2019年01月20日

史跡看板散歩-125 幸宮神社三碑

下小鳥町「幸宮(さちのみや)神社」のすぐ西に、大きな石碑が二つ建っているのが見えます。


史跡看板は、上の写真で奥の方に見える石碑の前に建っています。



後ろの石碑が、一番の「峯岸先生之碑」です。


この碑の篆額(題字)は、大河ドラマ「いだてん」にも登場する嘉納治五郎の筆です。
加納は武道研究のため明治初期に峯岸道場を来訪しているので、そこからのつながりでしょう。

霞新流森川武兵衛を開祖とし、板鼻真下松五郎という人が峯岸弥三郎に伝えたと碑に刻されています。
この碑で「峯岸先生」とあるのは弥三郎ではなく、その孫にあたる弥作のことです。

弥三郎「やわら弥三郎」と異名を持つ柔術の達人だったようで、田島武夫氏著「高崎の名所と伝説」にそのエピソードが載っています。
峰岸道場は江戸時代からの道場で、道場主弥三郎もふだんは農業に従っていた。
農村では太平洋戦争までは田畑へまく肥料は化学肥料によらず、人糞尿を一般人家から汲んで来てこやしだめにたくわえ、よくこなして使っていた。だから高崎の近村ではみな高崎の人たちと契約して、こやしをくみとりに来た。

弥三郎もこやしをくみに高崎藩士の上村某の家に行った。上村某は高崎藩に柔術をもって仕えていた。だから弥三郎が柔術をやるということを知り、これをためしてみることにした。
で、上がりはなに招じ入れて『まあ、休憩して一服つけろ』という。弥三郎は珍しいことと腰をおろすと、上村某が『今日はお前をしめ殺す』という。
『それはご無用です。私は決して殺されるような罪を犯していません。おゆるしください』
『なあに弥三郎、しめ殺すといってもほんの一時だ。すぐに活かしてやる』
『それなら結構です。死ななければ見られない地獄や極楽が見られるとはありがたいこと』

上村某はたすき十字にあやとり身構えた。弥三郎も臍下丹田に力を入れて上村某をにらみつけた。
このひとにらみに、上村某は動けなくなった。
そこで弥三郎はわざとわき見をした。
上村はここぞとばかり飛びかかった。と思ったのだが、弥三郎はその時すでに片膝を立てて、右拳の当て身は上村の胸をつくところだった。
上村はあわてて三メートルあまり後ろに飛び退いた。
ところが弥三郎の身体もまるでヒモでもついているようにそれだけつき進んだ。それどころか、上村は足蹴にされるところだった。
上村は顔面蒼白になった。しかし弥三郎には上村を蹴倒すつもりはなく、その型をやっただけだった。実際に力を加えたのなら上村の命はなかっただろう。そのことは上村がいちばんよく知っている。

弥三郎は、『まことに失礼いたしました。どうぞご勘弁ください。』と言ってこやしもくまず帰ってしまった。
上村某はそれさえも耳に入ったかどうか、しばらくは茫然自失の態だった。」

この他にも、小幡藩へ乗り込んで武芸達者の藩士達を投げ飛ばした話とか、刀の刃を上にして梯子をつくり、その梯子を裸足でのぼったという話も載っています。

史跡看板の二番が、左隣にある「廣岡歸月翁之壽碑」です。


この碑は明治二十六年(1893)に廣岡高次宅庭に建てられたもので、昭和三十年(1955)頃この場所に移されました。
「歸月」(きげつ)は号で、本名は庫蔵(くらぞう)とあります。
碑文はだいぶ薄れて読みにくいのですが、その撰文はこれも加納治五郎のものです。
歸月の孫にあたる廣岡勇司峯岸道場の高弟でしたが、後に加納の門弟となったことで、撰文を依頼しに来たと碑文にあります。

三番は、三本辻の真ん中に建つ「高木翁之碑」です。


史跡看板に、「小鳥小学校に五十三年間奉職し」とありますが、碑文には「此の間の欠勤僅かに五日を出ず」ということも刻されています。

なお、この碑の篆額は、高崎藩最後の藩主・大河内輝聲(てるな)の長男・輝耕(きこう)の筆です。
輝耕については、過去記事「駅から遠足 観音山(40)」に出てきますので、よかったらどうぞ。

「幸宮神社」には、輝耕の父・輝聲の筆による「淡島神社」の石碑があります。
これもよろしければ、過去記事「続橋から幸宮へ」でどうぞ。

さて、だいぶ長くなりました。
今回はこの辺で。
(参考図書:「高崎市下小鳥町町内誌」)


【幸宮神社境内三碑】


前の記事へ<< >>次の記事へ