延絵図」では、「八坂神社」「天王」と表記されてます。
「延絵図」は、寛政十一年(1799)に実地検分されて、文化三年(1806)に完成されたというんですが、「柳茶屋」らしきものは見当たりません。


「芭蕉句碑」も、けっこう転々としたらしいです。
「新町明治百年史」に、こんなことが書かれています。
(芭蕉句碑の)建主の湛水は医者で小淵健夫氏の先祖、白水は笛木玄次郎氏先祖で共に郷土の俳人である。(略)
明治の末に藤岡市の浅見作兵衛翁が、行楽園の築庭をする時、神流川近い田野に倒れていた碑石を発見し、其の地主から譲りうけ、行楽園の林中に建てたのがこの句碑だ。
浅見翁歿後昭和26年、藤岡市、原歯科医院主・原徳人氏が譲りうけて、氏の庭園に移し、句会を催して愛蔵していた。
当町史編纂委員はこれを聞き、町の文化財として永久に新町で保存したい希望のところ、原氏はこの気持ちをよく理解されすすんで寄贈された。
(昭和29年/1954)地元有志の奉仕作業で八坂神社の境内中山道に面して建てられた。」

昭和四十二年(1967)八坂神社境内に児童遊園地が設けられたということで、面白いものが滑り台に這い上がってます。


感心したのは、社の前にポリ箱が置いてあって、その中に「八坂神社」の謂れを書いた説明文が入っていたことです。


なかなかやるもんです、新町


【柳茶屋の芭蕉句碑】



  


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2018年05月06日

史跡看板散歩-91 新町宿高札場跡

「ハラダのラスク」発祥の中山道店の斜向かいに、同店の駐車場がありますが、そこに「高札場跡」の史跡看板が建っています。



看板に「高札場」の写真が載っていますが、これは新町宿のものではなさそうです。
たぶん、信州・追分宿のものだと思うのですが、注釈を付けておかないとまずいのではないでしょうか。

史跡看板が建てられる前にも、「高札場跡」を示す標柱は建っていたのですが、民家の敷地内でした。


その標柱もあたらしくなっていますが、前あった標柱には高札場の大きさが、
 高さ一丈二尺(約4m)
 長さ三間(約5.5m)
 巾一間(約2m)
と記載されています。
追分宿の高札場は、
 高さ九尺(約2.7m)
 長さ九尺(約2.7m)
 巾一間(約1.8m)
だそうですから、
新町宿のはけっこう大きかったんですね。

「中山道分間延絵図」に、新町宿「高札場」が描かれています。


「高札場」の左側(倉賀野側)が「落合新町」、右側(本庄側)が「笛木新町」です。

もともと、この両町は「落合村」「笛木村」という独立した村でしたが、慶安四年(1651)に両村が伝馬役を命ぜられて宿場として成立し、「新町」とか「新宿」とか呼ばれたようで、正式に「新町宿」となったのは元文年間(1736~41)だそうです。(日本歴史地名体系)

中山道の整備が終わったのは慶長九年(1604)頃と言われますから、「新町宿」はまさに「新しい宿場」ということになります。

その「新町」が、古き宿場の面影を残していて、街道歩きを楽しむ人の姿が絶えない町になっているのは、嬉しいことです。


【高札場跡】




  


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2018年04月29日

史跡看板散歩-90 於菊稲荷神社

春爛漫の「於菊(おきく)稲荷神社」です。(撮影:4月2日)


史跡看板は、一の鳥居の脇に建っていますが、ほかの史跡看板とはだいぶ趣きが異なり、神社の由来など書かれていません。


ここには8年前に訪問して記事を書いており、その中で簡単に由来も書きましたので、そちらをご覧ください。
  ◇むかし遊女で いま稲荷

その時から見ると社殿も新しくなり、随分ときれいになりました。


8年前、裏庭に住んでいた狐のファミリーも、表の「狐塚」前に引っ越して勢揃いです。


様々な願いが書かれた絵馬がずらーっと掛けられていて、たくさんの老若男女が訪れていることがわかります。


地域の人達にも愛されているようです。


「神楽殿」の隣に新しく造られた「御朱印受付所」は、ぜひ寄り込んで頂きたいところです。


御朱印やお守りももちろん頂けますが、中には貴重な宝物がたくさん展示されていて、小さな博物館のようです。
以前は見られなかった絵馬額や、蔵の中にずっと眠っていた新発見のお宝など、間近で見ることができます。

宮司さんがとても親切な方で、本には書かれていないような興味深い話を聞かせてくださいます。
私は、以前から気になっていた、境内の「於菊稲荷神社中興之神職 高橋宇吉翁寿碑」についてお尋ねしてみました。

高橋宇吉翁は、多野郡の「万場八幡宮」の神職でしたが、明治の初め、「於菊稲荷神社」の神職として新町へ来たのだそうです。

「於菊稲荷神社」は、文化・文政の頃に最も栄え、参詣の鈴の音が止むことがなかったといいます。

しかし、明治の神仏分離令により、別当寺の宝勝寺と切り離されてから荒廃していきます。

そんな中、宇吉翁は「通力自在」という、今でいえば高島易断の暦のようなものを発行し、これが評判となって神社経営に大きく寄与したとのことです。

また、新町という枠を超えた多くの人士との交流により、地域の発展にも大いに貢献したということで、人々はその功績を称えて、あのように大きな碑を建てたのだそうです。

ところで、本題とは関係ないのですが、神社のすぐ近くに、どれだけワンちゃんが好きなんだろう、というお家がありました。


とにかく、外壁にはワンちゃんの写真、地面やフェンスの上下にはワンちゃんの置物が、これでもか!ってほど飾られています。

ふと見ると、それに混じって迷道院の作った「上州弁番付表」も、貼って頂いてるじゃありませんか。


これは、光栄なことです。
ご挨拶をしたかったんですが、あいにくお留守のようでした。
いつかまた、お会いできたら嬉しいなと思っております。
ありがとうございました。


【於菊稲荷神社】



  


Posted by 迷道院高崎at 07:16
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2018年04月22日

史跡看板散歩-89 見通し灯籠

前回、「高瀬屋」に泊まった小林一茶のエピソードを記事にしましたが、その話に出てくる灯籠が、新町宿の東外れに建っています。


史跡看板は、そのすぐ脇に建っています。


看板の後半に書いてありますが、この灯籠は「専福寺」の住職が発願人となって再建されたものです。
それで、一茶に寄附をせがんだ男が「専福寺」の提灯を持っていたという訳です。

また、看板には「常夜燈が再建されたのは文化十二年」と書かれていますが、その後この灯籠は他の地へ売却されてしまったため、今建っている灯籠は昭和五十三年(1978)に再び復元されたものです。
その辺のことが、足元の石碑に刻まれています。


後半の部分です。
然し時流の転変は激しく、明治二十四年に髙崎市大八木村へ移されてしまった。
その後新町の有志達は、之を惜しみ幾度か復帰の交渉を重ねたがその熱意は報われなかった。
多野藤岡ライオンズクラブは創立五十周年の記念行事として見通灯篭の再建を企て、灯篭を原形に復し、再び交通安全のシンボルとし、かつは古き新町宿を偲ぶべく原地に近い国道十七号線の要所に建立して長年の要望を実現された。」

なぜ灯籠が大八木村へ移されたのかは記されておらず、表現も微妙にぼかしてる感じです。

相手方の大八木村にはもう少し詳しい話が残されていて、昭和三十二年(1957)発行の「中川村誌」の中に、こんな記述があります。
大八木の部落の中心点から、村の鎮守諏訪神社の参道入口に、屹立二十尺近い石造の高燈籠がある。
これが、先年多野郡新町から腕節の強い連中が一団、トラックで乗付て来て強談判をしたという、一茶・詩仏両大家と因縁のある、元上武国境中山道新町川原の北岸に建っていた見通し燈籠(燈台)で、浮世絵の大家渓斎永泉の木曽路道中絵にまで描かれた交通史上の貴重な文化財だったのである。(略)

一体そのような新町宿の文化財がどうして本村に来てるのかというと、それは明治廿四年の話、大八木で石燈籠が欲しいことがあり、人の噂に新町に廃物があるときいて、正常のルートを経ずに、一種のボスの手から包金で買って来た掘出し物、金毘羅大権現や文化何年は削り取って、六尺近い切石積の台上に据えると実に堂々たる威容。

今では火袋の中に電燈を引込んで、文字通りの常燈明台として村人の暗夜行路を照らしてる訳。
最近郷土意識熱が高まるにつれて、新町の文化人がこの燈籠に強い執着をもつに至ったのも尤もなことであろう。」

これが、大八木に移されたかつての新町宿「見通し燈籠」、現在は諏訪神社参道入口の「高燈籠」です。


たしかに大八木「高燈籠」には、文字を削り取った痕跡があります。


それにしても、こんな貴重な「見通し灯籠」が、なぜ新町で廃物になっていたのでしょう。

そのことについては、昭和四十六年(1971)発行の「新町明治百年史」に、こう書かれています。
明治2年、岩鼻県は神社に廃仏命令を伝える。
群馬県令では、道路わきの信仰物撤去と、民間信仰の禁止も命じた。
このため神社に祭られた仏教系の仏像なども、全部撤去され焼去された。(略)
中山道の道路に建てられてあった新町宿の見通し燈籠も、当時の人達は県令により取くづし、畑の端にでも積み重ねておいたものと思われる。

明治となって欧米崇拝の全盛期を控え、文明開化で洋風を積極的に取り入れようとして英文学が盛んな時代、和歌・俳諧などはあまり顧みられない。
俳人一茶も一般にまだ知られていない。
見通し燈籠には一茶の名は見えぬ。
一茶の七番日記を見なければ、新町宿の見通し燈籠と一茶の関係はわからない。

俳人一茶を知らない、その七番日記も見なかったらしい当時の人達が、見通し燈籠を現今さわがれている程の貴重な文化財と知る由もない。
全く知らなかったので、明治24年金20円で石原の石工とかに売却したものと思う。」

新町の人も大八木の人も、一茶ゆかりの石灯籠とは知らずに畑に放置し、売り飛ばし、文字を削り取ったのだろうという訳です。
知らなければ、そんなもんでしょうね。

それでも、物を使い回す文化が残っていた時代だから、まだよかったのだと思います。
今だったら、跡形もなく粉砕されてお終いだったでしょう。

「高崎市名所旧跡看板」によって高崎の歴史を知る人が増え、貴重な史跡がこれ以上失われることがないよう、願ってやみません。


【見通し灯籠】


【大八木高燈籠】



  


Posted by 迷道院高崎at 07:16
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2018年04月15日

史跡看板散歩-88 高瀬屋跡

「小林本陣跡」から200mほど行くと、小林一茶が泊まったという旅籠「高瀬屋」があった場所です。



史跡看板の隣には、立派な石の説明板が建っています。


双方によって原文と解読文が読み比べられるので、なかなか面白いです。
裏面には、「建碑の記」というのが刻まれています。


それを見ると、「最近まで旅籠屋の姿を遺していた」とあります。
探してみると、平成元年(1989)発行の「新町町誌」に、かろうじてその姿が載っていました。


一茶「七番日記」というのは文化七年(1810)~十五年(文政元年/1818)に書かれた日記で、その中に、父の墓参のために江戸から故郷の信州柏原へ行く途中の、「高瀬屋」でのエピソードが記されています。

一茶江戸を発ったのは文化七年五月十日、一茶、四十八歳の時です。
新暦では六月なので、梅雨時の天気を見ながら延ばし延ばしの出立だったようですが、結果は「災いの日を選りたるよう也」と嘆いています。
出立したその日に上尾でさっそく雨にあい、合羽を買ってさらに歩いて鴻巣宿で一泊します。

江戸日本橋から鴻巣宿まで12里8町6間(約48.0km)ということですから、かなり頑張って歩いたんですね。
翌十一日も雨で、その中を鴻巣宿から新町宿まで11里22町34間(約45.7km)の距離を歩いています。
本当は、倉賀野宿くらいまで行きたかったんですかね。

それほど頑張って歩いてきたのに、雨で川留めにあい、「道急ぐ心も折れて」と言っています。
そのうえ、「雨の疲れにすやすや寝て」いたら、「夜五更(よるごこう)のころ」にいきなり起こされて寄附をせがまれたというんですから、さぞかし、むっとしたことでしょう。

史跡看板では「夜五更」「午前四時」と言っています。
そんな真夜中にと思っちゃいますが、少し解説が必要だと思いますので、ちょっと理屈っぽい話になりますがお付き合いください。

江戸時代の人は、暗くなれば「夜」、明るくなれば「朝」という暮らしでそれほど不便はなかったのでしょうが、宿場ではそうもいきません。
木戸の開け閉めや、夜番の見回りがあるので、その時刻をはっきりしておく必要があります。

そこで、夜を「暮れ六つ」の鐘で、朝を「明け六つ」の鐘で知らせていました。
そして、その「夜間」を5等分して「更」とし、「更」ごとに夜番が交替して拍子木を打ちながら夜回りしていた訳です。
「交替」という字を替」とも書き、「夜がふける」「夜がける」と書くのも、この「更」からきているのでしょう。

ということで、「更」というのは、何時から何時までというをもっている訳です。
しかも季節によって「夜」の長さは変わりますから、5等分した長さも時刻も季節によって変わりますので、「夜五更」を一概に「午前四時」とは言えないのです。


では、一茶「高瀬屋」に泊まった時の「夜五更」は何時から何時なのでしょう。
一茶が泊まった旧暦の5月11日は、新暦では6月初旬から中旬、この頃の日の入りは午後7時、日の出は午前4時半ぐらいです。(国立天文台「前橋の日の出入り」より)

ただ、「暮れ六つ」の鐘は日の入りから30分後くらい、「明け六つ」の鐘は日の出の30分前くらいに撞くといわれています。

ですので一茶「高瀬屋」に泊まった時は、「暮れ六つ」が午後7時半、「明け六つ」が午前4時ということになります。
この間を5等分すると、5番目の更、「五更」は、「午前2時18分~4時」となります。

さて、一茶は、その間の何時ころ起こされたんでしょうか?

ここからは迷道院の推測ですが、一茶「明け六つ」の鐘を聞いてないんじゃないかと思うんです。
聞いていれば、「五更のころ」なんて言わずに、「明け六つ前」とか「明け六つの頃」とか言ってるでしょうから。

じゃ、「明け六つ」前に押し掛けてきたんでしょうか。
それはいくら何でも、それはいくら何でも、ご容赦下さいです。

おそらくですが、「明け六つ」の鐘が鳴るのを待って、ただし宿を早立ちされる前に、やって来たんだと思うんです。

きっと一茶は、「明け六つ」の鐘が鳴ったのも気付かぬほど疲れて眠っていたんだと思うんですが、みなさんどう思います?

ところで、一茶を起こしに来た連中は、なぜ「専福寺」の提灯を持っていたのでしょう。

そのお話は、次回ということに。


【高瀬屋跡】



  


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2018年04月08日

史跡看板散歩-番外編 小判供養塔

「小林本陣跡」のすぐ南に、「宝勝寺」というお寺があります。


このお寺の境内に、「小判供養塔」というのがあるというので行ってみました。

それは、「八幡神社」との境、南の角にあり、まさに小判の形をしています。


右側面には「昭和四年八月十五日發掘/小判三九六枚/一分百三十三枚」とあり、左側面には「金壹百圓也/當町助成會寄附」、そして施主四人の名前が刻まれています。

これは新町のある家の庭から、小判396枚と一分銀133枚が発掘されたというのが、事の始まりでした。
この事件(?)は、翌日の東京朝日新聞に二段抜きの見出しで伝えられています。


地元の上毛新聞は、一日遅れの17日夕刊に、ほとんど同じ内容で掲載しています。
ま、さすが地元新聞で、東京朝日の「藤枝署」という誤りを、きちんと「藤岡署」と直してはいますが。


小判が出てきたというお菓子屋さんはもうありませんが、どうやらこの辺にあったようです。


新聞に載ったことで、大騒動になります。
昭和四十八年(1973)に発行された「新町明治百年史」で見てみましょう。
当時国内は不景気の真最中、各新聞紙は3~4段ぬきで報じ、各新聞とも地方版だけでなく、全国版にも登載した。
そのためか今まで行先不明の旧地主や、旧借家人まで、数日を過ぎぬうちに集った。
町の人達は小判の発見にもびっくりしたが、よくもこんなに早くこの人達が集まったものだと驚いた。
結局警察署が中に入り、小判を配分して納まった。
この人達は小判供養塔を作って宝勝寺に供養建立した。」

当時は、地下三尺以上深い所から発掘されたものは、地主と発見者の権利ということになっていたそうです。
(小さな町の物語 新町)
一万円を手にした人たちが、百円の供養塔を建立したということですね。

騒ぎはこれで収まったのですが、そもそもこの金はどういう金だったのかということです。
「こんな大金を、当時の町人たちが持てるはずがない。」
(新町町史)
「この家は、徳川時代、岡引某が住んでいた。真面目に貯えた金なら、己の家の床下にでも埋めそうなものを、庭のしかも隣家との境目に埋められていたとは変だ。」
(新町明治百年史)

様々な噂の中で、もっともらしく語り伝えられているのが、新町宿で盗まれた加賀藩の御用金ではないかという話です。

「新町明治百年史」に載っています。
享和元年(1801)九月二十一日、金沢百万石前田侯の勘定方、土師清太夫一行が御用金を江戸に護送中、新町宿久保本陣に宿泊した。
一行の主なる役人もあと三日で江戸に着く。
やれやれ一休みと清太夫に連れられ、笛木宿のある茶屋で一杯やっていたところ、一家臣が顔色を変えて注進、御用金の内盗難で失ったものありと聞いて、清太夫は切腹した事件があった。
盗難の金高は何程か不明、いや盗難も金高もすべて一切がなかったように固く口止めされた。
急ぎ国元からこの不足分を取りよせ江戸に送り、表面は事なきを得た様だ。
切腹した勘定方は、笛木宿浄泉寺に土葬、(略)
当時の浄泉寺古文書には「遺品に御かご一丁、大小刀一振づつ、石高五百石、浄泉寺表門傍らの家にて急死す。大小を売り埋葬、小刀は笛木宿の某氏が買いたいと持参して返金なし」と記録されてあるのみ。」

たしかに、「浄泉寺」の本堂左脇には、土師清太夫の墓石があります。




戒名は「高智院殿勇雄義仰居士」、左側面には「加州金澤/土師清太夫㕝(こと)、右側面には「享和元年酉年九月廿一日」と刻まれています。

さて、「小判供養塔」のミステリー、あなたはどう解きますか?


【小判供養塔】


【土師清太夫の墓】



  


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2018年04月01日

史跡看板散歩-87 新町宿小林本陣跡

前回の「弁天橋」から東へ125mほど行った所に、今回の「小林本陣跡」があります。
この辺から見る風景は、なんとなく往時の中山道を偲ばせるような、いい雰囲気を漂わせています。


史跡看板は、昭和五十年(1975)に建てられた標柱の隣に建っています。



看板に「小林本陣」の間取図が掲載されていますが、「新町町史」には裏門まで描かれた図が載っていました。


「小林本陣」は建坪135坪余で門構えと玄関を備え、もうひとつの「久保本陣」は建坪42坪で玄関だけ、「三俣脇本陣」も玄関だけでしたが建坪は126坪あったそうです。
(中山道分間延絵図 第四巻解説)

「中山道分間延絵図」を見ると、「脇本陣代」というのもあったようで、二軒描かれています。
「本陣」「脇本陣」だけでは賄いきれない時に、臨時的に大きな旅籠屋をあてたのではないかということです。


平成七年(1995)発行の「上州路 No.251」には、「天保十四年(1843)書上帳」による、いわゆる「中山道上州七宿」の各宿の規模が一覧で掲載されています。
これを見ると、新町宿の旅籠数は、倉賀野宿よりも多かったんですね。
宿本陣脇本陣旅籠人口
新  町21431,437
倉賀野12322,032
高  崎00153,235
板  鼻11541,422
安  中1217348
松井田22141,009
坂  本2240732

新町宿の旅籠の多さは、街道の東西を神流川温井川、そして烏川が横断し、ちょっとした大雨で川が渡れなくなることが多かったこととも関係しているのでしょうか。

温井川烏川の合流点近くの林の中に、明治四十三年(1910)の大洪水を伝える記念碑が建っています。



原文は漢字ばかりで読みにくいので、「新町町史」に載っている要約文に頼りましょう。
此の地は烏川の本流に臨み天神川岸と呼ばれ、新町随一の要害の地であったが、弘安年間に(1278~1287)住民の夢枕に、虚空蔵菩薩が現れ、洪水の難から守るため汚れのない地域を此処に求めて祠り治水の工事を施せと宣託あり、住民は謹んで虚空蔵菩薩を勧請した。
この時は実に今から640年前であると刻している。
明治四十三年(1910)七月下旬より大雨が連日にわたりやまず、八月十日怒涛は土をまきおこし、大地は海の黄色の龍の如く、大波は渕に強く当たってくだけたが、虚空蔵の地は崩壊をまぬかれ、町民は安泰であったのは正に、これは虚空蔵菩薩の加護によるもの、仏徳の深きこと測り知ることが出来ぬと、世話人が謀って再興を企て、有志の寄附を仰いで境内の荒廃を修理し、大正八年三月十三日に尊像を建立した。」

川に挟まれた新町宿を水の禍から護る「虚空蔵菩薩」は、いまも散歩の途中にお参りしている人の姿を見かけます。



歴史は、つながっているのですね。


【小林本陣跡】


【虚空蔵堂】



  


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2018年03月25日

史跡看板散歩-86 弁天島の芭蕉句碑

旧柳瀬橋を渡って、中島(漆の内)の信号を左へ入るのが、旧中山道です。


そこから2.7kmほど行った所に、温井川(ぬくいがわ)に架かる「弁天橋」があります。

「弁天橋」の名の通り、右手上流側の橋下に「弁財天」が祀られています。


鳥居の手前に、「弁財天由来」の説明版が建っています。


現在は川岸のこの場所は、看板にあるように以前は川の中州だったようです。
寛政十一年(1799)に実地検分され文化三年(1806)に完成されたという「五街道分間延絵図(ぶんけん・のべえず)」のひとつ、「中山道分間延絵図第四巻 本庄・新町・倉賀野」を見ると、たしかに中州です。


「芭蕉句碑」と史跡看板は、鳥居を潜った左手に建っています。



句碑に刻まれた文字は、看板とはちょっと異なるようです。


一行目の「はせを」は、「ばしょー」つまり「芭蕉」です。
句の意味は、
「結ぶ(水をすくう)より早く、冷たさが歯に沁みるような泉だなぁ」
ってな感じでしょうか。

「泉」というのが夏の季語だそうですから、夏の焼けつくような熱さの中、延々と街道を歩いてきての句なのでしょう。
もちろん、この場所で詠んだ句ではないでしょうが、川の中州の「弁天島」の木陰に建てる碑としては、よくもぴったりの句を選んだものだと思います。

この句碑を建てた久保一静は、新町宿に二軒あった本陣のひとつ「久保本陣」の当主で、名主役も務めていました。
文化九年(1812)生まれで、幕末から明治にかけて地方の俳人として活躍し、明治二十七年(1894)八十四歳で没しています。(「小さな町の物語 新町」「中山道分間延絵図 第4巻解説」)

「弁財天公園」の街道の反対側に、こんなモニュメントが建っています。


その由来を書いた看板が、隣に建っています。


看板の字はやや風化して読みにくくなっていますが、モニュメントの裏側には同じ文がしっかり刻まれていますので、いつまでもその意義が伝えられていくでしょう。

歴史を大切に残していこうという、新町という町の文化度の高さが感じられます。


【弁天島の芭蕉句碑】



  


Posted by 迷道院高崎at 07:22
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2018年03月18日

史跡看板散歩-85 木部駿河守範虎廟所

「安楽寺」に続き、木部町「心洞寺」です。
参道入口に、「木部城主之廟所」という石柱が建っています。


史跡看板は、山門を潜ったすぐ左に建っています。



そこを左に折れた奥が、木部城主・木部駿河守範虎の廟所と家臣の墓です。


看板には「五輪塔」とありますが、これって「五輪塔」なのかなぁ・・・。


家臣の墓の方にあるのが「五輪塔」じゃないかと。
しかも、範虎のより立派に見える「宝篋印塔」もあるし・・・。


木部氏については、内山信次氏著「徐徐漂(ぶらり)たかさき」にこうあります。
木部氏は石見の国(島根県)の木部郷の出で、源頼朝の弟範頼の孫、吉見義世の子孫とされています。
戦国も終りに近い頃、古河公方成氏の縁をたよりに、関東に移りました。
範時(或は範次)は、はじめ山名八幡宮の裏山の一つ北の山の、鎌倉時代のはじめ新田義重の子山名範義の築いた、山名城の址に入ったようですが、当時は山城から平城に移る時代でしたので、平地に城を築いて、木部に移り、山名は戦時の要害城として利用したようです。
そのことは、現在の安楽寺は「山ノ上」から、心洞寺は「山名の金清寺平」から、木部氏の懇望により、天正の初めこの地に移ったとの伝えが裏付けています。」

木部氏が「木部館」から「木部城」へ移り、跡地へ「心洞寺」を移したのが天正元年(1573)という訳です。


看板の最後に、「木部姫伝説」の話が出てきます。
これは、いつも拝読している「南八幡の案内人」さんのブログに、紙芝居付きで紹介されていますので、そちらをご覧ください。
   ◇木部姫伝説(紙芝居民話)(南八幡の案内人)

「心洞寺」の石垣と土塁には、雷神が祀られているそうです。


その石垣に、「雨乞い祈願」のことを刻んだ石碑が埋め込まれています。


「心洞寺」でひときわ目を引くのが、この山門です。


正徳五年(1715)の火災の時、焼失を免れたものだそうで。

この看板では、「心洞寺」は文正元年(1465)建立となっている。

山門の天井では、龍が睨みをきかしています。


屋根の上でも、鬼が睨んでいます。


ところで、鬼の頭の上の字が読めません。
旁が「亀」なら、「秋」の異体字らしいんですが・・・。
どなたか、ご教示くださいませ。


【心洞寺】



  


Posted by 迷道院高崎at 07:37
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2018年03月11日

史跡看板散歩-84 お染の墓

木部町「安楽寺」
道を挟んだ墓地に「お染の墓」があります。


墓地の向い側には、とても可愛くて、とてもユーモラスなお地蔵様が。


史跡看板は、とても分かりやすい場所に建っています。



「お染って誰?」と思っていた方、この看板でようやく「あぁ、あのお染か。」とお分かり頂いたでしょうか。
それとも、まだ「お染久松・・・?」って感じでしょうか。

浄瑠璃や歌舞伎、あと映画にもなったらしいんですが、私はいずれも見てません。
だけど、「お染久松」は何故か何となく知ってるんですよね。
もしかすると、子どもの頃に聞いた、この歌からでしょうか。


「お染の墓」へは、案内板が適所に建てられていて、迷わずに行くことができます。
「お染の墓」という表示板も貼ってあります。
逆にいうと、それらが無かったら、まず分かりません。


墓石を見ても、「お染」という文字は刻まれていません。
それに、豪商の娘の墓にしては、小さ過ぎるようにも思います。
本当に、これ、「お染の墓」なんでしょうか?

実際の心中事件が起きたのは、宝永四年(1707)とも、宝永五年(1708)とも、宝永七年(1710)とも、まぁ諸説あるようです。
木部の「お染の墓」がいつ建てられたものか、墓石での視認はできなかったのですが、内山信次氏著「徐徐漂(ぶらり)たかさき」によると、元禄十四年(1701)とあるようで、「お染久松」が心中した年よりも前のもの、ということになります。

と言ってしまうと身も蓋もない話になっちゃうのですが、まぁ、それはそれ。
青森には、「キリストのお墓」もあるそうで、伝承・伝説はそれでよい、というのが迷道院の考えです。

「お染の墓」、いつまでも語り継いでいって欲しいものです。

ところで、この墓地で思いがけない人のお墓に出会えました。


「新倉賀野八景」の作者・飯嶋仲秋氏のお墓です。
しかも、これを建てたのは、下斉田小栗又一の墓を取材中に出会った、田口一之氏です。
その田口氏の環濠屋敷の表札に、飯嶋仲秋氏の名前を発見して驚いたのが、4年前でした。

ご縁の糸は、つながっているものですねぇ。


【「お染の墓」史跡看板】



  


Posted by 迷道院高崎at 09:21
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