2012年07月29日

久々の・・・続・鎌倉街道探訪記(21)

いつから中断したんだっけな、と振り返ってみたら、5月15日以来なんですね。
上豊岡「浦野邸」でストップしていました。

すっかり真夏になってしまい、熱中症が恐ろしいので夕方日差しが弱くなってから出かけました。
藪っ蚊もその頃活動を始めるようで、少し献血をさせられました・・・。

浦野邸の前を西に行くと、道端にけっこう立派な石灯籠が建っています。







ちょっと傾いでしまっている石燈籠のそばには、これも立派な石造りの祠が蔓草にまとわりつかれ、忘れられたように佇んでいます。

80mほど進むと丁字路に出て、どちらへ進むか迷いましたが、左へ行ってみることにしました。






その先の角に、大きな石が頭をつん出しています。

前へ回ってみると、寛政十一年(1799)の庚申塔でした。

その斜向かいの角には、これも忘れられたようにいくつかの墓石が並んでいます。          ↓






その一つには「風外別峯禅定門位」と刻まれていますから、路傍に捨て置かれる人ではなかったのでしょうに・・・。

その先を防風林に沿って西へ進むと、これもまた忘れられたような石碑と錆びついた看板が、ぽつんと立っていました。





このままでは、あと数年もすると看板の文字も読めなくなってしまうかも知れませんので、判読できる内に書き残しておきましょう。

この道は現在の中仙道が出来る以前からの道で、信州道、善光寺道、鎌倉街道とも謂れ、遠くは源頼朝の浅間山への鹿狩り、義経の奥州平泉への逃避行、新田義貞の鎌倉攻め、徳川時代には参勤交代の裏街道として、又、碓氷川の氾濫どきには脇道として庶民に親しまれた
少し西方には僧の宮があるが尼海道にあったのを移した。そこにある宝篋印塔の基石に文明十?年五月廿日池?禅尼とある。鎌倉時代に字重殿に館を構へていた平家縁りの尼僧であった?である
何の変哲もない野道であるが、藤塚町に残された唯一由緒ある史跡と古道です
この歌(ふじ塚をうたふ歌)は当時の藤塚村の生活を歌った和歌(旋頭歌)で徳川中頃歌はれたと思はれます
平成七年八月 八幡文化會」

これがその旋頭歌なんですが、何と書いてあるのか読めません。

近所の方に聞いても分からない、八幡公民館に聞いても八幡文化會なる団体も不明です。

前橋県立文書館ならば、すらすら読んで頂けるのではないかと、メールに写真を添付してお願いしてみたのですが、解読できない部分があるということでした。
そうかー、くずし字というのは、専門家ならスラスラ読めるというものでもないんだな、と妙にほっとした部分もあるのですが、何かが喉につっかかっているようで気持ちが悪いのです。

窮すれば通ずと言いますが、そんな時、人間ってふっと思いつくもんですね。
書画骨董に詳しい連雀町「さいち民芸店」主・雀の子さん、あの方ならきっと読めるに違いないと、写真を持ち込みました。

さしもの雀の子さんも、いろいろな字を当てはめて解読してみるもののピタッと来なかったようで、写真を預けることにしました。
数日して頂いたメールによると、その後、わざわざ現地まで歌碑を見に行って下さったそうで、こんな風に読み下して頂きました。

高 崎 を
夜 越 へ て ゆ か ば
鳥 の 声 す る
中 仙 道
こ こ は 藤 塚
子 守 り す る 子 の
姿 か わ い や

おかげさまでやっと胸のつかえが取れましたが、難しいものなんですね、
くずし字って。
雀の子さん、どうもありがとうございました!


【藤塚村を歌った歌碑】


  


Posted by 迷道院高崎at 23:26
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2012年08月12日

続・鎌倉街道探訪記(22)

「豊岡誌」の中に、こんな記述があります。
旧八幡村と旧豊岡村の境界道が鎌倉街道と交わる地点に、蛇塚といわれている小さな塚がある。
この塚は、古来より鎌倉街道と中山道の街道筋で行き倒れた旅人を藤花の男衆が葬った無縁墓地である。(略)
  蛇塚や 毒だみの花 咲き上がる
藤花地区に生まれ育った俳人、浦野芳雄の俳句である。」

前回記事の「旋頭歌碑」の辺りに、その「蛇塚」があるように思うんですが、ご近所の方にお尋ねしても、「ん?蛇塚?知らねぇなぁ。」というお答えです。

「豊岡誌」には、「近所に住んでいる浦野木六の好意で何時もきれいに清掃されている。」という記述もあったので、木六さんのお宅を訪ねてみました。
既に木六さんは他界されておりましたが、奥様がご健在でお話を聞くことができました。

奥様も「蛇塚」という名前はご存知ありませんでしたが、行き倒れの旅人を埋(い)けたという話は聞いているということで、教えて頂いたのが、なんと、前回記事の「風外別峯禅定門位」と刻まれた墓石があるところでした。

暑い中、わざわざ塚の所まで出て来て頂き、こんな話をして下さいました。

「この塚の際を川が流れててねぇ、この墓石なんかその川へ落っこちそんなってたんさ。」
塚の後ろに左にカーブした道に見えるのが、その川だそうです。
「あ、もしかして、板鼻堰ですか?」
「そうだいね、板鼻堰の水さ。昔は蓋なんかしてなかったからねぇ。」


藤花の人たちは、行き倒れの旅人をこの塚に葬る時に、碓氷川原の石を拾って墓石代わりにしたということです。
きっと、墓石はもっと沢山あったのでしょうが、そのほとんどは板鼻堰に転げ落ちたか、あるいは板鼻堰を暗渠にする時にただの石ころとして始末され、かろうじて、戒名が刻まれている墓石だけが残ったのでしょう。

場所が特定できた「蛇塚」に手を合わせ、「旋頭歌碑」の前を通って先に進むことに致します。






もう、秋の準備が始まっているようです。

栗の木は、実がつき過ぎると自ら余分な実を落とすんだと聞いたことがあります。

人間には、なかなかできないことです。

さてこの後は、さしたる興味あるものも無く、ひたすら歩いて県道139号に出ます。

その間、板鼻堰の水路になるべく近いルートをとりましたが、言葉で説明するのは難しいので、浦野邸からのコースを地図上に記しました。




  


Posted by 迷道院高崎at 06:49
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2012年08月29日

続・鎌倉街道探訪記(23)

さて、またご無沙汰してしまった鎌倉街道探訪ですが、県道139号まで出てきたところでした。
だるまの「大門屋」から「群馬八幡駅」へ至る道です。


ここから板鼻堰の流れに沿って進みたいところなのですが、これがなかなかうまくいきません。

板鼻堰に沿った道を探してウロウロし、水路に一番近い道に入り込みました。






250mほど進むと、大きな池のある家の前に出ました。
庭の草むしりをしていたご婦人にお伺いすると、120年前から鯉の養殖をされてるんだそうです。

豊岡の養鯉業は明治期に始まり、大正時代に急速に広がって、全県下の半数を占める生産量だったそうです。
戦前は十数軒あった養鯉池も、昭和30年代には六軒、現在はこちらの「ヨコタ水産」を含めて三軒だけになってしまいました。
お話を伺ったご婦人も、「今は、鯉を食べる人が少なくなったからねぇ。」と寂しそうでした。

この養鯉池に流れ込んでいるのが、板鼻堰の水です。

水路に沿って進むことに致しましょう。













養鯉池から250mほど板鼻堰沿いに歩くと、八幡八幡宮の参道に出ます。

ここからがまた、すんなりと行きません。

それらしい道に入っては行き止まり、入っては行き止まりを繰り返し、気が付くと八幡八幡宮仁王門のすぐ近くまで来ていました。


その近くの水路の傍らには、すごくぶっといカシノキ(ムクノキ?)が立っています。

この木の樹齢からすると、この水路が板鼻堰の本流なのかも知れません。

ということは、どこかで鎌倉街道から逸れてしまったようです。
そういえば、県道139号からこちら、鎌倉街道を偲ばせるようなものもありませんでしたし・・・。

今日のところは降参して、また出直すことに致します。
それにしても、暑いです。

【今日の散歩道】


  


Posted by 迷道院高崎at 06:13
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2012年09月02日

続・鎌倉街道探訪記(24)

さて、出直すことにしましたが、どこからにしましょう?

考えてみれば、鎌倉街道を旅する人がここまで来て、上野国一社八幡様に参詣せずに行くなんてことは、あり得ません。
当然、八幡様を目指して歩いて行ったに違いありません。
ということで、下図の●●●のコースを設定してみました。
●●●は、きっと昔はあったんじゃないかと推定してみた道です。)


信越線の踏切を渡ると、道は右に大きくカーブしますが、その角から斜め左に入る道があります。






その角に、「中仙道及少林山通」と刻まれた石柱が建っています。

今では当然の中山道少林山へ行く道に、わざわざこの石柱を建てたのは、おそらく、群馬八幡駅ができ、新しい道ができた直後のことでしょう。

ということは、それまでこの斜めに入る道が主要道路であったということを、物語っているように思います。

石柱が建っているところのお宅の外壁に、素敵なものが飾ってありました。

屋根瓦のような材質で作られた干支の陶塑が、ずらーっと並んでいます。

散歩人には嬉しいおもてなしです。

その隣には古びたお社があって、「開運大黒天」と書いてあります。

開運をお願いしたかったのですが、柵が閉まっていて中に入れません。

大黒様がいらっしゃるのかどうかも、ちょっぴり気になるお社でした。

お社の後ろを流れる板鼻堰に沿って、左に曲がります。

角の公園では、その日、夏祭りが行われていました。




150mほど歩くと、30本近い松の木を、水路に張り出すように枝をを仕立てているお宅があります。

あと数年もしたら、きっとこの辺の名所になることでしょう。
すぐ近くの「八幡町第二区東公民館」には、石祠やさまざまな石造物が並んでいます。

昔ここにお堂でもあったのかも知れませんし、この道が主要道であったということでもあるでしょう。


ちょっぴり残念なのは、250年も前の宝暦十二年(1762)の道祖神の文字面が、町内の掲示板に隠れて見えなくなってしまっていることです。

少し掲示板を移動してもらえたらなぁ、と思います。

また100mほど歩くと、水路の向こう側にお地蔵様やら石仏やらが、ずらーっと整列してこちらを見ています。





その中に、明治二十三年(1890)の比較的新しい道祖神もあります。
水路改修の時にでも、あちこちから集まってきたのでしょうか。

こちらはその仲間に入れなかったのか、ブロック塀の間に窮屈そうにしている石祠です。

そんなこんなを楽しみながら歩いている内に、八幡八幡宮の参道に出て参りました。






道の向こうに板鼻堰の水路が見えますが、行き止まりなのは確認済みで、ここから八幡様に向かって歩きます。

では、また次回。


  


Posted by 迷道院高崎at 06:52
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2012年09月09日

続・鎌倉街道探訪記(25)

八幡八幡様に向かって参道を進むと、道端に小さな道しるべが建っています。






「向右けんざき道」と刻んでありますが、方向が逆です。
きっとどこかにあったものを、道路改修の時にでもここに移したのでしょう。

豊岡の道しるべもそうでしたが、いつかは元あった場所に戻してほしいものです。

道の反対側が、あの大カシノキです。

カシノキのすぐ左、美容室COSTAの横道を入ります。



80mほど歩くと、明和元年(1764)の道祖神などが、道の角に建ち並んでいました。

やはり、この道が昔からの道であるということでしょう。



さらに80mほど行っただるま屋さん(堀口だるま店)の作業場の中には、製作途中のだるまさん。

目が・・・。


そのちょっと先に、「八幡町第二区西公民館」があるのですが、道に面して、無縫塔や石堂が並んでいます。

屋根のとれた石堂には木柱が刺さっており、「観音堂(三・・・」という文字が読めます。

木柱を引き抜いて見ると、「観音堂(三和尚地・・・」とあり、もっと下に文字があったようですが、朽ち欠けていて分かりません。
ここに、かつて「観音堂」があったということなのでしょう。

「三和尚」というのが気になって調べてみました。
(参考図書:「歴史の道調査報告書 鎌倉街道」「私たちの八幡」)

八幡の八幡宮には別当寺の大聖護国寺と、今はありませんが五つの僧房があったのだそうです。
その僧房のことを「和尚(わじょう)」と呼び、「三和尚」はそのひとつで、「さんわじょう」と読むのだそうです。

なぜか「一和尚」はなく、「二和尚」「三和尚」「四和尚」「五和尚」「六和尚」の五つだったようです。
その多くは八幡の台地の上にあり、行き来するための坂道が現在も残っています。

「八幡町第二区西公民館」前の細道に入り、突き当りを右に曲がったらすぐ左に入ります。






こりゃ、民家の敷地じゃないかい?という所を構わず入って行くと・・・






ちょっと行きたくないなぁと思わせる、竹やぶの暗いトンネルが見えます。

これが、「三和尚坂」です。

入っていく意気地もなく、引き返してきちゃいました。

さっき通ってきた明和元年(1764)の道祖神の所を入った奥が、「二和尚坂」でした。↓









この坂は現在も使われているようで、
整備された階段になっています。→







←さらに八幡様仁王門まで戻って、左に上っていく坂が「五和尚坂」です。

反対に、仁王門の右を上っていく坂は「えんま堂坂」といいます。→








「えんま堂坂」を上りきったところにあるのが別当寺の「大聖護国寺」で、その山門前の長い石段が「六和尚坂」です。

ふぅー、すっかり後戻りしちゃいました。

再び、「三和尚坂」のところの「八幡町第二区西公民館」まで歩くと、そのすぐ先は信越線の踏切です。

踏切を渡らずに右へ行けば、「堂坂」を経て台地に上がり、板鼻「毘沙門坂」へ至ります。
これも鎌倉街道だと言われています。


←踏切を渡ってすぐ右へ入る田んぼ中のバラス道、おそらくこれが板鼻に向かう鎌倉街道の名残だと思います。




踏切からおよそ320m、ここが板鼻との境です。→

記念にズックの底で線を引いてきましたが、子どもっぽかったでしょうか。

やれやれ、昨年の12月からスタートした続・鎌倉街道探訪記も、やっと高崎の西端に到達いたしました。
ということで、このシリーズは今回で筆を擱(お)くことに致します。
長らくこのシリーズにお付き合い頂いた皆様、ありがとうございました。

次回からは、帰る道すがら、気になる道草をつまみ食いしていこうかと思います。
引き続きお付き合いのほど、お願い申し上げます。
                               迷道院高崎 拝


【今日の散歩道】



  


Posted by 迷道院高崎at 06:52
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