2012年01月28日

続・鎌倉街道探訪記(8)

古の鎌倉街道を旅する人が、烏川を渡ったであろう場所は、たぶんこの辺だったんでしょう。

かつて、木造の「八千代橋」が架かっていたところです。

ぐるーっと回り道をして、その対岸へやってきました。

左の橋が、半分の長さになってしまった「八千代橋」です。

さて、この先、鎌倉街道はどういうルートだったのか、さっぱり見当が付きません。

そこでここから先は、昭和五十八年(1983)に群馬県教育委員会が発行した、「歴史の道調査報告書 鎌倉街道」をたよりに、進みたいと思います。
報告書の「金井宿から豊岡へ」の項には、次のように書かれています。

台ヶ松の対岸は広い河川敷で、現在はゴルフ場として利用されているが、渡し場のあった辺りは「経塚」の小字があり、昔経塚があったものと想像される。
鎌倉道は北上して、「元屋敷」の小字のある東を通り、「筏場川原」「尺地」の境を北上して、以前万日堂のあった辺りへ出たと推定される。

それを、豊岡の小字名の書かれた地図で辿ってみたのが、左図の赤いラインです。

目指すは、「以前、万日堂のあった辺り」ですが、今は無いということでしょうから・・・。

ま、ともかく見当をつけて、歩き始めましょう。

「八千代橋」のたもとから200mほど北へ行くと、道は土手の上と下とに分かれます。

下の道は、狭いところへもってきて、けっこう車の交通量が多いので、物陰に避けながら、江戸しぐさじゃありませんが肩を引きながらの行進です。

500mほど歩くと、「君が代橋」西の、国道18号に出てきます。

この辺りに、「以前、万日堂があった」はずなのですが、当然、今はありません。

調べてみると、「高崎の散歩道 第十集」に以前の位置が載ってました。

現在の国道18号は、旧18号の慢性渋滞解消のため、「君が代橋」の三重立体交差化と共に昭和五十九年(1984)「豊岡バイパス」として開通しました。

これに、モロにひっかかったのが、「以前あった万日堂」でした。

「万日堂」は特定の寺院持ちでなく、住民の共同墓地となっていました。

道路計画に伴い、堂を移転することに決まりましたが、問題は墓地でした。
移転先寺院の選定、遺族の消息調査、土葬であった107の墳墓の発掘・火葬・開眼もどしなど、大変なご苦労があったようです。

江戸時代に建てられたという堂宇は取り壊され、国道18号の反対側に新しく建て直されました。

国道の下の道を「君が代橋」方面へ進み、地下道を潜った先です。




昭和五十六年(1981)に落慶法要された新しい堂宇は、以前のものよりこじんまりした美しい形で、「萬日堂」と刻まれた立派な石碑が建っています。

「萬日堂」といえば、最も有名なのが高崎市重要文化財に指定されている「見返り阿弥陀像」です。

室町時代末期の作といわれる木造彫刻で、両眼の内側には水晶の玉眼が嵌め込まれているそうです。
見返り姿の阿弥陀像は全国に5体しかないということで、じゃあ国宝じゃないの?と思うのですが・・・。

で、こんな伝説があるそうです。

←看板の中に書かれている「白井鳥酔(しろい・ちょうすい)句碑」が、これです。

この句碑、一度は危うく埋められちゃうところだったのです。
それは昭和六年(1931)中山道の改修工事で、50mほど下流にあった「君が代橋」を今の位置に架け替える時のこと、工事のどさくさに紛れて埋没されようとしました。

それを救って、以前の「萬日堂」の入り口に設置したのが、近くに住む大塚平三郎という人でした。

子持山下の双林寺門前にある「鳥酔翁塚」と、下豊岡にあった「鳥酔句塚」は、ともに鳥酔の歯を分骨した「痙歯塔」(けいしとう)だったそうです。
「鳥酔句塚」が崩されずに残っていたら、「鳥酔翁塚」と同様、県指定史跡になっていたはずなんですね。

さて、この記事をご覧になって、「八千代橋」たもとから「萬日堂」まで歩いてみたくなった方に申し上げます。
記事に書いたルートは道が狭くて危険ですので、下図の「お奨めルート」で歩くことをお奨めいたします。


では、本日はここまでと致します。

(参考図書:「歴史の道調査報告書 鎌倉街道」「豊岡誌」「高崎の散歩道」)


【萬日堂】



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Posted by迷道院高崎at 08:46
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