2019年05月19日

史跡看板散歩-142 光徳寺の秋葉様

前回の「上芝の八坂神社」から北へ120m、「光徳寺」参道の入り口です。


参道を進むと、本堂の右手前に「秋葉様」のお社があります。



ご神体は、秋葉権現と刻まれた石です。


社の左右に建つ石灯籠も、なかなか味わいのある姿をしています。


本堂の東には、火災の時にも水を汲み上げたであろう古井戸が残っています。


そして現在、火伏の「秋葉様」のある「光徳寺」の隣には、「高崎市消防団箕郷町第一分団」があります。

火の用心 消防団と 秋葉様


【光徳寺の秋葉様】


  


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2019年05月12日

史跡看板散歩-141 上芝の八坂神社

再び、箕郷町に戻って参りました。

前々回の「生原の北野神社」の北西210mにあるはずなのですが・・・。
普通に道を歩いてたら、まず目に入らないでしょうね。


「いちごばたけ幼稚園」の駐車場を突っ切って行くとロープが張られていて、「入っちゃダメ!」みたいになってるし。
それをすり抜けて近くまで行くと、石碑も史跡看板も何故かあっち向いてますし。


いったいどうなってんだと思いながら表側に回ってみると、井野川べりのフェンスに沿って野道がありました。


じゃ、この野道へはどこから入って来るのかと思うと、これがまた分かりにくい。
土地の人でもなきゃ、ちょっと入る気にはなりませんよね。


反対側の入り口だって、こんなですし。


ま、ともかく、「八坂神社」です。
「神社」とは言うものの、石碑だけですが。



看板に、「神社の場所を変えたら赤痢が流行り、現在地に戻したら病も治まった」とあります。
「牛頭天王」こと「八坂の神様」ってけっこう恐い神様です。
過去記事「追分の八坂大神」にありますので、よかったらご覧ください。

何となく物足らなかったので、すぐ近くにある古墳を見に行きました。
「八坂神社」碑の南東方向に墓地が見えますが、その中にあります。


ここは関口家の墓地で、正面から見ると、岩で造った築山のように見えます。


後へ回ると、立派な石室の入り口があります。


「上毛古墳綜覽」(昭和十三年/1938発行)では「箕輪町3号古墳」とあり、所有者は関口蔵他一名となっていますが、「群馬県古墳総覧」(平成二十九年/2017発行)では「天宮古墳」として載っています。
「天宮古墳」という名称は、後から付けられたのでしょうか。

この辺り、たくさんの古墳があったようですが、消失してしまったものも多いです。
因みに、赤丸のNo.1086が「天宮古墳」、No.1104と1106が前々回「生原の北野神社」に出てくる2つの古墳です。

(No.を消してあるものは消失古墳)

きっと古代から、「井野川」「天神川」沿いに人々の暮らしが広がっていたのでしょう。


【上芝の八坂神社】

【天宮古墳】


  


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2019年05月05日

史跡看板散歩-140 なんじゃもんじゃの木

箕郷町から、いきなり高崎駅東の北双葉町へ戻ってきました。
いま、「なんじゃもんじゃの花」が真っ盛り、ちょうど見頃なんです。



今から11年前、新聞にこんな記事が載りました。

その時書いた記事 → ◇今年のなんじゃもんじゃ

それから10年、今じゃ史跡看板が建っています。


10連休にウンザリ気味の皆さん、ぜひ行ってご覧あれ。
清楚な純白の花と、慎み深い仄かな香りが、きっと皆さんを癒してくれることでしょう。


【なんじゃもんじゃの木】



  


Posted by 迷道院高崎at 07:18
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2019年04月28日

史跡看板散歩-139 生原の北野神社

「フレッセイ箕郷店」の駐車場から、箕郷町生原(おいばら)の「北野神社」がよく見えます。


ところが、ネットフェンスと川にはばまれ、目の前なのに行けません。
仕方なくぐるっと回って「本田橋」(ほんでんばし)を渡ると、「天神川」沿いに行けそうなので行ってみました。


すると今度は、けっこう高い土塁が。


土塁のけもの道を上ると、紫がきれいな「花ダイコン」(諸葛菜)の群落の向こうに、社殿が見えます。


正面石段の左に昔からの看板、上がって左の所に史跡看板が建っています。


同じような文言ですが、史跡看板の方が多少詳しく書かれています。



たしかに、立派な唐破風と彫刻です。




格天井もなかなかの物です。


これは、菅原道真が乗ってきた牛さんかな?ん?ちがうか?


参道の脇に、ちょっと気になる環状の窪みがあって、真ん中に壊れた石祠があります。


手前に石橋のようなものがあるので、たぶん昔は弁天様の池だったんじゃないでしょうか。

鳥居の脇には古墳があって、石室の入り口が開いています。


前方にももう一つ、大きめの古墳が見えます。


平成二十九年(2017)に発行された「群馬県古墳総覧」によれば、箕郷町生原には24基の古墳があったようです。
その内、残存している古墳は9基。
この辺りは生原字本田という所なので、該当する古墳を探してみると、前者が「本田古墳群無名2号古墳」(上毛古墳綜覽※1.では「上郊村※2.23号古墳」)、後者が「地蔵塚古墳」(上毛古墳綜覽では「上郊村22号古墳」)となっています。
※1.昭和十三年(1938)発行
※2.上郊村(かみさとむら)

けっこう長い参道でした。


マンホールの絵柄も、道真公と関係の深いのデザインでした。(本当は箕郷の梅林と箕輪城らしいです)


最後に、「生原の暴れ獅子」の舞を見て頂きましょう。
(平成二十一年 第十五回高崎伝統民俗芸能祭DVDより)



【生原の北野神社】


  


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2019年04月21日

史跡看板散歩-138 保渡田城址

保渡田北部公会堂に、「保渡田城址」の史跡看板が建っています。
ちょうど、近くの「榛名神社」の獅子舞奉納の日だったようです。


城郭図の中に現在地が描かれていて、位置関係がとても分かりやすい看板です。



振り向くと、看板にある「本丸の櫓台跡(天主山)」が見えます。(山崎一氏著「群馬の古城」では「天山」となっている。)
満開の桜の花びらが、ハラハラと舞っていました。


行ってみると、「天子塚古墳」と書かれた杭が建っていて、埴輪の兵士がひとり立ち番をしてました。


上ってみると、正面に「秋葉大神」が祀られていて、かつてはお社が建っていたらしい痕跡があります。


その向かい側はたくさんの庚申塔が並ぶ、いわゆる「百庚申」


墳頂の「百庚申」からすれば「庚申塚古墳」でよさそうなものですが、なんで「天子塚古墳」なんでしょう。
読み方は「あまご塚」なんでしょうか、「てんし塚」なんでしょうか。
あー、もしかすると「天守塚古墳」なのかも知れませんね。
それとも逆に、「天守山」じゃなくて「天子山」なのか。
う~ん・・・。

本郭跡が一望に見下ろせます。


「二の郭(北城)の土塁や堀跡が残っている」というので行ってみましたが、どうやら民家の高い塀の中らしく、多分これだろうと思って写真を撮ってきました。


反対側の空き地にも失礼ながら無断侵入し、写真を撮らせて頂きました。


けっこうな高さの土塁です。

山崎一氏著「群馬の古城」の中で、「保渡田城」についてこう記述されています。
大部分は既に壊滅してしまっているが仔細に観察すれば螺旋状構造の城郭を想定することが出来る。(略)
こうした構造は、この城が小城乍らもかなり進歩した型式であることを示し、諸記に記されているように永禄年間、内藤昌豊の築城であるということを裏付けている。」

「保渡田砦を改修して居城した」という内藤昌豊は、「武田二十四将」の一人で、「武田四天王」の一人でもあるという、すごい武将だったようです。


その内藤昌豊の墓が、「保渡田城址」の北西730mの所にあります。



そして、その「内藤塚」の南南東1.7kmの所には、武田に滅ぼされた長野業盛の墓があります。



折しも、「我こそは!」と大音声で名乗りを上げながら、鉄の馬に乗って駆け回っている武将の姿を見かけます。
また、戦が始まるらしいです。


【保渡田城址】

【内藤塚】

【伝・長野業盛の墓】


  


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2019年04月14日

史跡看板散歩-137 瑾亭先生墓碣銘

保渡田(ほどた)町「土屋文明文学記念館」の入り口交差点北東角に、石碑と史跡看板が建っています。




「瑾亭先生墓碣銘」、ふり仮名くらい振っておいてほしいのですが、たぶん「きんていせんせい・ぼけつめい」でいいんでしょう。

「瑾」とは美しい玉のことだそうで、「瑾亭」とはすごい雅号を付けたものです。
「墓碣銘」とは墓石にその人の功績を記したものだそうです。
といっても、「瑾亭先生」の墓石は、看板の最後に書いてあるように、「落合観音堂」の墓地にあるらしいです。

じゃ、行かなきゃしょうがないでしょう。

ということで、「瑾亭先生墓碣銘」碑の西南西900m、大清水川の崖上にある、「落合観音堂」へ行ってみました。



観音堂の左にあるのが、安中家の墓地。


下の写真中央が、「瑾亭先生」こと「安中文瑛」の墓石です。


安中家代々の過去碑と、由来を書いた石碑がありました。



恥ずかしながら、安中文瑛という人をまったく知りませんでした。
史跡看板や墓地の由来碑を読んでも、安中城主から保渡田に移住するまでの経緯がよく分からなかったのですが、「瑾亭先生墓碣銘」にはその辺のことが刻まれています。
其先曰 從二位源重國自稱征夷將軍宗尊親王七世孫
其二十二世曰安中忠親 長享中在碓氷軍松井田城 其子伊賀守忠淸移榎下城 生越前守忠正 忠正城野尻名安中城 使子忠成居之 忠成從武田氏戰死長篠 弟曰忠基走出羽 寛永三年還匿民閒 子忠惟住保渡田村 傳子忠富始業醫」
(読み下し)
其の先に曰く、従二位源重国征夷将軍宗尊親王七世の孫と自称す。
其の二十二世を安中忠親と曰(い)う、長享中に碓氷郡松井田城に在り、其の子伊賀守忠清は榎下城に移り、越前守忠正生る。
忠正野尻に城(きず)き安中城と名づけ、子に使わせ忠成がここに居す。
忠成は武田氏に従いて長篠に戦死す。弟を忠基と曰(い)い、出羽に走る。
寛永三年民間に還って匿(かく)る。子の忠惟保渡田に住す。伝うるに子の忠富が医業を始むる。
(参考「群馬の漢文碑」「群馬町誌資料編2」)

ということで、以降、安中家は代々医業に携わる訳です。
文瑛先生は「温和資懿(い)、竭(けつ)力施治」、つまり人柄が優しく力を竭(つく)して治療をするので、遠近から治療を受けに来る人の履物が常に門に満ちていたとあります。

また、文瑛先生は当時目新しい西洋医学を用いたということで、初め人々から怪しまれることもありましたが、実績を以て受け入れられていったようです。
嘗讀西洋醫書翻然有所悟 曰漢方未淸藉此以補可也
益究其術方 是時西醫之術未大行 於世人或以爲怪誕
君獨知其可用 豈非豪傑之士乎 以是門人子弟稍通其術 至今効益著 嚮爲怪爲誕者後悔無及」
(読み下し)
かつて西洋の医書を読み翻然(ほんぜん:突然)として悟る所あり。曰く漢方いまだ精藉(せいしゃ:詳しく取り立てること)せず、これを以て補うべき也。
益々其の術を究めるも、この時西洋医術いまだ大いに行われず、世の人は怪誕(かいたん:でたらめと怪しむ)を以てなす。
君ひとり其の用いべくを知る。豈に(あに:どうして)豪傑の士なるにあらずや。
これを以て門人子弟稍(やや)其の術に通じ、今に至り効果益々著(あら)わる。
以前怪となし誕となすは後悔及ぶこと無し。

長くなりますが、文人・瑾亭先生としてのことも書いておきましょう。

「瑾亭先生墓碣名」の撰は、文部権少書記官で従六位の依田百川(學海)という人です。
森鴎外に漢文を指導し、その著「ヰタ・セクスアリス」の中の文淵先生のモデルになっているという、すごい人らしいです。

依田百川瑾亭先生との出会いも「墓碣銘」に刻まれています。
安政乙卯歳八月 余薄游上毛抵高崎 問土人以文雅之士 答曰保渡田村有安中文瑛者 以醫爲業善詩文温雅君子也 余大喜訪之 文瑛欣然延余欵晤 叩以學術文章」
(読み下し)
安政乙卯(きのとう)歳の八月、余(依田百川)上毛に薄游(はくゆう:質素な旅行)し、高崎に抵(いた)る。
土人(土地の人)に文雅の士(文章に優れ風流な人)を問うたところ、答えて曰く保渡田村に安中文瑛という者有り。医を以て業となし詩文を善くし温雅な君子也と。
余大いに喜びてこれを訪う。
文瑛欣然として(喜んで)余を延(まね)きて欵晤(かんご:親しく打ち解けること)し、学術文章について叩く(意見を交わした)

こうやって知己の友となった依田百川のもとに、明治十五年(1882)二月、瑾亭先生の友人である牧野再龍がやって来て、その死を伝え、門人一同で建てる碑の撰文を依頼します。
それを聞いた百川は、はたと、瑾亭先生とのかつての約束を思い出したのです。
嘗曰先生余知己也 墓碣之文非先生不可 嗚呼余於是屈指數與文瑛相晤之日 則距今二十八年矣 其所囑文未果作 余則負文瑛矣 墓碣之銘豈得辭」
(読み下し)
かつて(文瑛)曰く先生(百川)は余(文瑛)の知己なり、墓碣の文は先生にあらざれば可ならずと。
ああ、余(百川)ここに於いて指を屈して文瑛と相打ち解ける日を数えるに、則ち今を距(へだ)たること二十八年なり。
その嘱(たの)まるる所の文をいまだ作るを果たさず。
(百川)則ち文瑛に負(そむ)けり。
墓碣の銘をなんぞ辞するを得んや。

ということで、百川が後悔しつつ作ったのが「瑾亭先生墓碣銘」の撰文だった訳です。

因みに、百川の所に行った牧野再龍という人は、箕輪龍門寺十九世住職で、なかなか興味深い人物です。
過去記事「八重の桜と小栗の椿(5)」にも、ちょこっと登場しています。

瑾亭先生は、晩年、箕輪村「関叟庵」に隠居しますが、その理由について墓碣銘には「老いて世事を厭(いと)い」とあります。

その「関叟庵」がどこにあったのかは、突き止めることはできませんでした。
ご存知の方は、ご教示頂けたら幸いです。

さて、今回は墓碣銘の漢文を引用したこともあり、だいぶ長い記事となってしまいました。
最後までお付き合い頂き、ありがとうございました。
お疲れさまでございました。


【瑾亭先生墓碣銘】

【落合観音堂】


  


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2019年04月07日

史跡看板散歩-136 楽間町の十王信仰石仏群

楽間(らくま)町第一公民館前の通りに面して、史跡看板が建っています。



公民館の裏へ行ってみると、なるほどたくさんの石造物がびっしりと並んでいます。


いやいや、西側の塀に沿って、まだまだ並んでいました。


看板には、「かつては路傍にあり、道路拡張の際に撤去され乱雑に放置されていた」とありますが、「高崎の散歩道第七集」によると、かつてここには「法楽寺」というお寺があったということです。
石仏の他に、墓石がたくさんあるのもそのためなのでしょう。

「十王信仰の石仏群」は、最前列に並んでいます。


大きな説明看板もありました。


【奪衣婆】 【閻魔王】
うわ~、こわ~~!奪衣婆が怖すぎて、閻魔様が優しく見える

【浄玻璃の鏡と業秤】 【阿弥陀如来】
賄賂で何とかならないものか?阿弥陀様、だーい好き!

迷道院なんぞは今から十王様を信仰しても到底間に合わず、阿弥陀如来におすがりするしかなさそうです。

敷地内に建つ「薬師堂」も、「法楽寺」の遺物だそうです。


失礼して中を覗くと、仏像がずらーっと祀ってあります。
おそらく、薬師如来と脇侍の日光・月光菩薩、それと十二神将なんでしょうが、はて、一番左にちょっと離れていらっしゃるのはどなたなんでしょう。


公民館の東を流れているのは、十王ならぬ十二堰(早瀬川)です。


架かっている橋は「法楽寺橋」で、架け替える前には橋の名前が刻まれていたそうですが、今は橋名プレートすらありません。
歴史をたどる縁(よすが)として、名前だけでも残しておいてほしいものです。


【楽間町第一公民館】


  


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2019年03月31日

史跡看板散歩-135 井出野ヶ原の玉清水

浜川町の信号から箕郷方面へ約1km、北陸新幹線を潜る手前のセブン・イレブンの角を左に曲がります。
そして最初の四つ角を右に折れるとすぐ、「井出野ヶ原の玉清水」(行力町)があります。


史跡看板は、フェンスに隠れるように建っています。


在原業平(ありわらの・なりひら)が、「青木庄 井出野ヶ原の 玉清水」と言ったのが、「玉清水」という名の由来だというんですが、歌人の業平なら三十一文字で表しそうなものを、なぜか五・七・五です。

「青木」という地名は、平城(へいぜい)天皇の第一皇子・阿保(あぼ)親王に由来するそうです。
阿保親王は、承和元年(834)から四年(837)まで上野太守に任じられていましたが、任国巡遊の折にこの地で休憩したので、「阿保木」と称し、それが「青木」になったと言います。
(長野村誌)

その阿保親王の五男が在原業平ですから、親子で「玉清水」の由来にかかわっている訳ですね。

これが、現在の「玉清水」の池です。


だいぶ水草が繁茂していますが、鯉たちにとっては住み心地がよさそうです。

看板の最後に石塔のことが書かれていますが、横から見ると池の鯉を狙ってる鳥のようにも見えます。


ところで、平城天皇を祖とするのが、箕輪城主の長野業政(なりまさ)であると伝わっています。


そしてその長野業政のご子孫が、「玉清水」の近くに住んでらっしゃいます。
園芸店「ナリヒラガーデン」のオーナー・長野正弘さんです。


お店の中には、在原業平が祀られています。



質問してみました。
「お店の名前、ご先祖の中から業平(ナリヒラ)を選んだのは何故ですか?」
長野さんの答え。
「うちは園芸店として花を扱っていたんで、花の歌をたくさん詠んでいる業平にしたんだよ。」

あー、なるほど、合点がいきました。


【玉清水】


  


Posted by 迷道院高崎at 07:29
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2019年03月24日

史跡看板散歩-134 大日堂の生き仏様

浜川郵便局から東へ510mほど行くと、「大日公園」というのがあります。


そこに建つお堂が「大日堂」、中に祀られているのが「大日如来」です。


二体ありますが・・・。


「高崎の散歩道第七集」に載っている写真を見ると、左の方が昔から信仰されていたもののようです。


史跡看板を読んでみましょう。


看板では、「巡礼で通った老婆」と書いてありますが、吉永哲郎氏は「高崎の散歩道」の中で、「六部姿の老婆」と表現しています。
そして、「六部」についてこう説明しています。
六部とは、もとは書写した六十六部の法華経を全国の六十六の霊地に一部づつおさめて歩く修行僧のことであるが、一般には、法華の行者で法華経をとなえながら、全国の国分寺や一の宮を巡拝する者や、近世の鉦をたたき(または鈴を振り)、仏像の入った厨子を背負い、銭や米を人々に乞いながら巡礼する者のことをいう。
浜川の話の六部は後者であろう。」

老婆が名主から与えられ、また生き仏となった土地というのが、「大日堂」の建つこの場所なのだそうです。
老婆の死後祀られた「大日如来」を、土地の人は「オダイニチ様」「オデエニチ様」「オデンチ様」と呼んだ訳です。

「オデンチ様」は、災難除けや病気平癒に大変な霊験があり、お礼には三角の前掛けを掛けるのだそうです。
たしかに、「高崎の散歩道」の写真では何枚もの前掛けが掛けられていますが、訪ねたこの日は一枚も掛かっていませんでした。

また「大日公園」には、五基の道祖神が祀られています。


各区にあったものを、一ヵ所に集めたようです。


道祖神の由来を書いた碑も建っていて、後世に伝えようという気持ちがよく表れています。


しばしこの辻に立って、先人の豊かな精神文化を感じ取ってみましょう。


【大日堂の生き仏】


  


Posted by 迷道院高崎at 07:23
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2019年03月17日

史跡看板散歩-133 宗止池

高崎環状線下小鳥町西の信号から浜川方面へ1.3kmほど行くと、左手に大きな石碑と貯水池があります。


その貯水池が「宗止池」(そうしいけ)で、石碑の近くに史跡看板が建っています。


まず気になったのは、「宗止池」という名前です。
史跡看板には、その由来をうかがわせる記述はありません。
石碑の方はどうだろうと思いましたが、こちらは「溜池」となっていて、碑文にも「宗止池」の文字はありません。


池の周りに何か手掛かりはないかと一回りしてみましたが、何もありません。
鳥よけらしい池のカカシと、それを気にもしてなさそうな水鳥にも聞いてみましたが、知らんぷりです。


釣りをしている方々に聞いてみると、「相川さんなら知ってるんじゃねぇか?」ということです。
看板に「時の名主相川浅右衛門が・・・」とある、その相川氏のご子孫らしいので、早速行ってみました。

突然の訪問にもかかわらず、嫌な顔一つせずにお話をして下さいました。
「昔は『堤』って呼んでたんだよ。『上小鳥の堤』ってね。
 登記簿にはね、『宗祉池』って書いてあるよ。」


あ、「止」じゃなく「祉」(祉の異体字)だったんですね。
どこかで、示偏が取れちゃったらしいです。
ただ、「宗祉」がどういう意味なのかについては、相川さんもご存じありませんでした。

辞書を引いてみても「宗祉(祉)」という熟語はないのですが、単漢字でみると、「祉(祉)」には「幸い」とか「神の恵み」という意味があるようです。
また、「宗」には「祖先」という意味もあるらしいです。
だとすると、「宗祉(祉)」「祖先からの恵み」という意味に取れなくもありません。

あとは、ぼっとして(上州弁:もしかして)、室町時代の連歌師・飯尾宗祇(いいお・そうぎ)の「宗祇」を、誤って「宗祉」と書いてしまったのではないかとも・・・。

吉永哲郎氏が、「高崎新聞」のコラムにこんなことを書いています。
(宗祇の)弟子の宗長の紀行文『東路の津登・宗祇終焉記』に、(宗祇は)信濃国で倒れ、養生のため草津・伊香保への途中、浜川に20日程逗留、その後80余歳の病身宗祇は箱根へと旅します。
この時代、浜川から中豊岡、碓氷川を渡る、右岸山沿いの古道(平井城、沿道には多くの寺院があった)を、弟子に介護されて、宗祇は箱根を目指したのではと、私は考えています。」
濱河といふ所に、松田加賀守、法体して宗繁、この十年余り言ひかはし侍り。八九年の先の年、宗祇、北路よりあひ伴ひしに、信濃路より例ならざりしに、この所にて廿日余り逗留。(東路の津登)
同じき国に伊香保といふ名所の湯あり。中風のために良しなど聞きて、宗祇はそなたに赴きて、二方に成ぬ。此湯にて煩ひそめ、湯に下るゝ事もなくて、五月の短夜をしも明かし侘ぬるにや、(宗祇終焉記)

宗祇が20日間逗留したという「浜川」は、「宗祉池」のある「上小鳥」に接するすぐ北隣の町です。


高い教養を持つ先人のこと、故事に因んで「宗祇池」と命名しても不思議はなさそうです。

もっと言えば、山口素堂(やまぐち・そどう)という人の句に、「髭宗祇 池に蓮ある 心かな」というのがあって、切りようによっては「宗祇池」という語が読み取れます。
宗祇という人は終生髭(ひげ)を愛で伸ばしていたので、「宗祇が髭を愛したように、私は池の蓮を愛している」という意味。

さて、「宗祉池」の真実や如何。
ご存知の方がいらっしゃいましたら、ぜひご教示のほどを。

もう一つ看板の中で気になったのが、「宗祉池」の水は「十二早川」から引いたと書いてあることです。
石碑にも、そう刻まれています。
上の地図を見ても分かるように、「宗祉池」の水は「早瀬川」から引かれています。
「早瀬川」は、別名「十二堰」(じゅうにぜき)とも言いますので、「十二早川」と呼ばれたこともあるのでしょうか。

「宗祉池」から水路を430mほど遡ったここが、「早瀬川」からの取水口です。
水門の銘版には、「上小鳥用水樋管ゲート」とあります。


ここまで来たら、この「早瀬川」「白川」から分水される取水口も見たくなって、足を延ばしました。

「宗祉池」の取水口から北西約4km、「箕郷ふれあい公園 いこい広場」の所に、「十二堰(早瀬川)」の取水口があります。


土手道の下を抜けた水は、一部釣り堀の水となり、さらに下流へと流れ下ります。


その先にはなぜか黄色い鳥居の「白山神社」、社殿の後ろには「十二大明神」の石碑、「十二堰」はその東を流れ下ります。


下った水は、ちょっと先で分かれて、「上芝の共同水車」を回す動力となります。


水車を回して再び一緒になった流れは、そこから4.8km流れ下って「宗祉池」の取水口に至る訳です。

そして、そこからさらに460m下ると、上小鳥「諏訪神社」の裏に出ます。


面白いことに、この「諏訪神社」にも「十二大権現」の石碑が建っています。


「十二早川」「十二堰」「十二大明神」「十二大権現」と、やけに「十二」が多いんですが、偶然なんでしょうか。

謎がいっぱいの、「宗祉池」でした。


【宗祉池】

【早瀬川取水口】

【上芝の合同水車】

【上小鳥の諏訪神社】


  


Posted by 迷道院高崎at 07:35
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2019年03月10日

史跡看板散歩-132 棗原稲荷神社

「我峰八幡神社」から北へ300m、「長野堰」の水が新白川の下を潜って出てきた所に「棗原(なつめはら)稲荷神社」があります。


史跡看板の内容は、至極あっさりしたもので。


これ以上の情報を見つけることはできませんでしたが、この辺一帯は発掘調査が行われ「棗原遺跡」と呼ばれているようです。


発掘の結果、昔から人々が生活していたことが分かります。
浅間B軽石下水田跡・畠跡や平安時代の住居跡が発見されている。
中世の遺構は、浅間B軽石下畠跡を切るピット(小さな穴、細い穴)群がある。
44個発見されたピットは、径30cm、深さ40~45cmで、ほぼ円形である。
これ等のピットは直線的な列として、また平行に並んでおり、単なるピット群でなく、掘立柱建物群になる可能性も残されている。」
(新編高崎市史資料編3)

「棗原」という名の通り、参道には今もの木が何本かあり、地面には実がたくさん落ちていました。


昔はきっと沢山のの木が自然群生していたか、もしかすると栽培されていたのかも知れません。
「桃・栗三年、柿八年、棗はその年カネになる」という言葉もあるらしいですから。

花は6月頃咲くそうです。
その時期にまた訪れてみたいと思いました。


【棗原稲荷神社】


  


Posted by 迷道院高崎at 07:36
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2019年03月03日

史跡看板散歩-131 我峰八幡神社

我峰(わがみね)町の鎮守・「八幡神社」です。


献灯が立ち並ぶ参道の左側が小高くなっています。


史跡看板は、その中腹に建っています。



その隣には、大きな由緒看板。


そこに、「鮭の森」というのが出てきます。
境内に、「鮭の森大神」という碑が建ってます。


たしか新聞記事を切り抜いておいたはずと思い、スクラップを引っ掻き回してみましたが見つかりません。
やむなく、図書館でコピーしてきました。


写真の中央に立っている方が我峰八幡神社の清水貢宮司ですが、実は我が家は神葬祭でして、墓地が沖の本郷にあることから清水宮司には折々お世話になっております。

普段はここから400m東の「松本稲荷」にある社務所兼自宅にいらっしゃるんですが、偶然この日は近くの「棗原(なつめはら)稲荷」の初午の準備で来ていらっしゃいました。
お互い顔を見合わせてびっくりしたんですが、私の目的を聞き拝殿を開けて中を見せてくれました。


拝殿の中には、当時鮭を突いていたという「ヤス」が奉納されています。


3月3日が、鮭の放流祭だそうです。

ところで、二つの看板に「住吉城」というのが出てきますが、この辺にあったようです。


その辺りを目掛けて新白川の土手を歩いて行くと、うっかりすると見逃しそうな所に、「住吉城址」という石碑がありました。


碑背の撰文は、古城塁研究家・山崎一氏でした。


「住吉城」碑の少し先に、「長野堰」の水が新白川の川床の下を潜っている場所があります。



土手の上から沖町側を見ると、これが「旧室田街道(草津街道)」です。


振り向けば「我峰橋」の向こうに、「鮭の森」が見えます。


昭和二十九年(1954)の白川大改修で現在の流路になるまでは、ここに「室田街道」が通っていました。


まさに「住吉城」は、街道を守る重要な位置にあった訳です。

土手を下りて沖町への街道を少し歩くと左右に分かれますが、右の細い道が「旧室田街道」です。


その手前の電信柱の所に石が転がってますが、よく見ると薄っすら文字が刻んであります。


「向 右箕輪金古 左室田榛名 道」と読めます。

もっと先へ行ってみたい誘惑にかられますが、帰れなくなりそうなので、今日はここまでといたしましょう。


【我峰八幡神社】

【住吉城趾碑】

【沖町の道しるべ】


  


Posted by 迷道院高崎at 08:17
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2019年02月24日

史跡看板散歩-130 新井観音堂

高崎環状線下小塙町のひとつ北の信号を、西へ曲がって150m。
「新井公民館」の敷地内に、「新井観音堂」はあります。


平成二十三年(2011)に建て替えられたという堂宇は、なかなかシックないい造りです。



失礼して中を覗いてみると、厨子の格子戸から観音様のお姿が、ちらりと拝み見えました。


看板に、「この辺りは、古くは荒井村といい・・・」と書いてあります。
昔は「荒井」と書いた村が、いつの頃か「新井」になった訳ですが、この地名について「高崎の散歩道第八集」にこんな記述があります。
太古以来、かつての榛名白川は、もっと東へ流れていたと考えられている。
箕輪を過ぎてから左岸(東側)へ氾濫して浜川、楽間、北新波、南新波、西新波(沖)、菊地、新井、唐崎一帯に、かなり広範囲に押し流していた歴史をもっている。
これらの地域は白川の氾濫コースでもあり、また氾濫原でもあった。
明治以降も、明治三年(1870)、四十三年(1910)と二度ほど白川洪水がこのコースに氾濫している。
「新波(あらなみ)」の「新」を「荒」の字に置きかえると、「荒」は「荒地」「荒廃」「荒々しい」などの意味をもつので、「荒波」は洪水を意味する語となる。
「新井」は、もとは「荒井」であったかも知れない。
あるいは、清水の湧き出る新しい開発地として「新井」になったとも考えられる。
現在の新井の村落裏には、数か所、榛名山麓の地下水が湧き出る清水の水源があった。
「井」とは、地下水の湧き出る「湧水」「泉」「池」などをさしている。」

看板には、「天明年間の大洪水で観音堂は崩壊し・・・」とありますから、やはり川が荒れまくる地だったのかも知れません。
新しくなった村は、新しくなった観音堂の観音様に、ずっと守られていくことでしょう。


【新井観音堂】



  


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2019年02月17日

史跡看板散歩-129 北野神社

「高崎の散歩道第八集」にこんな話が出てきます。
昔から下小塙には、「東地蔵に西天神」という諺が残っている。
つまり、東に円性寺の地蔵様があり、西に鎮守の天神様(北野神社)があって村を守ってくれるので、家事、災厄のない村であるという伝承である。」

前回の「円性寺」から西へ直線距離で290mの所にあるのが、「北野神社」です。


史跡看板は、鳥居を潜った左にあります。


昔からの由緒看板も、鳥居と並んだ右手に建っています。


どちらの看板にも「獅子舞」のことが書かれています。
五穀豊穣、無病息災、商売繁盛を祈願して、三月二十五日と十月九日の例大祭に奉納されるそうです。
Mosaku AnchuさんのYouTubeでご覧ください。

動画の途中で「お天狗様」が出てきますが、そういえば由緒看板の右隣にこんな石碑が建っていました。
「石尊大権現」の大きな石碑の左右に、「大天狗」「小天狗」という石碑が建っています。

調べてみると、この3つはセット物で、江戸期以前の神仏習合時代「石尊大権現」「雨降山大山寺」(あぶりさん・おおやまでら)の本社に祀られており、その奥社に「大天狗」、前社に「小天狗」が祀られていたのだそうです。(Wikipedia)

明治になって神仏分離令が発せられると、「雨降山大山寺」「大山阿夫利神社」(おおやま・あぶりじんじゃ)と名を変え、御祭神も「大山祗大神」(おおやまつみのおおかみ)、「高龗神」(たかおかみのかみ)、大雷神(おおいかずちのかみ)となっています。(大山阿夫利神社HP

因みに、「北野神社」「石尊大権現」の碑は慶応三年(1867)の建立です。

「北野神社」の拝殿は、大正八年(1919)に瓦屋根に葺き替えられたと由緒看板にありますが、それまでは杮(こけら)葺きか茅葺だったのでしょうか。


瓦は最近新しくしてるようですが、大棟の飾りは実に見事な造りです。


菅原道真が乗ってきた牛も、梅の木の下でまどろんでいます。


これを奉納した金井氏は、おそらく窪八大尽こと金井八左衛門のご子孫でしょう。

「高崎の散歩道第八集」によると、八左衛門家は児玉党倉賀野金井氏の一族で、倉賀野城落城後この地に土着した金井源三郎の直系と伝わっているそうです。
酒造家であった八左衛門家は酒蔵八棟を備え、下小塙村の地所の半分を所有していたと言います。
地図を見ると、「八左衛門通り」がまさに室田街道から屋敷への直線道路だということがよく分かります。


近くには「高札場跡」「八左衛門の墓」「唐崎の薬師様」があります。

【高札場跡】


【八左衛門の墓】


【唐崎の薬師様】


下小塙の楽しい散策でした。


【北野神社】


  


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2019年02月10日

史跡看板散歩-128 下小塙の行人塚

高崎経済大学の北500mほどの所に、「円性寺」(えんしょうじ)というお寺があります。


本堂の右手前に、「行人塚」の卵型の石塔と史跡看板が建っています。



「行人塚」の話は各地に残っていて、今は亡き捨蚕大人「江木町の行人堰」を紹介していましたし、私は「金古町の行人塚」の記事を書いてます。

史跡看板の最後に、「行人塚」は別の場所にあって平成に入ってから石塔だけ「円性寺」境内に移したとありますが、石塔の下の石板にはもう少し詳しく書かれています。


ただ、元あったという「現在の下小塙町前原」の場所が分かりません。

ところが、ありがたいことに「高崎の散歩道第八集」にその場所の手書き地図が載っていました。


高崎経済大学前の道を隔てた北側ですね。
同著に、こう書かれています。
大学の正門前を過ぎると、下小塙町のバス停がある。
そこから右(北)へ入る道、それは江戸時代に、窪八大尽といわれた酒造家金井八左衛門が開いたと伝えられる”八左衛門通り”である。
この道を入った左手、アパートの裏に松の木が生えている。
根元に卵塔が一基、草に埋もれて立っている。
ここは、”唐崎の松”(現在のは二世だが)と”行人塚”の跡である。」

その写真も掲載されていました。


手書き地図を見ると、「行人塚」の東に「大焼場」と書かれています。
これについては、
(疫病が流行り)下小塙の村はずれでは、死人を焼く煙が毎日絶えなかった。
こゝは”大焼場”とよばれるようになり、無縁墓地として残された。
八左衛門道をはさんで、西側が行人塚、東側が大焼場である。
昔、この辺は人通りの少ないところだったので、人魂が飛んだとか、追いはぎが出たなどと、村人から気味悪がられた所だった。」
ということです。

さて「円性寺」に戻りまして、参道入り口に「地蔵菩薩」の説明板があります。


この地蔵菩薩に関する行事に「ナイダー」というのがあるそうで、「開化高崎扣(ひかえ)帖」に、そのことが出てきます。
元来「ナムアミダブツ」「ナンマイダブ」のことである。
これを走りながら唱えるために「ナイダー」とか「ナイドー」と訛ったのである。
これは下小塙村に古くから行われてきた民間信仰で、円性寺に伝わる市指定文化財の、鎌倉期の金銅地蔵仏を信仰する念仏講(地蔵講)の行事の一つでもある。」

「ナイダー」の様子も詳しく描写されています。
夏が来ると、下小塙村の子ども達の楽しみは、何といっても七月二十三日の「ナイダー」である。
前夜はフロに入って体を清め、その日は朝から、純白のシャツとパンツを着て白手ぬぐいではち巻をし、ナイダーを待ちきれなくて、家の近くをハダシでとび回る。
昼近くになると、うでまんじゅう(ふかしまんじゅう)で腹ごしらえをして、三々五々真言宗円性寺へ集まる。(略)
午前中は、本堂の広間に子ども達が集まって、大きな数珠のまわりに座り、百万遍の数珠送りが行われる。(略)
昼過ぎになると、「カンカンカン・・・・・」と境内から鉦(かね)の音が村中へ響き渡る。
しばらくすると「ナイドー」という歓声と共に「ボンデン」を高く先頭に掲げた子ども達の集団が、境内から元
気よくかけ出す。(略)
ボンデンを先頭に竹ザオにつるしたカネとタイコを中程にして、その前後に子ども達が列をつくる。
この行列が口々に「ナイドーナイドー・・・・・」とわめきながら、カネをたたき、タイコを打鳴らして、村内の家々をくまなく土足でかけ抜けて行く。」

なかなか面白い伝統行事ですが、昭和三十二年(1957)を最後に、行われなくなってしまったそうです。
残念ですね。


【円性寺】

【行人塚のあった所】


  


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2019年02月03日

史跡看板散歩-127 上並榎の日枝神社

「天竜護国寺」のすぐ西隣に、「日枝神社」があります。


本殿の裏から入った形ですが、右手の小高くなった所にお稲荷さんが祀られています。


このお稲荷さんこそ、前回の記事で書いた「稲荷山古墳」墳頂に祀られていたものです。
経緯を刻んだ石板が建っています。


「日枝神社」社殿の正面に回ると、史跡看板がありました。



創建当時に本社(比叡山麓の「日吉大社」)から移植した、槐(えんじゅ)、菩提樹、公孫樹(いちょう)のことが書いてあります。
「並榎三木」と呼ばれていたそうですが、現在は「槐」のみ残っているとあります。
この大樹がそうです。


「公孫樹」は、昭和三十二年(1957)の台風の時、落雷によって倒れてしまったそうですが、「高崎の散歩道第八集」にこんな話が載っています。
三木の一つ、銀杏は、『山王様の大いちょう』といわれて、高崎随一の古木・大木・名木であった。
創建当時から数えて千百年を経た、目通り十メートル余、高さ数十メートルの大木であった。
根元から三メートルほどの所で幹が分岐し、そこに一メートル四方ほどの広場?ができていた。
ここは子供達の遊び場となったり、時には学校帰りのツッパリ高校生が数人車座になって、一服するという憩いの場でもあった。」

その在りし日の雄姿が、土屋喜英氏著「高崎漫歩」に残っていました。


無くなってしまって残念だなぁと思っていたら、実は、その切り株から子孫が幹を伸ばし始めているというのです。
「日枝神社」の隣にある、「榎保育園」の庭です。


そして、「並榎三木」のもうひとつ、「菩提樹」ですが。
残念なことに、そんな名木とは知らぬ土地所有者が邪魔になって伐り倒してしまったのだとか。
しかしその後、あらためて「日吉大社」から苗木を移植したそうで、これが今すくすくと育っています。


いつの日か、新しい「並榎三木」が大空に向かって聳え立つ日が来ることでしょう。
それまで、「槐」の古木には、まだまだ頑張ってもらわなければなりません。


【日枝神社】

【槐】

【公孫樹】

【菩提樹】


  


Posted by 迷道院高崎at 07:26
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2019年01月27日

史跡看板散歩-126 天竜護国寺

国道17号上並榎町の信号を高崎経済大学方面へ700mほど行くと、左側に「厄除元三大師」と刻まれた石柱が建っています。


石柱の左の道から回り込むと「天竜護国寺」の山門で、その左脇に史跡看板が建っています。



看板に「寺宝」と書かれている、小野道風(おのの・とうふう)真筆の「勅額」というのがこれです。


と言ってもこれはレプリカで、看板にあるように本物は年に一度、正月三日の縁日にだけ公開されます。
なぜその日かというと、「天竜護国寺」のご本尊でもある天台宗中興の祖・良源が入滅したのが、寛和元年(985)の正月三日だったからだそうです。
また、正月三日のことを「元三」(がんざん)というので、良源のことを「元三大師」ともいいます。

もうひとつ正月三日に公開されるものが、看板にもある「並榎八景絵巻」です。


「並榎八景絵巻」は寺宝として秘蔵されていましたが、その存在を初めて世間に紹介したのは郷土史家・本多夏彦氏だそうです。
もっとも本多氏も、資料収集のために「天竜護国寺」を訪れた佐藤雲外という人から聞いて、その存在を知ったということですが。

ただ、昭和七年(1932)発行の「上毛及上毛人」誌(第180号)に掲載された本多氏の「並榎八景絵巻」に対する記述は、意外と素っ気ないものです。
並榎八景繪巻はその跋によると、文化元年十一月に書かれたもので、時の護國寺住職一元法印の雅友等が繪筆をとり又これに詩歌各一首づゝを配したのであらう、皆高崎附近の人ばかりである。
序文があった(田豹の撰文)のが失はれて、開巻直ちに畫面であるが、群馬郡本郷村の人神宮守滿の筆に成れる繪は、餘り大したものではない。(略)
各七絶一篇を寄せてあるが、もともとこじつけの八景に過ぎぬのだから、題詩も左程優秀なものゝあらう筈がない。
尚和歌は、(略)いづれも好事家の暇潰したるは申す迄もなし。」

本堂の左側に金網で囲われた鶏小屋みたいなのが建っています。


中には、こんなものが入ってます。


説明板も何も建っていないので、鶏の餌の入れ物と間違えそうですが、実は「稲荷山古墳」の石棺の蓋です。
「並榎八景」のひとつ「稲荷山暮雪」というのはこの古墳の景を詠んだものです。

「稲荷山古墳」はいま跡形もないのですが、「天竜護国寺」から東へ200mほど行った所に、古墳に因んだ「稲荷橋」という名前の橋があります。
その橋の北200mほどの場所にあったのが、「稲荷山古墳」(全長約120m、高さ約8mの前方後円墳)です。


明治二十五年(1892)古墳の真ん中を切り通して、上並榎から筑縄(つくなわ)へ通じる村道が開かれました。
その時の発掘調査で石棺の蓋が発見され、「天竜護国寺」境内に移したということです。

そして明治四十二年(1909)になると東側の前方部も削られて桑畑となり、西側の後円部だけが残されます。
さらに下って昭和三十五年(1960)頃の耕地整理事業により、残った後円部も削平され、まったく跡形もなく消えてしまいました。
でも、その時削った古墳の土は第四中学校(現並榎中学校)の校庭整備に使われたということですから、もしかすると並榎中の校庭を掘ると古墳の土が出てくるかも知れませんね。

石棺の蓋が置いてある北側の池に、面白い形をした石があります。


これも説明板が建ってないのですが、「信玄の鍋掛(なべかけ)石」と呼ばれているそうです。
何でも、武田信玄の軍勢が箕輪城を攻撃する際に「天竜護国寺」で野営をし、その時この石に大鍋を掛けて煮炊きをしたんだとか。
そう言われてみれば、それに都合の良さそうな形をしてはいますが・・・。

さてと、次回はすぐ隣の「日枝神社」を訪問します。


【天竜護国寺】

【稲荷山古墳があった場所】


  


Posted by 迷道院高崎at 07:36
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2019年01月20日

史跡看板散歩-125 幸宮神社三碑

下小鳥町「幸宮(さちのみや)神社」のすぐ西に、大きな石碑が二つ建っているのが見えます。


史跡看板は、上の写真で奥の方に見える石碑の前に建っています。



後ろの石碑が、一番の「峯岸先生之碑」です。


この碑の篆額(題字)は、大河ドラマ「いだてん」にも登場する嘉納治五郎の筆です。
加納は武道研究のため明治初期に峯岸道場を来訪しているので、そこからのつながりでしょう。

霞新流森川武兵衛を開祖とし、板鼻真下松五郎という人が峯岸弥三郎に伝えたと碑に刻されています。
この碑で「峯岸先生」とあるのは弥三郎ではなく、その孫にあたる弥作のことです。

弥三郎「やわら弥三郎」と異名を持つ柔術の達人だったようで、田島武夫氏著「高崎の名所と伝説」にそのエピソードが載っています。
峰岸道場は江戸時代からの道場で、道場主弥三郎もふだんは農業に従っていた。
農村では太平洋戦争までは田畑へまく肥料は化学肥料によらず、人糞尿を一般人家から汲んで来てこやしだめにたくわえ、よくこなして使っていた。だから高崎の近村ではみな高崎の人たちと契約して、こやしをくみとりに来た。

弥三郎もこやしをくみに高崎藩士の上村某の家に行った。上村某は高崎藩に柔術をもって仕えていた。だから弥三郎が柔術をやるということを知り、これをためしてみることにした。
で、上がりはなに招じ入れて『まあ、休憩して一服つけろ』という。弥三郎は珍しいことと腰をおろすと、上村某が『今日はお前をしめ殺す』という。
『それはご無用です。私は決して殺されるような罪を犯していません。おゆるしください』
『なあに弥三郎、しめ殺すといってもほんの一時だ。すぐに活かしてやる』
『それなら結構です。死ななければ見られない地獄や極楽が見られるとはありがたいこと』

上村某はたすき十字にあやとり身構えた。弥三郎も臍下丹田に力を入れて上村某をにらみつけた。
このひとにらみに、上村某は動けなくなった。
そこで弥三郎はわざとわき見をした。
上村はここぞとばかり飛びかかった。と思ったのだが、弥三郎はその時すでに片膝を立てて、右拳の当て身は上村の胸をつくところだった。
上村はあわてて三メートルあまり後ろに飛び退いた。
ところが弥三郎の身体もまるでヒモでもついているようにそれだけつき進んだ。それどころか、上村は足蹴にされるところだった。
上村は顔面蒼白になった。しかし弥三郎には上村を蹴倒すつもりはなく、その型をやっただけだった。実際に力を加えたのなら上村の命はなかっただろう。そのことは上村がいちばんよく知っている。

弥三郎は、『まことに失礼いたしました。どうぞご勘弁ください。』と言ってこやしもくまず帰ってしまった。
上村某はそれさえも耳に入ったかどうか、しばらくは茫然自失の態だった。」

この他にも、小幡藩へ乗り込んで武芸達者の藩士達を投げ飛ばした話とか、刀の刃を上にして梯子をつくり、その梯子を裸足でのぼったという話も載っています。

史跡看板の二番が、左隣にある「廣岡歸月翁之壽碑」です。


この碑は明治二十六年(1893)に廣岡高次宅庭に建てられたもので、昭和三十年(1955)頃この場所に移されました。
「歸月」(きげつ)は号で、本名は庫蔵(くらぞう)とあります。
碑文はだいぶ薄れて読みにくいのですが、その撰文はこれも加納治五郎のものです。
歸月の孫にあたる廣岡勇司峯岸道場の高弟でしたが、後に加納の門弟となったことで、撰文を依頼しに来たと碑文にあります。

三番は、三本辻の真ん中に建つ「高木翁之碑」です。


史跡看板に、「小鳥小学校に五十三年間奉職し」とありますが、碑文には「此の間の欠勤僅かに五日を出ず」ということも刻されています。

なお、この碑の篆額は、高崎藩最後の藩主・大河内輝聲(てるな)の長男・輝耕(きこう)の筆です。
輝耕については、過去記事「駅から遠足 観音山(40)」に出てきますので、よかったらどうぞ。

「幸宮神社」には、輝耕の父・輝聲の筆による「淡島神社」の石碑があります。
これもよろしければ、過去記事「続橋から幸宮へ」でどうぞ。

さて、だいぶ長くなりました。
今回はこの辺で。
(参考図書:「高崎市下小鳥町町内誌」)


【幸宮神社境内三碑】


  


Posted by 迷道院高崎at 07:16
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2019年01月13日

史跡看板散歩-124 日高町の聖蹟碑

旧17号を前橋方面へ向かい、関越自動車道を潜った先に「きものや シモン」という、えらく目立つ看板があります。


今回の史跡「聖蹟碑」は、その左に写っている小さな公園の中にあります。




碑には漢文でこう刻まれています。
  明治十一年戊寅九月
今上巡幸北陸二日車駕入群馬縣四日臨幸厩橋治廳以日高村當輦道新相地架屋以爲駐駕之處後村民相謀建石欲使聖蹟不歸於湮滅蓋新道通高崎一線稱御幸道者此得名云乃屬余紀其事余奉職本縣不辭而書之
 明治十四年十一月三日
     群馬縣令從五位 楫取素彦撰竝書

明治天皇がどんな所で休憩したのか興味がありますが、昭和十五年(1940)群馬県発行の「明治天皇聖蹟志」にけっこう詳しく書かれています。
一、 福島權次郎持地畑地凡(およそ)四拾坪借上ケ 其内ニ御座所四坪 臣下ノ控所拾坪假建後 通リ葭簀圍ヒ(よしずがこい) 前四ツ目垣結建ノコト
外ニ御便所四尺(1.2m)四方掘立 廻り葭簀 屋根杉皮葺 漏斗取付ノコト
二、 日高村ニ於テハ 先發官指定ノ外私費ヲ投ジ 御建屋及御便所雨宿四ヶ所 御建屋裏垣ヲ新築シ 御小休及供奉員ノ御休憩ニ供ス
三、 九月三日(前略)高崎驛行在所ヘ着御(ちゃくぎょ:到着) 御晝(昼)食畢(終わり)テ御發車 日高村ニ於テ御小休(福島權次郎持地御小休所官設)云々(北陸東海兩道巡幸日誌)午後一時八分日高村ニ至ル 區長柴田藤次郎等林下ニ假葺セシ小亭ニ就テ御小休

畑の中に建てた仮小屋だったんですね。

「聖蹟碑」を建てた理由についても書かれています。
かくの如く、本御小休所の建物は臨時の御假屋なりししかば、日高村民は御遺蹟の早く湮滅せんことを慮(おもんばか)り、明治十四年十一月楫取群馬縣令の撰竝(ならびに)書に成る聖蹟碑を建設して、之れを不朽に傳へたり、斯(かく:これ)は實に本縣下に於ける聖蹟碑の嚆矢(こうし:最初)なり」

時は過ぎて昭和天皇の御代となり、昭和九年(1934)陸軍特別大演習が群馬県で行われるにあたり、「聖蹟碑」の建つ場所が整備されます。
昭和九年十一月陸軍特別大演習の本縣内に擧行せられ、地方行幸の事あるや、此曠古(こうこ:今までにない)の光榮を記念せんが爲、既設の聖蹟碑を中心に八拾坪の地を買収して村有となし、北及西の村道添には玉垣、東と南との小川邊には石垣を築造し、中に松杉棕櫚等數十株を栽植して風致を添え、又國道より通用道路を新設し、入口に標識石柱を建て、更にこの保存施設を記念するが爲、傍らに一碑を建設したり。
撰文は群馬縣屬吉澤澄治なり。」

吉澤澄治撰文の碑というのがこれです。


この石碑を建てたのは「新高尾村」となっていますが、日高村は、明治二十二年(1889)新保村新保田中村中尾村鳥羽村との合併で、新保の「新」日高の「高」中尾の「尾」をとって「新高尾村」となりました。

余談ですが、この時「鳥羽村」の文字が含まれなかったことが面白くなかったのか、「新高尾村」が昭和三十年(1955)高崎に合併する時、「鳥羽村」だけは前橋と合併したんだとかいう話です。
「旧日高村」は、この時「日高町」になりました。

その後「聖蹟碑」の地は、昭和十五年(1940)の紀元二千六百年記念行事として玉垣を修築したり記念樹を栽植したりしています。
80年近く経った現在も、ほぼその時の姿が残っているというのは、すごいことです。


因みに、昭和九年(1934)当時の旧高崎市の「聖蹟」は、こうだそうです。


天皇が神様だった時代でした。


【日高町聖蹟碑】


  


Posted by 迷道院高崎at 07:46
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2019年01月06日

史跡看板散歩-123 新井堰の分水

三国街道(高崎-渋川線)の大橋町に、「大橋橋」という面白い名前の橋があります。


下を流れるのが「大川」と呼ばれた「長野堰用水」で、その「大川」に架かる橋だから「大橋」と呼んでいました。
ご丁寧にもうひとつ「橋」を付けちゃったんですね。

その橋の上流側に「城峯神社参拝所入口」「住吉町庚申塔入口」という石柱が建っています。


そこを入った左に史跡看板が建っています。



史跡看板の下を流れているのが「新井堰」からの分水で、高崎城下を縦横に走る水路の始まりです。

後ろには、「新井堰」の水門を越える水が、目の回りそうな速さでドードーと音を立てて流れています。


その柵際に、もうひとつ「新井堰」の説明看板が建っており、この辺の昔の写真が下に貼ってあります。
昔の川幅は、倍くらいあったようですね。


双方の看板で食い違うところが一個所あって、気になる方がいるかも知れません。
「新井堰」から高崎城のお堀への経路の中で、史跡看板は嘉多町、説明看板は堰代町を通るように書かれています。
東西に接している町なのでどちらでも良いのですが、万延元年(1860)覚法寺絵図を見ると、水路は嘉多町側を通っています。


さて、「新井堰」を開鑿したという新井喜左衛門という人ですが、ブログ駆け出しのころ記事にしていました。
  ◇「新井堰」の人脈と水脈

史跡看板の一番最後に「高崎初の水道が・・・」とありますが、簡易水道のことです。
昔の人は、「新井堰」の所に設けられた簡易水道施設を、「水漉(こ)し場」と呼んでいました。
明治四十一年(1908)につくられた「高崎唱歌」にも、
  ここは水道 水こし場
住吉町の 西の方
新たに名付けし 台町は
榛名参りの 街道よ
と歌われています。

ただ、簡易水道はあくまで簡易の水道で、なかなか大変な代物だったようです。
  ◇蛇口から魚?

今はほとんど暗渠になってしまいましたが、「新井堰」から「お堀」まで、水路を探りながらの散歩もまた面白いのではないでしょうか。


【新井堰の史跡看板】


  


Posted by 迷道院高崎at 07:44
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