2020年02月23日

史跡看板散歩-177 白川神社と白川砦跡

前回で旧群馬町の史跡看板巡りはひと通り終わり、今回から箕郷町白川付近を巡ります。

まずは、「白川神社」から。

桜が咲くころはきっといいんだろうなと思うんですが、この日はまだ冬枯れの趣。
人っ子一人いない、静かな境内です。

鳥居はまだ新しく、平成十三年(2001)の奉納です。


鳥居は場所が移ったようで、参道の手前道路上に基礎の痕跡が残っています。


社殿の右後方に、石造物がたくさん建っていますが・・・、

肝心の史跡看板が見当たりません。
ぐるっと回ってみたら、裏口(?)に建っていました。


もともとは「諏訪神社」で、前方に「砦」があったんですね。


たしかに、そんな雰囲気はあります。




ここから南へ140mほど下った篠薮の所に、「白川砦跡」の史跡看板も建っています。



「白川神社」と改称したのは明治四十年(1907)だそうですが、社殿はその後に改修されてるように見えます。
でも、彫物は古さを感じさせる、なかなか手の込んだ素晴らしいものです。



ずらっと並んでいる石碑群は、御嶽山信仰に関するものが多いようです。


看板に「珍しい」と書かれているのが、昭和七年(1932)建立の「一心霊神」碑。

御嶽山の行者の一人ということですが、知らなかったのでちょっと調べてみました。

「一心霊神」こと「一心行者」は、御嶽教の開祖・普寛行者の最後の弟子だそうです。
中山郁著「修験と神道のあいだ」から、「一心行者」に関する部分を抜粋してみましょう。
一心行者は明和八年(1771)、信州小県郡上本入村に誕生、俗名を橋詰長五郎といい、江戸に出て下谷車坂の穀物商、丸山重兵衛の養子となり、一家をたて信濃屋又四郎を名乗ったが、妻の死を契機に下谷金杉の萬徳寺恵性のもとに入門、さらに氷川大乗院役僧福寿院順徳のもとで修験となり、本明院一心を名乗った。
彼は普寛最後の弟子ともいわれ、その業績を慕い、御嶽山中において三年間の木食修行を行ったと伝えられている。
また、深く御座法を研鑽するとともに、新たに「五行座」、「中座の位置替え」や、「神薬差し下し」など、後に一心講の特色として継承される御座法をあみだし、それらの呪法を積極的に信者に伝授し、武蔵から上州の農村や宿場を中心に講中を結成していった。」

こうやって多くの人々に慕われ信仰された「一心講」でしたが、それ故に幕府の弾圧を受け、「一心行者」は捕えられて獄死することになってしまいます。
彼らは祈祷料を取らず、俗人身分で家業を持ったうえで修行するという、普寛以来の御嶽講のあり方に従い活動を行っていたものの、文政三年(1820)、一心は名主の訴人により捕縛され遠島を申し付けられ獄死し、門弟六名は所払いの処分を受けることになった。
弾圧の理由はこれまで諸説あげられているものの、「近頃御嶽山講中の義関東筋大流行」という状況や、その活動が異説を言い触らし不埒であるとして、幕府から富士講と同類のものとして警戒されたことが考えられるとともに、断罪の理由が俗人への祈念や呪法の伝授と、俗人による祈祷であったことが注目される。」

不運な「一心行者」ですが、その名は庶民の心にしっかりと根付いていたようです。

その証拠に、江戸時代末期から明治にかけて活躍した三遊亭圓朝の噺の中にも、「一心行者」が登場してきます。
圓朝の長編噺で、安中生まれの盗賊・安中草三(あんなか・そうざ)を語った「後開榛名の梅が香」(おくれざき・はるなの・うめがか)というのがあります。
安中草三に剣術を教えた恒川半三郎が火縄銃で撃たれんとするその時、たまたま通りかかった「一心行者」が法力を以て助けるという場面です。

(圓朝全集 第二巻)より

因みに、安中「三社神社」には、安中草三の碑が建っているそうです。
グンブロ仲間の風子さんのブログ「群馬・ふぉと雑記帳」をご覧ください。

さて、「白川神社」から、話がずいぶん飛んでしまいました。
飛びついでに、次回は「白川陣屋跡」へ行ってみましょう。


【白川神社】

【白川砦跡】


前の記事へ<< >>次の記事へ