2020年03月15日

史跡看板散歩-179 白川の満光寺跡

「白川辻集会所」の辻の角に、道しるべが2つあります。


手前のには、正面に「右經本郷至室田」、側面に「右經西新波至髙崎 左經楽間至前橋」とあります。


向こう側のは、字が薄れてて読めません。
しかも、てっぺんにワンちゃんの置き土産。

「犬の高ぐそ」とはよく言ったもんです。

集会所のフェンスに、史跡の手作り案内板が2つ括り付けてあります。


その内の一枚が、「満光寺跡」


ということで、先ほどの2つの道しるべの間の道を行ってみると、190mほど行った丁字路の角に史跡看板が建っていました。



「僅かに石仏や墓標を見ることができ」るというので、辺りを見渡してみると、畑の向こうに墓石がかたまっているのが見えました。


看板から南へ60mほど行くと左へ上がる道があり、その上に墓地が見えます。


上がっていくと、高台の上に古い石仏や墓石がズラーっと並んで、モアイ像のように遠くを見ていました。


その中に、看板にある「大聖護国寺の四十二世長春」の墓石がありましたので、ここに間違いありません。


並んだ石造物の中に、ちょっと気になる石祠が・・・。

丸に十字・・・、隠れキリシタン・・・?
まさかね。

満々たる春の光が、真っ白な梅の花弁に反射して、「満光寺跡」を照らしていました。


春ですなぁ。


【満光寺跡の史跡看板】


  


Posted by 迷道院高崎at 07:35
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2020年03月08日

史跡看板散歩-178 湯前の弁天池

前回の「白川陣屋跡」前の道を西へ500mほど行くと、喰い違いの四つ辻があります。
左に見えるのが「白川辻集会所」です。


集会所の道の反対側に、地域の人の手作りらしい看板が建っています。



看板にある「右前方、石垣の道」を25mほど入ると、道端に石仏と道しるべが建っていました。


道しるべには、「向 右經樂間至前橋 左經本郷至室田」と刻まれていますが、指し示す方向と、建っている場所に、ちょっと違和感を感じます。

そう思ってるところへ、ちょうど土地の人らしい人が通りかかったので聞いてみました。
これ、前からここに建ってましたか?」
ここに埋まってたんだよ。それを掘り起こして台をつくって据えたんだいね。」
あー、じゃ元々ここに建ってたんですかね。
道しるべって、ふつう角に建ってるのに、これは違うんで変だなぁって思ったんですけど。」
あ、そう言えばね、昔はここに道があったんだよ。
集会所の前の道路を広げたんで、ここにあった道をつぶして家を後ろに下げたんだいね。」
あー、じゃ昔はやっぱり角に建ってたんですね、きっと。」
なるほど、その道をつぶした時に、石仏と道しるべが埋められちゃったのかも知れませんね。

疑問が解けてさっぱりした気持ちで道なりに進むと、中に石祠の建ってる四角い池が見えてきました。


これが、「湯前の弁天池」ですか。


なるほど、透き通った水の中を色とりどりの鯉が、悠々と泳いでいます。


向こう側には、鯉の稚魚なのか、看板にある渓流魚なのか、小さな魚がたくさん見えます。


よく見ると、池の底から水が湧き出ているじゃありませんか。
動画でご覧ください。

あー、なんか、和むなぁ。


【湯前の弁天池】


  


Posted by 迷道院高崎at 07:26
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2020年03月01日

史跡看板散歩-番外編 白川陣屋跡

前回、「白川神社」「白川砦跡」へ行ったので、「白川陣屋跡」も見たくなって行ってみました。

「白川陣屋跡」は、「白川神社」の東南440mほどの所にあります。



「榛名町誌 通史編下巻」に、陣屋の平面図が載っていました。


陣屋跡から東へ40mほど行くと丁字路になり、その曲がり角に道しるべがありました。
上面には「向左經本郷至室田」、前面には「向右經和田山至箕輪 左經西新波至髙崎」となっています。

そこから20mほど南に、こんなものが建っていました。

「當地御代官 安藤弥四郎火葬塔」と刻まれています。

あれ?
「白川陣屋跡」の説明板には、「代官は下田家当主により代々世襲された」と書いてあったはずです。
この「安藤」という代官はどういう人物なのか。
しかも、「供養塔」ならともかく「火葬塔」ですから。
何か、曰く因縁がありそうです。

たまたますぐ近くに、その名も「安藤商店」というお店があったので、飛び込んでみました。


ご主人がこんな話をしてくれました。
謂れと言われてもよく分かんねんだけど、白川の土手の下に半分埋まったような感じんなってたんだよ。
それを掘りだして、ウチも安藤だからいいだろうって、そこに建てたんだいね。
もともと、今んとこにあったんだよ。
それがいつ、何で土手ん所へ持ってたのか分かんねんだけどね。
そんなことくれえしか分かんねぇな。」

ますます気になります。

斎藤勲氏著「みさと散策」には、こんなことが書かれています。
この塔はもと白川土手にあった。
拡巾工事で土手下に落とされ、ちょうど白川団地の北から二番目の道のまん東の土手下に頭だけ出して埋まっていたのを、掘り出して昭和五十五年五月十八日にここに建てられた。(略)
強いて言えば、安藤氏は領主酒井氏が勝山から派遣した直臣であり、死亡の際遠地なので当時は珍しかった火葬に付したのではないだろうか。
勝山藩の記録には安政から明治まで盾石徹が白川代官を務めたとあり、似たケースかと想像される。」

「白川陣屋」には、代官が二人いたということなんでしょうか。
分かりません・・・。


【白川陣屋跡】

【安藤弥四郎火葬塔】


  


Posted by 迷道院高崎at 07:22
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2020年02月23日

史跡看板散歩-177 白川神社と白川砦跡

前回で旧群馬町の史跡看板巡りはひと通り終わり、今回から箕郷町白川付近を巡ります。

まずは、「白川神社」から。

桜が咲くころはきっといいんだろうなと思うんですが、この日はまだ冬枯れの趣。
人っ子一人いない、静かな境内です。

鳥居はまだ新しく、平成十三年(2001)の奉納です。


鳥居は場所が移ったようで、参道の手前道路上に基礎の痕跡が残っています。


社殿の右後方に、石造物がたくさん建っていますが・・・、

肝心の史跡看板が見当たりません。
ぐるっと回ってみたら、裏口(?)に建っていました。


もともとは「諏訪神社」で、前方に「砦」があったんですね。


たしかに、そんな雰囲気はあります。




ここから南へ140mほど下った篠薮の所に、「白川砦跡」の史跡看板も建っています。



「白川神社」と改称したのは明治四十年(1907)だそうですが、社殿はその後に改修されてるように見えます。
でも、彫物は古さを感じさせる、なかなか手の込んだ素晴らしいものです。



ずらっと並んでいる石碑群は、御嶽山信仰に関するものが多いようです。


看板に「珍しい」と書かれているのが、昭和七年(1932)建立の「一心霊神」碑。

御嶽山の行者の一人ということですが、知らなかったのでちょっと調べてみました。

「一心霊神」こと「一心行者」は、御嶽教の開祖・普寛行者の最後の弟子だそうです。
中山郁著「修験と神道のあいだ」から、「一心行者」に関する部分を抜粋してみましょう。
一心行者は明和八年(1771)、信州小県郡上本入村に誕生、俗名を橋詰長五郎といい、江戸に出て下谷車坂の穀物商、丸山重兵衛の養子となり、一家をたて信濃屋又四郎を名乗ったが、妻の死を契機に下谷金杉の萬徳寺恵性のもとに入門、さらに氷川大乗院役僧福寿院順徳のもとで修験となり、本明院一心を名乗った。
彼は普寛最後の弟子ともいわれ、その業績を慕い、御嶽山中において三年間の木食修行を行ったと伝えられている。
また、深く御座法を研鑽するとともに、新たに「五行座」、「中座の位置替え」や、「神薬差し下し」など、後に一心講の特色として継承される御座法をあみだし、それらの呪法を積極的に信者に伝授し、武蔵から上州の農村や宿場を中心に講中を結成していった。」

こうやって多くの人々に慕われ信仰された「一心講」でしたが、それ故に幕府の弾圧を受け、「一心行者」は捕えられて獄死することになってしまいます。
彼らは祈祷料を取らず、俗人身分で家業を持ったうえで修行するという、普寛以来の御嶽講のあり方に従い活動を行っていたものの、文政三年(1820)、一心は名主の訴人により捕縛され遠島を申し付けられ獄死し、門弟六名は所払いの処分を受けることになった。
弾圧の理由はこれまで諸説あげられているものの、「近頃御嶽山講中の義関東筋大流行」という状況や、その活動が異説を言い触らし不埒であるとして、幕府から富士講と同類のものとして警戒されたことが考えられるとともに、断罪の理由が俗人への祈念や呪法の伝授と、俗人による祈祷であったことが注目される。」

不運な「一心行者」ですが、その名は庶民の心にしっかりと根付いていたようです。

その証拠に、江戸時代末期から明治にかけて活躍した三遊亭圓朝の噺の中にも、「一心行者」が登場してきます。
圓朝の長編噺で、安中生まれの盗賊・安中草三(あんなか・そうざ)を語った「後開榛名の梅が香」(おくれざき・はるなの・うめがか)というのがあります。
安中草三に剣術を教えた恒川半三郎が火縄銃で撃たれんとするその時、たまたま通りかかった「一心行者」が法力を以て助けるという場面です。

(圓朝全集 第二巻)より

因みに、安中「三社神社」には、安中草三の碑が建っているそうです。
グンブロ仲間の風子さんのブログ「群馬・ふぉと雑記帳」をご覧ください。

さて、「白川神社」から、話がずいぶん飛んでしまいました。
飛びついでに、次回は「白川陣屋跡」へ行ってみましょう。


【白川神社】

【白川砦跡】


  


Posted by 迷道院高崎at 07:26
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2020年02月16日

史跡看板散歩-176 金剛寺の顔切り薬師

三国街道(高崎-渋川線)福島の信号を西に入って170mほど行くと、「百度石」と刻まれた大きな石碑があります。


そこを北へ入った正面が、「金剛寺」です。


史跡看板は、山門右前の分かりやすい所に建っています。



このお寺も10年前に訪ねていて、「顔切薬師」のことも書いたんですが、ちょこっと看板と違うところもあるんですね。
   ◇旧三国街道 さ迷い道中記(4)

山門を潜った左側に、「金剛寺」の縁起が刻まれた石碑が建っています。


山門右隣の長屋門の屋根に御幣が建っていて、お寺なのに何でかなぁと思っていたのですが、縁起に「近世の中頃、鎮守である浅間神社と共に現在地に移転した」とありますから、神仏混淆時代の名残なんでしょう。


「金剛寺」の歴史と言えば、観音山「清水寺」住職だった田村仙岳は、嘉永三年(1850)ここ「金剛寺」から移ってきました。
また、明治十四年(1881)には、「中野秣場騒動」の時に農民側の闘争本部が置かれたのも、ここ「金剛寺」でした。

境内に、小さな池があります。
「顔切薬師」の伝説に出てくる「弘法ヶ池」ではないでしょうが、築山の岩のあちこちに弘法大師が立っておられます。


池の中には、なぜか石に彫られたナマズ

ナマズが暴れると地震が起きると言われ、漢字では「鯰」で魚に念ずると書きますから、石に固定して暴れないようにと念じたものなんでしょうか。

池のほとりに建つ石造の五重塔は、各階にお地蔵様らしき方がひとりづつ住んでらっしゃいます。


本堂は、平成二十三年(2011)に新築相成り、きれいになりました。


その本堂の裏に「薬師堂」があります。
薬師如来は仏様ですが、参道には鳥居が建っています。

新しい鳥居ですが、神仏混淆時代から鳥居はあったのでしょうか。
もしかすると、その鳥居のおかげで「顔切薬師」は、廃仏毀釈の難を免れたのかも知れません。

「薬師堂」の中には石像がいくつも納められていますが、「顔切薬師」は後列右端にいらっしゃいます。


堂の後ろには、中に入れてもらえない薬師様もたくさんいらっしゃいます。


境内の外にも・・・。


たくさんの薬師様に出会えた一日でした。
コロナウィルス、何するものぞ。


【金剛寺】


  


Posted by 迷道院高崎at 07:22
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2020年02月09日

史跡看板散歩-175 中泉の旧三国街道

三国街道(高崎-渋川線)中泉町交差点の一つ南の信号を西へ入って140mほど行くと、えらく立派な蔵造りの建物が目に飛び込んできます。


左側へ回ってみると、いわゆる長屋門というやつでしょうが、まるで城門のようです。


その東側の道が、旧三国街道です。


曲がり角に、案内板が建っていました。

「踏査する歴史愛好家のための」というのが、いいですね。
ここは、名主・畔見家のお屋敷でした。

北へ140mほど行くと、また大きな門のお屋敷があります。


史跡看板は、電信柱に隠れるように建っていました。




さて旧三国街道は、この先を北へ向かうのですが、10年前に辿っていますのでご覧ください。
   ◇旧三国街道 さ迷い道中記(6)

10年経っても、風景はほとんど昔のまんまです。
ホッとするなぁ。


【畔見家長屋門】

【旧三国街道史跡看板】


  


Posted by 迷道院高崎at 07:31
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2020年02月02日

史跡看板散歩-174 中泉の医光寺

前回の「中泉八幡宮」のすぐ南にある「医光寺」
大きなお地蔵様が迎えてくれます。


けっこう長い参道の先に山門が見えます。


史跡看板は、山門前に建っていました。



看板にある「薬師堂脇の六地蔵石幢」というのは、これでしょう。


台座の三面にそれぞれ2体づつ、お地蔵様が彫られています。


「六地蔵石幢」に並んだ覆屋の中には、防空頭巾を被ったような如意輪観音様が。


さて、山門の中へ入ってみましょう。
「本堂建立記念碑」を見ると、新しい本堂は平成三十年(2018)に落慶したばかりのようです。


それ以前の本堂の写真が、「群馬町誌通史編下」に載っていました。

こんな記載があります。
本堂の棟札には、明治初年檀徒一同の希望により、白川村の宮大工小菅に依頼し、並榎町護国寺の寺を参考にして現在のような荘厳な瓦葺に改造され、門前の薬師堂も再建された。」

境内の回向柱から五色の紐が、新しくなった本堂まで延びています。
その先は、ご本尊の御手に結ばれているんでしょうか。


真新しい柱から突き出した「木鼻」は、以前の本堂の物を再利用しているようですが、それがまたいい味になっています。


滝川村「慈眼寺」から根分けされたという、樹齢三百年の枝垂れ桜。


春が楽しみです。
早く来ないかなぁ。


【医光寺】


  


Posted by 迷道院高崎at 07:26
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2020年01月26日

史跡看板散歩-173 中泉八幡宮

「堤ヶ岡小学校」南の通りに架かる横断歩道橋、その南に「中泉八幡宮」の森が見えます。


八幡宮境内の北側には、けっこう深い堀がありまして。


「群馬町誌資料編1」には、こんな記述があります。
中泉字八幡廻り・伊勢廻り・川久保・源十内・横堀などが、中泉館跡と思われる地域である。(略)
本丸は村の鎮守の八幡宮・医光寺のあたりで、八幡宮裏や医光寺東側下には、三ツ寺溜池下りの中川から天王川が流れていて、三ツ寺・棟高との村境をなしており、高さ四~五メートルの急傾斜地で、自然の谷堀を形成していた。」

という訳で、中世の「中泉館」の堀だったんですね。

たしかに、航空写真を見ても、そんな名残が感じられます。


史跡看板は、境内南側の参道入り口に建っています。



参道を北へ直角に曲がって鳥居を潜った先が社殿です。



扁額は、拝殿の中にありました。


本殿は質素ながら重厚な造りで、女子に人気のハートマーク・猪の目もはっきりしています。


社殿の後ろには、いろんな神様が祀られていて、


こんなのとか、あんなのとか。


地元の人に、愛されてるんだろうな、きっと。


【中泉八幡宮】


  


Posted by 迷道院高崎at 07:30
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2020年01月23日

番外編 金古町の大ケヤキ

昨年の9月に「金古町の行人塚と大ケヤキ」という記事にした時の、大ケヤキの雄姿です。


ところが今年1月、その大ケヤキが伐られてしまったというコメントをお二人の方から頂き、本当にびっくりしました。
「何ということを!」と、驚きとともに怒りとも嘆きともいうような感情を抱いたのが正直な気持ちです。

どんな状態になってしまったのか現状を見たくて、1週間ほど経ってからでしたが行ってみました。

あー、たしかに根元からバッサリ伐られてしまっていました。


ガッカリして近くまで行ってみて、「あっ!」と思いました。
根元のくぼんだところに、花が供えてあったのです。

「あー、ちゃんと供養してから伐採してくれたんだな。」と、少しホッとしました。

そして伐り口を見ると、きちんと防腐のためのコーティングがされています。


根元の腐食しかかっている箇所も、コーティングで保護されています。


これを見て、何となく施主の気持ちが分かるような気がしてきました。

昨年の台風で、各地の樹木や建造物が倒壊し、大きな被害を出したことは記憶に新しいところです。
大ケヤキが聳えていた場所は、人や車が多く行き交う交差点です。
時間帯によっては、信号待ちで車が数珠つなぎになります。

万一、この大ケヤキが倒壊でもしたら、どれほどの被害になるかと想像するのも恐ろしいことです。
おそらく、そんな思いが施主に伐採を決意させたのだと思うのです。

それでも、金古町のシンボルでもあった大ケヤキがここにあった証を残したいと、その大きさが想像できる伐り株を腐らせないよう、少しでも永く残そうと考えられたのでしょう。

きっと、伐られた大ケヤキも高級な建材や家具に姿を変えて、第二の人生(?)を生き続けるに違いありません。
そうなった大ケヤキに、いつか、どこかで再会したいものです。


【金古町の大ケヤキ跡】


  


Posted by 迷道院高崎at 07:25
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2020年01月19日

史跡看板散歩-172 棟高の胸形神社

高崎から三国街道(高崎-渋川線)を北上して、「堤下公園」を過ぎてすぐ東(右)へ入ると、「胸形(むなかた)神社」があります。


以前来た時は、桜の大木が枝を茂らせて鬱蒼としていましたが、だいぶ伐採されて、すっかり明るくなりました。
大きな常夜燈がポツンと建ってますが、以前は鳥居の正面辺りにあったそうで、道路拡幅のために今の位置に移動したということです。

常夜燈にはいろいろ文字が刻んであって、風化もしてなくてはっきりはしてるんですが、読めません。

「明治十六年」の上の字は、なんていう字なんですか?

字典で調べてみると、「旨」の異体字らしいんですが・・・。

ただ、意味のどれを当てはめてみても、ピンとくるものがありません。
何なんですか、「旨明治十六年」って。

字典をペラペラめくっていると、こんな字が目に止まりました。

これなら「明治十六年に献ずる」ということで、意味は通りそうです。
「旨」「享」の間違いですかねぇ。

これも右端の字が読めません。

辞典で探してみると、どうやら「黎」の異体字で、「多い」とか「諸々」という意味があるそうです。
ということは、「黎民歓」「諸々の民が歓ぶ」という意味になりそうです。

さらに、もうひとつ。
「世話人當所」の下、何て書いてあるんですか?

一番右は「壮」
2番目だけなぜか崩し字なんですが、「健」
3番目は、「乞」
4番目は、「社」
「壮健を社に乞う」ということ?
うーん、なんかよく分かりません。
どなたか、ご教示ください!

さて、史跡看板はその常夜燈の隣、古そうな双体道祖神に並んで建っています。



「胸形神社」のことについては、毎度のことですみませんが、過去記事をご覧ください。
   ◇三国街道 帰り道(11)

看板の最後に、「正月の六日に行われる水的の儀」と書いてあります。
どんなものなのか知りたくて、元日の「胸形神社」へ行ってみたのですが、神社に関係してる方は一人もいらっしゃいませんでした。
お参りに来た方や、散歩中の地元の方にお尋ねしたのですが、どなたもご存じありません。

そんな中、お一人からこんな情報を頂きました。
「今日の上毛新聞の歳時記というのに、1月15日に胸形神社で弓で何かする行事があるって出てたよ。」と。
家に戻って、元日のたくさんの新聞の中から、見つけ出しました。
「2020 高崎くらし歳時記」というページでした。

そこには「強者弓始式」となっていて、看板にある「水的の儀」と同じものなのかどうかは、分かりません。

ネットでいろいろ調べていると、前橋「総社神社」では1月6日に「水的神事」というのが行われているということが分かりました。
「胸形神社」では1月6日に行われる行事はないことも分かりましたので、その日は「総社神社」へ行ってみました。
翌日の新聞にその記事が載りましたので、それをご覧ください。

新聞では「水的の式」となっていて、きっと「胸形神社」「水的の儀」も、その年の降水量を占う儀式なのでしょう。

そして1月15日、待ち望んだ「強者弓始式」を見に「胸形神社」へ行ってきました。

午後1時、氏子の方々は拝殿で修祓(しゅばつ)を受けてから「弓始式」に臨みます。

まずは神官から。

みごと的中です!

その後、氏子の方々全員が順番に矢を射ります。

中には的のど真ん中を射抜く強者もいて、驚きました。

神官は、石原町「小祝神社」西園勲宮司で、「胸形神社」宮司を兼ねています。
西園宮司にこの行事についてお伺いしたところ、「しばらく途絶えていて詳しいことは伝わっていないが、その年の作物の豊凶、降水量などを占うものだと思う。」ということでした。

社殿には弓の奉納額が掛かっていますが、これも「水的の儀」「強者弓始式」と関係があるのでしょうか。


宮司さんや氏子の皆さんのご厚意で、拝殿のなかに入れて頂きました。
奥に見事な天井絵があるのですが、手前に垂れ壁があるので、氏子さんたちもつい最近までその存在に気付かなかったそうです。


屋根のカーブが美しい本殿。


剽軽な形の御神燈は慶応三年(1867)、大政奉還そして王政復古の年に奉納されたものです。

幕末・明治のドタバタを、静かに眺めていたんでしょうね。

希わくは多くの民の歓びが満ち満つる平穏な世が、幾久しく続きますように、と祈って参りました。


【胸形神社】


  


Posted by 迷道院高崎at 07:33
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2020年01月12日

史跡看板散歩-171 棟高・山王猿の石神と庚申塚

三国街道(高崎-渋川線)の「堤下公園前」の信号を東に入って道なりに270m、「天王川」の手前に、庚申塔やら青面金剛塔やらが集まってる一角があります。


ここが「棟高の庚申塚」で、その中に「山王猿の石神」があります。



以前訪れた時から早10年、あの頃は、史跡看板など建っていませんでしたから、近所の人に聞き回るしかありませんでしたが、それも今となっては懐かしい思い出です。
   ◇三国街道 帰り道(12)

せっかくなので、隣の「大乗寺」についても過去記事をご覧ください。
   ◇三国街道 帰り道(13)
   ◇三国街道 帰り道(14)

ついでに、近くにある「真鹽紋彌(真塩紋弥)翁之碑」の記事も載せておきます。
   ◇三国街道 帰り道(6)
   ◇三国街道 帰り道(7)

点が線になるのが面白くって、はまり込んでた頃でした。


  


Posted by 迷道院高崎at 07:42
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2020年01月05日

史跡看板散歩-170 棟高の観音堂と大師堂

三国街道(高崎-渋川線)を高崎から北上して棟高町に入り、しばらく進むとこんもりした森が現れます。


棟高「観音寺」跡です。


史跡看板は、「薬師如来堂」の隣に2つ建っています。


なお、この「薬師如来堂」は、飯島富雄氏著「観音寺誌 祖徳流芳」に、こう書かれています。
薬師如来は、明治年間観音寺地区の西南、薬師免と呼ばれている地点から観音堂境内に移されたもので、記念名は無いが専門家の鑑定によれば、室町時代のものと推定されると云う。
この佛様は眼を患っている人が自分の目をこすり、その指で如来の目をこすると快癒すると云う信仰があった。(略)
昭和六十年頃すっかり腐りはててみすぼらしいほこらを、当村田中正己さんが現在の立派なものに建替しものと云われている。
これは田中正己氏の奥さんが眼病を煩い、一日も早い全快を願っての建設寄進せしものと云われて居る。」

看板を見てみましょう。



ここも、9年前に訪れて記事を書いていますので、そちらをご参照ください。
   ◇三国街道 帰り道(1)

その記事では掲載しなかった、「観音堂」堂宇内外の写真です。



御神木の大杉です。

後ろに桜の古木が立ち並び、花の頃はすごくきれいです。

ここには、もう一つ、ぜひご紹介したいものがあります。
「薬師如来堂」の近くにある二つの大きな石碑、その左側の「豆腐来由碑」です。



どんな碑なのかは、過去記事をご覧ください。
   ◇三国街道 帰り道(2)

碑の建立者・飯島靱負氏のことについても調べてみました。
   ◇三国街道 帰り道(3)

話は、これで終わりません。
   ◇三国街道 帰り道(4)

いやー、歴史探索って面白いもんです。


【棟高の観音堂】


  


Posted by 迷道院高崎at 07:37
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2019年12月29日

史跡看板散歩-169 足門の薬師堂

旧群馬町足門(あしかど)の「徳昌寺」


「徳昌寺」の南東角の四つ辻を南(写真では右)に入ります。


130mほど行くと、道端に石仏が一基建っています。



そこを左に入ると、立派な庭園が現れます。


その左手奥の塚上にあるのが、「薬師堂」です。


史跡看板は、石段を上がった右側に建っています。



看板にある「飯島雪斎翁の碑」というのがこれです。


飯島雪斎は、享和二年(1802)足門に生まれ、十八歳のとき江戸に遊学、次いで京都、大阪へ上り西洋医学を学びます。
さらに長崎でシーボルトに学び、西洋医学の研究を重ねて三十二歳で帰郷、「飯島医院」を開きます。
医業の傍ら、私塾を開き青少年の指導に当たり、元治元年(1864)六十四歳で逝去しています。(ぐんま県郷土史辞典)

この「薬師堂」ですが、実は9年前に訪れています。
  ◇旧三国街道 さ迷い道中記(11)

看板にあるように、この「薬師堂」「徳昌寺」持ちです。
その辺の経緯については、次の記事をご参照ください。
  ◇旧三国街道 さ迷い道中記(14)

「薬師堂」は「徳昌寺」持ちですが、隣の庭園は中澤家持ちです。
では、晩秋の庭園を見ていきましょう。
大きな石灯籠と、紅葉した楓、美しく剪定された松、そして低木と石がいい感じ。


ピンクの山茶花と紅い楓の絨毯に、「佐渡赤玉石」がよく似合っています。


「赤城の小松石」を使ったという石垣の上に、瀟洒な東屋が建っています。


東屋から眺める庭園も、一幅の絵画を見るようです。


この庭園を維持していくのは大変なことと思いますが、「薬師堂」とともに、後々の世まで残していって頂きたいと思います。


【足門の薬師堂】


  


Posted by 迷道院高崎at 07:42
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2019年12月22日

史跡看板散歩-168 足門の百庚申

「金古南足門(かねこ・みなみ・あしかど)公民館」の入口に、「足門の百庚申」があります。


「百庚申」といっても、百基建っている訳ではなくて。


一基に、多数の「庚申」という文字が刻まれているということです。



「栗崎町の諏訪神社」にも、このタイプの「百庚申塔」がありました。

また「足門の百庚申塔」には、「青面王」(しょうめんおう)と刻まれています。
「青面王」については、まだブログ駆け出しの頃、たいへん手こずったことがあります。
「旧三国街道の三ツ寺」でのことです。

なお、なぜ「青い面の王」なのか、「庚申」とどういう関係なのかについては、「綿貫町の正面金剛」の記事をご参照ください。

史跡看板に、「この庚申様は三国街道沿いにあったが、平成元年にこの場所に移した」とあります。
その辺の経緯が、「由来」という石碑に刻まれていました。


この道しるべも、その時、移されたのかも知れませんね。


旧群馬町は、史跡を大切にしていたことがよく分かります。
高崎市と合併したことにより、その精神が失われないことを祈るばかりです。


【足門の百庚申塔】


  


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2019年12月15日

史跡看板散歩-167 稲荷台の稲荷神社と大国主命碑

稲荷台(とうかだい)の「稲荷神社」


社殿と区民センターの間に石造物が並んでいるのが見えたので、行ってみました。

ああ、「花園薬師」のお堂の中にあったのと同じ石仏がたくさん並んでます。
これが、稲荷台「小薬師」さんなんでしょうね。

さて、「稲荷神社」です。


入植時は22軒だったということですが、現在は182軒になっています。(平成27年国勢調査)

「彫物は極彩色が施されていたが、現在は彩色を失っている」とありますが、よく見ると痕跡は残っています。



ふと、賽銭箱の文字に目が止まりました。

昭和十五年(1940)、紀元二千六百年を記念して奉納されたようです。
明治政府の御用学者が無理やりこじつけた、神武天皇即位の年・西暦紀元前660年から2600年だという訳です。

「記念 三夫婦三代揃」と刻まれています。
太平洋戦争突入の前年、まだ三代夫婦が欠けることなく揃っていられる頃だったのです。
左側面には、その真塩家三代夫婦の氏名が刻まれています。

社殿脇に、平成十八年(2006)の改修記念碑が建っています。


それを見ると、かつての境内は「老杉鬱蒼として清浄の地であったが、世界大戦時、飛行場建設により昭和十九年(1944)鎮守の杜(もり)を失ない」とあります。
「陸軍前橋飛行場」(堤ヶ岡飛行場)建設のために伐採されたという老杉は径九尺(2.7m)もあり、伐採後に年輪を数えてみると240余りあったということから、神社創建の年に植えたものであろうということです。(国府村誌)

戦争とは、実に勿体ないことをするものです。

戦争が終わって昭和二十二年(1947)再び杉苗を植え、さらに真塩キクエさんの実家(赤城村)から杉苗百本の寄進を受け、昭和四十年(1965)に補植したといいます。(国府村誌)

「稲荷台」には「真塩」という姓が多いのですが、思い出しました。
下小鳥町「首塚」に建っている、「枉寃旌表之碑」(おうえんせいひょうのひ)の撰文を書いた真塩紋弥も、「稲荷台」の人でした。
真塩紋弥の墓は、「稲荷神社」のすぐ北の真塩家の墓地に、ひっそりと建っています。

「稲荷神社」の南隣に、もう一つの史跡「大国主命碑」があります。


でかい石碑です。



看板によると、かつては「青面金剛像」の道しるべが建っていたようですが、今は小さな道しるべだけが残っています。

「御成婚記念」とありますが、どなたのご成婚なのか、日付が読み取れないので分かりません。
ただ、「青年団」という呼称は大正に入ってから使われるようになったらしいので、おそらく、明治三十三年(1900)ご成婚の大正天皇ではなく、大正十三年(1924)ご成婚の昭和天皇のことなんでしょう。

さてさて、秋の日は釣瓶落とし。
薄暗くなって、お稲荷(おとうか)に化かされない内に、家路につくとしましょうか。


【稲荷台の稲荷神社】

【大国主命碑】


  


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2019年12月08日

史跡看板散歩-166 塚田町の花園薬師

旧群馬町の小字「花園」から700m南南東の「塚田」


そこに、なぜか「花園薬師」



「花園薬師」の由来については、あまり確かなことは分かっていないようです。
「国府村誌」には、こう書かれているのですが。
泰亮愚海はその著「上毛伝説雑記拾遺」巻三に於いて後一条天皇の長元元戊辰六月、平忠常が下総国より当地に移り城を築き、その鎮護の為に妙見寺や国分寺の塔を再建し花園薬師、化粧薬師、斎城薬師、阿弥陀寺、最勝寺、最経寺、八王子権現、弥勒寺、清徳寺等を建てたと書いているし、「上毛及上毛人」五十三号府中号に於ても、国分寺廃滅後(鎌倉初期)府中の人々が国分寺の法体を移し、国分寺に代わるものとして尊信したのが花園薬師であるとハッキリ書いている。」
「ハッキリ書いている。」と言うんですが、読解力の弱い私には、ハッキリ分かりませんでした。

看板の中ほどに書かれている「小薬師」が、堂の中に鎮座していました。


ほんとは、もっと沢山あったらしいです。
花園薬師の石像の類は明治末年より大正の末年迄、稲荷台を相手に子供達が「石仏の取りっこ」を行い、此処にあった古い石仏類は恐らく稲荷台へ持ち去られ、何処かの邸の裏にでも埋められているらしい。」(国府町誌)

「稲荷台」(とうかだい)というのは、「塚田」の隣村です。

畑仕事をしている方に聞いてみました。
「稲荷台の薬師様というのは、この近くにあるんですか?」
「区民センターの所にあったんだけどね・・・。」
区民センターを建てる時に、どこかへ行ってしまったようです。

じゃ、次回は「稲荷台」へ行ってみましょうか。
今日は、ここまで。


【花園薬師】


  


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2019年12月01日

史跡看板散歩-165 後疋間の福守神社

複雑な形をした、後疋間町(うしろひきま・まち)と、その周囲をぐるっと囲む引間町(ひきま・まち)。
その境目に、「福守神社」があります。


田島桂男氏著「高崎まち知るべ」によると、「引間」の地名のいわれについて、こう書いてあります。
  船尾山縁起では、「千葉常将が船尾寺に預けた子が天狗にさらわれたのを、寺で殺されたと思い、大兵を率いて船尾山を焼き討ちした。
これに対し、寺側も僧兵を繰り出したので、常将は一時的に兵を引いた。
この場所を引間という。」

また、近藤義雄氏のこんな説も紹介しています。
  おそらく引間は引馬であり、古く馬市などが妙見社の祭礼日にあったのではなかろうかと思う。

同じ読みをする、「引間」「疋間」については、
  「後疋間」の名のいわれは、「引間」の北につながっている土地であることによっている。
「引間」と「後疋間」は、以前は一つの「ひきま」であったと考えられるが、南接する「引間」と区別するため、江戸時代から「疋間」と表記していた。
明治十一年(1878)群馬郡が二分して西群馬郡になったとき、「後」の字を加えて「後疋間村」になった。
のだそうです。

さて、「福守神社」です。


看板では、祭神を「木之花咲夜毘売」と表記していますが、あまり見かけない表記です。
よく見るのは「木花之佐久夜毘売」とか、「木花開耶姫」とかでしょうか。

「火中出産の神話」というのも、なかなか深いお話でして。

「福守神社」には鳥居が二つあり、一の鳥居は「國祖産體 福守大明神」、二の鳥居は「諏訪大明神」となっています。


「諏訪大明神」「建御名方」(たけみなかた)という武勇の神様ですが、妻「八坂刀賣」(やさかとめ)との間には、十三柱とも二十二柱とも言われるたくさんの御子神(みこがみ)が生まれていますので、子授けの神様でもあります。

その子授けの御神体というのが、「福守神社」の社殿に祀られているというのです。


「群馬町誌 通史編下」によると、
神体は鉄製の男性器で長さ20cmほどの大きさである。
この神体の制作年代は不詳だが、社伝では福守神社の創建と同じくしている。
また戦前には、社殿にところせましと数百本の木製男根が奉納されてあり、それも社殿には入りきれず軒下まで積み重ねる状態だったと聞く。」
とあります。

覗いてみましょう。

御神体は見えませんが、なるほど、少なくなったとはいえ、奉納されたものがずらっと並んでます。
いやはや・・・。

看板の最後に、「御神木のムクの古木」のことが書いてあります。
社殿の前の大きな切り株がそれだったのでしょう。


昭和四十三年(1968)発行の「国府村誌」に載っている写真を見ると、「ムクの木」は社殿の後ろに聳えています。

ということは、社殿を建て替えた時に、「ムクの木」の後ろに移したということですか。

えらいなぁと思うのは、切り倒した「ムクの木」の幹が、ちゃんと保存されていることです。


説明書きも添えられています。

これを見ると、切り倒したのは平成二十三年(2011)だったんですね。

歴史をきちんと伝えていく。
大切なことです。


【福守神社】


  


Posted by 迷道院高崎at 07:09
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2019年11月24日

史跡看板散歩-164 東国分の行人塚と宝篋印塔

最近、ブログタイトルの下に大きな広告が表示されるようになり、ちょっと、うっとおしいです。
テンプレートを変更すればと言われて変えてみたんですが、ダメみたいです。しょうがないのかなぁ。

さて、今回は。
東国分(ひがしこくぶ)
「上野国分寺跡」のすぐ北西の、とある墓地。


だいぶ文字の薄くなった看板には、「常安寺の宝篋印塔と行人塚」と書かれています。


正面に、立派なお宮が建っています。
木札が掛かっているのですが、何と書かれているのか判読できません。

辛うじて、一番下の文字が「様」と読めます。
いったい、何様なんでしょう?

調べてみると、「群馬町誌 資料編4」の民俗信仰の項に、これかな?と思うものがありました。
ヘソヌキ観音
東国分の南の墓地にあるお堂には観音様の石像を収めた石宮があり、この観音様の腹部に指の入る程の穴があけられている。
地元ではヘソヌキ観音と呼び、この穴に指を入れると腹が痛くなるといわれているが、安産守護の観音様であり、絵馬や五色の旗をあげ願いをかけるとお産が軽くすむといわれている。」

たしかに、お堂の中の石宮に扉があり、その中に穴のようなものが見えます。


また、同誌にはこんな話も載っていて、これもこの墓地のどこかにあるようです。
エボトリ薬師
東国分の墓地にエボトリ薬師といわれる石仏がある。
この石についている土をエボ(イボ)につけるととれるといわれる。」

たぶん、「薬師如来」と刻まれている、この石仏のことではないでしょうか。


さて、看板にあった「行人塚」ですが、墓地の一番奥にあります。

史跡看板手前の無縫塔(玉子塔)がそれらしいです。



たしかに、台石の裏っかわに穴が開いています。


墓地の東隣の敷地に、鳥居と寺っぽい建物があります。


建物はしばらく使われていないようで、だいぶ傷んでいますが、玄関口には「國分山」という額が掛かっています。
これが「常安寺」だったのでしょう。


「常安寺」について、「国府村誌」にはこう書かれています。
庄屋助太夫盛次は酒造業を営み生活が楽だった。
元禄十六年秋工を起し独力一寺を建立、同十七年申二月落慶、常安寺と名付け、祖先菩提一族繁盛祈念の為であった。
文化四丁卯(ひのと・う)四月十三日の午後、近所の家の子守の弄火より全焼、文化七庚午(かのえ・うま)十一月十三日再建上棟、住屋武兵衛重禹個人の力で再建した。これが現在の常安寺である。」
そして、開山は大阿闍梨自賢覚仙とあります。

「群馬町誌 通史編下」では「国分山良心院常安寺」となっていて、その後のことも書かれています。
祐晃(十世住職)在職中、戦後の農地解放により、所有地九反三畝歩の田畑を失い、住職没後は無住寺となり、檀徒は離れて総社町の光厳寺へ移った。
明治六年(1873)にはこの寺に国分学校が設けられ、国府小学校の発祥地でもある。
さらに、境内には明治末期建設の「東国分倶楽部」と呼ばれる集会所があり、当時としてはハイカラな名前がつけられているが、非戦平和論者の牧師住谷天来が名付けたものという。」

住谷天来(すみや・てんらい)は少年時代、一人前の寿命を危ぶまれるほどの虚弱体質で、両親は無事を祈って御嶽講に入れたそうです。
それと関係あるのかどうか知りませんが、隣の「大神宮」境内には、大きな「御嶽大神社」の石碑が建っています。


そして、天来は76歳の天寿を全うしました。

その天来が名付けたという「東国分倶楽部」は、新しい建物になって今も境内地にあります。


境内地の南東隅に、どでかい「宝篋印塔」が建っています。


史跡看板は、その陰に隠れるように建っていました。



なるほど、立派なもんです。


至るところに出てくる住谷(住屋)姓。
大したもんですなぁ。


【行人塚】

【宝篋印塔】


  


Posted by 迷道院高崎at 07:45
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2019年11月17日

史跡看板散歩-163 引間の妙見様

前回の「冷水の小祝様」を由縁として建立されたという、引間「妙見様」を訪ねました。
「花園橋」という素敵な響きの橋を渡った所にあります。

かつての「花園邨(村)」にある、「七星山花園妙見寺」(現在は「三鈷山吉祥院妙見寺」)です。

境内に入ると右手に小山があり、頂上にきれいな色と形の祠が建っています。


後でご住職にお聞きしたら、これは「弁才天」の祠で、もとは池に囲まれた中島だったのだそうです。
なるほど、そういえばそんな雰囲気は残ってます。
なんでも、上越新幹線の工事で水脈が枯れてしまって、池はなくなってしまったんだとか。

石段脇に、説明板が建っています。


萩の「花園」だったんですね。

石段左側には、「金刀比羅大権現」


石段を上がると、参道の両側にえらくスマートな石灯籠が建ってて、上を見ると奉納された灯籠がズラーっと参道に吊り下げられています。


少し進むと、参道左側にえらく立派な石祠がありました。

石祠の中に祀られているのは「勢至菩薩」で、地元の人はなぜか「おまんまさま」と呼んでいるそうです。

この「おまんまさま」について、松田直弘氏著「妙見寺誌」に面白い話が載っています。
拝殿に向かって左手前のオマンマさま(室町時代初期と推定の石殿内に納まる勢至菩薩坐像)は、かつては石段下の大欅の根元(現在の琴平宮の南)にあった。
遠い昔のこと、染谷川左岸の霊水(冷水)の小祝の池に金色に光輝く亀が天降り、やがて染谷川を二十町(約二キロ)ばかり流れくだって這い上がった所が大欅の根元だった。
地元の人達は、大欅の根元に石のお宮を造り、この光輝く亀を納めて祀った。
それが、このオマンマさまと呼ばれる石宮で、妙見さまが一番はじめに祀られたお社だと今も信じてお参りする人もいる。
註、この大欅は、昭和三十九年に切り倒され、オマンマさまは現在地に移される。」

「国府村誌」では、もっと面白い話になっています。
昔この池(小祝の池)から七星の金色に輝く亀がはい出して妙見様の大ケヤキのところでとまった。
そこに石宮をたてお祀りしたが、元総社の一・六の市に通った人が馬にのってここを通ったら馬から落ちてしまった。
御姿を見えないところへ移そうというので井戸を掘ってそこにお祀りした。
その上に建てられたのが今の妙見様のお堂のあるところという。」
ここを通る人たちが落馬するのは、石宮の中から亀が放つ金色の光に目がくらんだからだそうです。(地元の古老談)

「妙見寺」のお堂の下には、今でも井戸があって亀が住んでいるんでしょうか。


「妙見寺誌」には、こうあります。
妙見寺行事は、大晦日の「お着替え」から始まる。
この行事は、本殿下の井戸の中に納まる御神体に藁で編んだコモ(衣)を着せ替える神事で「ころもがえ」ともいう。
行事は深夜に暗闇の中を手さぐりで行う。
この御神体は、遠い昔に小祝の池に天から降った亀とされる。
元住職は「隕石と思われる」と語っている。」

おや?
亀じゃなくて、石ですか?
そう、「わたしたちの群馬町 資料集」では、完全に石の話になってます。
この妙見には、星形をした青石の神体があります。
冷水におぼり様の池と言うのがあります。
ある村人がこの池から大きな石を引き上げ家に運んでいました。
ところがどうしたことか妙見の池まで来ると、押せども引けどもどうしても動かなくなりました。
村人は気味が悪くなって、とうとうその場に放置したまま逃げ帰ってしまいました。
そのことがあってからです。妙見の前の箕輪前橋道を馬に乗って通る旅人は、全部落馬してしまいます。
これをあの石のためであると、誰言うとなく信じるようになりました。
そこで村人は集って相談しました。そして石は人々の目に止まらないようにと六尺ほどの穴の中に入れられました。それからは落馬する旅人もなくなりました。
とさ。

さて、「妙見寺」とは言うものの、その堂宇は神仏混淆の姿をそのまま残しています。


ところで。
史跡看板がある筈なのですが、どこを探しても見当たりません。

周辺をウロウロ歩き回ってみたら、ありました。
なんと、「妙見寺」山門から南へ200m、「引間」の交差点の角に、「日本三社之一 妙見尊」という石柱と一緒に建っているじゃありませんか。



ここなんですかねぇ。
うーん。


【史跡看板】

【妙見寺山門】


  


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2019年11月10日

史跡看板散歩-162 冷水の小祝様

イオンモール高崎から北へ1kmほど行った所に、「冷水」(ひやみず)という信号があります。
その信号を西に入って240m、冷水のバス停を過ぎたすぐ先を南に曲がって100mほど行くと、「おぼりの森公園」があります。


その向かい側に道路下へ降りる所があって、遠くに史跡看板が建っているのが見えます。


きれいに刈られている下草を踏んで近くに寄ると、小さな石祠がポツンと置いてあります。

風化していてちょっと読みにくいのですが、石祠の左正面に「小祝神」、右前面に「妙見宮乳母神」と刻まれているようです。

史跡看板には、こう書かれています。


「金色の光を放つ亀」がいたという「小祝池」は、石祠前のこの池?



「花園星神記」によると、帝に献上した亀はその後「小祝池」に戻されたようです。
亀は忠明卿に帰し給ふ、忠明上刕(しゅう:州)へ下向して、元の小祝池へ帰し納めける。
是より此所を霊水(冷水)村と云ふ。」

天平元年(729)、「小祝池」に異変が起こります。
三月廿二日の夜、小祝の池鳴動いて光明を輝し、上天して北斗七星に入。忠明卿怪しみて其事を帝へ奏しけれバ、帝殿下を召して宣下ありけれバ、此儀を宣して斗うべしと。
依て殿下卜部司官家宜に命じて是を占せけれバ、家宜答えて云ふ様ハ、天津星の化して亀と成、又天上して本の七星に帰る所也。
是妙見尊像ハ亀ノ背ニ立せ給ふ、即妙見社堂ヲ建立すべき裏兆なりと。
依て殿下忠明卿の使者に其旨を命じければ、使者上毛に帰着し、忠明卿に其旨を報言す。
忠明卿聞し召、即妙見堂并(ならび)に七星山息災寺を建立有。」
そこから、「冷水の小祝様」「妙見様の乳母」だということで、石祠に「妙見宮乳母神」と刻まれているらしいです。

話に出てくる、「妙見」「花園」「冷水」という小字はこんな位置関係になります。


ところで、「小祝」をなぜ「おぼり」と読むのかは、こちらをご参照ください。 → ◇史跡看板散歩-80 小祝神社

「おぼりの森公園」隣に祀られている「大日堂」


鰐口は、紐に括り付けた石で叩くようです。


叩き過ぎたのか、落っことしたのか、鰐口の裏側は半分欠けちゃってます。


堂内の「大日如来」「お地蔵様」は、まだ新しいもののように見えます。


堂の外に建っているのが、元々の「大日如来」なんでしょうか。


「おぼりの森公園」も、なかなか素敵です。


公園の脇を流れる「染谷川」は、折からの台風の後で、激しく流れ下っていました。



平将門が来て戦になった時、死んだ人の血で真っ赤に染まったので、「染谷川」という名が付いたとか。(群馬町誌資料編4)
こわっ・・・。


【冷水の小祝様】


  


Posted by 迷道院高崎at 07:25
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